56.馬車の中にて
「本当に、よろしかったのですか?」
ようやく全ての用事を終わらせることができたらしい、マギカーエ王国の面々から。アルジェンティ王子が、報告を受けたらしく。
晴れて私は今日、エークエス王国を去ることになったのだ。
そして、今。
馬車の中にて、何度目かの質問をされて。
「いい加減、納得してくださらないかしら? プルプラとの別れの挨拶はすでに終わっているのだし、他国へ向かう準備は全て整えた状態で、私はあの日あなたを出迎えたのよ?」
「そう、なのですが……」
先ほどから、この調子で。
どこか言いにくそうな、歯切れの悪い言葉尻に。私も正直、面倒くさくなって。
「言いたいことがあるのなら、ハッキリ言ってくださらない? それとも、今さらになって私との婚約が嫌になったのかしら?」
「まさか! そんなわけありません!」
正直、肯定されたらどうしようかと思っていたから。否定してくれて、本当に助かった。
だって彼にそんな風に思われてしまったら、私は生きていけない。
「その……。そうでは、なく……」
「なぁに?」
「その……」
視線を彷徨わせて、珍しく口ごもるその姿は。最初こそ、観察していて楽しかったけれど。
ここまで引き延ばされると、気になって気になって仕方がないのだ。
「とても、その……お尋ねしにくい、のですが……」
「えぇ、なにかしら」
ようやく決心してくれたのか、おそるおそる尋ねてくるその言葉に。先を促すように、私がそう答えれば。
やがてアルジェンティ王子は、重い口を開いて。
「供一人、つけることすらされなくて。本当に、よろしかったのかと――」
「あら、そんなこと」
出てきた言葉は、前置きまでつけてもったいぶるほど、大袈裟なことではなかった。
というかむしろ、この人はあの国での私の扱いを知っているはずでは?
「そんなこと、ではありませんよ。気心の知れた侍女の存在は、本来とても重要ですから」
「本来ならば、でしょう? 私には必要ないわ。そのことは、あなたもよくご存じではなくて?」
「っ……」
いやいや。私は別に、そのことで傷ついていたりはしないんですけど?
なんであなたのほうが、そんな顔をするかなぁ。
「私つきの侍女になったことを、本心では不満に思っているような人物の中から、なんて。わざわざ選んで連れて行きたいとは、思わないでしょう?」
御者台にいるアルジェンティ王子の侍従には、この言葉が聞こえているかもしれない。
でも真実なのだから、仕方がないし。事情を知っていてもらえれば、あとが楽なのも事実。
(というか、いくら自国の王子だからって、普通輿入れする予定の王女と馬車の中で二人だけにする?)
おかげで、なんだかジェンティー・ヴェフコフだった頃の彼と話している気分になってしまって。少しだけ、口調が崩れてしまっているけれど。
咎められたりしない限りは、もうこのままでいいかなと思い始めていた。
「……そう、ですね。確かに、ヴァイオレット様のおっしゃる通りです」
彼も彼で、その頃の呼び方に戻っているのは。もしかしたら、エークエス王国の人間がいなくなったから、気を抜いているのかもしれないし。
どちらにせよ、納得してもらえたのなら、それはもういいとして。
問題は、もう一つ。
「それよりも、アルジェンティ王子」
「あ、はい」
なぜか少しだけ反応が遅かったような気もするけれど、とりあえず今はそれよりも。
「私はこれからマギカーエ王国に、あなたに嫁ぐ身です。それなのに、いつまでも私のことを敬称つきで呼ぶのは、いかがなものかと思うのですが」
そう、これ。
エークエス王国にいた頃なら、まだ分かるよ? 周りの人たちへの印象とかも考えて、わざわざ王女殿下って呼んでたのは。
分かるから、その時には特になにも言わなかったけど。
今はもう、状況が全然違う。
「……そう、でしたね。つい呼び慣れた言葉が、口をついて出てしまって」
少しだけ恥ずかしそうな彼は、一つ咳払いをして。
改まった顔をして、私に向き直ると。
「ヴァイオレット」
優しく微笑みながら、名前を呼んでくれた。
私の頬に、手まで添えて。
「っ……!!」
えぇえぇ、そりゃあもう、破壊力抜群でしたよ。
こっちが赤面してしまって、なにも言えなくなっちゃうくらいにはね……!
「こ、今後はそう呼んでいただけると、助かりますっ」
でも実際、自国の王子に敬称つきで呼ばせてるって、マギカーエ王国の人たちからしたら、あんまり印象はよくないだろうから。
私の今後のためにも、このほうがいいのは明らかだった。
「えぇ。もちろんです、ヴァイオレット」
「~~~~っ!!」
ただ、正直。
耳元で、優しく響くテノールで、囁くように呼ばれるのは。またなんか、違う気がする。
これに慣れる日なんて、私には一生こないんじゃないだろうか。