第104話 1557年(弘治三年)8月 八雲城
尼子義久は多忙な政治日程をやりこなし、しばしの休息時間を過ごしている。将軍視察、当主訪問と異質で驚きを与える行事を成功させ、尼子の行く末を万全にする布石はしっかりと打つことができた。もう少しすればまた京に戻らねばならない。そして八雲にもまた戻ってこなくてはならない。政事の次は…戦が待っている。毛利との共同作戦による対大友戦。尼子主体の戦ではないが、既に尼子と毛利は一心同体。全力で与えられた責務を全うしなければならない。まして戦は水物。何が起こるかわからない。
久しぶりに北山に登り、八雲城と城下町を見ている。以前お菊と一緒に北山に登った時の事を思い出す。もう十年前だ。あの時は八雲城もまだなかったし城下町も整備さらておらず、山陰街道がただ通り、今市に市が立ち始めたぐらいだった。しかし今、町は様変わりし、中国道随一の城下町となった。まだ大きく拡がろうとしている。
「御屋形様ー」
「御屋形様〜」
ほぼ同時に自分を呼ぶ二つの声がした。声の方向に顔を向けると『山ガール』仕様のお菊とお通がやって来る。お菊は満面の笑みを浮かべ、お通は伏し目がちで控えめな笑みをたたえる。
「御屋形様、何も言わずに出ていかれては困ります。私達も山登りは好きなのですよ!」
プリプリと抗議するお菊の横でウンウンと頷くお通。
二人を見ていた義久はたまらない感情が身体の奥から噴き出してくるのを感じた。これは何だ。久しく忘れていた【情欲】が溢れ出す。
「帰るぞ」
ぶっきらぼうに声をかけ、顔も見ずに二人の間を通り抜け少し歩き立ち止まった。
「菊、今夜閨にて待て。明日は通だ」
そう言ってまた歩き出した。
お菊とお通はピタッと止まった。確かに言われた、閨で待てと。
二人の顔が熱く火照る。目は潤み喜悦を湛える。身体が震え腹の下の方がキュンと縮んだ。ついに待ち焦がれた時が来た。想い人に身体を預ける日が来たのだ。
二人は歩き出しお互いを見つめた。
「お菊様、やっとでございますね」
「そうですね、お通殿。やっとですね」
そう言った後、二人は無言になった。三人は話すことなく城に戻った。
湯浴みを終え閨の中で義久を待つ菊は今までのことを思い出していた。七つの時に父から出雲に嫁にいけと言われ失意と恐ろしさに包まれてこの地にやってきた。だがそれは杞憂に終わり、ひたすら忙しい日々が始まった。全く苦にならなかった。楽しかった、本当に楽しかった。そして想い人に出会った。戦国の習わし通りの嫁入りとはいえ、菊の中にその男は深く入り込んできた。気がつけばその男がいない世界など考えられないほどに。そうなると早く祝言をあげ、夫婦になりたくなった。しかし男は言った。まだ早い。身体がしっかりと育つまで待とうと。そのうち側室がやってくることになる。これも当たり前のことなのだが、その時になってまだ祝言を挙げていなかった菊は不安に襲われた。男の心が離れていくのではないかと。
この時、不思議なことが起こり菊は出雲の【巫女】と混然一体となり、この時代の【巫女】となった。同時に不安は消えた。何が起ころうと男を支え、愛し抜く。不動の心が菊に宿った。
だから側室と共に祝言を挙げても構わないし、その後忙しくなるばかりで妻たちを顧みない夫に対してもなんの不満も感じていない。
ただ、心の中に愛する男に抱かれたい、子を授かりたいという思いは溶岩のごとく滾っている。
男がやってくる。聞き慣れた足音。菊の顔に喜びと同時に獰猛な捕食者の笑みが浮かぶ。
ああ、やっとこの腕の中に義久様を抱くことができる。義久様の心は既に私のモノ。私の心はとうに義久様のもの。そして今日は…
夜は更けていく。
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次の日の夜。義久の閨にはお通がいた。お通の胸の動悸は激しい。深く息を吸っては吐いてを何度も繰り返す。だが心の臓は落ち着きを取り戻さない。義久を待つ時間がとても長く感じられる。身体がこわばる。手をギュッと握りしめる。
侍女は言っていた。何も心配することはございません。御屋形様に全てお任せすればよいのです。殿方のしたいようにさせてあげればいいのですと。そうなのか…ならば御屋形様は女性を抱いたことがあるのだろうか?昨日お菊様を抱かれたのは知ってるけどそれよりも前に抱いたことはあるのだろうか…?それはそれで仕方のないことだけど、ちょっと嫌だな。私がその女やお菊様よりも、つまらない女だったらどうしよう。不安が鎌首をもたげる。それを打ち消そうと必死に過去を振り返る。出雲に嫁入りしたときから今日までを思い浮かべる。
真っ先に頭に浮かんだのは、御屋形様が己の秘密を打ち明けてくれた時のことだった。遠い遠い時空の彼方からやってこられたと聞いたときはよく分からなかったが、そのことを他人に話したのはお通が初めてだと言われた時、心がぐわんと揺らいだ。大御所様にもお菊様にも話したことがない秘密を、政事の道具として嫁に入った私に話してくれたのだ。私は御屋形様の『初めて』になり『二人だけの秘密』を持つ関係になった。たまらなかった。嬉しくて嬉しくてたまらなかった。なぜだろう。今だからわかる。私はとっくに御屋形様に恋い焦がれていたのだ。そう惚れてしまったのだ。誰も見たことも聞いたこともない道をズンズンと進み、あらゆる事柄に真摯に、全力で向き合おうとする一人の男の姿に惚れたのだ。
…御屋形様…心に思い浮かべる。息を吸って吐く。ボウっと温かい灯火が胸の中に灯った。いつものように穏やかな笑みが浮かぶ。
トントン、トントン。近づいてくる音。心の臓が早打ちを始める。少し胸が苦しい。でも大丈夫。温かい小さな焔が苦しさを減らしてくれる。
閨に入って来た御屋形様とお通の目が合う
「ほ。。。う。これは」
え、これはとは…何?少し首を傾げ疑問を表した。
にっこり笑いながら、そして目の奥に少しばかり危うい嗜虐心を覗かせながら御屋形様はお通に迫っていった。
今日の夜も更けていく。
次の日の朝。閨の外で御屋形様が出てくるのを待っている牛尾幸清は、ついに痺れを切らし声を上げた。
「うぉっほん。御屋形様、御屋形様」
「どうした、牛尾」
「花押を頂かねばならない書状が随分溜まっております。そろそろお仕事に就かれませんと色々問題が出てきます。よろしくお願いします」
「うーん。分かった。今行く」
しばらくして義久が出てきた。
「よーし。サボった分頑張るか。うん」
腕をぐるぐる回し政務を行う部屋に向かおうとしてチラと牛尾を見る。牛尾幸清は俯き、肩を震わせていた。
「な、どうした牛尾。何があった」
「…御屋形様、拙者は嬉しゅうございます。これで…やっと尼子の跡取りが生まれます。なんとめでたき事か。経久様、政久様、共に安堵しておられるでしょう。このまま奥方様お二人が子を産んでいけば、尼子宗家は安泰。少なくなってしまった一族も増えていきましょう。本当に嬉しい限りでございます」
義久の曽祖父である尼子経久が京極家を引き継ぎ、出雲守護となったときから尼子の飛躍が始まった。しかし将来を渇望された跡取り(尼子政久。義久の祖父)を戦で失い、その後一族同士が戦い合う悲劇を招き、尼子一族は数が大きく減ってしまった。同じ様な悲しみを繰り返すことが無いようにしなければならない。そのことを義久は十分知っていた。だから今までの慣例を排し、家族が集まり共に過ごすことを多く行ってきた。
「牛尾、泣くな。家老が簡単に泣くんじゃない」
「はい、嬉しゅうて…申し訳ございません」
「牛尾殿、政務の前に遅い朝餉を御屋形様に食べていただきとうございます」
そう言ってお菊が近づいてきた。
「これはこれは奥方様、この牛尾、短慮でございました。腹が減っては戦は出来ませぬ。御屋形様、まずは朝餉をお上がりくださいませ」
お菊と共に食事に向かう義久の背中を嬉しそうに牛尾幸清は眺めていた。そして義久が見えなくなると書状が積まれた部屋に向かっていった。