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偽典尼子軍記  作者: 卦位


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106/124

第106話 1558年(永禄元年)6月〜7月 豊前門司城

 小早川隆景を総大将とする毛利の軍勢は永禄元年六月十九日、電撃的に豊前門司城に侵攻し、一日で門司城を占拠した。毛利は総勢一万八千の軍勢を揃えた。安芸、備後、周防、長門から兵を集めたのだ。備中は引き続き三村家親が備前の浦上と争っている。毛利軍の主な武将は次の通り

 総大将 小早川隆景

 副将  吉川元春

 参謀  弘中隆包(ひろなかたかかね)

 諸将  仁保隆慰(にほたかやす)

     宍戸隆家(ししどたかいえ)

     乃美宗勝(のみむねかつ)

     三吉隆亮(みよしたかすけ)

     冷泉元豊(れいぜいもととよ)

     児玉就方(こだまなりかた)

     弘中隆助(ひろなかたかすけ)(弘中隆包の嫡男)


 これに能島、因島の村上水軍一万が加わる。


 小早川配下の水軍と村上水軍の助力を受け五千の軍勢が速やかに赤間関を渡った。一万三千の軍勢は対岸の鍋山城、火山城に待機して順に門司城に渡る予定だ。

 これとほぼ時を同じくして、豊前長野城で長野筑後守、筑前山鹿城で麻生隆実(あそうたかみ)、白山城で宗像氏貞(むなかたうじさだ)が挙兵し大友家に対して反旗を翻した。

 また弘治三年七月に大友に滅ぼされ毛利の下に避難していた、秋月種実(あきつきたねざね)が筑前古処山城に帰還し、秋月氏を再興した。同じく毛利に逃げていた筑紫惟門(ちくしこれかど)も肥前勝尾城に復帰した。

 豊前、筑前において一気に支配力の低下を招いた大友であったが、大友義鎮は着実に対毛利戦の準備を進めていた。


 永禄元年六月二十九日。豊後の府内湊に二隻のポルトガル武装商船が停泊した。イエズス会宣教師、コスメ・デ・トーレスが大友義鎮に約束した船だ。大友義鎮はこの船を待っていたのだ。若林鎮興(わかばやししげおき)率いる豊後水軍と打ち合わせを進めさせ、大友義鎮はついに毛利に対して反攻を開始する。

 吉岡長増(よしおかながます)臼杵鑑速(うすきあきはや)吉弘鑑理(よしひろあきまさ)戸次鑑連(べっきあきつら)田原親宏(たはらちかひろ)斎藤鎮実(さいとうしげざね)田原親賢(たはらちかかた)田北鑑生(たきたあきなり)田北鎮周(たきたしげかね)ら総勢二万の軍勢を編成。門司城に向かう途中の交通の要衝にある香春岳城を攻め城主の原田義種はらだよしたねを自刃させ香春岳城を占拠した。

 しかし出陣後に筑前立花山城の立花鑑載たちばなあきとし、宝満山城の高橋鑑種たかはしあきたねが毛利方に寝返るという思いもよらない事態が起こり、大友の先行きに暗雲が立ち込める。国人たちの独立傾向が強い豊前、筑前は治めるのに難しい土地だ。それに大友家中には色々な不安材料がある。ここまで毛利が進めてきた謀略はしっかりと機能している。

 大友義鎮は有力家臣の寝返りに対し、本来の計画を進めるという方針を取る。立花山城も宝満山城も毛利に比べれば重要度は低いと判断したのだ。二つの城から軍勢が攻めてくることはまず無い。自領を固め大友からの独立を目指すであろう。ならば毛利を討つことこそが肝要である。二つの城はその後だ。

 豊前松山城にて補給を行った大友軍は長野城の長野筑後守を攻めることなくそのまま北上。門司城に向かった。

 これに対して毛利は児玉就方率いる水軍と村上武吉率いる能島村上水軍が豊前簑島に上陸し、大友軍の背後を襲う作戦を立てた。


 周防灘を毛利水軍と村上水軍が進んでいく。将船(関船)に乗る児玉就方が見据える先に二つ、船影が見えた。船の影は増えていく。

「豊後水軍か。我らに向かってくるとは予想外じゃ。者共、(おか)に上る前に海で一仕事じゃ!」

 毛利水軍、村上水軍は戦の準備を始める。敵船がはっきりと見えるようになり就方と武吉は先頭を走る二艘の船に目が釘付けになった。兵どももざわついている。

「何じゃ…あれは南蛮船じゃろうが。豊後の奴ら南蛮船を連れてきよったか」

 児玉就方は初めて戦までまみえる南蛮船に思案を深める。

 村上武吉も鋭い視線で南蛮船を見ている。

「図体はでかいの。漕ぎ手はおらん。鈍亀じゃ。後ろの豊後衆に気をつけながら、直ぐに張り付くぞ」

 二隻の南蛮船の後ろに関船四艘、小早が百五十艘ほど。対するは毛利方関船十艘、小早二百艘。村上水軍も関船十艘、小早二百艘。数で毛利方が圧倒している。

「よっしゃ、行けい。大きいだけで動きは鈍いわ。回り込んで焙烙玉をお見舞いしてやれ!」

 先に村上水軍が動いた。村上武吉の下知に従い、いつもの巧みな操船で村上勢は二隻の南蛮船を囲みに行く。距離を取ってほぼ並走して走る南蛮船の外側に小早が回り込み距離を縮めていく。

 その距離が九十九間(180m)ほどになった時、南蛮船の大砲が火を吹いた。大きな音と共に鉄の塊が飛んできて高い水柱を立てる。漕ぎ手の手が反射的に頭を抱える。小早の航行速度はガクンと落ちた。

 砲撃の音は更に続き砲弾が小早に命中する。真っ二つに船体は折れ、乗り手は海に投げ出される。

 村上水軍の気勢は挫かれた。小早の群れに動揺が拡がる。焙烙玉はまだ届かない。近づかなければ…しかし

 ドンドンドンドン。武吉は太鼓を鳴らす。恐れるな。前に進め。焙烙玉を投げ込み、船に乗り込め。儂らは村上。海では無敵ぞ…

 脊髄反射で漕ぎ手は櫓を漕ぐ。舟頭は声を上げる。萎えた戦意を再び立ち上がらせるように。動きを止めた村上の小早たちは再び南蛮船を目指す。

「パーン。パパーン。パン。パンパーン」

 兵の頭上に鉄砲の音が無情に鳴り響く。音がなるたび兵は海に落ちる。またもや櫓から手を離し(うずくま)る兵が増えていく。

 豊後水軍の小早が近づき、村上衆に弓を射掛けてきた。戦局は豊後方に傾いていく。そして。

 ガコッ、バリバリ。ミシッミシッ…メリメリ…

 ついに村上の関船が被弾した。穴の空いた船艇から海水が流れ込む。

「Mire no grande(でかいのを狙え)」

 南蛮船の船長の指示が飛ぶ。砲撃が関船に集中していく。

 バコッ、グワシッ。

 三発目の砲弾を受けた船は動きを止めた。兵たちが急ぎ海に飛び込む。関船は傾き海の底へと沈んでいく。

「くっ、いかんわ。野郎どもずらかるぞ!」

 引き太鼓が鳴る。村上水軍は退却を始めた。だが、少し遅かったか。豊後水軍が村上勢に襲いかかる。必死に舟を回頭させ戦場からの離脱を試みる村上勢だが豊後勢の攻撃に飲まれていく。

 前面で繰り広げられた戦いを見ている児玉就方は次にどう動くべきか考えていた。

(引くべきだが…村上衆を放って逃げては今後の憂いになる。しかたない!)

「村上衆を拾えるだけ拾え!そして引くぞ」

 毛利水軍は村上衆の救助を優先した。引き時が難しい。

 二つの南蛮船はそれぞれ右と左に舵をとる。毛利水軍を挟むように。船体の側面が毛利の船に相対する。

「Experimente algo grande na próxima vez(次もでかいのを狙え)」

 調子の出てきた砲手たちが、毛利の関船に狙いを定める。

「Atirar!(撃て!)」

 船長の号令がかかり、狙いすました砲弾が関船に飛んでくる。間違いなく命中精度が上がっている。

 ドゴッ!ガシッ!バリバリーン!

 砲弾が命中した二隻の関船が沈みだした。

「ここまでだ。皆のもの、直ぐに引けい!」

 毛利水軍も引き始める。左右に拡がった南蛮船は毛利水軍の脇を進み砲撃と銃撃を続ける。

 毛利は上陸作戦を行っているのであって、海戦を意図していた訳ではない。だが豊後水軍は端から海戦を挑んできた。しかも二隻の南蛮船を先頭にしてだ。いわば奇襲を食らったようなもの。毛利、村上の小早は矢と鉛玉を受け続ける。そして兵が次々と海に落ちていく。砲弾は関船に穴を開けていく…。


 この戦いで毛利、村上水軍はそれぞれ六割から七割の船を失った。残った関船は毛利が四艘、村上が三艘。能島村上水軍は継戦能力を失い、能島に引き返していった。毛利も三千近い兵が海の藻屑と消えた。


 豊前簑島沖海戦は大友配下の豊後水軍の大勝利で終わった。









    

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