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りんご中毒

作者: 清水幸


 美術部員が描いている絵は美術室の隅に集められている。選択美術の授業で美術室に行くたびに、その中から私はりんごの絵を探す。君はりんごしか描かない。でも、一枚として同じりんごはなかった。

 構図が違うというのではない。絵心のない私にはうまく言えないが、なんというか表情が違う。前の絵のりんごには華があったが、今の絵のりんごはどこか寂しそうだ。

 そんな感想を言ったらきっと君は笑うだろう。だから私は何も言わない。もっとも君と話す機会もないのだけれど。


 私は河合仁詩を保育園にいたときから知っている。仁詩はその頃から絵を描くのが好きだった。というより、窓際に座って外の風景をスケッチブックに描いている姿しか思い出せない。

 私と仁詩は同い年だが、保育園の頃は私の方がずっと背が高かった。私は外遊びが好きな活発な子供だった。

 絵を描く道具というと私たちにとってはクレヨンだったから、小学生向けの15色の色鉛筆を使いこなしていた仁詩を私は羨望の眼差しで見ていた。

 仁詩は絵を描くのが好きで、私は絵を描く仁詩を見るのが好きだった。私たちの視線が重なることはなかった。


 「お父さんと別々に暮らすことになったから」

 突然母にそんなことを言われたのはそんな頃だった。それまで住んでいた家を出て行くという。二つ年上で小二の兄は父が引き取り、母は私を引き取ることになった。

 私も兄も両親の不仲にまったく気づいていなかった。

 「春花は絶対におれが守るから」

 兄の夏樹は何度もそう言ったが、結局私たちは離れ離れになった。ただ、幸いというか、名字は南のまま変わらなかった。


 新しい家はアパートの一室。隣町にあった。電車で一駅。全然遠くない。引っ越しはするけれど、母が車で送り迎えしてくれるから保育園は今までどおりでよかった。

 ただ、小学校は隣町の学校に行かなければならない。保育園の友達と過ごせる時間はもう半年もなかった。


 その日、私はいつものように園庭で友達とボール遊びをしていた。でも、窓際に仁詩の姿がない。トイレと言って保育室に戻ると、仁詩は部屋の真ん中で誰かが持ってきたりんごを夢中で描いていた。真っ赤なりんごだったが、仁詩の絵の中のりんごは赤くなかった。

 仁詩は絵をのぞき込んでいる私に気がついて手を止めた。

 「絵の中のりんご、本物よりおいしそう。不思議だね」

 仁詩は返事しなかった。戸惑っているように見えた。

 「仁詩の絵が好きだったよ。私はみんなと違う小学校に上がるから、もうすぐ仁詩の絵が見られなくなるけどね」

 みんなと同じ小学校に上がれないことを誰かに伝えたのはそれが初めてだった。なぜそれを仁詩に伝えたのか今でも分からない。ただ、秘密にしていたことを打ち明けて、それで私が必要以上に饒舌になったのは確かだ。

 仁詩の色鉛筆を一本手に持ってみた。それはクレヨンより軽く感じたが、不思議な存在感を私に与えていた。

 「なんで仁詩は絵が好きなの?」

 仁詩はスケッチブックの未完成のりんごを凝視したままだ。

 「ねえ、今度私を――」

 仁詩は私の言葉を遮るように、スケッチブックからりんごのページをむしり取ると、ビリビリに破った。何が起きたのか理解できず、私は言葉を失った。

 「何をしてるの!」

 異変に気づいた先生が駆け寄ってきて、仁詩のスケッチブックの一枚がビリビリに破かれているのを見た。

 「春花ちゃん、仁詩君に謝って!」

 保育室で絵本を読んでいた女の子たちもわらわらと集まってきた。相変わらず仁詩は黙ってうつむいている。

 「謝って!」

 「やだ!」

 仁詩の色鉛筆を握りしめたまま、保育室を飛び出した。

 「逃げた!」

 「春ちゃんが逃げた」

 私は涙を流しながら、女の子たちがはやし立てる声を聞いた。

 私の母が仁詩のお母さんに謝ったけれど、仁詩のお母さんは私を仁詩に近づかせないように先生たちに要求した。

 帰宅後、何十回も母に顔を打たれて泣きじゃくったけれど、私は謝らなかった。母子家庭になったばかりで、父親役もしなければならないと気負いがあったのだろう。母を恨んではいない。

 それから卒園するまで、私が仁詩と話することは一度もなかった。


 それから九年。

 私の部屋の机の引き出しの奥に、あの日返しそびれた青色の色鉛筆が今も眠り続けている。

 小学校、中学校と別々だった私と仁詩は高校で再会した。でも、仁詩はもう私のことを忘れているようだった。違うクラスだからすれ違うこともあまりないが、すれ違っても仁詩は見向きもしなかった。

 仁詩は一年生のどの男子よりも背が高く、バスケ部の上級生に勧誘されているのを何度か見かけたが、結局美術部員となった。仁詩と同じ中学の女子に聞いた話では、中学でも美術部でやはりりんごの絵ばかり描いていたそうだ。

 仁詩はずっと絵を描き続けていた。たったそれだけのことなのに、自分のことのようにうれしかった。

 仁詩と違って全然背が伸びなかった私も、中学と同じソフトボール部に入部した。グラウンドから見上げると美術室がある。練習中、美術室に灯りがついているとなぜかほっとした。

 保育園以来の再会になったのは仁詩ばかりではない。教室の隣の席の倉木奈々もその一人。ただ、奈々は仁詩との件を覚えていて、私をいじめっ子だったと思い込んでいたのには閉口した。

 入学して一ヶ月。私と仁詩はまだ一言も話せていない。

 昼休み、窓の外を眺めながら奈々が言った。

 「私は鳥になりたい。春花はなりたいものある?」

 「りんご」

 奈々の顔に大きな疑問符が浮かんでいる。

 「りんごは空飛べないよ」

 「空は飛べなくても、見つめ合うことはできる」

 奈々がますます意味が分からないという顔になった。

 「よく分からないけど、春花が誰かに恋してることは分かった」

 私は赤面するしかなかった。

 

 兄の夏樹も同じ高校だった。三年生、部活は柔道部。

 「春花は絶対におれが守るから」

 夏樹は九年間そう言い続けた。でも、今のところ特に夏樹に守られた覚えはない。

 夏樹は高校を卒業したら就職するらしい。母は何も言わないが、母子家庭のわが家はなおさら経済的に厳しいだろう。卒業したら私も就職だろうなと覚悟はしている。

 別居している父とは月に一度会っている。二人で会うときもあるし、夏樹がいっしょのときもある。別に嫌いになったわけではないし、会えば外でおいしいものを食べさせてくれるから父と会うのは嫌ではない。

 九年間、母も父も再婚していない。それならまたくっつけばいいと思うが、どうやらそれは無理なようだ。

 「春花はなりたいものはあるか」

 夏樹にも奈々と同じことを聞かれた。

 一瞬頭に真っ赤なりんごが浮かんだ。あまり真剣に夏樹の話を聞いてなかったが、今までの話の流れからすると、夏樹の聞きたいのは進路の話らしかった。

 「保育士かな」

 「保育士って高卒でなれるのか」

 「なれないと思う」

 「そうか」

 夏樹の表情が険しくなった。もっとも夏樹の笑っている顔などほとんど見たことなかったが。


 りんごというと冬の果実というイメージがあるが、スーパーに行けば赤いのも緑のも夏でも普通に買える。もちろん冬の値段の二倍以上するが。

 休日で部活がない日は母と買い物をする。

 「なんか食べたいものある?」

 「りんご」

 苦笑いされてしまった。

 「聞くまでもなかったわね」

 母は並んでいた三種類のりんごを一つずつ買い物かごに入れた。多少高くても文句一つ言わずにりんごを買ってくれるこの母が私は大好きだ。

 ただ一度だけりんごのことで母に怒られたことがある。

 中学までと違って高校には給食がない。毎朝母が早起きして弁当を作ってくれるのだが、その日に限って母は寝坊して弁当を作れなかった。

 「これで途中でパンでも買っていって」

 と言って五百円玉を手渡された。

 私は冷蔵庫にあったりんごを皮も剥かずに切って、それだけを弁当箱に詰めて持っていった。

 夕方、母に怒られた。

 「うちは確かに裕福じゃないけど、そういう貧乏くさいことはしないでちょうだい!」

 「貧乏くさくないよ。男子にはお昼がカップ麺一個という人もいる。その人たちよりは絶対にお金かかってるもん」

 「屁理屈言わないで!」

 それ以来、どんなに体調が悪くても母が寝坊することはなかった。


 ソフトボール部の練習が終わっても、美術室に灯りがついていることがある。

 そんなときは校舎に入って美術室の前まで行ってみる。残っているのはいつも仁詩一人だ。

 机の上に大きな白い皿。白い皿には赤と緑のりんごがひとつずつ。

 仁詩はイーゼルに載せたキャンバスに筆を走らせる。

 廊下からは描いている絵が見えない。見えなくていいと思っている。どうせ次の選択美術の時間に見ることができるのだから。

 それまで、今仁詩がどんな絵を描いているのか想像するのが楽しかった。


 昼休み、奈々はまた窓の外を見ている。まだ鳥になりたいと思っているのだろうか。

 「ねえ、春花」

 「何?」

 「仁詩君とは進展あった?」

 「…………!」

 デザートのりんごがのどにつまって、むせてしまった。

 「何のこと?」

 「いつも春花が美術室で見とれてるりんごの絵は、仁詩君の描いた絵だよね。黙ってようと思ったけど、かわいそうなくらいダダ漏れだから。春花の気持ちに気づいてるのは今のところ私だけだと思うけど、今のままじゃみんなに知れ渡るのは時間の問題だよ」

 まだ窓の外を眺めていて、私の表情を見ないでいてくれる奈々は間違いなく優しい本当の友達だ。でも、私の気持ちを仁詩に知られるのはまずい。どうしようもなく不安になった。

 「もしかすると仁詩も私の気持ちに……」

 「それはないんじゃないかな。誰かが教えないと気づかないと思うけど、仁詩君いつも一人で友達いない感じだし」

 奈々はようやく私の顔を見た。

 「やっと分かったよ。保育園のとき仁詩君をいじめてたのは好きだったからなんだね」

 このタイミングでいじめてないと言い張っても、素直になりなよとたしなめられるだけだから、黙っているしかない。

 「私が仁詩君に春花の気持ちを伝えてもいいけど」

 「ありがとう。でもいいよ」

 「なんで?」

 「たぶん私、仁詩に嫌われてるから」

 仁詩がりんごの絵を破いた場面はもう思い出せない。でも、目の前で絵を破かれたという事実は九年間私の心を暗く照らしてきたのだ。

 「確かにひどいいじめだったもんね……」

 奈々もそれ以上話さなかった。


 よりによって、次の選択美術の授業は昼休み直後の五時間目だった。

 いつものように美術部員の作品の方に寄っていくと、小さな子供を見守る母親のような視線を感じて、振り向くと思ったとおりそこには奈々がいた。

 照れくさいから急いで仁詩のキャンバスを探す。

 赤と緑のりんごの絵はすぐ見つかった。

 暖色系の色ばかり目立つ絵なのに、見れば見るほど悲しい気分になる。そんな不思議な絵だった。

 すっかり絵の雰囲気に染められて、私はとぼとぼと自分の席に着いた。


 「恋をしてるの?」

 何の脈絡もなく母に言われて、またりんごをのどにつまらせた。

 「何、突然?」

 「だって、高校に入ってからいつ見てもりんご食べてるから」

 「恋するとりんご食べたくなるの?」

 「だいたい女の子って恋するとダイエット始めるから」

 「ダイエットなんてしてない!」

 「恋は?」

 返事につまった。どうやら私の恋心は本当にダダ漏れらしい。美術の時間の奈々みたいな笑顔の母。

 「お風呂入る」

 私は部屋から逃げ出した。


 次の日の昼休み、私は相変わらず奈々から母親のような優しい視線を向けられていた。

 「お兄さん来てるよ」

 奈々に言われて廊下を見ると、いつものように不機嫌そうに夏樹が立っている。

 「恋してる春花が心配なのかな」

 「いくらなんでも夏樹にバレてるわけないよ」

 何しろ堅物で、勉強と部活以外のことは眼中にないタイプだ。

 とりあえず廊下に出ていった。

 「どうしたの?」

 「おまえ、保育の学校目指せよ」

 「えっ」

 「学費なら心配ない。おれが就職しておまえの学費貯めるから」

 「うれしいけど、なんか悪いよ」

 「気にするな。春花は絶対におれが守ると約束したからな」

 「ありがとう……」

 胸がきゅんとなったが、夏樹は相変わらず不機嫌だった。

 「それから恋愛するなとは言わないが、学生の本分は勉強だからな」


 昼休み明けの次の時間はまた選択美術の授業だった。

 さすがに仁詩の絵を見に行く気にはなれなかった。夏樹にバレるようでは、確かにクラスメイトに知られるのも時間の問題だと思われた。

 でも、結局私は仁詩の絵を見に行かずにはいられなかった。自分でも馬鹿だなと思った。

 二つのりんごの絵はたった一日で信じられないほどの変貌を遂げていた。

 さまざまな色合いで重ね塗りされることによって、昨日悲しいだけに感じられた絵の持つ雰囲気はより深みを増していた。悲しいながらもその絵には希望があった。

 思わずキャンバスを手に取ってしまった。その絵には力があり、描かれたそのりんごは愛そのものだった。

 「南さん、河合君の絵がどうかしましたか」

 突然、美術教師で美術部顧問の飯田に話しかけられて、私はパニックを起こした。

 「いえ、あの……」

 私の手を離れたキャンバスはそばにあったイーゼルに当たって床に落ちた。

 元に戻そうとしてキャンバスを拾い上げた私は絶句した。

 キャンバスが縦に十センチ以上破れて、破れたところから木枠がのぞいている。

 絵を持ったまま呆然と立ち尽くす私に、奈々たちが駆け寄ってきた。

 奈々と同じく保育園からの知り合いの岩井文が言った。

 「春花、また仁詩君の絵を破いたの?」

 「また?」

 と高校からクラスメイトになった坂野小百合。

 「仁詩君、保育園の頃から絵を描くのが好きだったんだけど、当時いじめっ子だった春花によく破かれててね」

 「ひどい!」

 「違う……」

 「今のはわざとじゃないと思うよ」

 奈々が助け舟を出してくれた。

 「奈々は高校入ってから春花と仲いいもんね。私は仲良くなんてできないけど」

 「私も無理」

 文と小百合は言うだけ言って行ってしまった。

 「南っていじめやるようなやつだったのか」

 「部活がんばってたからおれもだまされた」

 近くの男子たちがひそひそ言うのが聞こえた。というより聞こえるように言っているのかもしれない。

 「春花、落ち着いて。いっしょに謝りに行ってあげるから」

 「やだ!」

 私は絵を飯田に押しつけるように渡して、教室を飛び出した。

 「逃げた!」

 九年前のあの日と同じ声が私を追いかけてきた。泣き顔を見られるのが嫌で振り返ることもできなかった。


 私は黙って家に帰ってきてしまった。母は仕事でいない。しばらくして電話が鳴った。学校からだろう。私はようやく冷静になって、家に帰ってきたことを後悔した。

 電話はやはり担任からだった。担任は飯田から事情を聞いていた。明日必ず仁詩に謝ると担任に約束した。

 嫌われてようが、さらに嫌われようが、謝るしかない。仁詩から逃げることは自分の気持ちから逃げることを意味した。どうせ逃げたって逃げ切れない。九年前、自分の気持ちから逃げようとして結局九年経っても逃げ切れなかった。


 夕方、母が帰ってきた。さらに夜のパートに出る日もあるが、今日は非番だった。学校を無断早退したことは言えなかった。

 「今日は部活なし?」

 「中間テスト一週間前だから部活なしだって」

 それは本当だった。

 呼び鈴が鳴って、玄関に出ていった母が心配そうに戻ってきた。

 「春花に用があると言って河合仁詩という人が来たのだけど、昔春花がいじめてたあの仁詩君だよね。同じ高校だったの?」

 私は玄関に飛んでいった。

 「仁詩……君?」

 九年前と違って本人の前ではもう呼び捨てでは呼べなくなっていた。

 「お兄さんに君の家の行き方を教わって……」

 「とりあえず上がって」

 キッチンにあるテーブルの私の向かいに座ってもらった。

 「仁詩君、ずいぶん背が伸びたわね」

 母が世間話を始めたが、私は無視して本題に入った。

 「今日はごめんなさい。明日必ず謝ろうと思ってたんだけど」

 「何があったの?」

 「仁詩君の絵を破いてしまって……」

 「春花、あんたまた仁詩君をいじめてるの?」

 「違う……」

 「すいませんでした」

 仁詩がテーブルに顔がつくくらい頭を下げた。

 「九年前、絵を破ったのは僕です」

 仁詩は頭を下げたまま話しつづけた。

 「明日春花さんが僕に謝ると言ってると飯田先生から聞いて、先に謝るのは僕でないといけないから春花さんの家まで来ました」

 「どうして絵を破いたの?」

 母は仁詩を責めてはいなかった。口調からは好奇心しか感じられない。

 「春花さんが別の小学校に上がると聞いて悲しくなりました。僕は春花さんが見ていてくれるから絵を描いていたんです。春花さんがそばにいないなら絵を描く意味がない。それで破ったんです」

 母はため息をついた。

 「九年前、そのことで春花をずいぶんひどく責めてしまった。何度も顔を打ったりして」

 「すいません。全部僕のせいです。ずっと謝ろうと思ってました。こんなに遅くなってすいません」

 今さら母を責める気はない。かえって正義感ゆえの母の振る舞いを私は誇りに思う。

 「でも、九年間絵を描き続けてたんだよね。やめないでくれてよかった」

 「君がりんごの絵をほめてくれたから、りんごの絵ばかり描いていた。りんごの絵を描いてれば、いつかまた君が見てくれるかと思って」

 「りんごの絵じゃなくても、きっと私は君を見ていたよ」

 ようやく仁詩が顔を上げた。私たちはもう目をそらさなかった。

 「積もる話があるみたいだから、お部屋で話したら?」

 母に促されて私の部屋に移動した。

 「君にもう一つ謝らないといけないことがあるんだ」

 机の引き出しから一本の青色の色鉛筆を取り出した。

 「九年前、君が絵を破った日から返しそびれてた。ごめんなさい」

 「謝らないで。僕らはずっと離れ離れだったけど、僕の色鉛筆が君のそばにあってよかった」

 「君が絵を破く直前、私が何をお願いしようとしたか君は知らないよね?」

 仁詩は静かにうなずいた。

 「君に私の絵を描いてほしいと言うつもりだった」

 「今描けと言われたら今描くよ」

 「この青色の色鉛筆一本で描いてほしい」

 九年ぶりに色鉛筆を返した。手渡した瞬間、じかに手が触れたような温かさを感じた。

 中学の美術の授業で使ったスケッチブックが押し入れにあることを思い出して、白いページを開いてそれも手渡した。

 「カッターある?」

 仁詩は渡したカッターで色鉛筆の芯を削り出した。木が削られていくたびに、九年かけて私たちの心にこびりついたものも剥がされていく気がした。

 「どんな表情をすればいい?」

 「君がしたい表情をすればいい」

 言われたとおり私のしたい表情をした。九年間できなかった表情を。私はこの表情で、君が絵を描くのを見ていたかっただけなんだ。

 初めほとんど動いていないように見えた仁詩の手先は時間が経つにつれて、まるで踊るように生き生きと躍動していった。

 時間を忘れて私は君を見つめている。君も私を見ている。私はようやく君のりんごになることができた。

 仁詩の手の動きが止まった。そしてスケッチブックをじっと見つめている。

 「描けた」

 仁詩はスケッチブックを私に手渡した。とても一本の色鉛筆で描かれたとは思えない自由自在な作品だった。青一色しか使われていないのに、その表情には悲しみと対極をなす想いがあふれていた。

 さっき君は気づいたのだろう。このりんごは恋をしている、と。


 【完】

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