第118話 1558年(永禄元年)10月 出雲 八雲城他
◆◆◆◆尼子菊◆◆◆◆
目がパチリと覚めた。視線の先に好いた男が寝ている。安らかな寝息を立てている…あら、よだれがたれている!身体を起こし髪をかき上げながら、上から覗き込んだ。くふー可愛い。
天下の副管領さまがこんなにだらしない寝顔をしてるなんて、知ってる者はこの世で二人しかいない。もしかしたら増えるもしれないけど、その時はその時だ。
じっくり鑑賞している。あー愛おしい。食べてしまいたい。朝から不謹慎かしら…などと不埒な考えをしているとビクッと身体が動いた。
「う、うーーん。あ、おはよう菊」
「おはようございます。義久様」
自然と私は笑顔を浮かべる。
「ん?どうした?」
「義久様、ヨダレが垂れておりますよ」
そう言って手ぬぐいを使って口元を拭いてあげた。
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
そう言って私は顔を近づけ、義久さまの唇に自分の唇を軽く重ねた。
「さ、義久様。朝駆けにまいりましょう」
「おし、起きるか!」
私と義久様は服を着替え、朝駆けの準備を始めた。
義久様、私、お通殿三名で朝駆けだ。すとれっちをしながら義久様を見ている。ふと思い出した。富田城の日々を。眠い目をこすりながらうんしょと起きて、モンペに着替える。富田城は堅固な山城、尼子の武の体現。だから走るのは大変だった。
「ゆっくりでいいよ。無理しないで」
義久はいつも優しく声をかけてくれた。私は必死に走った。激変した生活に追いつこうと必死に走った。それはいつしか愛する男に寄り添いたい、常に側にいて支えたいという想いに変わっていった。
八雲城の周りを走る。八雲は平城。道は整備され富田とは走りやすさは段違い。最近は私たちのように走る武家の娘をよく見る。奥方もチラホラ見かける。八雲に住む皆は三食たべ身体が丈夫になっている。特に出雲で戦がなくなって、民百姓が安心するようになった。乱取りなんか起きないから富を、銭をたくさん、もしくはそれなりに持てるようになった。人が売られることも殆ど起きない。本町、中町、扇町はいつも市が立っているので人が常にたくさん歩いている。義久様は人がどれくらいいるのか、何をしているのかなど具体的に調べないといけないと仰っていた。『国勢調査』とやらをするそうです。
今日は三名で八雲城下の視察に行きます。
「お菊様、何を着ていきますか?小袖かモンペどちらがいいでしょうか」
朝駆けが終わり部屋に戻る途中、お通殿が話しかけてきた。
「うーん、今日は多分たくさん歩くのでモンペがいいと思います」
「分かりました。モンペにします。何か羽織る物があったほうがよろしいですね」
「そうですね。寒くなって来ましたね」
など話しながら歩いていく。
お通殿は賢い女だ。ものの理解が早い。そして儚さを感じさせる佇まい。男たちはお通殿を見ると十中八九動きが止まる。そして惚けた顔で暫し見つめるのだ。私を見た者たちは、ほぼその場にひれ伏すかひれ伏そうとする。私はその都度、起き上がってくださいと促さなくてはいけない。なんだか私は最近よく見る夢の中に出てくる『悪役令嬢』のようだ。下々の者どもを見下し、傍若無人な振る舞いを行い、派手な扇子を開いて口元を隠しオーッホッホと高笑いをかます(そして断罪される)…なんだかな~~この差はなに!!!
始めに訪れたのは城の西の方の天神町です。天神町は公家様の町です。私と一緒に出雲にやって来た公家様たちの町として義久様が定め、整備されていきました。
今では三条公頼様の大きな屋敷を始め公家様の屋敷が並びます。一時、公頼様は動きがヌルかったので、呼びつけて尻を蹴り上げました。それからの動きはよろしいですね。三条様に誘われて八雲にやってくる公家衆も増えており、義久様は彼らを保護し働き口を造り公家が持つ知識、文化を取り入れています。最近駿河より京に戻られた三条西実枝様も八雲に下向して来られました。八雲の文化水準が更に上がること間違いなしです。
次は南蛮酒蔵にむかう。『わいなりー』と言うそうです。”わいん”という南蛮のお酒を八雲では造っています。義久様が南蛮から取り寄せた『あらごねす』という葡萄と出雲の山奥に生えている山葡萄をかけ合わせ八雲の気候に合った新しい葡萄を作り、それを使ってお酒を造っています。深みのある赤色をしたお酒です。へんすあると殿の伝でオランダの杜氏を招き、本物?のわいんを仕込みます。まだ始まったばかりであと数年はかかるそうですが今後白わいん、すぱーくりんぐわいんも造ります。義久様はすぱーくりんぐわいんが飲みたいと仰っていました。成人すれば堂々と酒が飲めるぞ!と意気込まれていましたが、元服されたのでもう堂々とお酒は飲んでもいいはず、成人する意味は何?そもそも成人って何??と思ってしまいました。突っ込むのはやめときました。
お昼の時間になりました。ちょっと過ぎたかも。お昼ご飯は【蕎麦の田儀】で出雲そばを食べます。田儀は中町通りの真ん中らへんから高瀬川に抜ける細い通りにある店です。店主は田儀出身だから屋号に田儀が入っています。杵築にお参りに行った時、食べた蕎麦が美味しくて自分でも作ってみたいと思い、作り方を教わり八雲に店を出すに至ったとのこと。
義久様はここの釜揚げ蕎麦が大好きです。
「蕎麦と言ったら田儀だろう。尼子公認蕎麦屋にしてもいいぞ」
と言われたのでここは尼子家御用達お蕎麦屋さん。中町から少し入った所にあるので静かな雰囲気のお店です。甘味もおいてあります♡。人気があるので店の前には行列が常にできています。
私たちも行列の最後に並びます。これは八雲城下町の視察を始めたときから、義久様が守っている鉄則です。『領主だからといって特権を振りかざさない』。義久様に倣い家臣たちも常に並びます。ここだけではなく、八雲城下のどの店に入るときも行列ができていれば必ず並ぶのです。
「見ろ、こんなに長い行列ができてるぞ。このような店がもっと増えるよう政をしなくてはならん」
義久様はにこにこしながら、話します。とても機嫌がいい。私もとても嬉しいです。
さーて。今日の視察は終わりです。これからどうしましょうか…ふふ。勿論お風呂ですよ!義久様、お通殿と一緒に湯船に浸かるのです。さーさー三人で湯の川温泉に行きましょう。お通殿、そんな恥ずかしそうな素振りをしても駄目です。目がキラキラしてますよ!!義久様、まだ惚けた顔はしないで下さい。民百姓が見てますよ!!!
◆◆◆◆尼子通◆◆◆◆
座って侍女の戻りを待つ。両手は握りしめたま膝の上。考えがまとまらなくなってきた。吉田の城で過ごした、幼い日々が頭の中に浮かぶ。優しかった大兄さま、乱暴者の中兄さま、いつも意地悪してくる小兄さま…次から次へと記憶が溢れ、頭の中で回っている。怖い。もう想い出の中でしか兄さまたちに会えなくなったら、私はどうなってしまうのだろう。
想い出の嵐は扉が開かれる音で霧散した。侍女が立っている。
「お通様!」
その先は…心が止まる。聞きたい、聞きたくなくない。だが侍女の口は私の思いを無視して言葉を繋げた。
城の廊下を走る。必死に走り続ける。あの人の下に直ぐに行かねば、いや行きたい、会いたい。
いた。御屋形様!その前にひざまずき深く礼をする。
「御屋形様、御屋形様が遣わした南蛮船が兄上たちを助けてくださいました。ありがとうございます。ありが…と、う、ございーうぅ」
言葉が出ない。胸が詰まる。涙が溢れる。
「お通、顔を上げて」
肩をだかれ、ゆっくり起こされた。御屋形様の顔が私の瞳の中に陣取る。
「尼子と毛利は約定を交わしている。安芸守殿から要請があれば、直ぐに動くのは決まり事だ。ましてや俺の愛する女の兄上が呼んだのだ。義弟として駆けつけるのは当然のことだろう」
「ああっ、御屋形様、御屋形様ー」
グッと引き寄せられ両腕の中にしっかりと抱かれた。私も夢中で腕を回し抱きつく。大声を上げて誰に憚ることなく泣いた。我慢していたものがせきを切って溢れ出す。怖れ、憂い、絶望そして歓喜、安堵…あらゆる感情が湧いてきた。御屋形様は私を、毛利を救ってくれたのだ。
泣いて泣いて泣き腫らした。きっと酷い顔。今更ながら恥ずかしさが込み上げる。
「落ち着いたか?」
「はい」
御屋形様の顔が近づいてくる。私の唇に御屋形様の唇が重なる。強く抱きしめられ口を吸われる。私もそれに応える。胸が熱い。息も絶えだえ。でも苦しくない。頭が痺れる。心地よい…何も考えられない。ただ御屋形様だけを感じる。
どれだけこうしていたのだろう。御屋形様の顔が離れていく。二人の間に透明な橋がかかり、キラッと光って落ちた。
ボウっとして御屋形様を見ている。御屋形様の目が私から離れた。違う所を見ながら話しかけられる。挙動がおかしい。
「実はな、こんな物を手に入れたんだ」
懐から何かを取り出す御屋形様。私の目がその何かを捉える。鮮やかな辰砂色の紐、縄?
「こ、これで結ぶとだな、とてつもなく文学的な、いや違うな文化の薫が立ち込める、じゃなくて芸術、そう朱の美が、まばゆい美の化身が、アメノウズメノミコトがこの世に顕現されるのだ!」
そうなの?
「だ、だからな、今宵、ぜひむ、結んでみたいのだが!!」
そう言って御屋形様は私の目を見た。ランランと輝く目に妖しい光が渦巻いている…好いた男の望みを叶えたいと思うのは女の性、ましてや主人の思いを受け止めるのは妻の務め。。。。
「はい、わかりました」
私は笑みを浮かべて答えた。
「よ、よーし、今晩閨に行くぞ。おっしゃー」
気合を入れて立ち上がり背筋が三倍増しで伸びた御屋形様が、颯爽と部屋を出ていかれた。
殿方とはいついかなる時にも、不埒な思いを心に秘めている生き物なのでしょうか…。
今宵の閨を思い浮かべたら、体の奥がキュンとした。