第109話 1558年(永禄元年)7月 豊前門司城
七月二十三日、戸次鑑連は大友の使者として門司城の南郭、大友対毛利の最前線に立っていた。両軍が対峙する郭内に張り詰める空気はまさに皮膚を刺すほどの力場を作っている。
毛利兵の間から一人の男が歩み出る。吉川元春だ。彼に向けて戸次鑑連は声を放つ。
「毛利殿、我らは豊前より毛利殿が手を引く事を望んでおる。敵対することは本意ではない。門司城を明け渡すなら、我らはこれ以上の戦いはせぬ。良き返事をお待ちいたす」
「我らは門司城を明け渡すつもりはない。されど安芸の指図には従う。我が殿に使者を送るがよい。全ては我が殿の胸一つ」
「相わかった。されど我らも辛抱強くはない。この城の御大将にしかとお伝え願いたい。無駄な血を流すのは如何なものかと。では失礼いたす」
二人は同時に踵を返し各々の陣に戻る。一旦停戦ということなのであろう。だが両軍の間に横たわる空気は変わらない。
戸次鑑連が陣幕に戻ると府内城から大友義鎮の命を携えた使いがやってきていた。
「殿は暫し城攻めを控えよとのことでございます。安芸から使者が来た後、次の指図を出すとのこと」
軍権を預かる吉岡長増は大友義鎮の命を受け、諸将に警戒態勢を取らせ門司城下に陣を敷くとした。
二十四日、城を囲む大友勢の中ではや緩む者が出てくる。田原親賢(大友義鎮の正室の兄。義兄である)は陣幕の中で部下とともに酒宴を開いていた。陣中の見回りを行っていた臼杵鑑速は田原親賢を諌めようと陣幕の中に入った。
「田原殿、酒宴はいかがなものかと。まだ戦の最中ですぞ」
「もう終わっているではないか。毛利の兵糧は時期に尽きる。門司城を明け渡すは時間の問題ぞ」
「されど油断はできぬ。窮鼠猫を噛むというではないか。最後に意地を見せるやもしれん」
「ふん、そうなれば。いやそうなる前に南蛮船を持ってくればよかろう。鉄の玉を打ち込んでおけ」
そう言って田原親賢はグイッと盃を煽った。その目には不満の色が漂っていた。
「殿の差配に不満でも」
「別にないわ。勝っておるのに不満などあるわけなかろう」
そう言って盃を部下に差し出し、酒を注がせた。
「あまり飲み過ぎぬよう注意されよ」
言い残して臼杵鑑速は陣幕を出た。引き続き盃を口につけ酒を煽った田原親賢は悪態をつく。
「ふん、南蛮どもが目立ちおって。これでは儂らの立つ瀬がないわ。毛利の将の首でも上げんと、どんどん追いやられてしまう。全く殿の南蛮贔屓も度が過ぎる!」
大友家中で南蛮人の力が増していくのを苦々しく思う者たち。その先方の一人が田原親賢だ。此度の勝ち戦は嬉しさ半分、怒り半分。この先どのように家中で立ち回るべきか親賢は考えを巡らせ始めた。
小早川隆景は戸次鑑連が戻った後、諸将を集めた。
「三吉殿、兵糧は如何ほど残っておりますか」
「あと三日というところでございます」
三吉隆亮の答えに小早川隆景は表情を変えることなかった。諸将を見渡し言葉を発した。
「城を枕に討ち死になどいたしません。明日の内に安芸からの指示が届かなかった場合、城明け渡しの交渉を始めます」
お待ちを、我ら戦えまする、このままでは毛利の名折れいざ決戦をなどと諸将は力強く戦意を訴える。
「皆の考えは充分にわかります。しかしここでいたずらに兵を失うわけにはいきません。門司城には必ず戻ってきます。それが殿の意志。此度は少し運がなかっただけのこと。皆もそう理解していただきたい」
まっすぐに諸将を見据えとうとうと話す隆景を、諸将もまた見つめていた。そう、運がなかった。だが実のところ大友にしてやられたというのが正解であろう。本来負けるはずのない水軍が大友が放った南蛮船という鬼手に打ち砕かれ、城の中にまで大筒の玉を撃ち込まれた。今だ経験したことのない戦を強いられたのだ。心身ともに疲労は峠を登るばかり休まることはない。潮時なのだろう。気力はかろうじて衰えてはいなかったが直に尽きる。
俯いてはいなかったが諸将の顔が上を向くことはなかった。暫くして隆景の声とともに軍議は終わり皆は持ち場に散っていった。
「あの南蛮船をなんとかせんと、どうしようもならんじゃろ。これからどうするつもりじゃ」
周防灘を見つめる隆景に元春が近づき声をかけた。
「あれと同じものを造るか、うまく嵌めて動かせなくするか…その方が現実的で早いでしょう。造るのは難しいかと。大兄上に頼むしかありませんね。それに南蛮人と南蛮船が大友家中においていかなる位置づけになっているのか、早急に把握しなければなりません」
「大友にしてやられたな」
「まさに、横っ面を張り倒されました。いい経験をしましたよ」
そう言って海を見続ける隆景の顔に沸々と沸き起こる怒り。それを見る元春の目には光が走る。元春も同じように周防灘に目を向ける。
二人の胸の中には嵐が吹き荒れていた。いろんな感情が、思考が錯綜する。それは表に出ることはない。
二十五日の朝。日の出と同時に門司城内の大友軍は南郭から引き始めた。城外に敷かれている陣も形を変えていく。毛利の諸将と兵達は何が始まるのか分かった。またもや南蛮船の砲撃が行われようとしているのだ。大友は今日、毛利の性根を挫こうとしている。
戸次鑑連がやって来て南郭に陣取る毛利兵達に向かって呼びかける。
「毛利衆よ、よく戦った。しかし今日までじゃ。これ以上戦を長引かせることはない。速やかに城を明け渡すのだ。お主らの戦ぶりに敬意を表し、無駄に抵抗せぬのならば我らも手出しはせぬ。静かに安芸国に帰るが良い。返答なきときは総攻めを行う。心せよ!」
最後通告といっていいだろう。突きつけた戸次鑑連は陣に戻っていく。大友は今日の戦いで毛利に打撃を与え、速やかな門司城の明渡しを目標としていた。大友義鎮は豊前を完全に大友領とし筑前、筑後も同じく従えその後肥前に侵攻する意志を固めていた。戦の勝利で勢いを得、豊前にキリスト教の国を作ることが最終目標であり、ポルトガルとの関係強化も視野に入れていた。毛利の豊前侵攻は大友義鎮にとっても、今後の大友家のあり方を考えさせられるいい機会になったのだ。イエズス会とポルトガルの力を利用しながら家中統制し仏教勢力を弱体化させる。その方向で動きを加速していたのだ。
戸次鑑連が去ったあと毛利軍の動きも慌ただしくなる。崩れた土塀と土塁の修復を急ぎ鉄砲の整備を始め諸将と兵たちが定められた持ち場につく。最後まで意地を見せねばならぬ。例え城を明け渡すことになろうとも毛利は強し、と敵に覚えさせねばならぬ。
双方が静まりかえり戦の始まりを待っている。それを告げるのは大友水軍と南蛮船だ。両軍の将と兵は赤間関の東を見つめる。周防灘から南蛮船がやってくるのを待っている。
辰の中刻(午前七時)、布陣する大友兵が突然騒がしくなった。赤間関の西、響灘の方を見て騒いでいる。毛利兵もそれに気づいた。そして声を上げる。
「何じゃ、まだおるんか。響灘からも南蛮船が来るぞー!」
「な、なんじゃとー。どんだけ持っとるんじゃ」
「こりゃ、あかんわ⋯」
毛利兵に絶望が走る。船を睨んでいた乃美宗勝が首を傾げた。
「待て待て、あの船の柱に立つ馬印⋯あれは尼子じゃ。あれは尼子の船じゃ!総大将に伝えよ。尼子の船が来たと伝えるんじゃ!!」
ポルトガルの南蛮船より大きい船が先頭に一隻、その後ろに二隻の船が続く。
小早川隆景は乃美宗勝の横に走り込んできた。
「誠に尼子の船か」
「間違いありません。総大将もあの馬印、見覚えがございますじゃろう」
隆景の目に確かに平四つ目結の家紋が見えた。
「これは⋯大兄上。ありがとうございます。よし、皆の者、この戦勝てるぞー!!」
小早川隆景はらしくない雄叫びを上げた。それに諸将と兵どもが続く。
毛利の気勢が爆発的に上がる。そして見たことのない南蛮船の出現に、大友軍は動揺を隠しきれずにいた。
戦の潮目が変わろうとしている。