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偽典尼子軍記  作者: 卦位


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第103話 1557年(弘治三年)7月 吉田郡山城、月山富田城、八雲城その他

 尼子義久は青山に作られた祭壇の前に立っていた。横には毛利隆元が同じく立っている。僧侶が挙げるお経が青山に響いていく。

 この地は郡山合戦の時、尼子と毛利、大内が激闘を繰り広げた場所だ。

 読経がおわった。振り返り立ち並ぶ諸将に義久と隆元は向き合う。隆元に促された義久が話し出す。

「私は出雲で生まれ十七年生きてきました。その間にいろんな土地に赴き、最近では遠く京の都まで行っております。しかし吉田郡山に来たのは始めてです。京よりこんなに近いところにあるのに、吉田に来ることは叶いませんでした。やっと来ることが出来ました。とても…とても嬉しく思います。今日を境に毛利と尼子が末永く良き隣人であることを願ってやみません。ご清聴ありがとうございました。」

 義久は皆に向かって軽く頭を下げた。続いて隆元が話し出す。

「尼子と毛利が出会った時、尼子は京極を継ぎ守護として出雲を治めていた。毛利は安芸の国人の一つに過ぎなかった。その後主従関係を結ぶも毛利は尼子から大内に主を代え

 、ついにはお互いに血で血を洗う戦いを繰り広げることになる。我らは戦を望んだのか?決してそうではない、各々が生き残る為必死だったのだ。そして戦いの愚を知り共に生きる道を選ぶに至った。尼子と毛利は今日を境に朋友となり、中国道が日の本で最も民が暮らしやすい国となるよう切磋琢磨していくことを、此処に集う諸将に告げる」

 そう言った後、隆元と義久はお互いの手をしっかりと握りあった。

 歓喜の雄たけびが沸き起こる。毛利麾下の安芸、備後の国衆、城主のほとんどが青山に集まった。備中の三村は浦上との戦の最中なので嫡男の三村元親が名代としてやってきた。周防長門からは弘中隆景、内藤隆治が参加した。


 弘治三年七月。吉田郡山にて尼子家当主、尼子義久と毛利家当主、毛利隆元の当主会談が幕を上げた。

 両国はこの会談の様子を自国と他国に向けて発信した。尼子と毛利の主な城や砦、宿場町には立て札が立ち、瓦版が城下町と主な宿場町で発行された。毛利での瓦版の発行は初めてである。両当主の発言をそのまま載せた瓦版は多くの民百姓に行き渡り、字を読めぬ者にとって読み書きを習う大きなきっかけとなった。

 尼子の発信の動きは凄まじく、京、近江、堺においても大量の瓦版をばらまき、下京の山城屋の店では餅を振る舞い、品物の安売りを行うなど民百姓の耳目を集めた(尼子と毛利領でも餅は配られた)。そして杵築の御師と日吉の神人が会談が始まる前から、行く先々で話を広め、日の本津津浦浦に会談の消息は広がっていった。瓦版は三度発行され会談の様子が紹介された。

 この動きに対して諸国は唖然とした。国同士が盟約を結ぶことはよくあること。しかし当主がお互いの国を行き来するなどあり得ない。騙し討ちされたらどうするのだ。それに其処での当主の発言を知らして回るなど気違い沙汰だ。尼子と毛利は真の阿呆であるのか?何をやっているのだ。理解ができん!もうこの二つの国は終わりだと高笑いする大名や国人たちは結構な数で存在した。

 が、まともな長たちは顔が変わった。三好、六角は既に動き出しているので無視を決め込んでいる。大友は対毛利戦の準備に拍車をかける。武田信玄は上杉謙信との戦いの合間を縫って足利義輝に使者を送り比叡山延暦寺の復興を訴え、同時に畿内の情勢を調べだした。

 長尾景虎も上洛し足利義輝に謁見しようと準備を始めた。


 関東はどうであろうか。源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来、畿内から独立した気風を強く持つに至った坂東武者は畿内の勢力に関しても第三者的であり、それより西の山陰、山陽の出来事にはほとんど関心がなかった。

 しかし関東諸侯の中で唯一、尼子と縁を持つ勢力が存在する。新参者でありながら今や関東一の勢力となった北条氏である。今年は天候不順による凶作がほぼ決まっており領内経営に暗雲が立ち込めている。尼子義久と書状をやり取りする北条氏康はこの尼子、毛利の当主会談を事前に知らされたいた。

「叔父上、この会談どう思われますか?」

 氏康は頼りにする北条幻庵に意見を求めた。

「この戦乱の世において当主同士がお互いの国を行き来するなど狂気の沙汰としか思えないでしょう。しかしそれを公然と行えるならば、今の世の中の流れとは全く違う理を持って動く者と言うことになります。それが良いのかどうか、それで生き抜くことができるかどうかということは拙僧にも測ることは出来ませぬ。殿は尼子殿についてどの様な考えをおもちでしょうか」

 幻庵は氏康の答えを求めた。

「儂は…義久が気が触れた男とは思えん。文の内容、やってくる使僧の話、伝え聞く噂。どれをとっても義久を貶める声は聞こえぬ。勿論鵜呑みには出来ぬ。だからじゃ…叔父上。出雲に行ってくれぬか。しかと尼子を見定めてほしい。北条にとって利になるかならんか、知りたいのじゃ」

 畿内を抑える三つの勢力、三好、六角、尼子。もしそのうちの一つが他の二家を打ち倒したとしたら、畿内にとんでもない大勢力が生まれてしまう。今のままでも北条家と畿内三勢力は拮抗、もしかしたら北条よりも国力は上かもしれないと氏康は思っていた。北条はもともと京にいた伊勢氏である。彼らが畿内を制した後は関東まで覇を打ち立てんと動くであろうという確信めいた思いがあった。負けはせぬ。しかし関東に出張るということは、少なくとも東海道は制しているということだ。今川はどれほど戦えるのであろうか。尾張、三河など直ぐに飲み込まれるだろう。今川との盟約を守り畿内と対峙する道を選ぶのが良いのかどうか。

 近年の西国の情勢を冷静に見ている氏康は、この当主会談を尼子に探りを入れる絶好の機会と捉えた。

「分かりました。不肖、この幻庵が殿に変わって尼子、毛利をしかと見定めてまいりましょう」

 そして北条幻庵は当主会談の十日前、八雲城に到着していたのだ。尼子義久はたいそう喜んだ。会談には参加はできないが、色々行われる催しや会食には特別来賓として参加して欲しいといわれ幻庵は直ぐに承諾した。そしてできれば領内を見学したいと申し出た。これも義久は快諾し筆頭家老である亀井秀綱を饗応役につけた。八雲に着いた次の日から幻庵は亀井の案内により主に八雲城下を見て回った。はっきり言って頭を金槌で殴られたほどの衝撃を幻庵は受けた。これは、このままではいかん。善政を敷き民を慰撫し、豊かな国を作ってきたとの自負は木っ端微塵にされた。全てにおいて尼子は北条を凌駕していた。武においてもそうだ。精強な坂東武者というが、あの尼子軍の統制された動きとこれみよがしに行われる鉄砲の実弾訓練を見た幻庵は、如何に戦えばよいか直ぐに答えを見つけることが出来なかった。

(殿、儂を送り込んだ殿の英断に感謝いたしますぞ。遠く離れていても必ず尼子とは盟約を結ばねばなりませぬ。そしてその任、必ず拙僧が成し遂げてみせましょう)

 幻庵は当主会談が終わった後、尼子と北条が盟約を結ぶための準備を始めた。



 吉田での会談の次の日。尼子義久と毛利隆元は月山富田城に向かった。富田城に着いて吉田郡山城でとおなじく、御子守口の前に作られた祭壇で慰霊祭を行った後、富田城で一泊。明くる日、山陰道を通って八雲城に向かった。八雲城についた日は酒宴を行い、遠く関東から北条幻庵がやってきたことを紹介。毛利隆元は大いに驚くも直ぐに北条と毛利も書状のやり取りを行うことを決めた。

 次の日、毛利一行は横田に来ていた。義久は大きな館の中に一行を案内する。尼子の力の源の一つ、たたら場を見せるためだ。天秤フイゴをみた隆元は目を見張る。

「これは、すごいのう。このフイゴの風で鉄を作っているのか。なるほどのう」

 見入る隆元に義久は一行をここにつれてきた目的を果たそうと話しかけた。

「義兄殿。このたたら場の技、毛利にお教えいたします。ぜひ天秤フイゴを使って多くの鉄を作ってくだい」

「なんじゃと!この技を儂らに教えるというのか!!」

「左様でございます。これから毛利の国造りには鉄がたくさん必要です。尼子の技が少しでも役に立つと思い、お教えすることとしました」

 義久は毛利との盟約を強固なものにしたいと思っている。其の為には両国の経済、軍事的格差が開くのは不味いと思っていた。尼子の発展を更に加速させるつもりだがそれによって格差が大きくなると良からぬ考えを持つものが必ず出てくる。それを抑止するためにも自分と義兄の個人的な交わりを強くし、国力でも対等な関係を構築する。伏せるとこは伏せるがそうでない事柄はどんどん解放すべきだと思っているのだ。

 隆元は考えた。

(義弟は儂らと真に共に歩もうとしておる。そして儂らを己の域まで引き上げようとしている。勿論これ以上の技があるか模索しているのであろう。うむ。ここはいらん意地を張る必要はない。良きもの、取り入れることができるものはどんどん取り込むのじゃ。そしていずれは毛利が教える立場に立てれば良い。まさに切磋琢磨じゃ)

「義弟どの、ありがたく頂戴いたす」

「こちらこそ、快諾していただきありがとうございます」

 この先、種々の先進技術が尼子から毛利に譲渡されていいく。技術だけでなく政や経済開発の手法にに置いても同じことが行われる。今回天秤フイゴだけでなく正条植え、塩水選、干鰯の作り方、新式の網を使った魚の取り方など農業、漁業分野においても協力を行うことが決まった。

 八雲城にて義久と隆元は話し合う。

「義弟殿、上様は何をして京に戻られたのじゃ。八雲に来て何か変わったりしたのかのう」

 義久は問いに答え足利義輝の出雲視察について説明を始めた。

「上様は確かに変わられました。しかし上様の御心は計り知ることが出来ませんでした」

「それは不味いのではないか。上様が敵になるかもしれんじゃろう」

「それは無いと思います。あの様子。何かを覚悟されたのは間違いありませんが、尼子に敵対するとは思いません。現に今、上様の要請に答え京に足利学校を作り人材を育成し奉行衆を再編し上様の直属軍を作っている最中でございます」

「うむ、じゃが万が一上様が敵対したらどうするのじゃ」

「その時は…叩き潰すまで」

「うん、そうじゃのう儂もそうするわ」

「よろしくお願いいたします」

「任せておけ」

 二人は顔を見合わせて笑いあった。

「そうじゃ、出来れば温泉津に行きたいのう。温泉に入ってゆっくりしたいんじゃが。それに今後のためにも旅籠について知りたいしのう」

「んん。よろしいのですか?」

「なにがじゃ」

「奥方様は…大丈夫ですか」

「何を言っとるんじゃ。奥が怖くて当主が務まるか!さては義弟は奥が怖いと見える。ほうじゃろう」

「い、いえ。決してそのようなことはございません!」

「ならば良いではないか。さっきも言ったじゃろう。後学のために行くんじゃ。なんの心配もなかろう」

「ええ。そうですが」

 義久を言いくるめ温泉津に行き旅籠で女遊びをした隆元は(もちろん尼子監督下のしっかりとした女郎さんを呼んでいる)吉田に帰って奥方に大目玉を食らい今後当分の間、出雲行きを禁止される羽目になる。




 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 上京に山城屋の京での二軒目の店が出来た。そこを任されたのは長谷川宗仁。京都の有力町衆で、山城屋が下京に店を出したとき働きたいとやってきて信頼を得、いまや店を任されるまでに至ったやり手である。

 宗仁がいつものごとく開店準備をしていると近づいてくる武士がいる。背中に布で覆われた長物を背負っている。宗仁は声をかけた。

「これはこれは、明智様。お久しぶりでございますな」

「宗仁殿。お目出度うございます。山城屋の店を任されるとは大出世でございますな。某もあやかりとうございます」

「何をおっしゃいます。明智殿の器量を持ってすれば直ぐに城持ちになれますでしょう。して、今はどのようにお過ごしになられていますか」

「はい、正式に尾張の織田信長様に召し抱えていただきました。新参者ゆえまだ足軽の長にもなってはおりませぬ。とりあえず畿内を見て回り益に成るものを見つけてこいとの下命をいただき、引き続きうろうろしております」

「そうでございましたか。ま、お茶でもどうですか。持ってまいりましょう」

「かたじけのうございます」


 明智十兵衛光秀。信長の家臣として京にやってきた。義久との関わりは…今はまだわからない。


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― 新着の感想 ―
さすがは北条というべきか。尼子のヤバさをいち早く気づくとは。 まあ北条は当時としては現代に近い価値観で政をしてましたからね。気づくのは当然といえば当然か。
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