第17話 噛まれた子どもとFランク相談窓口②
◇
二階の小会議室では、すでにアメリアとシルヴァ、それからCランクのバルドが待っていた。
「腕を見せてくれる?」
アメリアが、テオと目線を合わせるようにしゃがむ。
テオは緊張した面持ちで、袖をまくった。
「ふむ……」
アメリアが軽く触れた瞬間、部屋の空気が少しだけひんやりとした。
「シルヴァ」
「はいはい」
シルヴァが、テオの腕の上に手をかざす。
かすかな青い光が、歯形の痕をなぞるように揺れた。
「ほう……」
シルヴァが、珍しく素の声を漏らした。
「どう?」
アメリアが訊ねる。
「“黒い何か”の名残だね。
でも、噛みついているのは、どうやら“テオ君自身の魔力”だ」
「どういう意味です?」
思わず口を挟むと、シルヴァは指を一本立てた。
「外から来た黒い瘴気が、テオ君の体に入り込んで——
完全には噛みつけずに、テオ君の魔力と“にらみ合ってる”状態、とでも言うかね。
だから、治癒魔法がうまく効かない」
「危険度は?」
「今すぐどうこう、ってほどじゃない。
でも、このまま放っておくと、夜ごと夢に出てきて、少しずつ心の方を削られていく可能性はある」
テオの肩が、小さく震えた。
「大丈夫」
アメリアが、穏やかな声で言った。
「見つけるのが早かった。
レオンたちが、“ここで線を引いて上に投げた”のも、正解」
こちらをちらりと見る。
「じゃあ、どうするかというと——」
シルヴァが、懐から小さな水晶を取り出した。
「“噛みついてる黒い部分だけ、こっちに移す”。
テオ君の魔力にはなるべく触らないようにね。
完全に取れるかはやってみないとわからないけど、薄くはできるはずだ」
「痛いですか……?」
「ちょっと冷たくて、ちょっとくすぐったいくらいかな」
水晶をテオの腕にそっと当てる。
小さな魔法陣が浮かび、紫の痕がじわじわと薄くなっていく。
「……っ」
テオは目をぎゅっと閉じたが、叫び声はあげなかった。
やがて、歯形はほとんどわからないくらいになった。
「どう?」
「……冷たいの、少し楽になりました」
「よろしい」
シルヴァが満足げに頷き、水晶を布で包んだ。
「これはこっちで解析させてもらう。
黒い犬の“噛み跡サンプル”としては、かなり貴重だ」
「テオ」
アメリアが、少年の目をまっすぐ見つめた。
「よく話してくれたね。ありがとう。
もしまた夢に黒い犬が出てきたら——今度は、すぐにこのギルドに来なさい。
レオンかミリアを捕まえて、“また噛まれそうです”って言うんだよ」
「はい……!」
テオの目に、少しだけ光が戻った。
◇
テオを一階まで送り届けると、ミリアが小さく息を吐いた。
「……ふぅ。
ああいうの、何回見ても慣れないわね」
「でも、ちゃんと線、守れましたね」
自分に言い聞かせるように言うと、ミリアがくすりと笑った。
「“噛まれた子ども”を前にして、“線だから”って突っぱねられるわけないでしょ。
“線の向こうに任せる”って決めておかないと、“全部自分で何とかしようとして潰れる”って意味よ」
「……わかります」
倉庫のときも、訓練場のときも、今回も。
俺は、毎回ギリギリのところで“線の向こう”に投げている。
(それでも、投げる前のところまでは、自分の足で歩きたい)
そんな気持ちが、胸の奥にしぶとく居座っている。
◇
「で、線のこちら側の仕事もちゃんとやってもらうからね」
ミリアが、にやりと笑って依頼票を掲げた。
——【洗濯物の見張り】——
依頼主:東区の路地の住民一同
内容:最近「洗濯物を盗む何か」が出るので、夕方の物干し場の見張り
条件:Fランク
——————————————
「……洗濯物の見張りですか」
「黒い犬より、よっぽど平和そうでしょ」
カイたちも合流して、全員で依頼票を覗き込んだ。
「でも、“洗濯物を盗む何か”ってちょっと怪しいわね」
ノーラが首をかしげる。
「人か、獣か、それとも——」
「黒い何か関連かもしれない、ってこと?」
ロウが眉をひそめた。
「まあ、どっちにしても、Fランクの依頼としては悪くないと思う。
“見張り”は、戦闘より難しいときもあるしね」
ミリアが依頼票にサインする。
「黒い犬の調査も続けつつ、正式依頼もちゃんとこなす。
“正しいこと”と“ランクを上げること”、両方やるんでしょ?」
「……はい」
アメリアの言葉が、頭の中で再生される。
その証拠を積み重ねていくには、黒い犬の調査も、洗濯物の見張りも、どちらもきっと必要だ。
◇
東区の路地裏は、思ったよりも賑やかだった。
物干し台が頭上を縦横無尽に走り、洗濯物が風に揺れている。
縁側に座って世間話をするおばあさんたち。
子どもたちが走り回る足音。
「“洗濯物泥棒”って、人じゃなくて子どもたちじゃないの?」
カイがぼそっと言うと、近くのおばさんに睨まれた。
「ねずみでも黒い犬でも何でもいいけどさ、
とにかく“物干しから物が勝手になくなる”のよ。
そんなの、昔からなかったんだから」
「昔はなかった、か……」
ミリアがその言葉を拾う。
「黒い何かと関係あるかどうかは別として、“最近急に出てきた”ってのは、チェックポイントね」
「夕方から夜にかけて、洗濯物の下で待機、か」
俺たちは三人ずつに別れ、路地を見張ることにした。
日が傾き、洗濯物が赤く染まっていく。
「黒い犬の匂いは?」
「今のところ、ないです。
でも——」
別の、微かな気配があった。
人とも獣ともつかない、ふらふらした魔力の揺れ。
黒い瘴気よりずっと薄いが、どこか近い。
(これも、“混ざりもの”なんだろうか)
そんなことを考えていたとき——
「きゃっ!」
路地の向こうから、小さな悲鳴が聞こえた。
「ノーラの方だ!」
カイが走り出す。
俺とミリアも後に続いた。
◇
ノーラが、物干し台の下で大盾を構えていた。
その前には、足を取られて尻もちをついている少年と、その上を跳び越えようとしている何か。
――布だ。
いや、布の形をした何か。
「……布?」
白いシーツのようなものが、風もないのにふわふわと浮かび、洗濯物から洗濯物へと渡り歩くように動いている。
「“洗濯物泥棒”って、布そのものだったのかよ!」
カイが叫んだ。
「違う、“布に憑いてる何か”だ!」
ロウの声が飛ぶ。
シーツの端が、ノーラの盾にぺたりと張り付いた。
そこから、じわりと黒い筋が広がっていく。
「うわっ!? またくっつくタイプ!」
ノーラが叫ぶ。
「デジャヴ!」
ミリアが、即座に詠唱した。
「『フレイム・ボルト』!」
炎の矢が、シーツの端を焼く。
焦げた布の中から、わずかに黒い煙のようなものが立ち上った。
(匂い——近い。倉庫のときのやつと似てる)
ただ、噛みついてきた感触は、さっきのテオの腕ほど強くない。
「ノーラ、踏ん張って!」
「はいっ!」
俺はシーツの反対側に回り込み、柄で叩いて剥がしていく。
布の中の“黒い何か”だけを狙うように。
「くそ……、“見えるようで見えない”ってのは厄介だな」
カイが短剣を抜き、動きを読みながら切り込む。
「ロウ、ノーラの腕、様子見て!」
「わかってる!」
ロウの治癒魔法が盾の裏側の腕を包む。
何度かの攻防の末、シーツの中身だった“黒い何か”は、煙のように散っていった。
残されたのは、焦げた布と、薄く黒ずんだ洗濯紐。
「はぁ……」
ノーラが大きく息を吐く。
「腕、どう?」
「ちょっと、しびれてる感じはしますけど……倉庫のときほどじゃないです」
「匂いも薄かったしね」
ミリアが布の焦げ跡を見ながら言った。
「でも、“洗濯物泥棒”まで黒い何かの仲間になってるとしたら、笑えないわ」
「これも一応、観察依頼の一部になりますね」
俺は、焦げた布と洗濯紐に記録板を押し当てた。
「“洗濯物に紛れた黒い何か”って報告は、たぶん調査班も欲しがると思います」
「……これでやっと、“洗濯物盗まれるのが怖い”って住民の気持ちも、ちょっと軽くなるかな」
ノーラが、心底ほっとしたように笑った。
洗濯物の持ち主たちが口々に礼を言いに来る。
その中に、さっきの少年——尻もちをついていた子もいた。
「助けてくれて、ありがとうございました!」
その子の腕には、小さな歯形のような痕があった——が、テオほど濃くはない。
痛みもないらしい。
「……後でロウに念のため見てもらおう」
そう心に決めながら、俺は少年の頭を軽く撫でた。
◇
ギルドに戻ると、リサがいつものように迎えてくれた。
「洗濯物の見張り、いかがでしたか?」
「黒いシーツと、ちょっとした黒い筋と、それから焦げた布ですね」
ミリアが笑いながら報告する。
「正式依頼としては達成。
観察依頼としても、記録一件追加」
「ありがとうございます。
これで、“黒い何かが布や日用品にも紛れ込む可能性”が高くなりましたね」
リサは記録板をそっと受け取り、奥へと運んでいく。
板に刻まれる数字が、また一つ増えた。
——正式依頼達成数:12件/50件。
——観察依頼報告数:5件。
「レオン」
背後から声がして振り向くと、アメリアが壁にもたれていた。
「テオの件と、洗濯物の件。
どっちも“線のこちら側”と“向こう側”の使い分け、よくできてたよ」
「ありがとうございます」
「特に、テオのとき。
“自分で何とかしようとしなかった”のは、大きな一歩だ」
アメリアは、俺の肩を軽く叩いた。
「君には、“危ないところを嗅ぎつける目”がある。
それを、“誰に渡すか選べる頭”に育てるのが、今のFランクの仕事だ」
「……はい」
「それにね」
アメリアが、少しだけ視線をギルドの奥へ向ける。
「黒い何かとの戦いは、きっと長くなる。
Fのうちから全力で張り合ってたら、息切れするよ」
その声音には、どこか自分に言い聞かせているような響きがあった。
「——というわけで」
「明日はちゃんと、完全な“雑用の日”を作りなさい。
黒い何かの匂いがしない依頼だけ、選んでやること」
「そんな日、ありますかね……」
「探せ。
それもまた、Fランクの仕事」
そう言い残して、アメリアは槍を肩に担ぎながら廊下の奥へ消えていった。
◇
家に帰れなかった子ども。
黒い犬に噛まれた子ども。
洗濯物に紛れ込んだ黒い何か。
全部が、一つの線で繋がるには、まだ時間がかかるだろう。
だけど——その線の“最初の端っこ”くらいは、Fランクでも掴める気がする。
Fランク冒険者としての、地味で忙しい日々は、まだ始まったばかりだった。




