第22話 古井戸封鎖作戦とFランク夜番②
◇
日が落ち、街の灯りが一つずつ灯り始めるころ。
井戸の周囲は、妙に静かだった。
遠くから、子どもたちの笑い声や商人たちの呼び声がかすかに聞こえる。
でも、古井戸の周囲だけは、音がひとつ減っているような感じがした。
(……これが、“何も起きていないようで何かが起きているときの空気”なんでしょうか)
バルドの言葉を思い出しながら、結界杭と井戸の蓋を見比べる。
今のところ、白い紐は静かなままだ。
光も、まだない。
「下、どうなってるんでしょうね」
ノーラがぽつりと言った。
「静かなときは、静かな方がいい」
ロウが短く答える。
「“音がしないから不安”って言ってるうちは、まだ平和だよ」
「そういうもんですか」
「そういうもん」
俺も同じ意見だった。
大きな音が聞こえるときは、大体ろくなことが起きていない。
……と、考えたところで。
ごぉん、と鈍い音が足元から伝わってきた。
「……今のは?」
「下で何かやってるんじゃない?」
ミリアが耳を澄ます。
続けて、どん、どん、と何かを叩くような音。
それから、かすかな雷鳴のような反響。
(戦ってる、って感じでもないな)
瘴気の核を壊そうとしているのか、封じ直しをしているのか。
下を想像しても、想像は当たらないだろう。
そう考え直して、俺は結界杭に目を戻した。
そのときだった。
白い紐が、一瞬だけ、ぴくりと震えた。
「……?」
すぐに何かが起きるわけでもない。
けれど、胸の奥に、ひやりとしたものが走る。
鼻からゆっくりと息を吸い込む。
(匂いが——濃くなった)
下から。
井戸の蓋の隙間から、じわりと。
「ミリア」
「来る?」
「かもしれません」
言った瞬間、結界杭の一つが、ぼうっと淡い光を放った。
「一番、北側の杭!」
ノーラの声が上がる。
井戸から少し離れた位置にある杭だ。
そちらに意識を向けた、その直後。
俺は、自分の判断ミスを悟った。
(逆だ)
匂いは——
北側ではなく、真横から来ている。
「右!」
叫んだ瞬間、足元の影が盛り上がった。
黒い犬の形をした影。
でも、今まで見たものよりも、ずっと薄い。
紙の切り抜きのように、地面に張り付いている。
「っ——」
ノーラがとっさに盾を前に出した。
だが、影は盾の下をすり抜ける。
影だからだ。
「足元!」
「わっ!?」
ノーラが慌てて足を上げる。
黒い影は、井戸から離れる方向へ走り出した。
まるで、どこかへ導こうとするように。
その進行方向には——
古井戸周辺の見張りに駆り出された、別のFランクの子どもたちの姿があった。
「止まれ!」
思わず声が出る。
黒い影の犬は、子どもたちの足元をすり抜け、路地の方へ走る。
子どもたちの何人かが、それを目で追った。
「今の見えた?」
「黒い犬……?」
「追うな!」
自分でも驚くくらいの大声が出た。
子どもたちがびくりと振り返る。
「絶対に追うな!
今のは“線の向こう側”だ!」
訓練場で何度か顔を合わせた子たちもいた。
ジンも、その中にいた。
「レオン兄ちゃん……?」
「その場から動くな!」
まずは、地面を蹴って影の犬を追う。
路地の入口で、影が一瞬だけ立ち止まり、こちらを振り返った。
目は、白く光っていない。
ただの黒い穴だ。
「……悪いけど」
剣の柄に手をかける。
「今日は、そっちに付き合ってる場合じゃないんだ」
影の犬に向かって、地面を払うように剣を振る。
普通なら、影なんて斬れない。
でも、刃が通った瞬間——
黒い影は、ざらりと砂に戻るように散った。
斬れた。
(薄いやつだからか……)
足元には、うっすらと黒い粉のようなものが残るだけ。
それもすぐに、石畳の隙間に吸い込まれていった。
「レオン!」
ミリアが駆け寄ってくる。
「大丈夫?」
「はい。今のは……“抜け殻”みたいな感じでした」
匂いも、少ししか残っていない。
井戸の下にいる本体から切り放された、端っこのような。
「子どもたち!」
ミリアが振り返る。
「今の見た子は?」
「は、はい!」
ジンたちが、おずおずと手を挙げた。
「よく見てた。
でも、今みたいなのを見ても、“追いかけない”のが今日のお約束。
わかった?」
「……はい!」
ジンたちは、少し悔しそうな顔をしながらも頷いた。
「レオン兄ちゃんは追っていいの?」
「俺たちは、“追っていいかどうかを判断する係”だからな」
そう答えながらも、胸の奥で少しざわつくものがあった。
(さっきの、本当に“追ってよかった側”だったのか)
影の犬は、井戸から離れる方向に走っていた。
井戸から瘴気を引っ張り出す“逃げる瘴気”だったのか。
それとも、何かから子どもたちを遠ざけようとしていたのか。
答えは、わからない。
ただ一つわかるのは——
あの影がそのまま子どもたちを路地の奥へ引っ張っていったら、
きっとそれは、とても嫌な事態に繋がっていた、ということだけだ。
だったら、今はこれでよかったのだろう。
◇
結界杭の光は、しばらく弱まったり強まったりを繰り返した。
井戸の下では、きっとまだ何かが起きている。
「……長いですね」
「簡単に終わる仕事なら、そもそも封印なんてされてないだろうしね」
ミリアが杖に体を預けながら言う。
「眠くなってきた」
「カイ、交代で目ぇ冷やしてなさい」
「交代で目ぇ冷やすって何」
そんな他愛もない会話をしていると、
今度は、井戸の蓋そのものが、かすかに震えた。
ご、という低い音とともに、足元から伝わる重たい振動。
「今のは——」
「“下が殴られた”音、かな」
ミリアが眉をひそめる。
同時に、風が変わった。
今まで冷たいだけだった井戸の空気に、少しだけ“乾いた”成分が混ざる。
鼻をくすぐる、焦げたような匂い。
(火か……)
アメリアか誰かが、下で炎を使ったのだろう。
それから、数十拍。
ふっと、胸の締めつけが軽くなった。
「……今、少し楽になりましたね」
「私も感じた。
匂い、薄くなった」
結界杭の光も、じわじわと弱まっていく。
「とりあえず、“第一波”は収まった、ってところか」
ロウがぼそりと呟いた。
「第一波とか言わないでくださいよ……」
肩の力が抜ける。
そのとき——
井戸の蓋の隙間から、一筋の光が漏れた。
白く、小さな光。
すぐに消えたけれど、確かに見えた。
「今の……?」
「さあ。
“封印の火花”みたいなもんかもしれないし、
“誰かの魔法”かもしれないし」
ミリアが肩をすくめる。
どちらにしても、今はまだ俺たちの出番ではない。
◇
やがて、ロープが軋む音とともに、最初の一人が井戸から姿を現した。
血の気の引いた顔の魔法使い。
続いて、傷だらけの前衛たち。
最後に、アメリアがひょい、と軽い身のこなしで出てきた。
「お疲れさまです」
思わず頭を下げる。
「うん。
なかなか、骨の折れる挨拶だったよ」
アメリアはそう言って、井戸の蓋に軽く手を置いた。
「どうでしたか?」
ミリアが訊ねる。
「“瘴気の核候補”、ひとまず“本物”だったね」
アメリアはあっさり答えた。
「水脈にへばりついて、じわじわと街のあちこちに染み出していた。
……昔の封印が完全に切れる前に、間に合った感じ」
「倒したんですか?」
「“倒した”というより、“鎖を太くし直した”ってところかな。
全部を消し飛ばすには、街ごとやるしかないレベルだったからね」
さりげなく物騒なことを言う。
「でも、前よりはマシになった。
しばらくは、新しい黒い染みの出方も落ち着くはず」
「落ち着く、だけですか」
「“止まる”とまでは言えない」
アメリアは正直だ。
「でも、テオの夢が教えてくれた線までは、今日ちゃんと行けた。
そこは、素直に誉めてもいいと思うよ」
そう言って、アメリアはテオの頭をぽん、と軽く叩いた。
いつの間にか、テオも井戸の様子を見に来ていたらしい。
遠巻きに見ていた顔には、不安と安心が半々に混じっていた。
「テオの夢は、“怖がっていい夢”だったろう?」
「……はい」
「でも、怖がったあとで、“誰かに話せた”のは、もっといいことだ」
テオは、小さく頷いた。
「それと——」
アメリアは、今度は俺たちの方を見る。
「地上は地上で、よく見張っててくれた。
影の犬を一体、斬ったんだって?」
「はい。
たぶん、“抜け殻”みたいなやつでしたけど」
「抜け殻でも、噛みつかれれば面倒だからね。
よくやったよ」
「……ありがとうございます」
素直に頭を下げる。
「さて」
アメリアは大きく伸びをした。
「今日の仕事は、ひとまずここまで。
細かい解析はシルヴァたちに任せるとして……
レオンたちは、ちゃんと飯食べて、ちゃんと寝ること」
「それ、最近よく言われますね」
「言われてるうちは、まだ大丈夫ってことだよ」
アメリアは、そう言って笑った。
◇
ギルドに戻ると、リサが出迎えてくれた。
「お帰りなさい。
古井戸の地上支援、お疲れさまでした」
「ただ見張ってただけですけどね」
「“ただ見張ってるだけ”ができる人は、そう多くないですよ」
リサは板に新しい刻みを入れた。
——正式依頼達成数:18件/50件。
——観察依頼報告数:6件。
「古井戸の件は、今後もしばらく注意が必要ですが……
少なくとも、“今すぐ何かが噴き出してくる”という状況ではなくなりました」
「よかったです」
心からそう思った。
今夜、宿のベッドで眠るときに、井戸の蓋の映像が頭に浮かぶのは、さすがに遠慮したい。
「黒い犬の噂も、これで少し落ち着くといいですね」
リサの言葉に、ミリアが肩をすくめる。
「どうかなぁ。
むしろ、“古井戸から黒い犬が出てくる”って新しい怪談が増えそう」
「やめてくださいよ」
「でも、そういう噂がある方が、子どもは近づかないかもよ?
“怖いからやめとこう”って」
それは、それで一理ある。
「……ほどほどに、怖がってくれるといいですね」
「そうね。
“怖がる”と“何もできなくなる”の間くらいで」
ミリアがあくびを噛み殺した。
「とりあえず、今日のところは解散。
レオン、ほんとにちゃんと寝なさいよ」
「家具運びの翌日より疲れましたから、素直に寝ます」
「比べる基準おかしくない?」
そんな会話をしながら、ギルドを後にした。
外に出ると、空にはいつも通りの星が出ていた。
古井戸の下に何がいようと、空の見え方は変わらない。
宿への道を歩きながら、ふと鼻をひくつかせてみる。
冷たい夜気と、石畳と、遠くの屋台の匂い。
黒い何かの匂いは——今日は、もうしなかった。
「……よし」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いて、宿の扉を押した。




