第20話 黒い犬の夢と古井戸の噂②
祝20話!!
◇
訓練場からの道は、テオの夢の通りだった。
外壁沿いの道を抜け、大きな街路樹を右に曲がる。
赤い屋根のパン屋の前は、香ばしい匂いと人のざわめきで、なんとなく安心する空気に満ちていた。
「ここは……特に、変な匂いはしませんね」
「前に少し痕跡があったけど、調査班が軽く浄化してるはずだしね」
ミリアが周囲を見回す。
「念のため、路地側も見とこっか」
パン屋の裏手の路地を覗き込むと、壁の下の方に、ごく薄い黒ずみが残っていた。
触っても、特に反応はない。
「これくらいなら、やっぱりもう“残り香”って感じね」
記録板で軽く写し取って、次の目的地へ向かう。
◇
壊れた噴水のある広場は、思ったよりも静かだった。
昔はきっと水が湧いていたのだろう円形の石造り。
今は半分ひび割れて、底には雨水が少し溜まっているだけだ。
「ここも子どもたちの遊び場のひとつよね」
ミリアが噴水の縁に腰かけながら言う。
「黒い犬の目撃情報も、数件出てた場所」
噴水の縁を軽く指でなぞる。
指先に、ざらりとした感触。
(……ここも、だ)
見た目ではわからないレベルだが、石の隙間に黒いものが入り込んだような感覚があった。
「ミリア、ここも記録しておきましょう」
「了解」
記録板を噴水の内側に押し当てる。
板の表面に、薄く黒い筋が浮かんだ。
「夢の経路、今のところ“全部当たり”ね」
「それが、あまり嬉しくないところです」
俺たちは噴水広場を後にし、最後の地点——古井戸へ向かった。
◇
古井戸は、東区と南区の境目の、人通りの少ない一角にあった。
低い石垣で囲まれた円形の空間。
その中央に、木の蓋がどん、と据えられている。
周囲の石には、苔がびっしり。
「立入禁止」の札が風に揺れていた。
「……丸い石が並んでて、真ん中に木の蓋。
テオの言ってた通りね」
ミリアがぽつりと呟く。
俺は一歩近づき、蓋から少し離れた場所で立ち止まった。
(匂い……)
鼻から、ゆっくりと息を吸い込む。
湿った石の匂い。
苔の匂い。
そして、そのずっと下から——
ひやりとした、あの嫌な気配。
(いる)
下に、“いる”。
「ミリア」
「感じる?」
「はい。
下から、かなり濃いのが……」
言葉にしながら、自分の背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
これまでの“黒い染み”や“スライム”とは比べものにならない、密度。
近づくほどに、胸の奥をぎゅっと掴まれるような圧。
「蓋自体は?」
「……触りたくないですね、正直」
「じゃあ触らない」
ミリアはあっさり言った。
「蓋を開けるのは、完全に線の向こう側。
やるとしたら、アメリアさんかバルドさんたちの仕事よ」
「でも、記録は」
「する」
ミリアは蓋の縁から少し離れた石の部分に、記録板を押し当てた。
板の表面が、一瞬だけ、小さくぴしりとひび割れたように見えた。
「……冗談じゃない濃さね、これ」
ミリアが息を吐く。
「板が割れかけたの、初めて見たかも」
「やっぱり、ここが“核”なんでしょうか」
資料室の図を思い出しながら言うと、ミリアが肩をすくめた。
「可能性は高いけど、“それっぽいからそうだ”って決めつけるのは危険。
“怪しいから上に丸投げする”、までが私たちの仕事」
そのときだった。
井戸の蓋の隙間から、ふわりと黒いものが漏れ出した。
「っ!」
反応するより早く、それは空中で形を変えた。
犬のような輪郭。
ただし、今まで見た黒い犬よりずっと、輪郭がぼやけている。
「……お前は」
思わず身構える。
黒い犬(のような何か)は、こちらを一瞥した。
目は、真っ白だ。
訓練場や溝で見たときと違って、そこには“急いでいる”ような気配も、“遊び半分”の軽さもなかった。
焦っている。
追い詰められている。
そんな感じがした。
黒い犬は、蓋の上を一周ぐるりと回ると——
外側の石垣にぴょんと飛び乗った。
そして、しっぽを一度だけ振る。
その動きが、“来るな”と言っているように見えたのは、俺の勝手な想像かもしれない。
「……ミリア」
「うん。追わない」
ミリアは、杖を握りしめたまま首を振った。
「これは、“線の向こうに繋がってる犬”だ。
今ここで追いかけたら、絶対蓋の向こう側に引きずり込まれる」
黒い犬は、しばらくこちらを見てから——
外壁の方へ走り去っていった。
その後ろ姿が、何かを訴えているように見えた。
(……ごめん)
心の中でだけ、そう呟く。
「記録は十分よ。
ここまで濃い痕跡があるなら、“Cランク以上の出番”」
ミリアが、記録板を慎重に布で包む。
「あとは、さっさとギルドに戻って報告。
井戸の周りに子どもが近づかないように、札を増やしてもらうようお願いしないと」
「そうですね」
俺たちは古井戸に背を向けた。
背中に、まだひやりとした視線の余韻が残っているような気がした。
◇
ギルドに戻ると、すぐに二階へ通された。
「古井戸はどうだった?」
アメリアの問いに、俺たちは見たもの、感じたものを端的に伝えた。
蓋の向こうからの濃い気配。
板がひび割れかけたこと。
そして、蓋から漏れてきた“輪郭の曖昧な黒い犬”。
「ふむ」
シルヴァが、記録板を慎重に手に取る。
「これは、完全に“本体”に近い瘴気だね。
今までのは“飛び散った残り”をどうにかしてたけど……
古井戸の下には、もう少し大きな塊がある」
「やっぱり、瘴気の核か?」
バルドが腕を組む。
「確定はできないけど、“最初の候補”としては十分。
今夜か明日にも、C〜Bランクで下調べに入る必要があるね」
「その間、Fランクは?」
ミリアが問うと、アメリアがこちらを見た。
「古井戸周辺の“地上”を任せたい。
具体的には——」
アメリアは指を折って数えた。
「一つ。子どもたちへの注意喚起。“古井戸には近寄るな”。
二つ。古井戸周辺の見回り。“黒い犬”や“犬もどき”が出てきたら、その度に記録。
三つ。テオみたいな、“噛まれた子ども”が他にいないかどうか、確認」
それは、どれもFランクだからこそやりやすい仕事だった。
子どもと同じ目線で話せる。
地上の路地を細かく回れる。
黒い気配に敏い。
(……また忙しくなりそうですね)
心の中でだけ呟く。
アメリアは、少しだけ口元を緩めた。
「レオン。
テオの夢を“ちゃんと怖がって”、それでも報告しに来てくれたのは、あの子の勇気だ」
「はい」
「それを“ちゃんと怖がって”、線のこちら側から上に投げたのは、君たちの判断だ」
そう言って、アメリアは肩を軽く叩いた。
「どっちも、すごく大事なことだからね」
「……ありがとうございます」
妙な気恥ずかしさがこみ上げてきて、視線を逸らした。
◇
その日の夕方、訓練場に顔を出すと、子どもたちが素振りをしている横で、テオが一人、空を見上げていた。
「テオ」
声をかけると、彼は振り向いた。
「古井戸、怖かったですか?」
「……正直に言うと、だいぶ怖かったです」
「僕の夢と同じでしたか?」
「丸い石と木の蓋は、たぶん同じです。
でも、俺たちは蓋は開けませんでした。
それは、別の人たちの仕事だから」
「……よかった」
テオが、ほっとしたように息を吐いた。
「夢の中では、あの蓋、ずっと見てると、足が勝手に動きそうになって……」
その感覚に、妙に納得してしまう自分がいる。
「テオ。
これからもし、また何か夢を見たら」
「すぐギルドに行きます」
テオはもうわかっている、という顔でうなずいた。
「レオン兄ちゃんか、ミリアさんを探します」
「それがいいです」
訓練場の向こうでは、バルドが他の子どもたちに声をかけていた。
「構えを崩すな!
足を止めるな!
……おいジン、木人に抱きついてどうする!」
木剣の音と笑い声が混ざり合う。
黒い何かは、たぶんこれからもっと厄介になっていく。
古井戸の下の“何か”も、すぐには片付かないだろう。
それでも、今ここで剣を振っている子どもたちのすぐ近くで、できることをやっていくしかない。
「レオン兄ちゃん、また黒い犬見つけた?」
ジンが走ってきて訊いてきた。
「今日は、逃げられました」
「今度見つけたら、俺も一緒に——」
「一緒には行きません」
「ですよねー!」
ジンの素直な返事に、思わず笑ってしまった。
そんなふうに、少し笑えるだけの余裕が、今はまだある。
それだけで十分だと思いながら、俺は訓練場の空を見上げた。




