第35話 包囲作戦とFランクの一撃
“なくし物通り”の見回りから一晩明けた。
昨日よりは、体が軽い。
けれど、鼻の奥にはまだ、あの建物の匂いが残っていた。
(影抜きの“向こう側”の匂い……)
あれは、普通の人間の魔力の匂いじゃない。
瘴気と混ざって、どこかねっとりしている。
そういうのは、大体ろくなことにならない。
◇
ギルドに入ると、朝なのに二階への階段が妙にバタバタしていた。
「レオンさん、こちらへどうぞ」
受付に顔を出すより先に、リサに捕まる。
「おはようございます。
昨日の“なくし物通り”の件で、すぐにお話があるそうです」
「上の人たち、動き早いですね」
「“影抜きがいるっぽい拠点”なんて話を聞いたら、さすがに放っておけないみたいですよ」
そう言って、リサは小会議室の前まで案内してくれた。
「中に、エドガーさんとシルヴァさん、それから——」
「それから?」
「騎士団の方も来られています」
騎士団。
城の方の人たちだ。
少し背筋を伸ばしてから、扉をノックする。
◇
「入れ」
エドガーの声に従って部屋に入ると、見慣れた顔と、見慣れない顔があった。
エドガー副ギルド長。
シルヴァ。
商業組合のバルニス。
そして、銀の縁取りの入った鎧を着た男が一人。
黒髪を短く刈り込み、背筋をぴんと伸ばしたその男は、椅子に座っていても圧がある。
「来たか」
エドガーが頷く。
「まずは紹介だ。
トラヴィス城塞騎士団第2中隊長、ガレス・ロウエン殿だ」
「ガレス・ロウエンです」
騎士団の男——ガレスが軽く会釈する。
「“なくし物通り”の件について、ギルドと協力することになった」
「Fランクのレオン・アーディスです。
お世話になります」
俺も頭を下げる。
「あと、ミリアたちは?」
「廊下で待ってるはずです」
「全員、中に入ってくれ」
ミリア、ノーラ、ロウ、カイも呼び入れられ、狭い部屋がぎゅっと詰まった。
◇
「昨日の報告は受け取っている」
エドガーが机の上の地図を広げた。
「“なくし物通り”南側の裏路地。
この建物だな」
地図の一点が、赤い印で囲まれている。
「はい。
建物そのものから、“影抜きの向こう側”と同じ匂いがしました」
俺は指でそこを示す。
「匂いの方向だけなら、間違いないと思います」
「君の鼻は、一度も外していないからな」
シルヴァが、あっさりと言った。
「古井戸、黒い染み、スライム、そして影抜き。
全部、“嗅ぎ取ってから実際に事が起きている”」
「そう言われると、なんか責任重大ですね」
「重大だから呼んでいる」
エドガーが口をはさむ。
「ガレス殿。
“影抜きの匂いのする建物”というのは、どう見る?」
「放置はありえん」
ガレスの声は低く、はっきりしていた。
「城の近くで影抜きが自由に動いているとなれば、
貴族街の防衛にも影響する。
“黒い小物”の回収拠点の可能性も高い」
そう言って、ガレスは地図を指さす。
「今夜、この建物に“踏み込み”を行う。
騎士団と、ギルドのCランク以上で構成した小隊だ」
「じゃあ、俺たちは——」
「君たちは、“包囲線の一部”だ」
エドガーが言葉を継いだ。
「“線のこちら側”の、一番外側。
住民の避難、通行人の誘導、
そして“逃げてきた連中の確保”」
「逃げてきた連中?」
カイが眉を上げる。
「“影抜きが本体を置きっぱなしにしてる”なんて甘い想定、
できると思うか?」
シルヴァが肩をすくめる。
「中の連中は、影抜きだけじゃない。
見張りもいれば、逃げ足の速い下っ端もいるだろう。
そいつらを、通りに出る前に捕まえる係が必要だ」
「それが、“顔の知られていないF〜Eランク”ってわけね」
ミリアが納得した顔をする。
「上位ランクを通りにべったり立たせると、相手も警戒する。
その点、私たちは“いつもの見回り”の延長に見える」
「そういうことだ」
ガレスがうなずく。
「君たちには、“入口の外”に立ってもらう。
中に雪崩れ込むな。
線を越える必要はない」
「了解です」
俺は、深く頷いた。
◇
「作戦の概要はこうだ」
エドガーが地図に線を引いていく。
「まず、“なくし物通り”そのものは、今夜は早めに店じまいしてもらう。
商業組合が通達を出した」
「うちの上も、ようやく腰を上げたからな」
バルニスがニヤリとする。
「“危ない夜だから、今日はさっさと帰れ”ってな」
「通りから一本外れた裏路地に、
F〜Eランクのパーティを“普通の見回り”として配置する。
《風切り燕》と、《仮)レオン=ミリア隊》は、南側の担当だ」
「了解」
「一定の時間になったら、通りの出入り口を騎士団が押さえる。
建物への踏み込みと同時に、外の見張りは“逃げてくる影”を見張れ」
「この“影”って、比喩じゃなくて——」
「比喩でもあり、実物でもあるだろうな」
シルヴァが肩をすくめる。
「影抜きが暴れるかもしれないし、黒い犬が出てくるかもしれない。
どっちにしても、“見えたものをそのまま報告して戻ってこい”」
「それができるから、君たちを使う」
エドガーが言った。
「もう一度確認するぞ。
——“中に雪崩れ込むな”。
——“戦えるからといって、線を越えるな”。
——“見たものを持ち帰るのが、君たちの仕事だ”」
「はい」
声が少し重なった。
(戦えないわけじゃない。
でも、“戦えるから行く”と、“行くべきだから行く”は違う)
古井戸のときに教えられたことだ。
◇
日が落ちるまで、いったん解散。
武具の確認と、軽い休憩。
それから、いつものようにギルド前に集合する。
「緊張してる?」
ミリアが、腰のポーチを締めながら聞いてくる。
「少しだけですね」
「少しでいいのよ。
“全然緊張してない”ってやつの方が危ないから」
カイが肩を回す。
「ま、何かあったら、レオンが嗅いでくれるだろ」
「匂い担当って、ほんと便利に扱われますね」
「一番頼りになるからよ」
ノーラが静かに言った。
「影も、犬も、瘴気も。
“先に気づく”人がいるのは、大きい」
そう言われると、少し背筋が伸びる。
◇
夜。
“なくし物通り”は、いつもより静かだった。
店のシャッター、戸板。
灯りはほとんど消えていて、人影もまばらだ。
代わりに、通りの端々に、さりげなく立つ騎士たちの影。
鎧のきしみを抑え、外套を羽織っているが、
目のあたりに普段の見回りとは違う緊張があった。
「じゃあ、私たちは“匂いの建物”の裏路地側」
ミリアが地図を確認する。
「ノーラは通りと路地の境目。
ロウはノーラの少し後ろ。
カイは路地側の物陰から、上と横をチェック。
レオンは——」
「正面で匂いと空気担当ですね」
「そう。
犬と影と人の気配、全部まとめてよろしく」
「ざっくりしたお願いですね……」
苦笑しながらも、位置につく。
例の建物は、昼間と同じように、半分閉じた扉と布の下がった窓を抱えていた。
外見だけなら、ただの寂れた店だ。
鼻から、ゆっくりと息を吸う。
(……)
古井戸ほどではない。
でもやっぱり、あの“混ざった匂い”がする。
瘴気と、人の魔力と、古い埃。
昨日より、少しだけ濃い。
「動いてるの?」
ミリアが囁く。
「中で、何か準備してるかもしれません」
そのとき——通りの方から、低い笛の音がした。
一回。
二回。
約束していた合図だ。
(踏み込み開始)
少し遅れて、建物の反対側——正面入口の方から、重い靴音が響いてきた。
「騎士団の人たち、来ましたね」
カイが小声で言う。
扉の向こうから、かすかな声。
「城塞騎士団だ。
中の者は、武器を捨てて出てこい」
返事は、聞こえなかった。
代わりに——
建物の中から、妙な音がした。
ざわざわ、と影が擦れるような音。
肌が粟立つ。
(……嫌な音だな)
鼻の奥が、ぴりぴりとした。
「ミリア」
「うん、感じてる」
ミリアが眉をひそめる。
「瘴気、上がってきてる。
古井戸よりは薄いけど、“動いてる”」
建物の壁に、影がじわっと広がった。
月明かりでもない、灯りでもない影。
ただ黒さだけが増していく。
「来るぞ」
ロウが短く言った。
◇
最初に飛び出してきたのは、人間だった。
扉の方が騎士団に押さえられているからか、
裏口側の小さな扉が内側から蹴り開けられた。
「くそっ、なんでこんな日に——!」
飛び出してきたのは、黒い布で顔を覆った男だ。
軽装の革鎧に短剣。
俺と目が合った。
「……チッ、冒険者かよ。邪魔だ!」
男が短剣を構えた瞬間には、俺の手は剣にかかっていた。
(あ、これ避けないと)
体が勝手に一歩、ずれる。
短剣の切っ先が、さっきまで俺の喉があった空間をかすめる。
足元の感覚で、相手の重心が読みやすかった。
山で怒ったイノシシに突っ込まれたときと、あまり変わらない。
「っおま——速っ」
男が驚いた声をあげる。
その隣を、別の影が抜けようとした。
「そっちは通しません!」
ノーラの盾が、路地の入口を塞ぐ。
硬い音が響き、二人目の男が弾かれて地面に転がった。
「レオン!」
「はい!」
呼ばれる前に、体が前へ出る。
短剣の男が、慌てて二撃目を振り下ろしてくる。
今度は受ける。
剣と短剣がぶつかった瞬間、男の目が見開かれた。
「——っ重っ!?」
(あれ?)
自分では、そこまで力を入れたつもりはなかった。
ただ、“押し返されたら危ない”から、いつも通り踏ん張っただけだ。
男の腕が、ぐらりと上に弾かれる。
隙間ができた。
(ここ)
がら空きになった胴に、短く一撃を入れる。
深く斬る必要はない。
痛みで動きを止められれば十分だ。
男の息が詰まり、膝が折れた。
「っぐ……なんだよ、ガキのくせに……!」
「ガキでも、村で鍛えてましたから」
つい、答えてしまう。
「話は、ギルドでゆっくり聞きましょう」
男の手から短剣が落ちる。
ノーラが素早く盾をずらして、その上に足を乗せて封じ込めた。
「ロウ!」
「はい」
ロウが駆け寄り、男の動きを確認する。
「骨までは行ってない。
出血も、布を巻けば止まる」
「よかった」
「“よかった”って顔するなら、もう少し力加減を覚えなさいよ」
ミリアのツッコミが飛んできた。
「なんで一撃目でそこまで押し返せるのよ。
相手、完全に腰浮いてたじゃない」
「え、普通じゃないですか?」
「普通なわけないでしょ」
カイが笑いながら、二人目の男の手首に縄をかけていく。
「俺なんか、あそこまで弾き返したら、自分の腕の方が痺れるわ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだ」
ロウが淡々と言う。
「レオン、筋力の自覚が足りない」
「……筋肉に自覚って必要なんですね」
「お前のは必要だ」
ミリアがため息をついた。
「まあいいわ。
“Fが二人捕まえた”ってだけで、今日は十分仕事してる」
たしかに。
無理に追いかける必要はない。
◇
そのとき——建物の中から、ぞわり、と強い気配が漏れた。
瘴気。
さっきまで壁の中に閉じ込められていた何かが、表に出ようとしている。
「——来る」
思わず口から漏れた。
建物の壁に、黒い染みが走る。
光も月もないのに、影が濃くなる。
影の帯の中から、細い“手”が伸びかけ——
その前に、黒い影が飛び込んだ。
「……いた」
黒い犬。
古井戸のときよりも、輪郭がはっきりしている。
目だけが、白く光っていた。
犬は迷いなく影の手に噛みつく。
乾いた音。
氷を噛み砕いたときのような感触が、空気越しに伝わってきた。
「また“食べてる”」
ミリアが呟く。
影の手が、一部欠ける。
残った影は、犬の体を避けるようにして別の方向へ伸びようとして——
壁の向こうから飛んできた何かに、まとめて叩きつけられた。
鈍い炸裂音。
短い詠唱。
「“光の杭”ね。
騎士団側の魔術師かしら」
ミリアが感心したように言う。
建物の中から、怒鳴り声と剣戟の音が聞こえた。
「中は、中の人たちに任せましょう」
ロウが言う。
「こっちは、“こっちに漏れてくるもの”だけ」
「了解」
黒い犬は、影の残りかすを一舐めすると、
こちらをちらりと見た。
目が合った気がした。
それから、何事もなかったかのように、
路地の奥の影に溶けて消えた。
◇
騎士団とCランクたちの踏み込みは、思ったより早く終わった。
しばらくすると、建物の入口から何人か引きずられて出てくる。
顔を覆った男たち。
女も一人。
手には縄。
足には枷。
ガレスが、その先頭に立っていた。
「どうでした?」
ミリアが声をかける。
「中にいたのは、影抜きの使い手――“見習い”が二人。
それと、瘴気付きの小物の保管係が数名だ」
ガレスの表情は硬い。
「黒い指輪が一つ。
“古井戸近辺回収”と書かれた石袋が二つ。
その他、怪しい品がいくつか」
「影抜きの“本職”は?」
シルヴァが問う。
「いない」
ガレスは首を振った。
「どうやら、ここは“中継地点”に過ぎなかったらしい」
(匂いの濃さも、“本命の巣”という感じではなかった)
俺も納得した。
「瘴気の濃度は、どうでした?」
「“古井戸の半分以下”だね」
シルヴァが、別の板をめくる。
「でも、“街の中にあるべき濃さ”じゃない。
やっぱり、“どこからか持ってきてる”」
「黒い指輪は、これで二つ目ですね」
ノーラが言う。
「ルークスさんの店から一つ盗まれ、
ユークリッド家から一つ盗まれ、
ここの倉庫に一つ」
「“三つ揃える前”に踏み込めたのは、不幸中の幸いってところか」
バルニスが肩をすくめた。
「最後の一個がどこにあるか、まだ分からんがな」
「それも、これからだ」
ガレスが短く言った。
「こいつらから、吐かせる」
引きずられていく男たちは、“Fのくせに”と俺を睨んでいた。
(Fでも、まあ……山で鍛えましたから)
心の中でだけ、答える。
◇
その夜の見回りは、そのまま何事もなく終わった。
見張りの交代のタイミングで、ガレスがこちらに来る。
「Fランク、《仮)レオン=ミリア隊》」
「はい」
「君たちの仕事は、十分以上だった」
ガレスの言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「逃げようとした二人を押さえた。
そのうち一人は、影抜きの見張り役だったそうだ」
「そうだったんですか」
「直接の戦闘能力は高くないが、“状況を仲間に伝える役”だったらしい。
逃げられていたら、もっと厄介なことになっていただろう」
「俺は、ただ前に出て斬っただけですけど……」
「その“ただ”が、他のFにはなかなかできないんだ」
ガレスは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「Fランクの仕事の範囲で、今後も使わせてもらう。
それでいいか?」
「Fの範囲で、できることだけなら」
「それでいい」
ガレスは、それ以上は何も言わなかった。
◇
ギルドに戻り、簡単な報告を済ませる。
「“影抜き拠点の一つ”は潰した、と見ていいでしょうね」
リサが記録板を写し取りながら言う。
「もちろん、これで全部終わり、というわけではありませんが」
「“全部終わる”なんて思ってる人、あまりいませんよね、もう」
ミリアが苦笑する。
「黒い犬も、影抜きも、古い指輪も。
どれも“今回の建物だけが原因”って話じゃないでしょうし」
「そうですね」
ロウがうなずく。
「むしろ、“まだ外にも同じような場所がある”ことが分かっただけ」
「それでも、“ひとつ潰した”記録は残る」
ノーラが静かに言った。
「Fランクの仕事の中で、やれることはやりました」
板に、新しい刻みが増える。
——正式依頼達成数:23件/50件。
観察依頼の報告数も、じわじわと増えていく。
◇
ギルドを出て、夜明け前の街を歩く。
空は、うっすらと明るくなり始めていた。
「……ねえ」
ミリアはじっと俺を見る。
「レオン、“自分が強い”って自覚、どのくらいある?」
「村の中では、まあ……少しは力ある方でしたけど」
「その“村基準”を、そのまま街に持ってくるのはやめなさい」
ミリアはぴしゃりと言った。
「さっきの短剣の男、完全に腰浮いてた。
Fって、普通はあそこまで押し返せないの。
“ちょっと鍛えてました”で済むレベルじゃない」
「そうなんですかね」
「そうなの」
ミリアはため息をついた。
「でも、別に“俺は強いぜ”って自覚しろって言いたいんじゃないわ。
“自分の力が周りからどう見えてるか”だけは、ちょっと頭の片隅に置いときなさい、って話」
「どう見えてるか……」
「“Fランクだけど、ちゃんと頼れるやつ”って見られてるのか、
“Fランクのくせに出しゃばるやつ”って見られてるのか。
その違いくらいは、感じておきなさいってこと」
言われてみれば、確かに、それは大事な話だ。
「俺は、別に出しゃばりたいわけじゃないですけど……
目の前に来たら、斬るしかないですよね」
「そこがレオンのいいところでもあり、困ったところでもある」
ミリアは苦笑した。
「だから、その分、周りが“線”を引いてあげないとね。
私とか、ノーラとか、ロウとか」
「いつもすみません」
「いいのよ。
そういうの、パーティって言うんだから」
そう言って、ミリアは欠伸をひとつ。
「とりあえず今は、寝なさい。
明日も鼻、使うかもしれないし」
「鼻のことだけは、よく覚えられるんですね、みんな」
「一番わかりやすいでしょ、“Fランクでも強い”って」
冗談めかした言い方だったけれど、
それを聞いて、ほんの少しだけ胸の中が温かくなった。
強いかどうかなんて、自分ではよくわからない。
ただ——
Fランクとしてできることをやる。
それだけを考えながら、俺は宿への道を歩いた。




