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偽典尼子軍記  作者: 卦位
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第71話 1553年(天文二十二年)8月 石見平定

「大御所様、連れてきました」

 小笠原長雄が一人の武将を晴久の前に連れてきた。武将は片膝をつき頭を垂れる。

「この福屋隆兼(ふくやたかかね)、尼子民部少補殿に臣従いたします」

「尼子においては国人の所領は認めん。知っておるのか」

「はっ、子細は小笠原殿に聞いております。領地を差し出し、お役目に励む所存でございます」

「あいわかった。福屋隆兼、今日から尼子の家臣である。励むが良い」

「御意」

 石見中部の豪族、本明城主(もとあけじょうしゅ)、福屋隆兼は戦わずして尼子の軍門に下った。

「福屋殿、これからは尼子家家臣同士、仲良くやりましょうぞ」

 小笠原長雄が声を掛ける。

「おお、これで石見三人衆でござるな。カッカッカッ」

 本城常光もそれに続いた。

「こちらこそ、よろしくお願い申す。さっそくだが小笠原殿、温泉津の宿について教えを請いたいのだが…」

「ん?おっ、そうか有福温泉か。ううむ、あそこならばいい温泉宿になりそうじゃな。儂から殿に話してみよう」

「おお、かたじけない」

「また金儲けですか。ま、よろしいかと。巫女は必要ですぞ」

 いきなり石見三人衆が結成された。

 小笠原は以前より福屋に対する調略をかけていた。殿は石見に近々侵攻するとみて先んじて動いていたのだ。さすが小笠原、強い者の味方である。


 毛利との盟約が成り、尼子は遅滞なく行動を開始した。八月二日、尼子晴久を総大将とした尼子軍が石見中部に侵攻した。出雲より三千、伯耆より二千、石見東部より一千、これに富田に新たに組織された、主に晴久が従える直轄軍千五百、計七千五百の兵と荷駄隊千五百がしたがう。


 奇しくも前日。陶晴賢は大内義長を総大将に二万の軍勢(内益田勢二千)を率いて吉見氏の居城、三本松城攻略に向かう。尼子の侵攻を聞いた益田藤兼(ますだふじかね)は七尾城に急ぎ引き返した。


 江の川を渡り敬川に進んだとき、福屋隆兼がやってきて臣従した。福屋の兵一千五百が合流する。その日は八月六日。敬川で夜を過ごす。


 八月七日、浜田まで進み周布城を包囲、わずか八歳の当主、周布千寿丸を擁す周布氏はすぐに降伏。八月八日、三隅に進み三隅城を落とす。三隅氏は昨年益田氏の傘下に入っている。当主は三隅隆繁(みすみたかしげ)。周布氏一千、三隅氏一千の兵が加わる。


 八月九日。石見西部で吉見氏と勢力を二分する益田藤兼がこもる七尾城を包囲した。

「大御所様、ここは是非、我らにお任せを。益田藤兼を説得してまいります」

 こう言って進み出た福屋隆兼を先頭に周布千寿丸名代、三隅隆繁三名が続く。

 揃って七尾城に現れた三当主を見た益田藤兼は彼らを城に招き入れた。

「藤兼殿、尼子と毛利が結んだのはご存知か?」

「なんだと!」

 藤兼にとって福屋の一言は寝耳に水だった。

 これは大内が尼子と毛利双方から攻め込まれることを意味する。

「お主ら三家は尼子に下ったのか」

「見ればわかるだろう。だからここに来たのではないか」

「尼子に下れば所領は取り上げられるだろう。それでいいのか!」

「儂もそう思っておった。だがな、小笠原殿をみて考えが変わったのだ。あの御仁は所領を失ったあと温泉津の整備を任され大いに重用されとる。戦にも何度も出て武功も立てた。面倒くさい所領の経営も尼子がやる。実入りは変わらん。家名は残る。これは返って都合がいいのではないかとな」

「武門の誉れは…」

「ならば戦えばよかろう。ただし、尼子は容赦はせんぞ。従わないのなら滅ぼすのが尼子だ。強くなければ盟も結べぬ」

 藤兼は俯きながら答えた。

「わかった。尼子に下る」

 ここまで一度も戦わず、尼子は石見西部の殆どを押さえた。後は吉見正頼(よしみまさより)の津和野三本松城とその所領のみ。

 益田の兵二千を加え総兵力一万三千に膨れ上がった尼子軍が八月十一日、津和野に入った。


 北からやってきた尼子軍を見た吉見正頼は、何がどうなるのか気が気でなくなった。毛利殿ではなく尼子!あ奴らは何をしにここに来たのだ。城の南には陶晴賢の軍勢おおよそ一万五千が詰めている。まさか陶と尼子が結んだのか!そうなれば…

 吉見は心の内を兵どもに見せぬよう檄を飛ばす。

「者共、気を抜くでないぞ!!」


 陶晴賢は尼子が津和野に入る一日前に毛利元就が安芸で挙兵し、佐東銀山城を始めとする安芸一帯を手中に収めたことを聞いた。

「おのれー!!元就!!!!!」

 陶の怒りは普通ではなかった。尼子に続いて毛利も我に矛先を向けるとは。

 軍議を開き如何に尼子と毛利に対処するか、討議を重ねていたところに物見が尼子軍の到着を告げる。

「尼子晴久、調子にのりおって!蹴散らしてくれるわ!!」

 陶は諸将に尼子との戦闘を命じる。

「尾張守様、尼子の動きは毛利と通じております。ここは一旦引くべきかと」

 腹心の宮川房長(みやながふさなが)が意見を述べるが陶は聞き入れなかった。

「ここで尼子を叩かずしていつ叩く。あやつらの性根を叩き直してやる」

 弥栄神社(やさかじんじゃ)の北に尼子、津和野川に架かる橋を挟んで南に陶軍が布陣する。川幅は五段(約55m)ほど。この距離まで尼子に近づくのは無謀だ。

 橋のむこうから弩と鉄砲の一斉射撃が始まり陶軍は橋から大きく後退する。すぐさま尼子軍が橋を渡り、陣地を確保する。あとは陣地をじわりじわり拡げていく。

 宮川房長はすぐさま本陣に駆け込み、陶に直訴した。

「尾張守様、すぐに退却を!まごまごしていると退路を絶たれます。盆地の中では大軍は動けません。なにとぞご決断を!!」

 怒りに震えながら陶は退却の下知を出す。宮川はいい仕事をした。少し遅ければ陶は討ち取られていた可能性が高い。現に山陰道を南に下り陶軍を包囲しようと熊谷新右衛門率いる兵二千が動いていたのだ。(熊谷は義久の命に従い富田直轄軍の軍監になった)

 なんとか包囲が完成する前に陶軍は津和野盆地を抜けたが退却時に散々遠距離攻撃を受け兵一千を失った。


 陶に変わって尼子軍が三本松城を包囲した。

 此度の戦いでは後方待機を命じられた四人の国人たちは揃って先陣を申し出た。少しでも己の立場を優位にするために。

「そう焦るでない。尼子の戦をよく見よ。お主たちも慣れてもらわねばならんでな」

 晴久はそう言うと四人を本陣に置いた。

 使者を三本松城に送り吉見に降伏を促したが吉見は応じず、徹底抗戦の構えを見せた。

「しかたないな。牛尾、落とせ」

「はっ」

 晴久はこれでいいかと思っている。吉見と益田は仲が大変悪い。益田が下った今、吉見を生かすのは今後に火種を残すことになる。義久もどちらかといえば益田を残したいと言っていた。なにか考えがあるらしい。


 八月十二日、日の出とともに三本松城は鉄砲と焙烙玉と弩に包まれその日の夕刻には落城。吉見正頼は自害し、一族は根切りにされた。吉見の領地である萩も尼子の手に落ちた。

 益田藤兼は本陣で尼子の戦を見ながら恐れ戦いていた。吉見とは幾度も戦った。特に最近は三本松城に攻めいることが多かったが、落とすことはできなかった。城も堅固で特に吉見勢の士気の高さに手を焼いていた。

 それを尼子はたった一日で城を落とし、吉見氏を滅ぼしてしまった。

「どうじゃ、戦わんでよかったじゃろ」

 福屋の言に頷くばかりだ。周布氏と三隅氏も同じく頷く。

「三本松城には本城常光を置く。いずれ萩に城を築き湊の整備を行う。今回降った四家はこれから検地と戸籍の整理を速やかに始めよ」

「はっ!!」

「では出雲に戻るぞ」

 義久の言うとおり事は進んだ。晴久は帰途につきながら遠く東を見る。

(若狭、丹後か。これからが厳しいな。ま、御屋形がいろいろ考えておるからの。とりあえず祝言をいつ上げるか準備に入いらねばならんな。これは儂の仕事じゃ)


 石見は今後尼子の後方基地として、戦を支える重要な拠点となる。それと前線基地としても機能することになる。その戦で石見勢が奮闘するのだがそれは暫く後の話だ。


 石見は尼子によって平定された。














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