第30話 裏庭の黒い犬と影の手
祝30話!!!
黒い犬の影と目が合った。
薄い。
古井戸のときの“濃さ”とは違って、輪郭がゆらゆらしている。
けれど、たしかに「いる」。
「……あれが」
ミリアが、小さく息を呑んだ。
「リネアさん」
俺は振り向かずに声をかける。
「ここから先は、できれば屋敷の中に」
「え、でも——」
「“見るだけ”でも、巻き込まれる可能性はあります」
言葉を選ぶ。
「黒い犬がただ通り過ぎるだけならいいんですが、
“何かを追っているとき”だった場合、そっちまで来ますから」
リネアが言い返しかけて——口をつぐんだ。
「……分かったわ。
グレイソン!」
「お呼びでしょうか」
すぐ後ろにいた執事が一歩前に出る。
「お嬢様、こちらへ」
グレイソンがリネアを促す。
途中でリネアが振り返った。
「お願い。
誰も怪我しないでね」
「努力はします」
リネアとグレイソンが屋敷の陰に消えるのを見届けてから、俺は改めて黒い犬に向き直った。
◇
「配置、さっき決めた通りで」
ミリアが早口で指示を出す。
「ノーラは裏口の前。
ロウはその少し後ろ。
カイは物置小屋の影から回り込み。
レオンは——」
「正面から様子見ですね」
「そう。
絶対に飛びかからない。
“見て、匂い嗅いで、変だと思ったら逃げる”」
「了解」
黒い犬は、俺たちを一瞥したあと、すぐに視線を外した。
代わりに、裏庭の隅——石垣と物置小屋の間にある、狭い影の帯をじっと見つめる。
(……あそこ)
さっき、影が揺れた場所だ。
犬の体から、ふわり、と黒いもやのようなものが漂った。
地面に落ちる影と混ざり、細い筋になって、影の帯へと伸びていく。
「何かしてる?」
ミリアが小声で問う。
「“嗅いでる”ように見えますね」
言いながら、鼻をひくつかせる。
石の匂いと、土の匂い。
その奥に、いつもの“瘴気”とは少し違う、ぬるりとした気配。
(……これ)
下水で感じた、あの“まとわりつく”感じに近い。
黒い犬の尻尾が、ぴん、と立った。
次の瞬間——影が動いた。
◇
石垣と物置小屋の間の黒が、ぐにゃりと歪んだ。
そこから、細長い“手”のようなものが伸びる。
黒い、輪郭の曖昧な腕。
指の形だけは妙にくっきりしている。
「……影抜き、か」
ロウが低く呟いた。
「知ってるんですか?」
「昔、本で読んだ。
影を通して物に触る、盗賊の魔法の一種だ」
黒い手は、まっすぐ倉庫の方へ向かおうとして——黒い犬に横取りされた。
犬が、影の手に飛びかかる。
噛みつく、というより「かぷ」と加えるような動き。
その瞬間、空気がひやりと冷えた。
「——っ」
影の手が、ぶるぶると震える。
黒い犬の体を通って、何かが地面に抜けていく。
犬の足元で、影が砂煙のように散った。
「今の、何した?」
カイが、小声で尋ねる。
「“かじり取った”ように見えましたね」
俺も目を凝らす。
影の手は、一部が欠けている。
指三本分くらい、先がない。
それでも、残った部分は、なおも倉庫の方へ伸びようとしていた。
黒い犬は、一度だけ尻尾を振ると、今度は反対側へ回り込む。
影と犬が、お互いを意識して牽制し合っているのがわかる。
(……敵、って感じじゃない)
どちらか一方が、完全にもう片方を潰そうとしている、というよりは——
犬は犬で、「通すかどうか迷っている」ようにも見えた。
「ミリア」
「分かってる」
ミリアが杖を構える。
「“影抜き”に効くかどうかは分からないけど……
光、当てるわよ」
小さな詠唱。
「『スモール・ライト』」
杖の先に、小さな光の玉が灯った。
それを、影の帯めがけて投げ込む。
淡い光が、地面を転がるように進み、石垣と物置小屋の間で弾けた。
影が、一瞬だけ薄くなる。
黒い手が、びくりと震えた。
「効いてる?」
「完全には消えてないけど、“居心地は悪そう”ね」
影の手の動きが鈍くなる。
代わりに、指先の輪郭がはっきりした。
爪のようなものが、倉庫の方向をかきむしる。
黒い犬が、その指先に再び飛びかかった。
今度は、がぶりと深く噛みつく。
「っ——」
影の手が短く悲鳴をあげたような気配がした。
実際の音は聞こえない。
でも、肌がざわりとする。
黒い犬の足元で、影がもう一度、砂煙になって散った。
残ったのは——薄い霧のような、“抜け殻”だけ。
「……今の」
「“犬が、影の中身だけ食って、殻だけ残した”みたいに見えたわね」
ミリアが眉を寄せる。
「よく分からないけど、結果的に“影の手”は弱ってるはず。
動き、鈍いし」
それでも、完全には消えていない。
欠けた影の手は、今度は倉庫ではなく——裏口の方へ向きを変えようとした。
ノーラが、すぐに前に出る。
「こっちは、通しません!」
大盾が、裏口の前で構えられる。
光の当たる場所には、影は伸びてこない。
「ミリア、もう一回」
「任せて」
再び『スモール・ライト』が飛び、影の帯に光が差し込む。
影はじりじりと後退し、その先端が、ぱちん、と弾けた。
残ったのは、地面に落ちた、黒い霜のようなもの。
黒い犬が、それをじっと見下ろす。
そして——こちらを一度だけ見た。
◇
「……今の、助けたことになるのかしらね、私たち」
ミリアが苦笑交じりに言う。
「影の手が何をしようとしてたか次第ですね。
倉庫の物を盗むところだったのか、裏口から誰かを連れ出すところだったのか」
「どっちにしても、止めて正解だろ」
カイが肩をすくめる。
「影の手に撫でられたい人なんていないしな」
黒い犬は、影の残りかすを一舐めすると、くるりと向きを変えた。
倉庫の方へ一歩。
裏口の方へ二歩。
そして、——屋敷の窓の一つを見上げる。
二階の、リネアの部屋の方角。
犬は、その窓をじっと見つめてから、再び尻尾を振った。
(……行きたいのか、行きたくないのか)
俺には、どちらとも取れた。
黒い犬は、しばらくそこに佇んで——
やがて、影の中へ沈み込むようにして消えた。
地面の影が、ただの暗がりに戻る。
静かな夜の音だけが、裏庭に戻ってきた。
◇
「今のは、“線の向こう側”の仕事だった?」
しばらく沈黙してから、ノーラがぽつりと言った。
「“完全に向こう側”を潰すまではいってないわね」
ミリアが考え込む。
「犬がああやって噛みついてる間に、
こっちは“通路の方”だけ光で細くした感じ」
「つまり、“犬と一緒に影の手を追い払った”?」
カイがまとめると、ロウが小さく頷いた。
「結果としては、そうだろうな。
影の元の持ち主までは追えてないけど」
「元の持ち主の匂いは?」
ミリアが俺を見る。
俺は、影の帯があった場所にそっと近づき、地面に鼻を近づけた。
(……)
湿った石の匂い。
草の匂い。
その奥に、黒い犬の匂いと——それとは違う、別の「人の匂い」。
「人の匂い?」
ロウが訊ねる。
「直接ではないですけど、“誰かの魔力の匂い”が、薄く残ってますね。
たぶん、影の手の向こう側にいた人の」
「覚えられそう?」
「……覚えられると思います」
はっきりした匂いではない。
でも、一度嗅いだら、もう一度出会ったときに「似てる」とは判断できる、たぶん。
「じゃあ、“今夜の収穫”としては十分ね」
ミリアが息を吐いた。
「影の手の通路の位置、
黒い犬が“影抜き”を邪魔するように動いたこと、
それから——」
「倉庫の中身の確認ですね」
ノーラが頷く。
「何か盗られていないか」
◇
倉庫に戻り、先ほどの目録と照らし合わせる。
棚、箱、包み。
ひとつずつ確認していく。
古井戸近辺から回収された布袋。
怪しい枕の詰め物。
銀の指輪三つ。
「……あれ?」
カイが指を止めた。
「指輪、二つしかない」
「さっきは三つ、ありましたか?」
「ありました」
ノーラが記録板をめくる。
「“黒い石の指輪 三点”って、ちゃんと書いてあります」
「位置も、ここ“三つ並べて”って」
棚の上には、ぽっかりと空いた場所。
指輪が三つ載るのにちょうどいいスペース。
「ってことは、“一個持ってかれた”か」
カイが顔をしかめる。
「犬と影がもみ合ってる間に?」
「犬は影の手を噛んでいた。
その前に、影の手は倉庫の方へ一度伸びかけていた」
ロウが淡々と整理する。
「完璧に止めたわけじゃなく、途中で一個は持っていかれた、と考えるのが自然だな」
「じゃあ、今夜の本命は“古井戸石”じゃなくて、指輪だったわけですね」
ミリアが棚を睨む。
「古井戸石の方は、“犬がしっかり噛んでくれた”のかもしれないけど」
「黒い犬が、“盗まれたくないもの”だけ守ってる、ってことですか?」
ノーラの問いに、俺も答えに詰まる。
「“盗らせたくないもの”なのか、“持って行かせたいもの”なのか」
ミリアが肩をすくめる。
「どっちとも取れるのが、一番ややこしいわね」
◇
「どうでした?」
倉庫から出ると、リネアとグレイソンが待っていた。
「裏庭で、黒い犬と影の手が喧嘩してました」
ミリアがいきなりざっくりまとめると、グレイソンの眉が跳ね上がった。
「……なんとも、悪夢のような報告ですね」
「実際、悪夢避け指輪が一つなくなってます」
ノーラが記録板を見せる。
「倉庫の棚から。
箱ごとではなく、指輪だけが」
「また……」
リネアは頭を抱えた。
「父様、あれ気に入ってたのに。
“これで嫌な夢を見ずに済む”とか言って」
「言いにくいんですが、あの指輪をつけたまま嫌な夢を見ずに済む、というのが本当かどうかも怪しいです」
ロウが真面目に言った。
「少なくとも、“黒い何か付き”である可能性は高いので」
「……そう言われると、付けなくてよかったかもしれないわね」
リネアが肩を落とす。
「黒い犬は?」
「倉庫と裏口の間をうろうろして、“影の手”を噛んでました」
ミリアが手振りで説明する。
「結果的に、“影の通り道”は弱くなってるはずです。
今すぐもう一回、同じことはできないと思います」
「でも、一個は持って行かれた」
「ええ」
グレイソンが深く息を吐いた。
「お嬢様。
やはり、“古井戸の石”の件も含め、一度ギルドと商業組合に正式に相談した方がよろしいかと」
「……そう、ね」
リネアも観念したように頷く。
「父様、嫌がると思うけど」
「伯爵様には、私からもお話しします」
グレイソンが静かに言った。
「“倉庫に妙なものを置きっぱなしにしておく方がよほど危険だ”と」
そう言う執事は、やっぱりただ者ではない。
◇
屋敷を出るころには、空の色が白み始めていた。
裏庭の草には、薄く朝露がついている。
その中に、ぽつぽつと黒い点のようなものが混じっていた。
「……足跡?」
ノーラがしゃがみ込む。
露が少しだけ凍ったように、地面に丸い跡が残っている。
犬の足跡に似ているが、爪の跡はない。
「黒い犬の?」
「“黒い犬っぽい何か”の、でしょうね」
ミリアがしゃがみ込んで、軽く触る。
指先が少しだけ冷たくなる。
「すぐ消える。
でも、こういう“小さい痕跡”も、集めておく価値はあるわ」
「記録だけしていきましょう」
俺は記録板を取り出し、足跡の上にそっと押し当てた。
板の表面に、うっすらと丸い模様が浮かぶ。
「これも、シルヴァさんたちの“興味深い”資料ですね」
ロウがぼそっと言った。
「興味深いのストックが増えていくのは、ありがたいような、怖いような」
カイが欠伸を噛み殺す。
「とりあえず、寝たい」
「同感」
ミリアが伸びをした。
「帰ってギルドに報告して、寝る。
今日のFランクのお仕事は、それでおしまい」
「はい」
門の前で、もう一度だけ屋敷を振り返る。
二階の窓の向こうに、ぽんやりと人影が見えた。
リネアか、誰か。
そのすぐ横に、小さな犬の影が並んでいるような気がしたのは——
さすがに、見間違いだろう。
そう思うことにして、俺は貴族街を後にした。




