第9話 山頂の出会い
早朝。
時計の針は五時を指していた。
俺にしては珍しく早起きで、正直頭が痛いし目が霞む。が、
「……っし」
睡眠圧に殺されそうな体をベッドから引き剥がして、俺はクローゼットを開けた。
久々にみるウィンドブレーカーに腕を通し、五〇〇ミリの水を飲み干してから俺は外に出た。
「あの山まで行ってみるか」
目標、名称不明のあの山。
目算で五キロくらいだろうか。
「往復で十キロくらいかー……」
……どうしよう。
「あー……昨日のゴブリンにやられた箇所が痛えな」
久々に体動かして筋肉痛だし。
システムの恩恵を切った状態だから、多分、いやものすごく疲れるんだろうなあ。
やっぱ明日から走ろうかなあ。
きょうは体をしっかり休めよう。そうしよう。
「………」
噴火のごとく溢れ出る言い訳を抱えながら、俺は走り出した。
言い訳の嵐に垣間見た、俺の目的。
一日どころか一秒たりとも無駄にはできない。なにせ、来年なんてあっという間に来てしまうから。
それまでに、俺は一秒でも早く強くなる必要があった。
「ヒィ、ふぇ、ヒィぃぃ、ふギィ……っ!」
ようやく山の麓に辿り着いた頃にはシャワーを浴びたかのように汗まみれ。そこからの登山は、ゴブリンに鳩尾を殴られた以上にキツかった。
「か、かえりたい……っ!」
ちくしょう、息が苦しい。肺が痛い。足が痛い。なんかケツも痛え。つーか脛も痛え。いま何合目? これいつまで続くんだよ。こんなんやってなにか変わるのか? 効率悪すぎ。もっといい鍛え方とかねえの——
「おおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
叫んだ。
叫んで、死んでもいいから俺は足を前に出した。
急勾配とか知らねえよ。走れ。
昔は走れてたろ。随分とひ弱になったな。体だけじゃなく、中身まで腐ってやがる。
「ほ、んど……っ、どうじようもねえなぁぁぁッ」
本当に、どうしようもなく俺はクズだ。
けれど、それももう終わり。
俺はもう二度と手放さない。
*
「——勝った」
どれくらいの間、仰向けになって空を眺めていただろうか。
ようやく息が整ってきて、朦朧としていた意識も回復してきた。
山の感触が気持ちいい。汗まみれなのは気持ち悪いが、なんだか清々しい気分だった。
しばらくは起き上がれそうにないけれど、まあこういう日も悪くないだろ。
……帰りのことはまだ考えたくない。
「大丈夫ですか」
「……へ?」
心地よい睡魔が襲ってきて、ちょっと五分だけ寝ようかなと瞼を閉じた瞬間。
女性の声が頭上から降ってきて俺は硬直した。
……瞼、開けてもいいヤツか?
ここ、山だぞ。早朝だぞ。人が来るようなとこじゃないぞ、整備されてないし。
たしか、山の神様って女性だとか。
「大丈夫? 生きてる?」
「………」
いよいよ俺も洒落怖デビューかと、内心ビビりながら俺はそっと瞼を開けた。
「よかった、生きてる。これ、飲める?」
俺の頭の上でしゃがみ込む、一人の少女。
長い紫色の髪を俺の額スレスレに垂らしながら、制服姿の彼女は見覚えのある小瓶を俺に差し出してきた。
物静かそうな、とはいえ目立たない容姿じゃない。
ウララにタメ張るくらいの美少女だった。
「あの……?」
「あ、いや……要らねえです」
「そう? でも」
「好きでこうなってるから、いいんだよ」
「……なるほど」
なにか納得した様子で彼女は立ち上がる。スカートの中身が見えそうで見なかった。ちくしょう。
「では、失礼します」
「おう」
言って、彼女は俺から少し離れた位置に立つと、突き刺さったそれを抜いた。
それは剣だった。
見たことがないくらいに美しい青色の刀身の、鮮やかな剣。
それを何もないところに構えると、頭上に振り上げて——落とす。
素人目に見ても、きれいな一閃だった。
「……すげえな」
無言で、一心不乱に素振りを続ける美少女の姿に、疲労も忘れて見惚れていた。
上体を起こして気が付く。
彼女の立つその一帯だけ、砂漠のように禿げていた。
素振りだけで、山の一部を抉っている。
少しずつ、少しずつ。
努力と日数を重ねて、彼女は山を壊そうとしていた。
「なあ、毎日ここにいるのか?」
「ん。ここは静かで気持ちがいいから」
約三〇分ほど一糸乱れぬ素振りをつづけ、彼女はようやく緊張を解いた。
ふぅと一息吐いて、彼女はどこから木刀を二本取り出した。
「え、どこから取り出したん?」
「アイテムボックス」
「そんな機能もあるん?」
「知らないの?」
言って、彼女は木刀を俺に放り投げた。
俺の眼前に落ちる木刀。彼女は、俺に向かって木刀を構えた。
なんでしょうか、急に。身震いが止まらない。
「あの、まさか僕に立ち会えと?」
「?」
表情をこわばらせる俺に、彼女は首を傾げた。
とても不思議そうに。
「やりたくない?」
「どうしてそういう思考になったのか教えてもらっていいですか」
木刀とか握ったことないし。
「やりたいのかと思ったから……」
「へ?」
「食い入るように観てたから」
いえ、見惚れてただけです。
「やりたくないならいいけど。けど」
「……けど?」
「そんな眼を向けられたら、困る」
どこか無機質だった彼女の顔に、暗い色が宿った。
生温い、気持ちの悪い風が俺の顔を撫でる。
「つい——斬りたくなっちゃう」
「……っ」
蛇に睨まれた蛙は、こんな気分だったのかもしれない。——いや、すこし違う。
息も詰まるほどのプレッシャーに全身が揺れる。
なんだ、これ。
怖いとか、恐ろしいとかそういうものじゃない。
震える体。
これは、
「ほら、その顔。気付いてないの?」
彼女の顔にうっすらと亀裂が入る。
「とても愉しそう」
この震えが、武者震いだと気付いたのは、木刀を手に取ってから。
「安心して。システムは切ってあるから」
「俺、はじめてだから優しく教えてくれよ」
「ん。まずは体で覚えてもらう」
彼女はにっこりと笑って、地を踏みしめた。