上野国 新田荘
これが初めての投稿作品です。
細かい時代考証や用語のミスが出てくると思いますが、温かく見守ってください。
応援よろしくお願いいたします。
見渡すかぎり、稲穂がこうべを垂れていた。
大豊作である。
それを眺める馬上の武士達から、感嘆の声が上がる。
「実に見事ですな」
「かような豊作ぶり、見たことがありませぬぞ」
「拙者もだ・・・」
彼らの視線は一人の若者に向けられた。
年の頃は十代中盤。
例えるとすると、春を迎えて新芽を芽吹かせ始めた若木、そういったところだろうか。
その若者、甘粕重兼は、満面のドヤ顔を浮かべていた。
「な、俺の言った通りだろ?」
「まことに、おっしゃる通りです」
武士達が頭を下げる。
「最初は、若のなさる事に、いささか疑念を持っておりました。しかし、この光景を見ては、ただ、己の不明を恥じるしかありませぬ」
「まことに・・・」
畏れ入った様子の家来達に、重兼は優しい笑顔を向けた。
「気にする事はない。お主達は、疑念は持っても口には出さなかっただろ?」
「・・・」
家来達は、一言もない。
それを見て、重兼は話題を変える事にした。
「其れよりもだ。この事を兄者に、惣領の政義様に報告しよう。きっと喜ぶだろう」
「はっ!」
一行は馬を走らせた。
この地の上野国新田荘の支配者である、
新田家の館のある総持寺へ向かって。
馬上で感じる秋の空気は涼しくて、本当に気持ちがいい。
(こんな事、本当にあるんだ・・・)
涼しさを感じながらも、重兼は思っていた。
厳密に言うと、彼はこの時代、承元2年(1208年)の人間ではない。
21世紀、令和の日本人だったのだ。
なぜ、「だった」のか。
あっさり死んでしまったのだ。
元々、令和を生きていた頃の彼は、本当に平凡な人生を送っていた。
平均レベルの高校、大学を出て、一般的な中小企業に就職した。
休日は遊び回るわけでもなく、学生時代から
歴史が好きだったせいか、大河ドラマを見たり、歴史小説を読んだり、歴史シミュレーションゲームをしたりしていた。
しかし、令和において、そんな生活は長続きしなかった。
不況のせいで会社が倒産して、失業。
やむを得ず、アルバイトをしながら仕事を探すがうまくいかない。
そんなある夏の日、猛暑日の炎天下をバイト先から帰宅する途中、彼は倒れた。
水分補給はこまめにしたつもりだったが、身体の熱が下がらなかったので、おそらく熱中症だったのだろう。
意識が真っ暗になり、そこで令和の頃の記憶が途切れる。
意識が戻ると、とんでもない事になっていた。
自分が少年になっていた上に、見たことのない和風家屋にいるのだ。
夢でも見ているのかと思ったけど、違うようだ。
一体何が起きたのか?
それを確かめようとしているうちに、時間がかかったけど、大体の事はわかった。
まず、今の自分がいるのは鎌倉時代前半の上野国である事。
自分がその国の武士、御家人である新田家の3男である事。
新田家はあまり恵まれた境遇ではない事。
自分が、そんな環境に放り込まれた、転生してしまったらしい事等。
それらの事を知った時、心底から愕然とした。
当たり前だが、鎌倉時代の日本には、電気もテレビもスマホもゲーム機もパソコンも無いのだ!
21世紀の人間が、そんな環境で暮らすなんて無理だ。
とは言っても、元の時代に戻る方法がまったくない。
それに、元の時代にいた頃の記憶の最後の場面が正しいなら、自分は死んでしまった可能性が高いのだ。
だから、理由はわからないけど、この時代に転生する事になった。
もう、自分はこの時代で生きていくしか道がない。
そう考えるようになるまでは、時間がかかった。
しかし、腹を決めるのは早かった。
自分は上野国の御家人、新田三郎重兼としてこの時代を、を生きていく。
この、波乱に満ちた鎌倉時代で令和の頃とは違う人生、未来を築いてみせると。
そして、まず最初に、領主の家に生まれた利点を活かすために、農作業と衛生面の改善から始める事にした。
この時代、最も警戒しなければならないのは、飢え、疫病である。
飢えについては食料、特に米の増産。
疫病には、手洗い、うがい、入浴の推奨。
そして、石鹸の製造。
これらが実現化すれば、領内の死亡率の低下と人口の増加に役立つはずだ。
早速、実現に向けて動いたのだが、意外に難航した。
本来なら、特に難しい訳ではない。
手洗い、うがい、入浴は領内の民に根気よく呼びかければ良いし、石鹸は、水と油と灰があれば作れる。
米の増産は、苗の適切な植え方と、堆肥の正しい使用法を教えてやれば良い。
それだけなのだが、領主である新田家の当主、重兼の一番上の兄、政義がなかなか許可を出さなかったのだ。
もちろん、重兼は自分の提案がどのような利益をもたらすかを懸命に説いた。
しかし、兄の反応は良くはなかった。
政義は、弟の言うことに反対と言うより、乗り気ではないようなのだ。
それでも、「そこまで言うなら所領を与えるから、そこで試してみると良い」と言って、
天河瀬郷という土地を与えてくれた。
この時代、武士は自分の所領の名前を名字に
する事が通例である。
本来なら、天河瀬重兼を名乗るのだが、少し発音しにくいので、似たような呼び方の甘粕を名乗る事にした。
こうして生まれた甘粕重兼は、自分の所領で農作業と衛生の改善に取り組んだ。
まず、堆肥は種まきや苗を植える前に撒いて、土と良く混ぜる。
苗は、てきとうにではなく、少し間隔を空けて植えて、日光が充分に当たるようにする等21世紀では当然行われているやり方を、農民達に教えた。
その結果は、家来達が目を丸くするような豊作となった。
これによって、領内の食料事情は改善され、
農民の生活水準の向上と年貢の増加も可能になるはずだ。
その一方で、衛生面ではまだ成果は出ていない。
石鹸の製造には成功し、それを使った手洗いや入浴時の清拭、うがいを奨励しているが、
具体的な効果は出ていない。
今のところは疫病が流行ってはいないのでしょうがないのだが、予防効果は絶対にあるので続けさせるつもりだ。
それに、石鹸を大量生産して売り出せば、貴重な収入源になるだろう。
新田家の繁栄に必ず役立つはずだ。
そんな思いを胸に、重兼は馬を走らせた。
新田荘の世良田郷にある総持寺の一角を、新田家は居館として使用していた。
その主屋で今、二人の男が向かい合っていた。
まず、新田家当主の新田政義。
その弟の重兼である。
「それは真か?」
弟の所領が豊作となった。
その報せを聞いた政義は、一瞬驚きの表情を浮かべた。
「最初にお前の言うことを聞いた時は、いささか眉唾物と思っておったが、このような結果を出すとは…」
じっと、考え込む。
そして、真剣なまなざしを弟に向ける。
「お前のやったことを日の本中に広めれば…。
全国が豊作になるやも知れん、そうすれば、
だ。」
「この事で、幕府から恩賞がもらえるかも知れんぞ」
兄は笑顔になった。
「だと、良いのですが…」
そう言いつつも、あまり期待はしてはいなかった。
重兼の前世、令和の時代に得た知識が、
それは無い。
そう告げていた。
新田家は、清和源氏の一派である河内源氏の源義国を祖とする一族である。
その父親は、後に、武士の理想像とされた源義家あり、その血を受け継いでいるということは、当時の武家社会においてはかなりの名門と言えるのだ。
しかし、鎌倉時代を通じて新田家は不遇だった。
ケチのつけ始めは、初代当主、新田義重の代からだった。
義重は、父の義国から上野国新田荘を与えられて、そこを拠点として近隣の武士(特に甲斐源氏、信濃源氏)と友好関係を築き、独立勢力となった。
しかし、彼は判断ミスを犯す。
源平の戦い、治承・寿永の乱の時に、挙兵した源頼朝に、自分の陣営に加わるように求められたのだが、応じずに日和見を決め込んだのである。
しばらく経って頼朝のもとへ行ったのだが、
すっかり不興を買ってしまっていた。
それだけではなく、頼朝が自分の娘に思いを寄せ、「艶書」(えんしょ。恋文)を送ってきた時には、頼朝の妻である北条政子を憚って、娘を別の武士に嫁がせて更なる不興を買ってしまったのだ。
それらの事情で冷遇されていた新田家の凋落に拍車をかけたのが、四代目当主の政義。
つまり、重兼の兄である。
彼は仁治二年(1241年)に、預かった囚人に逃げられたとして罰金を取られるは、寛元二年(1244年)に京都大番役で在京していた時に、幕府の許しを得ずに出家する自由出家をやらかして、新田家の惣領職と所領を没収されるという事件を起こすのだ。
そんな理由で新田家は、鎌倉時代はずっと不遇のままであり、それが終わったのは幕府滅亡の時だった。
それが、重兼が前世で記憶した新田家の歴史だった。
(だが、これからは違う)
重兼は思った。
21世紀の知識で、この時代の農業は変える事はわかった。
だとしたら、新田家の歴史、運命も変えられるかも知れない。
天下をとるというのはさすがに無理かもしれないが、所領を増やして有力な豪族になる。
それは充分できるはずだ。
ある程度の未来を知っている。
それは、この時代を生きるうえで強力なアドバンテージになる。
(やってみせる)
重兼は、そう誓うのだった。
主人公が転生した甘粕重兼は実在します。
ただ、所領の天河瀬郷なのですが、いくら調べても新田荘には見つかりませんでした。
系図に書かれているので、与えられたのは間違いないとは思いますが、細かい描写に事実と食い違うかもしれませんが、お許しください。