取り残される
* * * * *
「なあ、ヴィクターの家に最近行ったか?」
「いや、行ってないけど……何で?」
「あいつの家、まだトイレットペーパーがないんだよ!」
「それは仕方ないよ。だってあの元ビードン子爵令嬢と婚約破棄したんだから。しかも浮気だって話だし、ティペット伯爵家と今の婚約者の……えっと、ベインズ子爵家だっけ? に、レイノバッシュ商会がトイレットペーパーを売りたがらないのは当たり前だしね」
「そのまま結婚してたら良かったのに、馬鹿だよなあ」
友人の家の夜会に招かれ、トイレに入ろうとしたら別の知り合い達が話していた。
彼らの笑い声を聞きたくなくて、ヴィクターはその場を離れた。
夜会の会場でも人々は『トイレットペーパー』の話題で持ちきりで、ヴィクターに向けられる好奇と嘲笑の視線、そして噂雀達にあれこれ訊かれ、それらが嫌で出てきたというのに。
新しい婚約者のレイラもさすがに気まずくなったのか「少し休みたいの……」と早々に休憩室に下がってしまった。
……今戻っても同じだろう。
仕方なく、会場の出入り口近くから繋がる中庭で休むことにした。
誰もいない、薄暗い中にあるベンチにヴィクターは腰掛けた。
……ルイザ……。
鮮やかな金髪に青い瞳の、美しい令嬢だった。
少々気が強いところはあるものの、スキル以外で欠点はない。
ただ、そのスキルが問題だった。
本にするどころか何かを書き留めておくことも出来ないような、目の粗い、粗雑な紙を出す能力しかなかった。そんなものには何の価値もない。
ヴィクターの持つスキル『審美眼』は物や人を数値で見ることの出来る能力だった。
容姿、性格、スキルなど、その人物の持つものの総合数値が分かる。
ルイザはその数値が低かった。理由がスキルであることは明白であった。
だから将来性を考えてルイザと婚約破棄をして、レイラと婚約し直した。
レイラのスキルについてはまだ教えてもらっていないが、数値の高さを見るに、きっとかなり有用なスキルなのだろう。雑紙しか出せないルイザよりずっといい。
……そのはず、だったのに……。
婚約破棄の後、ルイザはすぐに別の相手を見つけ、短い婚約期間で準備を整えて結婚した。
貴族どころか平民相手の結婚だと知り、使えないスキル持ちではそれも仕方がないと思った。
少し、裏切られたような気分になったのは、婚約破棄をしてから一月ほどで結婚したからだろう。
……僕と二年も婚約していたのに、あっさり他の男と結婚した。
婚約は破棄されたのだから、ルイザが他の男と結婚しても何の問題もないのは分かっているが、面白くないという気持ちが強かった。
スキル以外は申し分のない令嬢だったから、少し惜しいと思ってしまったのかもしれない。
ルイザは何故かヴィクターとレイラを結婚式に招いた。
両親達が勝手に欠席の手紙を送っていたが、当日、式場の教会に向かうと何事もなく通された。
そうして、美しい花嫁姿のルイザを見て、愕然とした。
婚約破棄前の低かった数値が、今までに見たこともないほど異様に跳ね上がっていたのだ。
しかも、ルイザの横に立つ夫だろう男の数値も一般人よりかなり高い。
美男美女の美しい夫婦が幸せそうに式を挙げている。
ぼんやりしているうちに式は終わり、披露宴の会場となるビードン子爵家に行った。
追い返されることもなく──ただし挨拶もなかったが──通され、席に着いてしばらくすると、美しく装いを改めたルイザとその夫が庭園に来て、挨拶回りをしていく。
ヴィクターの婚約者であった時よりも、ルイザは輝いているように見えた。
その後、挨拶に来たルイザとその夫と言い争いになってしまい、居心地が悪くなり、帰った。
両親から叱責を受けた。招待されたから行っただけなのに。
けれども、愕然としたのは結婚式だけではなかった。
返礼品として渡された『トイレットペーパー』は不思議なものだった。
布のように柔らかく、薄く、肌触りの良いそれは、なんと紙で出来ているという。
用足しに使う紙だと説明書には書かれており、使い方の通りに使用して更に驚かされた。
これまで使ってきた雑紙とは異なり肌触りが非常に良く、汚れも拭き取れる上に、水に流しても詰まりにくい。
変わったものを返礼品にしたものだと、その時は感じただけだった。
しかし、その『トイレットペーパー』は急速に貴族達の間で広まり、いつの間にか王家すら『トイレットペーパー』を愛用しているという話まで流れ、人々の話題に常に上がるようになった。
そのせいでルイザとの婚約破棄も、何度も話題になっている。
当初、ルイザは『婚約破棄された令嬢』『婚約者の心を掴めず、他の者に奪われた令嬢』と言われていたのに、気付けば『トイレットペーパーの発案者』『レイノバッシュ商会の幸運の女神』などと言わており、ヴィクターは『自ら幸運を捨てた愚か者』と陰で嘲笑されていた。
「……僕だって、もし知っていれば……っ」
ルイザのスキルの正しい使い道を知っていたら、婚約破棄などしなかった。
スキルについてきちんと話さなかったルイザが悪い。
今やルイザは社交界でも有名人だ。
だが、結婚して貴族ではないので貴族の社交界には出てこられない。
人々はルイザが社交界に出てくることを望んでいる。
噂によると、ルイザの夫である商会長は近々、陛下より爵位を賜るらしい。
恐らく一代限りの男爵位だろうという話ではあったが、爵位を得て、貴族となれば、ルイザは社交界に帰ってくる。それも、今度は人々が注目する有名人として返り咲くこととなる。
そうなれば、ヴィクター達のほうが立場が弱くなるだろう。
爵位で言えばヴィクター達のほうが上ではあるものの、あの『トイレットペーパー』を生み出し、短期間で夫を爵位持ちに押し上げたルイザに人々は近づこうとするだろう。
ルイザの味方は増えるが、ヴィクター達の味方はいない。
……婚約破棄なんてしなければ良かった……。
そうすれば、今、ルイザの横にいるのは自分だったはずなのに。
あの『トイレットペーパー』で財を成し、有名人となり、社交界で華やかに過ごせただろう。
だが、ヴィクターは婚約を一方的に破棄してしまった。
しかもルイザのスキルをレイラに漏らしたことも、ビードン子爵家から訴えられている。
ティペット伯爵家は王妃様の生家と縁があるため、手紙で『不当な扱いや裁判を何とかしてほしい』と父は助けを求めたそうだが、その返事はいまだ返ってきていないという。
ここまで貴族や商人の間で有名になった『トイレットペーパー』を持っていないというのは致命的だ。貴族は流行に敏感で、そして非常に噂好きである。ティペット伯爵家とベインズ子爵家だけが持っていない理由に気付かない者はいない。
……そこにスキル漏洩の話まで広がったら……。
先ほどの知り合い達の言葉が頭の中で繰り返し響く。
言いようのない不安と焦燥感が、足元から、ゆっくりと這い上がってくる。
「どうすればいい……?」
ルイザは甘いところがある。
今更でも、謝れば許してくれるかもしれない。
……そうするしか道はない。
ルイザは平民に落ちたのだから、貴族が謝罪をすれば許さざるを得ないだろう。
遠くから聞こえる、楽団の軽やかな音楽が今だけは少し不快だった。
* * * * *
……どうして上手くいかないの!?
レイラ・ベインズは苛立ちのまま、ソファーにクッションを叩きつけると、小さく弾んで床に落ちた。
ほんの少し前までは人生で最高の気分だったのに。
二月ほど前、レイラはとある令嬢の婚約者を横取りした。
令嬢の名前はルイザ・ビードン。ビードン子爵家の令嬢で、ベインズ子爵家と不仲の家であった。
ビードン子爵家は爵位はそれほど高くないが、昔から続く家で、数ある子爵家の中でも序列でいえば上に位置する。伯爵家に近い子爵家と言っても過言ではない。
対して、ベインズ子爵家はレイラの祖父母の代で男爵位から上がったばかりだった。
領地は離れているものの、王都の屋敷が近いため、他の貴族からも屋敷や敷地の広さなど色々と比較されてきたこともあって、祖父母や両親はビードン子爵家に張り合っていた。
しかもルイザ・ビードンとレイラは歳が近い。
ルイザ・ビードンのほうが二歳ほど上だが、昔から美しく、由緒正しい家と血筋を持ち、子爵家の令嬢でありながら、ルイザ・ビードンは目立った。顔もかなり広いらしい。
だからこそ、ティペット伯爵家は息子とルイザ・ビードンの婚約を結んだのだろう。
いつも両親から「ビードン子爵家に負けてはいけない」「同じ伯爵位か、より高位の貴族の令息と結婚するべき」と言われてレイラは育った。
けれども、子爵になったばかりの家なので上流貴族との関わりは少ない。
半年前の夜会で壁の花になっていた時、声をかけてくれたのがヴィクターだった。
男爵家や同じ子爵家からの婚約打診は多かったが、両親はそれを良しとせず、なかなか婚約者が出来ずにいたレイラに、ヴィクターは優しく接してくれた。
レイラは最初から、ヴィクターがルイザ・ビードンの婚約者だと知っていた。
しかも、ヴィクターはルイザ・ビードンに不満を持っていて、何度も会って話をしていくうちに、ルイザ・ビードンのスキルは『雑紙を出す』だけの能力だという。
それを聞いた時、レイラはおかしくておかしくて、内心はとても愉快であった。
レイラのスキルはかけられる人数に限りがあるものの『自分に向かう好意を増幅することが出来る』能力だった。つまり、誰かがレイラに好意を抱いていた場合、その誰かの『好きという気持ちを強くする』ことが可能なのだ。
すぐにレイラはヴィクターにスキルを使った。
元々、ルイザ・ビードンに不満があったヴィクターは、簡単にレイラを好きになった。
そこからは何かを企てる必要もなく、ヴィクターに告白され、彼はルイザ・ビードンとの婚約を破棄して、レイラがヴィクターの婚約者の座に収まった。
次期伯爵の婚約者。いずれ、レイラは伯爵夫人となる。
両親はレイラをとても褒めてくれた。
「っ、それなのに、何であの女のほうが有名になっているのよ……っ!?」
婚約破棄されてからの一月は人々から『婚約破棄されて捨てられた令嬢』と陰で噂され、笑われていたはずなのに、今は『素晴らしい品を生み出した令嬢』『トイレットペーパーの発案者』ともてはやされている。
ルイザ・ビードンは婚約破棄の一月後に平民の商人と結婚した。
婚約破棄された挙句、平民落ちするなんてと内心で嘲笑いながら、その結婚式に出席した。
年老いた商会の長の後妻か、強欲で見目の悪い中年男の妻か。既に年齢の釣り合う貴族は大抵が婚約をしているので、貴族の中で年齢や爵位が釣り合う相手はいないだろうと考えていた。
だが、結婚式に行ってみると、そうではなかった。
見目が良く、年齢も釣り合う男性と婚礼衣装に身を包んだ幸せそうなルイザ・ビードン。
爵位はなく平民だが、容姿と財力だけ見れば、ティペット伯爵家よりもある男性だった。
その後、披露宴で居心地が悪くなってすぐに帰ったものの、胸の内にモヤモヤとしたものが生まれ、それは日を追うごとに溜まっていった。
ルイザ・ビードンが発案した『トイレットペーパー』が大流行したのだ。
お手洗いで使う雑紙だが、今までのものと異なり、布のように柔らかくて肌触りがいい。
一度使って、レイラは不覚にも感動してしまった。
両親もこれについては何とも言えない顔をした。
だが、問題はその『トイレットペーパー』で、レイノバッシュ商会からは『一切の取引を行わない』と断られてしまい、他の商会や家に声をかけても『ティペット伯爵家とベインズ子爵家には売れない』『譲れない』と言われた。
ルイザ・ビードンは嫌がらせとして『トイレットペーパー』を両家にのみ、販売しなかった。
そのせいで、友人達には馬鹿にされ、笑われ、しかも『私達まで買えなくなったら困るから』と段々、友人達は離れていった。今、親しくしてくれているのはほとんどが男爵家ばかりである。
「最初は一緒になってルイザ・ビードンのことを笑っていたくせに……!!」
風向きが変わった途端に離れていくなんて。
……とにかく、何とかしなくちゃ。
流行に敏感な貴族は『流行遅れ』に冷たく、このままではいつかティペット伯爵家もベインズ子爵家も社交界から爪弾きにされてしまう。それでは伯爵夫人になったとしても意味がない。
「何とかして『トイレットペーパー』をうちに売らせないと……」
誰も譲ってくれないなら、ルイザ・ビードンの嫁いだレイノバッシュ商会から買うしかない。
そのためには『売らざるを得ない状況』にさせるしかないのだが……。
「……そうだわ、使える手があるじゃない……!」
たとえ形だけでも謝罪をするのは非常に嫌だが、仕方がない。
それでも上手くいけば流行遅れを脱せる上に、ルイザ・ビードンをまた悔しがらせることが出来るかもしれない。
レイラはすぐに机に向かい、座ると、便箋とペンを手に取った。
ヴィクターもきっとこの提案には乗るだろう。
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