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太史慈転生伝~最上義光を放っておけないので家臣になって手助けしちゃいました~  作者: 黒武者 因幡


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俺は鮭延秀綱?!

舞台は戦国の出羽山形です。最上義光に仕えた鮭延典膳秀綱に三国志の武将 太史慈が転生していたらと考えて書いています。転生の記憶が途中で芽生えるタイプにしてるので、まだこの時は太史慈出ません。で、途中でもう一人、三国志の英雄を出そうと思っています。それは誰か。楽しみにしていてください。

 天正9年(1581年)6月 

 鮭延秀綱さけのべひでつなは、絶望の淵にいた。


 秀綱は、出羽国北部にある鮭延城の若き城主であった。

 かつて、秀綱の父・貞綱は横手を本拠地にする小野寺家に仕えていたが、庄内を本拠地にする大宝寺家との戦いに敗れた。

 その折に、秀綱は小姓として大宝寺家に仕えた。いわゆる、人質だった。

 だが、秀綱が仕えた大宝寺義氏(だいほうじよしうじ)は、控えめにいって暗君、はっきり言って暴君だった。

 義氏は戦第一主義で、領民から戦費の調達のため、重税を課した。

 反発する領民を斬り捨てたことも数限りなかった。酒田の商人たちも半ば諦め、義氏に賄賂を渡して身の安全を図った。その賄賂分を価格に乗せるので、領内の物価も割高になっていく。

 そのため、領民の逃散が進み、税収は下がる。その打開のため、義氏は領土拡大を図って、戦を繰り返していた。


――はっきり言って、バカだ――


 幼い秀綱にも義氏の愚かさがわかった。だから、小姓としても真面目に仕えなかった。

一方、義氏から見て、秀綱は愚鈍な小僧(ガキ)に映ったのだろう。小姓の任を解かれ、小野寺家に返された。小野寺家当主の小野寺義道(おのでらよしみち)は、大宝寺義氏の婿でもあったので、返しても問題ないと思われたのだろう。

 返された小野寺家でも、義氏からの酷評は届いていた。そのため、秀綱は義道からも冷遇された。家中でも盆暗武将と嘲られた。秀綱の家臣の鳥海守衛(とりうみもりえ)からは

「14歳とは思えぬ並外れた槍の才と非凡な学問の才をお持ちなのに 殿は三国に名だたる(いにしえ)の猛将・名将に劣らぬ武将となられるでありましょうに」

と悔しがられた。

「よいのだ 守衛。盆暗と侮られているからこそ、大事な戦で起用されることもない。無事に恙なく暮らしていければなによりであろう」

 秀綱がそう言うと、

「鮭延家は、近江源氏佐々木家の流れをくむ名門ですぞ。家名を上げねば、ご先祖に顔向けできませぬ。折角その才をお持ちでございますのに」

と守衛は嘆くのだった。


最上義光(もがみよしあき)が、上山城を奪取いたしましたぞ」

 忍びからの報告では、国境を接する山形城の最上義光が、重臣の里見民部さとみみんぶを謀略で内応させて、上山城主・上山満兼を謀殺し、上山城を奪取したようだ。

――謀略の名手か。大宝寺や小野寺の殿よりも優れているのであろうな。だが、好きにはなれないな――

 秀綱の最上義光への第一印象は、悪いものであった。


 その警戒と嫌悪の対象であった最上義光が、この日、3千の軍を率いて、秀綱の居城・鮭延城を包囲したのである。

 眼前に翻る多数の最上家の旗印 二つ引き紋を秀綱は見つめるしかできなかった。 



 

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