第46話 山道見張りと、霧の向こうの行商人
翌朝。
ちゃんと寝たはずなのに、体の奥に疲れが残っている感じがした。
貴族夜会→報告→霧紺の洞の話——と、頭の方が休んでいない。
それでも、Fランクの“勤務”は始まる。
「……眠そうね、レオン」
北門に向かう道で、ミリアに横目で見られた。
「ちゃんと寝ましたよ。
寝て起きて、“あ、また何か起きそうだな”って思っただけで」
「それを世間では“休めてない”って言うのよ」
門の前は、いつもより少し騒がしかった。
簡易の詰所。
臨時の柵。
山道に向かう騎士や冒険者たち。
「あれが、霧紺の洞の調査隊か」
ロウが小さく言う。
Bランクのパーティが二組。
Cランクが数組。その中に、見覚えのある顔もあった。
「いいよなあ、ダンジョン本隊」
カイが、ほんの少しだけ羨ましそうな声を出す。
「新しい武器とかお宝とか、いっぱい出てきそうじゃん」
「その分、墓標も増えるのよ?」
ミリアがあっさり返した。
「初心者用の階層ならまだしも、
“変な魔法陣と黒い石が絡んでる可能性あり”のダンジョンに、
今のFが入りたがるのは、ちょっと健康的じゃないわね」
「健康的なFランクってなんなんでしょうね」
そんな話をしていると、北門の兵士が手を振った。
「おーい、《仮)レオン=ミリア隊》」
昨日も顔を合わせた兵士だ。
「霧紺山道の見張り、今日からだな。
まずはざっくり説明するぞ」
◇
門の外。
山道の入口までの緩やかな丘を見下ろせる位置で、簡単なブリーフィングが行われた。
「この先、霧紺の洞まで行く道は一本だ」
兵士が、地面にざくざくと線を引く。
「途中に、小さい分かれ道や獣道はあるが、
馬車や荷車が通れるのは、この一本だけ」
「その一本道を、“F〜Eが見張る”ってわけですね」
ミリアが頷く。
「そうだ」
兵士が指を折る。
「行き交うのは、大きく分けて三種類。
ひとつ、普通の旅人と行商人。
ふたつ、ダンジョン目当ての冒険者。
みっつ——」
「怪しいやつら、ですね」
ノーラが言った。
「“霧の出る谷の石”とか“悪夢よけの黒い飾り”を売り歩く行商人たち」
「話が早くて助かる」
兵士が笑う。
「基本は、“札の通ってる奴は通す、怪しい荷物は中身を確認”。
匂い係は——」
視線が、自然とこっちに向いた。
「レオン、だな」
「正式に“匂い係”になりましたね、ついに」
「なってたでしょ、とっくに」
ミリアがため息をついた。
「“何か変なのが混ざってる”と思ったら、
その場で没収はしなくていい。
印をつけて、ギルドに持ち込ませるなり、
渡させるなりしろ」
「印、ですか」
兵士は、小さな金属片をいくつか渡してきた。
硬貨より少し薄い、小さな円板。
片面にギルドの紋章、もう片面に番号。
「“Fライン通過確認”の証だ。
これが付いてる荷物は、“山道のFが中身を一回見た”ってことになる。
あとで調査班がたどりやすくなる」
「“Fライン”って名前が付いたんですか、今」
「今つけた」
兵士があっさり言った。
「まあ、便利だろ?」
適当すぎる気もする。
◇
山道に入ると、街の匂いが背中の方へ薄れていった。
土と、石と、木と、遠くの水の匂い。
鳥の声。
風の音。
「久しぶりですね、こういう匂い」
「村を出てから、ずっと街の中だったものね」
ミリアが、少しだけ深く息を吸う。
「山道巡回は、“レオンのホーム寄り”って感じね」
「ダンジョンの外側ですから。
中に入ったら、たぶん俺よりミリアやロウの方が得意ですよ」
「そこまで行く前に、Fは帰れって言われてるのよ」
それはそうだ。
◇
午前中は、特に変わったことはなかった。
荷馬車を引いた農夫。
近くの村から出てきたらしい家族連れ。
薬草採りの老人。
どれも、“黒い匂い”はしない。
「思ったより、普通ですね」
「そりゃ、全部が全部怪しくてたまるかって話よ」
ミリアが笑う。
「逆に、“何もない時間”がちゃんとあるから、
変なのが来たときに分かりやすくなるの」
「なるほど」
そういう意味では、今は“匂いの下地づくり”みたいなものだ。
「んじゃ、そろそろ変なの一件くらい来てくれないと、
こっちが眠くなってくるなあ」
カイが、あくびをしながら言った。
その瞬間だった。
(……あ)
鼻の奥が、かすかにしびれた。
古井戸。
黒い石。
夜会の地下。
あれと同じ系統の匂い——を、
もっと薄く、遠くから感じる。
「来ました?」
ミリアの声が低くなる。
「まだ遠いですけど……
たぶん、あっちから」
山道の、少し先。
ゆるやかなカーブの向こう。
小さな荷車のきしむ音がした。
◇
やがて、荷車が見えてきた。
一頭のロバが、ぎしぎしと車を引いている。
荷台には、木の箱と布包み。
手綱を持っているのは、中年の男だった。
柔らかそうな外套。
日焼けした顔。
にこにことした笑み。
一見すると、どこにでもいる行商人——なのだが。
(……人からも、匂いがする)
荷物だけじゃない。
男自身の体から、うっすらと黒い石の匂いがしていた。
「こんにちは、山の見張りの皆さん」
男が、こちらから声をかける前に、向こうから笑いかけてきた。
「ご苦労さまですなあ。
トラヴィスのギルドのFランク諸君」
(……Fって言いましたね、今)
ミリアの口元が、ぴくりと動いた。
「身分証の提示、お願いしてもいいですか?」
俺は、できるだけ普通の声で言った。
「もちろんもちろん」
男は、荷車の前につないだ袋から、一枚の板を取り出す。
行商人登録証。
名前と、簡単な似顔絵と、出身地。
「“ローレン・フィンチ”?」
ロウが読み上げる。
「霧紺山脈の反対側の街から来た、と」
「はいはい。
山を越えたり、回り込んだり、いろいろ経路はありますがね」
ローレンと名乗った男は、にこにこと続ける。
「いやあ、この先のダンジョンは景気がいいと聞きまして。
冒険者向けの携行食やら、護符やら、
そういうものを売りに来たわけですよ」
「護符、ですか」
ミリアの声が、ほんの少しだけ低くなった。
「具体的には、どんな?」
「んー……」
ローレンは、荷台の布をめくった。
中には、乾燥肉、保存パン、小瓶の薬草、
革ひもに通した木の小さな護符——
そして、端の方に、布袋がいくつか。
(布袋だ)
なくし物通りの影抜き拠点。
ユークリッド家の倉庫。
夜会の地下。
どこでも見た、あの“まとめて入れられていた袋”とよく似ている。
「“霧の出る谷の石”なんてのもありますよ」
ローレンが、布袋の一つを軽く持ち上げた。
「悪夢よけ、魔物よけ、旅のお守り」
「中身、見せてもらってもいいですか?」
食い気味に言ってしまった。
ローレンが、一瞬だけこちらを値踏みするような目をした。
「……もちろん」
布袋の口を開ける。
中から出てきたのは、
親指の先ほどの黒い石の欠片が、数個。
光沢は鈍く、
表面に微かな模様。
(間違いない)
古井戸の石や、夜会の欠片と同じ匂いだ。
「それ、どこで?」
「霧の出る谷の……と言いたいところですが」
ローレンは、肩をすくめた。
「仕入れ先は企業秘密でしてね。
あまりペラペラしゃべると、商売敵が増えるんですよ」
「こっちは、商売敵じゃなくてギルドなんですけどね」
ミリアが、にっこり笑って言う。
「ギルドとして、“黒い石”に関しては、
いろいろ聞き取りをしているところなんです。
古井戸の件もありましたし」
ローレンの笑みが、一瞬だけ固まった。
「……そうですか」
「ええ。
なので、“黒い石の商品”を扱う行商人さんには、
できれば仕入れ先や流れを教えてもらえると助かります」
「Fランクの……皆さんに、ですか?」
ローレンは、少しだけ首を傾げた。
「そういう話は、もっと上の人とするものだと思いますがねえ。
ギルド長さんとか、騎士団の偉い方とか」
「上から下に全部降りてくる頃には、
現場はだいたい燃え尽きてるのよ」
ミリアが、さらっと物騒なことを言う。
「だから、“先に現場の線を押さえるF”を置いてる。
そういう説明は、もうお聞きになってます?」
「説明と言いますか」
ローレンは、少し笑った。
「“Fを通しておけば、面倒が減る”という噂は聞いておりますよ」
(言い方)
「先にここで匂いを嗅いでもらって、
“問題なし”ってなれば、そのまま上の方に行ける。
“問題あり”なら、ここで止められる。
安上がりで合理的な仕組みですねえ」
言葉は褒めているようで、
どこか愉快そうでもあった。
(……鼻で笑われてる気がしますね、これ)
「まあ、仕組みの話はいいとして」
俺は、黒い石に目を戻した。
「これは、“問題あり”側です」
「理由を伺っても?」
「古井戸。
貴族街の倉庫。
夜会の地下」
指を折る。
「そこで見つかった石と同じ匂いがします。
どれも、“勝手に暴れる”ような物ばかりでした」
「“匂い”で?」
ローレンは、心底不思議そうな顔をした。
「便利な鼻ですねえ、Fランクさん」
「便利でしょう?」
ミリアが、図々しく胸を張った。
「なので、その石は——」
「没収とまでは言いませんが」
俺は、少し言い方を変えた。
「トラヴィスの街の中には、持ち込めません。
ギルドに直接運ぶなら別ですけど」
「ギルドに?」
「調査班が、ちゃんと見てくれます。
危ないかどうか」
「……なるほど」
ローレンは、ほんの少しだけ考えるそぶりを見せた。
その間にも、
黒い石からの匂いが、微妙に変化していく。
まるで、“様子を窺っている”ような。
「もし、ここで引き返したら?」
ローレンが訊ねた。
「石もろとも、山の向こうに戻るとしたら」
「それはそれで構いません」
ロウが淡々と答える。
「少なくとも、“トラヴィス側の線”からは外れますから」
「へえ」
ローレンの目が、面白そうに細められた。
「Fランクとは思えないくらい、
割り切りがいいですね」
「“線のこちら側でやることだけやる”って決めてますから」
俺は、素直に言った。
「その先は、上の人たちの仕事です」
「面白くない返答ですねえ」
ローレンは、軽く肩をすくめた。
「分かりました。
では——」
布袋を、ひとつ俺の方に差し出してきた。
「これは、ギルドに。
“試供品”としてお納めください」
「いいんですか?」
「ええ。
調べたあとで、“安全だ”と分かったら、
きっといい宣伝になるでしょう?」
その言い方が、妙に引っかかった。
(“安全だ”って分かったら、ですか)
——たぶん、ローレン自身は、
これを“完全に安全な物”だとは思っていない。
でも、“完全に危険だ”とも思っていない。
あるいは、危険かどうかなんて関係ないと思っている。
そんな匂いがした。
「荷車の他の荷物にも、
同じ石、混ざってます?」
「少しだけ」
ローレンは、あっさり答えた。
「でも、“この袋ほど濃くはない”ですよ。
“希釈した護符”みたいなものです」
「……“希釈した”んですね」
ミリアが、あきれたように言う。
「濃いままだと危ないって感覚はあるんだ」
「さあ、どうでしょう」
ローレンは、笑ってごまかした。
「とにかく、トラヴィスに入るときは、
ギルドに挨拶することにしますよ。
霧紺の洞の帰りにでもね」
それはつまり——
彼は、これから霧紺の洞の近くまで行くつもりだ、ということだ。
「行くんですね、“霧の出る谷”」
「商売ですから」
ローレンは、軽く頭を下げた。
「Fランクの皆さんも、
いずれは“中”に入る日が来るでしょうけど——」
その目が、一瞬だけ鋭くなる。
「霧の向こうは、
“線のこちら側の感覚”が通用しない場所ですよ」
ぞわり、と背筋が冷たくなった。
脅しとも、忠告とも取れる言い方。
「そのときまでに、
自分が“何の駒か”くらいは、決めておいた方がいい」
「駒の話は、好きじゃないんですけどね」
ミリアが、少しだけ笑った。
「今のところ、私たちは“Fランクの線引き係”でいいです」
「そうですか」
ローレンは、それ以上何も言わなかった。
荷車を軽く叩き、
ロバに声をかける。
ゆっくりと、霧の方へ歩き出す。
(……)
黒い石の匂いは、
距離が離れるにつれて薄くなっていった。
代わりに、
山の霧そのものの匂いが、少し強くなった気がする。
◇
トラヴィス側に戻ってから、
ギルドに直行して布袋をシルヴァに渡す。
「またお土産?」
シルヴァが、袋を受け取りながら言った。
「“霧の出る谷の石”、行商人ローレン・フィンチから。
“試供品”だそうです」
「試供品ねえ」
シルヴァは、袋の口を少しだけ開けて匂いを嗅ぐ。
「うん、確かに“本命”ほどじゃないけど……
同じ系統だ」
「ローレン自身も、少し匂ってました」
俺は言った。
「石だけじゃなくて、人からも」
「それはいい情報だ」
シルヴァが、記録板にさらさらと書き込む。
「行商人ローレン・フィンチ。
霧紺の洞周辺に出入り。
黒い石を“悪夢よけ”として販売。
Fランク線で接触済み——っと」
「Fランク線って正式名称になりました?」
「なりつつあるね」
シルヴァが笑った。
「君たちが立ってる場所に、名前がつくのは悪くないことだよ。
名前がないと、簡単に切り捨てられるから」
「そういう話、好きじゃないんですけどね」
ミリアがさっきと同じように言う。
「さっきも似たようなこと言われました。
山道で」
「ん?」
エドガーが顔を上げた。
さっきのローレンの言葉を、できるだけそのまま話す。
『霧の向こうは、“線のこちら側の感覚”が通用しない場所ですよ』
『そのときまでに、自分が“何の駒か”くらいは、決めておいた方がいい』
「……ずいぶん、意味ありげな行商人だな」
エドガーが、腕を組む。
「“先生”かどうかはともかくとして、
“向こう側”の事情にかなり通じているのは確かだ」
「だからこそ、“今は線のこちら側で見てるしかない”相手ね」
ミリアが言う。
「中に入ってる調査隊の方に情報回しておいてください」
「もちろんだ」
シルヴァが頷く。
「霧紺の洞調査隊は、もう入口近くまで行っているはずだ。
ローレンの姿も、そのうち向こうから報告が上がってくるだろう」
「その頃には、こっちは——」
俺は、山の方角を思い浮かべた。
霧紺の洞の入口。
その手前の山道。
そして、トラヴィスの街の線。
「こっちはこっちで、“街に広がらないように”見張ってます」
「そうしてくれ」
エドガーが、短く言った。
「街の線が崩れたら、
ダンジョンの線も意味がなくなる」
「線の、線ですね」
「線ばっかり言ってるわね」
ミリアが笑う。
◇
ギルドの外に出ると、
夕暮れの空に、山の影が黒く浮かんでいた。
霧紺の洞。
霧の向こうの行商人。
そのさらに向こうにいる、“先生”。
全部が繋がるのは、きっともっと先。
でも、その前に——
トラヴィスの街と、
Fランクの“小さな文字”たちが、
どんな風に巻き込まれるのか。
ここでひと息つけたとしても、
またどこかで新しい線が引かれる。
そんな予感だけを感じていた。




