第13話 Fランク教室と黒い犬の影②
◇
午後の講習は、素振りや基礎動作のほか、簡単な連携の練習もあった。
「前に出て、横を守って、後ろを支える。
それぞれが自分の役目を意識すること」
バルドの号令で、子どもたちはぎこちなくも、一生懸命に動いていた。
ジンは前に出たがり、マリナは周りをよく見て動き、
別の少年はすぐに足がもつれて転び、笑いが起きて——
(……リオも、もしここに来ていたら)
どんな動きをしていただろうか。
前に出たがるのか、それとも後ろから様子を見るのか。
考えて、胸の奥が少し痛くなる。
◇
講習が終わるころ、空はすっかり夕方の色になっていた。
「今日教えたこと、忘れないようにな。
街の中でもできないことが、外で急にできるようにはならない」
バルドの締めの言葉で、子どもたちはぞろぞろと訓練場を後にする。
一部はそのままギルドへ、別の子たちは家に帰っていった。
「レオン兄ちゃん、また教えてね!」
「黒い犬見つけたら教えて!」
「勝手に一人で行かないように」
そう釘を刺しながら、手を振って見送る。
やがて訓練場には、俺とミリア、そしてバルドだけが残った。
「……本当に残るのか」
バルドが、少し呆れたような顔で言う。
「アメリアさんから、“観察依頼”の話は聞いてますか?」
「ああ。
Fランクの中でも、何人かに声をかけてるって話だな。
レオン、お前もその一人か」
「はい」
「嫌な匂いがするところだけ、教えてやる。
ただし——」
バルドの目が、真剣になる。
「くどいようだが無理だと思ったら、すぐ引け」
「わかってます」
何度も同じことを言われている気がするが、それだけ重要だということだろう。
◇
訓練場の端。
昼間から薄く感じていた気配の方へ、ゆっくりと歩いて行く。
草むらの向こうには、外壁に沿って細い溝が走っていた。
雨水を流すための排水路だ。
その一部、石が少しだけ欠けている場所から——
(ここだ)
黒い気配が、じわりと滲んでいた。
溝の中を覗き込むと、薄暗い水が流れている。
その表面に、何かが一瞬、影を落とした。
「今——」
「見えた」
ミリアも、わずかに目を細める。
水面から、黒い塊がぴょん、と飛び出した。
「……犬?」
思わずそう呟く。
それは、犬のような形をしていた。
小型犬より少し大きいくらいのサイズ。
全身が影そのもののように黒く、目だけが白く光っている。
輪郭は、どこかぼやけていた。
でも、耳と尻尾の形は、犬そのものだ。
「わん、とも言わないね」
ミリアが、冗談とも本気ともつかない声で言う。
黒い犬は、こちらをじっと見つめた。
そして——
尻尾を、ほんの少しだけ振った。
「……」
呼吸が詰まる。
(ぽん太……)
雑貨屋で見た、木の犬のおもちゃ。
リオが握っていた、あの形に、どこか似ているような気がした。
「“ぽん太”って呼んでみる?」
ミリアが、小声で囁く。
「やめてくださいよ」
「冗談。でも——」
黒い犬は、くるりと背を向けた。
訓練場の外壁沿いを、ぱたぱたと駆けていく。
「追いかけてほしそうに見えるわね」
「……見えますね」
胸の奥がざわつく。
あれを追えば、何かに繋がる気がする。
リオの行方かもしれない。
黒い何かの巣かもしれない。
(線——)
頭の中で、アメリアとバルドとミリアの声が、いっぺんに響いた。
“無理するな”
“匂いが違ったら引け”
“一人で突っ込むな”
黒い犬の匂いは——
下水や倉庫の黒いものに近い。
でも、少しだけ、薄い。
何か、混ざりもののような感触。
「レオン」
ミリアの声。
「これは……“追ってもいい方”?」
問われて、息を呑んだ。
追えば、危険はある。
でも、何もせずにここで見送ったら、その先で誰かの足を引っ張るかもしれない。
「——バルドさん」
俺は振り返った。
「追いかけます。
ただし、訓練場の外へ出る手前まで。
それ以上は追わない、って線で」
バルドは、しばし俺を見つめ、それから短くうなずいた。
「ミリアと二人で行け。
それ以上の助っ人が必要だと思った時点で、すぐ戻ってこい」
「はい!」
ミリアと顔を見合わせ、短く頷く。
「行こう、レオン」
「はい」
◇
黒い犬の影は、外壁沿いの溝をぴょんぴょんと跳ねながら進んでいた。
時折、ちらりと振り返っては、距離を確認するようにまた走り出す。
「やっぱり、誘ってるようにしか見えないわね」
「ですね」
溝は、やがて外門へと続く道から少し外れ、倉庫群の裏手へと曲がっていく。
その先には、小さな門が一つあった。
普段は使われていない、物資搬入用の裏門だ。
黒い犬は、門の前でぴたりと止まった。
門の下、わずかな隙間に鼻先を突っ込もうとして——すり抜けた。
「……」
影だからなのか、物理的な障害を無視したのか。
どちらにせよ、真似はできない。
「ここまで、かな」
ミリアが足を止める。
門の向こうは、外壁と街の外との狭い隙間だ。
衛兵の許可なく勝手に出入りしていい場所ではない。
「線……ですね」
「あんたが決めた線よ」
黒い犬は、門の向こうで振り返ってこちらを見ていた。
目だけが、ぼんやりと白く光る。
「……ごめん」
思わず、小さく呟いた。
「今は、ここまでしか追えない」
もしこれが、本当にリオの足跡に繋がる線だったとしても。
だからといって、今ここで勝手に門を越えるわけにはいかない。
「観察は、した。
“黒い犬は、外壁沿いの溝を通って、裏門の向こうへ抜けていく”——それだけでも、十分な情報よ」
ミリアが、アメリアからもらった記録板を取り出す。
「溝の縁と、さっき犬が出てきたあたり、押し当てて。
匂いと魔力の残滓、少しは拾えるはず」
「はい」
板を溝の縁にそっと押し当てる。
じわり、と冷たい感触が指先に伝わった。
「……うん。写ってる写ってる」
板の表面に、薄く黒い模様が浮かび上がる。
「これ、アメリアさん絶対喜ぶやつだわ。
“よくぞここまで”って」
「褒め方が怖いですね、あの人の」
「まあ、ギルド最強だからね」
ミリアはそう言って笑った。
門の向こうで、黒い犬の影が、ふと動いた。
尻尾を一度だけ振り、外壁と外の影へ溶けるように消えていく。
「……今の、見えました?」
「ああ」
バルドの声が、いつの間にか背後から聞こえた。
「犬、だったな。
黒い影しか見えなかったが」
「見えたんですね」
「“全く見えない”ってわけじゃない。
気配に鈍い連中には、ただの影としか見えんかもしれんが」
少しだけ、救われた気がした。
「衛兵詰所にも、この門のことは伝えておく。
外の溝に変な痕跡がないか、見回りを増やしてもらう」
「お願いします」
「……あとでアメリアに“報告書の書き方”も教えてもらえ」
バルドは、憐れむような目をした。
「観察依頼は、報告が半分だからな」
「がんばります」
◇
ギルドに戻り、訓練場での講習と黒い犬の件をまとめて報告すると、リサの顔つきがまた一段階真剣になった。
「黒い犬……。
子どもたちの噂だと思っていたんですけど……」
「全くの作り話、というわけではなさそうですね」
俺は記録板を差し出した。
「溝の縁から取った痕跡です。
倉庫の黒い染みと同じ種類かどうか、調べてみてください」
「はい。アメリアさんと調査班に回します」
リサは慎重にそれを受け取る。
「リオ君の件とも、何か関係があるといいんですけど……」
ぽつり、と漏らした言葉に、自分で「あるといい」という言い方に違和感を覚えた。
「……“情報が繋がるといい”って意味です。
もちろん、リオ君本人は無事でいてほしいですけど」
「わかってますよ」
リサが柔らかく笑う。
「レオンさんたちが動いてくれているおかげで、“黒い何か”に関する情報は確実に増えてきています。
全部がすぐに解決に繋がるわけではありませんけど、一歩ずつ、ですね」
「はい」
受付板の端に刻まれた数字が目に入る。
——正式依頼達成数:10件/50件。
——観察依頼報告数:3件。
観察依頼の方には、まだ数字がつくだけだ。
ランクポイントにはならない。
(でも——)
それでも、何もしないよりはずっとマシだ。
Fランクだからこそ見える場所。
子どもの目線と同じ高さで歩ける今のうちしか、気づけないこともある。
いつかEになって、Dになって、それ以上になったとき——
今日見た黒い犬の影を、きっと思い出すだろう。
「レオン」
ギルドを出るとき、ミリアが隣で言った。
「“黒い犬”がぽん太の成れの果てだって、もし誰かに言われたらどうする?」
「それは——」
少し考えてから、首を振る。
「まず疑います。
リオ君がぽん太をあんなに大事にしてたのに、
あれがそのまま“黒い何か”になったって決めつけるのは、本人にもぽん太にも失礼ですから」
「……うん」
ミリアが、少しだけ嬉しそうに笑った。
「そのスタンス、忘れないでね。
“怖いから全部まとめて敵”って決めつけると、大事なものまで斬っちゃうから」
「気をつけます」
黒い犬は、敵かもしれない。
道案内かもしれない。
ただの、黒いものたちの一形態かもしれない。
まだ、わからない。
だからこそ、Fランク冒険者として、今はただ——
見て、感じて、記録して、必要なら剣を振るう。
雑用をするヒマもないくらい、街にはやることが多い。
でも、その全部が、いつかどこかで線を結ぶと信じて。




