第44話 貴族夜会と、通用口のFランク②
◇
盗賊二人を通用口の外に引き渡しているときだった。
建物の中から、奇妙なざわめきが聞こえてきた。
笑い声が、一瞬だけ凍るような空気。
低い悲鳴。
「ミリア」
「感じてる」
ミリアが、使用人廊下の方を向く。
「瘴気、上がってきてる。
でも、少し遠い」
「遠い?」
「本会場の中、か——」
「いや」
俺は、鼻をひくつかせた。
「下、です。
さっきの二人が上がってきた方じゃなくて、
さらに下の——」
地下物置の奥。
床下の空洞の方から、冷たい匂いが上がってきている。
同時に、天井の方からも、別の気配。
黒い犬の匂いだ。
(……いる)
頭の中で、線が繋がる。
「黒い犬が、下に向かって走ってます」
「本会場に行かないで、地下の方?」
「たぶん、“そっちが本命”ってことです」
ミリアが、素早く判断を下した。
「ロウ、カイ、ノーラ。
通用口側は騎士団に引き継いで、
私たちは地下物置の方を見に行くわよ」
「線、越えませんよ?」
「“線のこちら側”の地下よ。
会場には行かない。
裏よ、裏」
説明してる時間も惜しい。
俺たちは、地下物置への階段を駆け下りた。
◇
地下物置は、薄暗く、湿っていた。
樽と箱が積まれ、古い布がかけられている。
隅に、小さな扉がひとつ。
床に、黒い線が引かれていた。
「……魔法陣?」
ミリアが、息を呑む。
黒いチョークのようなもので描かれた円。
その円の三か所に、小さな黒い石がはめ込まれている。
中央には、銀色の皿。
さっきの二人が持っていたトレイの蓋と、よく似た形だ。
ただし、中身は——黒い霧。
「本会場に、“悪夢の霧”を送るつもりだったのね」
ミリアが、顔をしかめる。
「上で暴れさせて、その混乱の中で誰かを連れ出すか、
何かを盗むか」
黒い霧は、天井の方へと薄く伸びている。
広間の床の下だ。
「犬は?」
「……いた」
物置の隅の影に、黒い犬がいた。
影の中から顔だけ出し、
魔法陣と黒い石をじっと見ている。
尻尾は、あまり振っていない。
“まだ様子見”という感じだ。
「どうする?」
カイが、少し緊張した声で言う。
「これ、踏んだらヤバいやつじゃない?」
「雑に踏むのは、さすがにやめましょう」
ミリアが即答した。
「でも、“線を残したまま”暴れさせるわけにもいかない」
黒い霧は、じわじわと濃くなってきている。
床の上に影が立ち上がるような、嫌な感じ。
「レオン」
「はい」
「石の匂い、どう?」
聞かれる前に、近づいていた。
魔法陣のギリギリ外側まで。
(……)
黒い石からは、古井戸と同じ匂い。
ただし、“欠片”の濃度。
中央の皿から立ち上る霧は、もっと生々しい。
でも——完全に“向こう側”には行っていない。
「“壊せば何とかなる”レベルです。
ただし、“全部一気に”」
「ノーラ」
「はい」
「盾、貸して」
ノーラが、無言で盾を差し出す。
ミリアが、魔法陣の外側に立って、杖を構えた。
「ロウは、“何か出たとき”に備えて。
カイは、扉と階段。
レオンは——」
「石、まとめて割ります」
「よろしく」
ミリアが、低く詠唱を始めた。
「光よ、切っ先となりて、
闇に差す杭となれ——」
『スモール・ライト』の、いつもの簡単な詠唱とは違う。
少し長い。
槍の形を作るときの、訓練で見た詠唱だ。
杖の先に、細い光の線が集まっていく。
「行くわよ」
「はい」
「——今!」
ミリアが、光の槍を魔法陣の中央めがけて投げ込む。
同時に、俺は、陣のぎりぎり外側から石に向かって踏み込んだ。
足元の感触。
線は踏まないように。
盾の縁で、石三つをまとめて叩き割る。
「っ——!」
黒い霧が、一気に跳ね上がった。
床から、天井から、冷たい風が吹き抜ける。
光の槍が、皿を貫いた。
金属音。
皿がひしゃげ、黒い霧がそこで渦を巻く。
黒い犬が、そこに飛び込んだ。
霧を噛み取るようにして、
その中身だけを食べていく。
霧の残りかすが、砂のように床に落ちた。
魔法陣の線が、じわじわと薄くなっていく。
「はぁ……っ」
ミリアが、杖をついた。
「上の方、どう?」
ロウが、天井を見上げる。
さっきまで感じていた、上からの圧迫感が、少しずつ弱まっていく。
「騎士団と上位ランクがどうにかしてくれてるはずだ」
「こっちは、“送られてくる分”を止めたってことね」
黒い犬は、最後の霧の欠片をひと舐めしてから、
こちらを一度だけ見た。
目が合う。
何かを言いたげにも見えるし、
何も考えていないようにも見える。
次の瞬間には、ただの影になっていた。
◇
階段を駆け上がると、
本会場の方からは、まだざわめきが聞こえていた。
悲鳴ではない。
混乱と、安堵と、その中間。
通用口のところには、騎士団の兵が立っていた。
「地下は?」
ガレスが、すぐにこちらに向き直る。
「魔法陣が一つ。
黒い石の欠片三つ。
黒い霧を、“犬と光と物理”でまとめて潰しました」
ミリアの説明が、ざっくりしている。
「“犬”とは?」
「黒い犬です」
「……そうか」
ガレスは、深くは追及しなかった。
「こちらは、“会場内の幻影”を騎士団と魔術班でどうにかした。
倒れた者はいるが、命に別状はない」
「誰か、何か盗られました?」
「今のところ、その報告はない。
むしろ、“供出された黒い小物の一部”が暴れかけた形だ」
ガレスは、額に手を当てた。
「まったく、火種を一か所に集めれば安全だと思った結果がこれだ」
「集めてなかったら、街中でバラバラに暴れてたかもしれませんよ」
ミリアが言う。
「少なくとも、“地下でまとめて叩けた”だけでも、マシです」
「そうだな」
ガレスは、俺たちを見渡した。
「盗賊二人の確保と、地下の陣の破壊。
十分すぎる働きだ」
「俺たちは、ただ“通用口と地下”見てただけです」
「その“ただ”ができない者が多いからな」
ガレスの視線が、一瞬だけ通用口の外に向いた。
騎士団に引き渡した盗賊二人が、縛られたまま座らされている。
うち一人は、こちらを睨んでいた。
「捨て駒同士、仲良くやろうぜ」
さっきの言葉が、頭のどこかに残っている。
でも——今のところ、
俺は自分を“捨て駒”だとは思っていなかった。
ただ、“線のこちら側でできることをやる係”だと思っているだけだ。
◇
夜会は、予定より早めにお開きになった。
貴族たちはそれぞれの馬車に乗って帰っていく。
その中で、ユークリッド伯爵とリネアが、こちらに近づいてきた。
「Fランク」
伯爵が、短く呼ぶ。
「先日も、そして今夜も——
助かった」
「俺は、ただ通用口と地下に立ってただけです」
「その“ただ”が、どれだけ難しいかは、
我々も身に染みている」
伯爵は、ほんのわずかに口元を緩めた。
「レオン、と言ったな」
「はい」
「名前は覚えた。
——それで十分だろう?」
「はい」
本当に、それで十分だと思った。
その横で、リネアがこっそり小声で言う。
「今度こそ、“裏方じゃない方”のお茶会も考えておくから」
「そのときは、あまり高そうじゃないお菓子でお願いします」
「分かってるわ、“食べ慣れてない甘いやつ”は、気持ち悪くなるものね」
そこまで分かってるなら、大丈夫そうだ。
◇
ギルドに戻ったのは、夜明け前だった。
簡単な報告を済ませ、
盗賊の供述や魔法陣の内容の詳しい話は、
上の人たちに任せることになった。
「“先生”の話は?」
「何度か名前は出たらしい」
エドガーが言った。
「影抜きと黒い石を教えた“先生”。
霧紺の洞の入口近くで“行商人”として振る舞っているかもしれない、という証言もある」
「霧紺の洞、やっぱり出てきましたか」
「出てきたな」
シルヴァが、記録板を閉じる。
「霧紺の洞の調査隊は、予定を少し早めて出ることになりそうだ。
Cランク以上が中心になるが——」
「街側は、街側で線を見ておく、ですね」
「そういうことだ」
エドガーは、壁の“内部評価板”を軽く叩いた。
——観察・聞き取り依頼:
《仮)レオン=ミリア隊》 +1件。
正式依頼の方も、
——【貴族街夜会裏方補助】達成。
の刻みが増える。
——正式依頼達成数:27件/50件。
「“外向きの報告”には、またFの名前は小さくしか載らんだろうがな」
エドガーが、少しだけ苦い笑いをした。
「それでも、“線を押さえたのは誰か”は、ここにはちゃんと残る」
「さっき、“捨て駒”って言われましたけどね」
気づけば、口が勝手にしゃべっていた。
エドガーとシルヴァが、同時にこちらを見る。
「誰にだ?」
「通用口で捕まえた盗賊に。
“ギルドにコキ使われてるFランクの<捨て駒>”だって」
「……なるほど」
エドガーが、腕を組む。
「言い得て妙、というやつだな」
「否定しないんですね」
「“そう見える側”がいるのは事実だからな」
エドガーは、はっきり言った。
「だが——」
そこで、一拍置く。
「捨て駒を自覚して動いている者と、
“捨て駒だと決めつけられても、自分ではそう思っていない者”は違う」
「違う、ですか」
「君がどっち側なのかは、
これからゆっくり決まっていくだろう」
よく分かったような、分からないような話だ。
「少なくとも、俺は君たちを“捨て駒”にするつもりはない。
そういうことだけは、覚えておけ」
「……はい」
◇
ギルドを出ると、空がすでに白んできていた。
貴族街の方角。
屋敷の屋根の上。
黒い犬の影が、また一瞬だけ見えた気がした。
街の塔と、山の霧。
黒い指輪と、黒い石。
影抜きと、“先生”。
その全部の線の、だいぶ手前。
通用口のFランクとして、
俺はもう少し、線のこちら側に立ち続けることになるんだろう。




