第25話 貴族街って、どんなところですか②
◇
中庭には、噴水と花壇。
使用人らしき人々が、忙しなく行き来している。
「お待ちしておりました、バルニス殿」
出迎えたのは、黒い燕尾服をきっちり着込んだ男だった。
白髪混じりだが、背筋はぴんと伸びている。
「執事のグレイソン、です。
今回もお引き受けいただき感謝します」
「こちらこそ」
バルニスが帽子を取る。
「荷物はこちらに」
グレイソンが指し示した先は、中庭の一角、石畳の広場だった。
「重い物から順に下ろしていきますね」
俺たちは荷台に乗り込み、指示された箱を運び出していく。
食料、ワイン樽、布、日用品。
それから——例の「妙な品」が入っているらしい箱。
「これは、特に慎重に」
グレイソンが、その箱だけは自ら手を添えた。
「伯爵がお待ちかねですので」
「……何が入ってるんでしょう」
ノーラが小声で尋ねる。
「触らないのが、身のためよ」
ミリアがさらりと言った。
それでも、箱の近くを通ったとき、俺はつい息を吸い込んでしまう。
(……ん)
鼻の奥が、ほんの少しだけざわついた。
古井戸や黒い染みほどではない。
でも、かすかに、似た匂いがする。
といっても、ほんの微かなものだ。
倉庫の奥で見た「残り香」程度。
(今のは……箱の中? それとも、この屋敷自体から?)
そこまで判断するのは難しい。
とりあえず、記憶の片隅にしまっておく。
◇
荷物の積み下ろしが一段落したころ、中庭の向こうから、甲高い声がした。
「おーい、荷物の人!」
振り向くと、年若い女性がこちらに手を振っていた。
派手すぎないが上質なドレスに身を包んだ、茶髪の少女。
年は、俺たちとそう変わらないくらいだろうか。
「また変なの買ってないでしょうね!」
「お嬢様、言葉遣いが……」
グレイソンが慌てて小声で注意する。
「いいじゃない、別に」
少女は笑って肩をすくめた。
「私、ユークリッド家の長女、リネア。
いつも荷物運び、ご苦労さま」
ぺこりと頭を下げる仕草は、どこか軽い。
「こちらこそ。
商業組合のバルニスと、護衛の冒険者たちだ」
「護衛って言っても、とりあえず荷物を見てるだけですけどね」
ミリアが一歩前に出る。
「Fランクのミリアとレオンたちです」
「へえ……」
リネアは、興味深そうにこちらを眺めた。
「Fランクって、もっと子どもばかりかと思ってたけど。
意外と大きいのね」
「大きいのが一人混ざってるだけですよ」
ミリアが俺を肘でつつく。
「で、“また変なの”って?」
バルニスが笑いながら訊ねると、リネアは中庭の隅を指さした。
そこには、開けられた箱がいくつか並んでいる。
中には、光る石や、奇妙な模様の入ったガラス玉、金属の輪が収められていた。
「父様、最近“呪いを祓う小物”だの“悪夢除けの品”だのばかり買ってくるのよ。
盗まれたら怒るくせに、何に効くのか自分でもよくわかってないんだから」
「お嬢様」
グレイソンの注意も、リネアは軽く聞き流す。
「ほら、またこんな……」
そう言って、リネアが一つの小箱を開けたとき——
(……)
中から、わずかに、あの匂いが漏れた。
黒い犬や古井戸と同じ系統。
でも、かなり薄い。
「レオン?」
ミリアが小声で名前を呼ぶ。
顔に出たらしい。
「いえ……」
箱の中には、小さな銀の指輪が一つ。
黒い石がはめ込まれている。
「“悪夢を食べる指輪”なんだって。
これだけでいくらすると思う?」
「……さあ」
「私の靴、十足分くらい」
「高いですね」
「だから、“盗まれたら困る”って騒いでるのよ、父様」
リネアは肩をすくめる。
「でも、盗まれるのも盗ませるのも、元は同じような人たちなんじゃないかなとも思うけど」
その言い方は、貴族にしてはずいぶん正直だった。
「お嬢様、そのような発言は……」
「はいはい」
リネアは、指輪の箱をそっと閉じた。
「ねえ、レオンだったっけ?」
急に話を振られて、少しだけ身を固くする。
「はい」
「あなた、ちょっと変な匂いしない?」
「え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「なんかこう、“外の風”みたいな。
山の匂い、っていうのかしら。
この屋敷にはない匂いだから、ちょっと新鮮」
「……たぶん、村育ちだからだと思います」
正直に答えると、リネアはふふっと笑った。
「そういうの、嫌いじゃないわ」
グレイソンが、わずかに頭を抱えた。
◇
荷物の受け渡しが終わり、バルニスが書類にサインをもらっている間、俺たちは中庭の端で待機していた。
ミリアがそっと近づいてきて、小声で訊ねる。
「さっきの指輪。
どれくらい“黒かった”?」
「今までの中では、かなり薄い方です。
でも、方向は同じですね。
古井戸や、倉庫の染みと」
「“悪夢を食べる指輪”か……
本当に悪夢を食べてくれるならいいけど、“悪いものを呼び込む穴”だったら最悪ね」
ロウも、腕を組んで噴水の方を眺めた。
「盗賊が、ああいうのだけを狙っているとしたら——
“ただの盗み”じゃ済まないかもしれない」
「今の時点では、“見ました”くらいしか言えませんけどね」
「それで十分よ」
ミリアが軽く笑う。
「Fランクの仕事は、今のところ“見たことを報告すること”だから」
そう言われて、少し肩の力が抜けた。
◇
屋敷を出て、貴族街を通り抜ける帰り道。
「どうだった、貴族街」
バルニスが馬車の上から声をかけてきた。
「きれいでしたね。
あと、空気がちょっと違いました」
「金持ちの匂いがしたか?」
「それもありますけど……
なんというか、“何かを隠している匂い”も」
言葉にするのは難しいが、そう感じた。
「はは、面白いこと言うな、お前」
バルニスは楽しそうに笑った。
「隠し事のない貴族なんていないさ。
でもまあ——」
ちらりと、さっきの屋敷の方を振り返る。
「あそこの嬢ちゃんは、まだマシな方だろうよ」
「そう、なんですか」
「もっとひどいのもいるって言ったろ?
護衛を“盾扱い”するようなやつもな」
カイが小さくうなずく。
「そういうところには、あまり行きたくないですね」
「仕事だから、行くこともあるさ」
バルニスが肩をすくめる。
「そのときは、そのときだ」
◇
ギルドに戻り、報告を済ませたあと。
「貴族街、どうだった?」
受付の前で、テオがこちらを見上げていた。
今日は、腕の痕もほとんどわからない。
「きれいでしたよ。
道も家も、全部」
「黒い犬、いましたか?」
「今日は見ませんでした」
訓練場や路地とは、空気が違いすぎたのかもしれない。
「でも、“なくし物”の話はありました」
「なくし物?」
「高い指輪とか、妙な石とか。
そういうのばかり盗まれてるみたいです」
テオは少し考えてから、小さく頷いた。
「……じゃあ、“夢の中で見た黒い犬”は、まだそっちまで行ってないのかもしれませんね」
「そうかもしれません」
今のところ、黒い犬が貴族街を走り回っている気配はない。
少なくとも、俺の鼻には。
「でも、“黒い何か”は、人の持ち物にも入り込む。
それは、覚えておいた方がいいかもしれませんね」
「はい」
テオが、ぎゅっと拳を握った。
古井戸の下の瘴気は封じ直された。
それでも、街の中にはまだ、薄い残り香があちこちに漂っている。
今日見た指輪や、妙な小物。
ああいうものが、この先どう絡んでくるのか——今はまだ、分からない。
まずは、今日の匂いと景色を、頭の隅にしまっておくことにした。




