第47話 山道を下るCランクと、にじむ霧
霧紺山道の見張り二日目。
昨日と同じ場所に立って、同じ風を吸い込んで、
同じように「何もなければいいな」と思う——までは一緒だった。
「今日も“普通の匂い”だといいんですけどね」
「フラグ立てないの」
ミリアが、杖で俺の足元の小石をつつく。
「変な行商人一人、もう十分濃かったわよ」
「ローレンさん、ですね」
ロウが名前を出す。
「黒い石を“希釈した護符”にして売る行商人。
“駒”の話をしていた」
「駒って言われると、やっぱり気持ちよくはないですね」
「そりゃそうよ。……まあ、“自分で駒だと思ってないやつ”の方が厄介、って顔はしてたけどね」
ミリアが肩をすくめる。
そんな話をしていると、北門側から兵士が歩いてきた。
「おーい、《仮)レオン=ミリア隊》」
いつもの門番だ。
「今日は“上り”より“下り”に気をつけろって通達だ」
「下り?」
「霧紺の洞の調査隊の一部が、昼前後に戻ってくる予定らしい。
負傷者も出てるそうだ」
「もう、そんなに早く?」
ミリアが目を瞬かせる。
「入口付近だけの確認のはずじゃなかった?」
「だからこそ、“何かおかしい”って話だ」
兵士が顔をしかめる。
「とにかく、“街に変なもん持ち込ませるな”ってさ。生き物でも荷物でも」
「了解です」
生き物でも、という言い方が嫌に引っかかった。
◇
午前の山道は、やっぱり静かだった。
遠くを行く鳥の声。
風で揺れる木の葉の音。
たまに、荷物を背負った旅人が一人二人。
(……)
鼻の奥は、ずっと落ち着かなかった。
昨日のローレンの匂いが、風に混ざって残っている——そんな気がする。
「レオン、鼻どう?」
「残り香はあります。昨日の、行商人の。……でも、それとは別のが来たら分かります」
「その“別の”が来ないのが一番よ」
ミリアが笑う。
——その直後だった。
(……あ)
鼻の奥が、ぴり、としびれた。
残り香じゃない。
新しい匂い。もっと濃い。
古井戸。夜会地下。黒い石と霧。
あれと同じ系統が——山道を“下ってくる”風に混じっている。
「来ました」
思わず口に出る。
ミリアの表情が一段引き締まった。
「帰りの方ね」
視線を上に向ける。
霧紺の洞へ続く道の先。
ゆるやかなカーブの向こうから、人の声が聞こえた。
荒い息遣い。
何かを引きずる音。
◇
やがて、数人の影が見えてきた。
前に二人。
肩を貸し合うようにして歩いている。
後ろに一人、担架を引きずっている。
鎧は傷だらけ。布は裂け、血がにじんでいる。
そして、先頭の男の顔に見覚えがあった。
「バルドさん!」
「……よ」
Cランク前衛、バルドが、汗と血でぐしゃぐしゃになりながらこちらを見た。
「Fか。……いいところに、いや、悪いところにいやがるな」
「どっちですか、それ」
「“どっちも”だよ」
バルドは吐き捨てるように言い、担架を指した。
「悪い、道を貸せ。こいつらを早く治療所に——」
バルドが歩幅を上げる。
その瞬間、俺の鼻がもう一度、嫌な信号を鳴らした。
担架の男から。
そして——肩を借りている男の腕から。
黒く焦げたような輪が、ぴったりと張り付いている。
「待ってください」
俺は一歩、前に出た。
「……何だよ」
バルドの声が、鋭くなる。
「街に入れる前に、“線のこちら側”で見ておいた方がいいです」
「線? 今そんな話してる場合か? 見ろよ、こいつら——」
「今だからです」
自分でも驚くくらい、言葉がすんなり出た。
「これ、“ただの傷”じゃない匂いがします」
バルドが一瞬だけ黙る。
でも、すぐに低く言った。
「……命がかかっているんだぞ」
いつになく鋭い声だった。
「今はまだ、“くっついてるだけ”だ」
「“だけ”って感じじゃない匂いなんですけどね……」
俺が言うと、ミリアが輪の縁を指差した。
「見て。輪の端、動いてる。……脈打ってるみたいに」
輪の縁が、確かに、呼吸するみたいにわずかに膨らんで縮んでいる。
肩を借りている男が、くつくつと笑った。
「へへ……大げさだな。ちょっとした土産だろ?」
声の調子が、妙に軽い。軽すぎる。
バルドの手が、男の襟元を強く掴み直す。
「黙れ。今は喋るな」
指先が、ほんの少し震えていた。
「……チッ」
バルドが舌打ちする。
「面倒なことになりやがって」
「面倒だからこそ、ここで止めるんです」
「止めてどうする。治療が先だろうが」
譲らない。さすがCだ。現場の優先順位がぶれていない。
だからこそ、俺は言い方を変えた。
「治療所に運ぶまでに、街の中で“何かが漏れたら”——治療どころじゃなくなります」
ミリアが頷く。
「ここなら、まだ“外”よ。最悪でも押さえられる。街に入ってからじゃ、押さえづらい」
バルドは歯を食いしばり、数秒だけ考えた。
「……三分だ」
吐き捨てる。
「三分だけここで見る。その間に、“止めるべき理由”をはっきりさせろ」
「十分です」
ミリアが即答した。
「バルドさん、あなたはそのまま彼を押さえて。逃がさないで」
「言われなくても押さえてる」
バルドは乱暴に返しながらも、掴む手を緩めなかった。
◇
「まず、意識が飛んでる方が優先ね」
ミリアが担架の男に近づく。
「ノーラ、盾。ロウは周囲。カイは背後——獣道も見て」
「了解」
ノーラが盾を構え、ロウとカイが散る。
バルドは、輪の男の襟元を掴んだまま片膝をついた。
「……おい。じっとしてろ」
「じっと? なんで?」
男が笑う。
目の色が、さっきより濁っている。
(来る)
そう思った瞬間、男の足が地面を蹴った。
——でも、街の方へは行けなかった。
「行かせるかよ!」
バルドが襟元を引き戻す。体格差で動きが止まる。
……Cランクの押さえ込み。頼もしい。
ただし、その“次”が問題だった。
男の腕の輪が、ぬらりと光る。
輪の下から、影みたいなものが伸びた。
「っ……!」
影が、バルドの前腕に絡みつく。
鎧の上からでも分かる。
冷たい、というより“骨に染みる”嫌さ。
「離せ、バルド。離せよぉ」
男がくすりと笑った。
「街まで走ったらさ……もっと面白いの見られるぜ?」
「ふざけるな!」
バルドが力を込める。
だが——影は鎧の継ぎ目を狙って“噛む”ように食い込み、バルドの指が一瞬だけ緩んだ。
「っ……くそ!」
その“半拍”で、男の肩が自由になる。
「ノーラ!」
ミリアが叫ぶ。
ノーラが盾を地面に叩きつける。
盾の縁が、影の筋の進む方向を断つように置かれる。
じゅう、と嫌な音。
影が盾に触れた部分で止まる。
「レオン!」
「はい!」
俺は踏み込む。
男の腕を掴む。影が手首に触れようとする——その前に、関節を極める。
山で暴れる獣を押さえたときの感覚。
骨の向き。関節の限界。
「いって——!」
男の腕が曲がり、輪が皮膚からわずかに浮く。
「今!」
ミリアの光が、輪と皮膚の隙間に釘みたいに差し込まれた。
「ライト・ピン!」
黒い影が、飛び出しかけて空中で形を作る。
カイの投石が、影の核を叩く。
ロウが縄を構え、逃げ道を塞ぐ。
そして——
「……ワン」
短い鳴き声。
山道の端から、黒い犬の影が飛び出した。
影の核に噛みつき、引きずり、霧の方へ走る。
匂いが一気に薄くなる。
輪が、ぱきん、と乾いた音を立てて割れた。
男の身体から力が抜ける。
バルドが崩れ落ちる仲間を抱えて地面に寝かせた。
「っは……はぁ……!」
男は荒い息を吐くだけで、さっきの笑い方は消えていた。
目の色も普通に戻っている。
「……チッ。俺の腕、しびれてやがる」
バルドが悪態をつきながら、前腕を押さえた。
それから俺を見て、短く言う。
「……今の、止めてなかったらヤバかったな」
「たぶん、はい」
俺は息を整えながら答えた。
「“くっついてるだけ”に見えても、街に入ったらどうなるか分からない匂いでした」
バルドが目を細める。
「……最初に止めろって言ったの、正しかったわけだ」
「三分くれたのも、助かりました」
「礼言われる筋じゃねえ」
バルドは吐き捨てたが、視線はまっすぐだった。
「……悪かったな。最初、突っぱねた」
「現場の判断です。俺も、止めるって言うだけで精一杯でした」
そこでミリアが、担架の男を見ながら言う。
「こっちは、まだ危ない。早く治療所へ。今度は私が急がせる」
「了解」
バルドは頷き、担架の取っ手を握り直した。
◇
負傷者と、割れた輪の残骸は、騎士団とギルドに引き渡された。
俺たちも一緒にギルドに戻り、エドガーとシルヴァの前で、山道で起きたことを一通り話す。
銀の皿の上に置かれた輪の欠片からは、まだわずかに黒い気配が立ち上っていた。
「……人間に“張り付いて”、街の中に持ち込ませる手口か」
エドガーが低く言う。
「夜会の地下で“霧を送る”のとは別方向だな」
「同じ系統だけど、違う手口ですね」
シルヴァが記録板を閉じる。
「洞の入口周辺の陣。黒い石の欠片。行商人。
それに“人を使った搬送”まで出た……」
ミリアが腕を組む。
「“線を越える方法”が増えてる。嫌な増え方」
エドガーが俺を見る。
「レオン。どうだった」
「……くっついてるだけ、に見えました」
俺は正直に言う。
「でも、街に入れたら“広がるかもしれない”匂いでした。
広がり方が、霧みたいに薄くなるのか、井戸みたいに染みるのかは——分かりません」
「分からない、で十分だ」
エドガーが頷いた。
「分からないから止める。
線の仕事ってのは、だいたいそういうものだ」
シルヴァが小さく息を吐く。
「……霧紺の洞の調査、もう“入口だけ”じゃ済まないかもしれないね」
その言葉が、胸の奥で重く沈んだ。
◇
ギルドを出ると、夕方の空が薄紫色に染まっていた。
北門の方角。
霧紺の洞のある山並みが、黒い影になって浮かんでいる。
稜線の上を、黒い犬のような影が走った気がした。
次の瞬間には、もう見えない。
(……)
山の霧の匂いは、昨日より少しだけ濃くなっていた。
まだ街の空気を押し流すほどじゃない。
けれど——境目が、じわりとにじんでいる。
嫌な予感が消えないまま、
俺は北門の方角を一度だけ見上げてから、宿への道を歩き出した。
これで2章が終わりです。
3章もお願いします。




