第97話 1556年(弘治二年)6月〜妙覚寺
尼子義久から目を離さず足利義輝は言葉を続けた。
「京の静謐のためと大きな事を申したが、やっていることは己の家のためであろう。米を運んできたとて売りさばいた利は己のもの。そのためにこの儂を動かそうとは片腹痛いのう」
そう、所詮は己と家のため。それが武士の生き方であり有り様である。此奴も同じ…
「上様、仰るとおりでございます。私も己と家が滅びぬように動いております。そのためには一にも二にも、民百姓を味方につけることが大事でございます。よって京に上ってきた以上、京の民を味方につける事を一番に動いておりました。上様が京に戻られるのをお助けしたのは、まずは上様が戻らねば京の戦乱が収まらないからでございます」
「儂が京に戻るは至極当然のことである。何を今さら。将軍が京に居てこそ天下静謐が成されるのだ」
ほう、少し顔が変わったぞ。まだ理屈をこねるか?
「上様が京におらねば、上様を奉じて上洛しようとする者が次々に出てくるでしょう。これではいつまで経っても京の戦乱は収まりません。まずは上様が京に居られることこそが肝要だと思います。話はそれからです」
「それから?とな」
「はい。上様、これから如何になさるおつもりですか、幕府を、朝廷を、寺社を、この日の本をどのように治めるつもりでございますか。海の外から南蛮人どもがやってきております。あの者共がどれだけ遠くの果からやってきたのかご存知でございますか。あやつらがもたらした鉄砲が恐ろしいほど戦を変えていくのを見ていらっしゃると思います。もう日の本だけ、明や朝鮮だけ考えておればいい訳ではありませぬ」
細川藤孝が割り込んだ。
「出雲守殿!控えなされ!!」
「いえ、引きませぬ。尼子の力で上様を京にお戻ししたのは、ただ己と家が可愛いためだけではありません。今日はトコトン上様にお考えを聞き、私の考えを知っていいただこうと思っております。兵部大輔(細川藤孝)殿も思うことあれば全て言っていただきとうございます」
尼子義久は細川藤孝に向けていた視線をゆっくりと義輝に移した。
義輝は内心を悟られることがないように注意しながら頭をゆっくりと小さく上下した。此奴の問い、それこそが今、自分が自分に問うていることであり自身が渇望しているのはその答えであると。此奴はなぜこの問いを発することが出来たのだ、山陰道の田舎大名がなぜ?
「お主、大黒天のお告げを聞いたというが真か?そのお告げは何を告げたのじゃ。にわかには信じられぬ。嘘偽りなく申してみよ」
此奴自身が、大黒天のお告げを聞いたと吹聴しておる。そしてお告げを盾にとって己のやり方を正道としておる。本当かもしくはそれなりの考えがあるなら聞かせてもらおうではないか。そのお告げとやらをな。将軍の前で話すことができる代物かどうか。ほれ申してみよ。
暫く義久は目を伏せた。そして義輝の目をみて話しだした。
「お告げは尼子が毛利によって滅ぶと告げておりました。よって私はその滅びを避けるべく、動いておりました。その結果毛利とは盟約を結ぶに至り尼子の滅びは一旦避けることが出来ました」
「一旦、とな。ではまだ尼子の定めは滅びと決まっておるのか」
「私が見た滅びはなくなりました。この先は分かりませぬ。お告げから離れた新たな道が開けたのでございましょう。この道も自分が間違えれば滅びるだけにございます。よって滅びぬため今まで以上に考え、足掻こうと思っており、そのようにやってまいりました。それはこれからも変わることはありません」
むう、此奴は腹の中に固い芯を持っているということか…
「南蛮について明るいそうじゃな。南蛮人を召し抱えたようじゃが。それもお告げか」
「家臣にしたのはお告げではございませんが、南蛮の神や南蛮人の目的、有り様などは見ました」
「あやつらの目的は大森の銀ではないのか」
「それは目的の一つに過ぎませぬ。南蛮人はこの世を我が物にするために海を渡っているのです。また南蛮人が信じる神をあらゆる人々に信じ込ませるために海を渡っているのでございます。それこそ命をかけて海を渡っているのです。その熱意と力を見くびってはなりません。恐れる必要はありませぬがこのままだといずれ多くの南方の島々が南蛮人どもに制圧されることでしょう。結果日の本は南蛮人の下に屈することになりましょう」
足利義輝は言葉を失った。今まで三好を退け京に上り、幕政を正すことだけを考えていた。尼子義久の語ったことは何となくしか理解が出来なかった。
「出雲守殿、今の話は真か。そなたの妄想ではないのか」
「兵部大輔殿、妄想だけで国が栄えましょうか?私は実際に今まで以上に米を作り、鉄を作り、あらゆる職人を召し抱え多くの物を作り出し、南蛮船を持ち自身で交易を行っております。強き兵も従えております。妄想で斯様なことができると思いますか?」
「されど…お告げとは」
「兵部大輔殿、少なくとも南蛮人に対して今からでもしっかりとお調べになることをお勧めします。さすれば私が申したことが、妄想ではないと確証を得られましょう。明の澳門が近々南蛮人の物になります。南蛮人どもの勢いは増していくばかりでございます。日の本の一統を成し遂げなければ南蛮にしてやられます。そうなっては尼子の国も滅んでしまう。それは避けねばなりません」
「なんと…南蛮にしてやられるとは…」
「我らの曾孫から更に先の代に、日の本は南蛮に屈します。お告げはそうありました。私が死んだあとの話です。本当にそうなるかどうかは分かりませぬが、出来ることはやって死にたいと最近思うようになりました」
細川藤孝も黙り込んだ。ただの妄想狂にしてはやってきたことが真っ当だ。
「出雲守、更に何かないのか。儂をそうかと唸らせるものが、証となるものがないのか」
義輝は聞いた。
「ならば…上様、一度出雲においでになってはいかがでしょうか。今、出雲は日の本の中で最も豊かであり、今までとは全く別の仕組みを目指しております。これこそお告げをこの世に表そうとする試みでございます」
「それが武士から土地を取り上げることか」
「大切なことでございます。武士は変わらねばならぬと思っております。他にもいろいろございます」
「しかし儂が京を離れることができるのか」
「尼子、三好、六角が拮抗している今が、機会かと思います。三条公頼殿の誘いを受けたことにすれば理由も出来ましょう。それに上様から距離を置いた近衛家に対する牽制にもなります」
一年前、義輝の従兄弟である関白の近衛晴嗣は、足利義晴からの偏諱を捨てて近衛前嗣と名前を変えた。これは朽木に退避していた義輝との距離を取るためであった。近衛家は足利家を見限っていたのだ。
理解に苦しむ話と目先の分かりやすい話。両方を提示された義輝は思考する。むう、動くしかないか。此奴と話す前から儂の考えは行き詰まっておった。ならば今は動く時であろう。
「よかろう、出雲守よ。余に示すが良い。その話、乗ろうぞ!」
「上様!」
こうして細川藤孝が抱いていた危惧は的中し、前代未聞の行いである、将軍の出雲視察が決まった。