哲学と純文学を愛する小さな個の記録
その日、私は出勤途中のバス停で、少し奇妙な光景を目撃した。
朝7時前、空気はまだひんやりしている。薄いコートを羽織った通勤客たちが、無言で列を作っている。
いつも通りの光景だ。私もその列の後方に加わり、
スマートフォンを取り出してニュースをざっと読み流した。
次のバスが来るまで、あと3分ほど。いつもなら何事もないままバスが現れ、
人々は淡々と乗り込む。だが、この日は違った。
列の前方で、黒髪をきれいにまとめた女性が振り返った。
そして私を含む後方の人々を見回すと、微笑んだ。
その微笑みは、朝のバス停には不似合いなほど、ほんのりと温かみがあった。
驚いたことに、女性は小さな声で話し始めた。
「昨日、私、ここで大切なものを落としたんです」
誰も答えない。無表情な通勤客たちは軽くまばたきするだけ。
彼女は意を決したように、ポケットから小さな紙片を取り出した。
「これ、見覚えありませんか?私の落とし物を見つけた方に、お礼がしたくて…」
その紙片には、手書きのメモらしきものが書かれているようだったが、私には文字までは判別できない。
彼女の声は小さく、後方までははっきり届かない。列の一番前にいたスーツ姿の男が首を振った。
それから順に、何人かが「いや、知らない」「見ていない」と、最低限の言葉を返すだけ。
あと1分でバスが来る。いつもなら何も考えず、バスが到着すれば流れに乗って乗り込む。
だが、なぜかその時、私はすっと一歩、列から出て、女性に近づいた。
「すみません、落とし物というのは、どんな…?」
彼女は驚いたような表情で、私の顔を見た。そして紙片を差し出す。
「これに書いてある連絡先の相手に、どうしても渡さなければならない物があったんです。
それが入った小さな青い封筒を昨日ここで落としてしまって…。中には大事な写真が…」
私は首を振る。見覚えはなかった。でも、なぜか嘘でも言ってあげたくなるような気持ちがした。
「昨日、同じ時間にここを通ったんですけど、そのときは特に…」
言い終わらないうちに、バスがやって来た。排気音が静かな朝の住宅街を震わせ、
人々は一斉に前方へと歩み始める。彼女は肩を落とし、紙片を胸に押し当てた。
私も乗るべきか迷ったが、結局いつも通りバスへ向かった。
でも、乗り込む瞬間、ふと気になって振り返ると、彼女は誰にも相手にされないまま、
ただ立ち尽くしていた。まばゆい朝日に照らされたその姿は、
まるで通勤路に迷い込んだ、目的地を失くした旅人のようだった。
バスが発進し、彼女の姿は窓ガラスの向こうに揺れる風景の一部に溶けていく。
思えば、私が昨日このバス停を通ったとき、確かに足元に青い何かが転がっていた気がする。
ゴミかと思って気にも留めなかった。それがあの封筒だったのかもしれない。
次の日、私は少し早めに家を出て、そのバス停を探した。
だが、彼女はもういなかった。青い封筒らしきものも見当たらない。
結局、あれは何だったのだろう。ただの偶然か、通勤路が見せた一瞬の幻か。
空にはうっすらと朝日が差し込み、いつもの平凡な一日が始まろうとしている。
私は列に並びながら、手ぶらのポケットを何となく探る。
そこには何もない。けれど、なぜか胸のどこかがチクリと疼いた。
その小さな違和感は、やがてバスが揺れるにつれ薄れていったが、
その日、いつもより少しだけ早くオフィスに着いた私は、
机に向かう前に窓の外を見つめて、小さく息を吐いた。
心に残るのは、誰にも拾われず、どこかへ消えた青い封筒の行方。
そして、あの朝、一瞬だけ咲いた温かな微笑み――
今もそれらは、何事もなかったかのような通勤風景の裏側で、私を静かに問いかけている。




