第62話 1552年(天文二十一年)6月 因幡侵攻
尼子晴久は天文二十一年五月二十六日、因幡に向けて月山富田城を出発した。
従った主な部将は次のとおり。
家老 牛尾遠江守幸清
中老 多胡辰敬、
侍大将 平野又右衛門久利
侍大将 松田誠保
侍大将 三刀屋久扶
侍大将 武田信実
侍大将 宍道九郎
足軽大将 秋上庵介久家
出雲の足軽は月山富田城に集合し因幡に向かう。伯耆の足軽は羽衣石城に集まる。両軍は泊で合流した。かくして軍勢八千(出雲五千、伯耆三千)。山陰道を通り因幡に入った。
晴久の尼子軍は西因幡の鹿野城は無視して一路因幡山名氏の居城、布勢天神山城を目指した。六里強(26km)を一日で走破し、六月一日布施天神山城を包囲した。
但馬の山名祐豊は幕府が行った尼子の因幡、伯耆守護任命を認めてはいない。そして伯耆に侵攻すべく準備を始めた。毛利元就からも合力し尼子討つべしと書状が届いている。いずれ毛利と大内が美作に攻めこむだろう。五月半ばを過ぎた頃。因幡から尼子が戦支度をしているようだと知らせが入った。こちらはもう準備に入っている。もうすぐ伯耆に向けて出陣できる。
五月二十日、山名祐豊は兵八千を引き連れて此隅山城を後にした。因幡で更に兵を加え一万の軍勢で伯耆に攻め込もうとしている。六月一日、因幡と但馬の国境に差し掛かったとき、天神山城が尼子軍によって包囲されたと久松城(鳥取城)から早馬が走ってきた。そんなバカな、いつの間にやってきたのだ。急ぎ向かい次の日に久松城の城下に着いたとき、千代川と袋川の合流地点の西に尼子軍が陣を敷いていた。山名祐豊は焦った。もう天神山城は落ちたのか?久松城城主、武田高信を呼び寄せ話を聞く。
「昨日尼子は天神山城を包囲しましたが、攻めかかってはおりません。今日になって包囲を解き千代川の西に布陣しました」
「なぜ城から討ってでんのじゃ」
「城には千ほどしか兵がおりませぬ。討って出るには兵が足りませぬ」
「久松には何人おるのだ」
「ここは五百ほどでございます。なにぶん尼子がとつぜん現れまして…」
「鹿野城は落ちたのか」
「分かりませぬ」
何もわかっておらぬ。ただハッキリしているのは目の前に尼子晴久が軍勢を連れてこちらに攻め込もうとしていることだけ。
山名祐豊は尼子軍を見ながら頭を働かせる。多分鹿野城は落ちてはいない。鹿野を攻めたなら知らせが届くはずだ。ならばこのまま時間を稼ぎ鹿野城からの援軍を待つ。軍勢の数はほぼ同じ。挟み撃ちで尼子を叩くことができる。尼子が川を渡らんように陣を敷くか。
「よし、川を挟んで尼子を睨むぞ。鹿野に早馬をおくれ」
山名軍は移動を始めた。尼子軍はじっと動かない。
山名兵が半分ほど移動したとき、北の若桜街道に新たな軍勢が現れた。
「ん、なんじゃあれは」
山名祐豊の目に写ったのは数本の馬印。この時代、馬印を使う軍はほとんどいない。現れたかと思ったらどんどん近づいてくる。馬印に描かれた【平四つ目結】。尼子の家紋だ。尼子兵は金色の筋が入った黒の鎧を着ている。
「て、敵襲!敵襲!」
叫ぶ山名の足軽大将を大弓から放たれた矢が撃ち抜く。それを合図としたのか曲射で放たれた千近い矢が山名兵に降り注ぐ。まさに雨霰とはこのことだ。
「川を渡れー!」
晴久の号令がかかり、尼子兵たちが手際よく船橋をつくり千代川を渡りだす。もとからある千代橋のたもとに鉄砲が並ぶ。その数五百はあろうか。その後ろにも鉄砲を携えた足軽が段になって並んでいる。どれだけの鉄砲を尼子は持っているのだろう。鉄砲足軽大将が采配を振るうと橋の反対側に群がっていた山名兵がバタバタと倒れていく。駆け足で千代橋を渡り。また鉄砲を構える。鉄砲足軽たちはじわりじわりと橋を渡っていく。
さしたる抵抗も受けず船橋を渡った尼子兵は渡ったそばから弩を放つ。ある程度の空間を確保するとそこに鉄砲兵が陣取る。弩と鉄砲の組み合わせが絶妙だ。
何もできない、そう山名兵は何もできず倒れていくのだ。
「何だこれは。なにが起きているのだ」
武田高信は戦慄した。こんな戦は見たことも聞いたこともない。もちろん経験したこともない。だいたい北から来た尼子軍はどこから湧いて出たのだ。それに天神山城を囲んだ尼子もいつ来たのだ。鉄砲も矢も数が多すぎる。早い、何もかもが早すぎる。
北から襲撃を受けた山名兵は南に続く若桜街道めがけて逃げ出した。千代川沿いに布陣していた兵も下がっていくにつれ陣が崩れだし、そのままなし崩し的に逃げ出した。尼子が攻撃を始めてからものの四半刻もたたずに八千の山名兵は敗走を始めた。
「ばかな、なぜこの儂が、山名家惣領のこの儂がなぜ!」
内紛に明け暮れた山名家の現状がこれだ。戦国の世を勝ち抜く力はもう山名家にはない。山名祐豊と武田高信は但馬に逃げていった。
しばらく街道沿いに山名軍を追撃した尼子軍は反転し、久松城と天神山城に向かった。二つの城はさしたる抵抗もせず直ぐに開城し、ここに因幡山名氏は没落した。鹿野城は後からやって来た総大将尼子九郎四郎(数え七歳)率いる因幡駐屯軍二千によって六月三日に開城された。(副将に家老、佐世伊豆守清宗)
たった二日で因幡山名氏が滅び、救援に来た山名祐豊も一蹴され但馬に逃げ帰った事実は、因幡の国衆たちに衝撃を与えた。幕府奉公衆であり山名氏に対しても反抗的な態度を取り続けている因幡山間領主たちは尼子の動きを注視した。六月四日、山間領主勢力の中心的存在であった私部毛利氏の居城、私部城に尼子軍三千が現れ、直ちに降伏し城を明け渡せと通告してきた。惣領の毛利豊元はこれを拒否。すると尼子軍は鉄砲、焙烙玉、弩を撃ち込み、その日のうちに私部毛利氏を屈服させた。これを見た伊田、丹比、矢部ら残りの山間領主たちはこぞって尼子に下った。もちろん領地は召し上げられ当主たちはみな八雲に連れて行かれた。その後因幡国内のすべての国衆が尼子に降伏し因幡は尼子直轄領となった。
布勢天神山城の主郭、当主の間に尼子晴久は座り報告を受けていた。今回の戦に参加した殆どの部将がこの場にいる。戦終結の軍議の場だ。
「御屋形様、幕府奉公衆共はすべて降伏しました。これより八雲城に連れて帰ります」
尼子三郎四郎が報告する。
「鹿野城は開城しました。他の地域の国衆も全て降伏しました」
幼い声で尼子九郎四郎が報告する。佐世清宗の顔が綻ぶ。
「二人ともよくやった。特に九郎よ、総大将の任よくぞこなした。伊豆守にも礼をいうぞ」
「ありがとうございます」
「もったいなきお言葉。恐悦至極にございます」
晴久は三郎に問を投げかける。
「して、三郎。如何であった」
「はっ。船を使った軍勢の移動は問題ありません。直轄軍は朱印船を使って迅速な兵の移動が可能となりました。今後より長い距離を走れるように調練を重ねていきます。そして今回始めて導入した『移動鳩』は概ね想定通りの動きを行うことができました。さらに訓練を続け距離と精度をたかめていきます」
移動式の鳩舎に戻る『移動鳩』。もう少し訓練を行う必要があるが実戦投入も近い。
「よし、では因幡領の代官を任命する。山名理興を因幡国の代官とし、布施天神山城の城主とする」
「ありがたき幸せ。この身を尽して御屋形様の期待に応えましょうぞ」
備後神辺城の落ち武者が因幡山名家の後を継ぐ。なんと華麗な蘇りか。
六月八日、尼子晴久は因幡駐屯軍(総大将佐世清宗)を残し八雲城に帰還した。尼子三郎四郎、九郎四郎も直轄軍とともに八雲に戻っていった。そして入れ替わるように神西元通がやってきた。もちろんすることは決まっている。街道整備だ。山陰道、若桜街道は程なく整備され因幡は文字通り尼子領になっていくのであった。