1話:からへ
8月上旬。魔竜騒動から約1月が経過した。あれ以降、川津堂に大きな依頼が舞い込んでくる事は無く、戊級や丁級に相当する怪異を数件解決したくらいで、ここにとってはそれほど変わり映えのない日々を繰り返している。
そんな川津堂の庭の一角。まだ空気が温まる前、本来であれば涼しく、過ごしやすい時間帯だと言うのに全身を汗で濡らしながら、自分の身の丈よりも一回り以上長く、その太さは自分の二の腕ほどある樫で作られた木刀と言うよりも巨大な棍棒を、地面に突き刺した丸太へと幾度となく打ち込んでいる人物が1人。秋だ。
1番使う得物である太刀よりもさらに重く長い棒。これを普段の修練で使うことで、実戦で太刀やその他の武具をより容易に扱えるようにするために、このような代物で基礎の筋力や体力を鍛えている。
棍棒と丸太がぶつかる度に、銃声の様な音が鳴り響く。
長い間使われているのだろう丸太の左右はすり減ってくびれており、人体で喉の部分は大きく窪んでいる。
「......」
何百回目かも忘れた打ち込み。樫の棍棒が大きな音と共に、半ばから折れる。高速で回転しながら破片は飛んでいき、壁に当たり地面に落ちる。
「ふぅ」
短く息を吐き出して、近くの岩に腰を落とす。手元に残った棍棒の一部は、その途中で他にも3本同じ状態の物が置かれている場所に丁寧に置く。
いつもの道着。上衣は熱いためか脱いでおり、鍛え上げられた肉体が露になっている。胸部にこそさらしを巻いてはいるものの、普段の衣服の上からでは窺い知る事の出来ない筋肉質な体。それは決してボディビルダーの様な巨躯の筋肉ではないが、限界まで無駄を削ぎ落し、あくまで戦場において武具を十全に振るい、敵対者を討ち滅ぼすために鍛えられた魅せるではなく、殺傷する事にのみ特化した筋骨。全身の傷痕は、秋が越えてきた死線の数々を物語っている。
その手も綺麗と言えるものではない。武器を握る掌は何度も肉刺が出来ては破壊と治癒を繰り返した事で、その痕が癒える事無く残り、手全体は過度な部位鍛錬の結果変色し、針が刺さらない程に皮膚が硬質化しており、指先も同じような理由で潰れている。
どれほど厳酷な修練を何年何十年と繰り返し、幾つの死地を生還したらこの様な体になるというのか。
「......」
武芸の道に捧げてきた生。当の昔に、素手で石膏だろうが鉄塊だろうが、躊躇いなく殴打できるようになっている。その後に手足が砕けようとも、それを恐れる心は無い。
以前から常軌を逸した修練をしていた秋であるが、ここ最近はより過酷な訓練を己に化している。成碑王、その後の魔物との戦闘。それにおいて負傷しすぎた自分の弱さへの失望と嘆き。それ故に鍛錬はより一層、仮にも現代に生きるものとした場合、狂気と言える内容へと様変わりしていた。今日、あれで樫の棍棒が折れるのは4本目だ。
五ツ刻か。
明朝4時に始まった修練は、気が付けば時刻は8時となっていた。4時間にも及んだ鍛錬で流れた汗を流すため、秋は立ち上がって井戸へと向かう。井戸は屋敷の裏手にあり、少しばかり歩くと着くことが出来る。石が幾つも積まれ、円形をなしている一般的に想像される作りとなっている。
「......」
秋は井戸に一礼する。そうすると井戸の中から顔だけを出していた井守が、水を使う事を了承するように中へと戻っていく。
滑車に通された縄を引き、水の入った桶を引き上げる。それを頭から被れば、冷水は体の芯から火照っていた熱を、外側から急速に冷ましていく。同じことを数回繰り返すと汗は綺麗に流れ落ち、我を失っていたように荒れ狂っていた肉体の熱も、正気を取り戻しかの様に急激に冷えていく。
「先生、鍛錬お疲れ様です。お食事のご準備が出来ましたので、お知らせに参りました」
後ろから月がそう言ってくる。
髪の毛や指先から雫を滴らせながら、秋は半身だけ後ろを振り返る。それは何てことない、ただの水滴だ。しかし不思議と、その垂れ落ちる水の粒は、光り輝く真珠の様に秋の立ち姿を飾る。
嗚呼、水も滴る―――とはこの事を言うのだろう。
「ああ、分かった。着替えたらすぐに行く」
「......畏まりました。それとこちらお使いください」
洗練され、研ぎ澄まされた日本刀を見て美しいと思う様に、秋にはそれに酷似した雰囲気のようなものがある。天下五剣の一口に数えられ、その美は天下随一と称される三日月宗近が、人の形を成した姿と言われても信じてしまいそうな姿。
月は本の一瞬その佇まいに見惚れ息を呑むが、すぐに我に戻り清潔な白いバスタオルを両手で秋へと手渡す。
「ありがとう。使わせてもらう」
「いえ、当然の事ですので......それでは、お部屋にてお待ちしております」
「ああ」
粗方水気を拭きとり、秋は自室へと着替えるために歩き出す。
そう時間はかからず着替え幾つか品物を持って、普段食事に使っている部屋の襖を開けて中に入る。
20畳の和室。その中央には一枚板の座卓が置かれ、その上には月が作った胡瓜や茄子などが入った冷や汁、だし巻き卵、焼き鮭、ほうれん草のおひたしや洗い盛り付けられたぬか漬けなど。他にも幾つかの小鉢が無機質な座卓を彩っている。器は基本的に硝子か磁器製の代物で、涼しげな雰囲気となっている。一言で言えば豪勢、その言葉に尽きる朝食だ。
「今ご飯をおよそい致します」
そう言って月は陶磁器の3個のお茶碗に玄米をよそう。最初は神棚に、次は秋が座る所へ、最後は自分のと言った具合だ。
2人は茶碗を額のあたりまで両手で持ち上げ、目を瞑る。
「たなつもの 百の木草も 天照す 日の大神の 恵み得てこそ」
「たなつもの 百の木草も 天照す 日の大神の 恵み得てこそ」
それは今でいう所の「いただきます」を意味する祈りの言葉だ。大意は太陽の神と自然の恩寵があるからこそ、こうして不自由なく毎日食事が出来る。それは、ありがたい事ではないか。そのような意味が込められている。「いただきます」で済ませる事もあるが、神棚の御前で食事する際は必ずこの文句を唱えている。
その後、2人は食事に手を付ける。味はどれも大変美味なものとなっている。料亭などの様な専門店にこそ劣るものの、家庭料理と枠組みの最上級である事は間違いない。
秋は料理が出来ない。厳密には出来ない訳ではないが、やろうと言う気力が無い。それには昔の生活が大きく影響している。
見習い時代、師父は食事と言う行為を必要としないかったがために、料理をする事は無く、秋を弟子に取るまで食材の確保をすることも無かった。秋を教え子として一緒に行動するようになってからは、食べ物を持ってくるこそあれど、それは下処理もされてない野兎や鹿、時には猪や熊の肉や臓物が味付けもされず、ただ焼いて出され、秋はそれを食べてきた。当然、口が裂けても美味しいとは言えないものだったが、すぐに慣れた。
1人立ちしてからも同じような食生活を続けていた。野山を駆け、野生動物を狩り、その血肉から臓物に髄液に至るまで、全てを余すことなく感謝しながら喰らい、己の糧とする。
そして約5年前、月を弟子として迎えてその食生活は終わりを告げた。
随分と人間的な生活になったものだ。
「月、渡すものがある」
秋は食事を終えると、そう言って、横に置いていた前腕ほどある細長い檜の木箱を2つ、座卓の上に移動させる。
「新しい黄金の矢だ」
開けられた蓋。中には紫色に染色された絹布に包まれていた黄金の矢。当然、純金で作られた代物で、徳の高い僧侶の手により神呪が刻まれている。これ1本でその時の相場によって多少の変動はあるが、約30万。使えるのは1度だけだが、値段相応の効果を有している月の奥の手とも言える黄金の矢。重量もかなりあり、通常の弓では数メートルも飛ばない。月の持つ強弓繊月ゆえに放てる一品だ。
「これほど高価な品を、早急に手配して頂き何とお礼を申し上げれば良いのか......深謝に堪えません」
姿勢を正した月はそう言い、頭を下げる。
「気にするな。他に鍛錬や仕事に必要なものがあれば、何でも言え。用意しよう」
「お気遣いありがとうございます。その際は、恐れ多いながらも申し上げさせて頂きます」
「ああ。それで次だ」
2つ目の木箱は蓋を開けず、そのまま月へと渡す。
「開けてみろ。気に入ると良いんだがな」
「分かりました。気に入る、ですか?」
そう言いながら月は箱を開ける。同じように質の良い布に包まれて、1つの首飾りが入っている。ペンダントトップには中指ほどの大きさがある、柱状の水晶がついている。色は斑のない均一な蕩けてしまうしまう程に淡く美しい橙色。
「少しばかり早いが、もう少しで誕生日だろう? 贈り物だ。蜜柑水晶と呼ばれるものでな、かつて日本で採掘された物だ。不浄を払う力がある。櫛は壊れてしまったから、その代わりだとでも思ってくれ」
「あ、あ、ありがとうございます!」
黄金の矢にも勿論感謝していたが、こちらの喜びはその比ではない。普段の感情の制御を忘れ、心底嬉しいと言わんばかりに目を輝かせ、月は謝意を伝える。別に、水晶蜜柑や首飾りが以前から欲しかったわけではない。秋からの誕生日プレゼント、それだけで嬉しいのだ。
「喜んでもらえたようで何よりだ」
感情抑制については特に咎める事は無い。
その時、1度だけ鈴の音が鳴る。
「どうやら客人のようだな」
鈴の音。これは川津堂に張り巡らされた防衛機構の1つ。川津堂は2つの大結界と無数の中小結界によって、要塞の如き堅牢さを誇っている。今の鈴の音は小結界に分類されるもので、1度だけ鳴れば一般人、2度鳴れば霊力持ち、3度鳴れば異常存在の侵入、4度の場合は明確な悪意を持った敵性存在が入って来た事を意味する。そして3度4度鳴った場合、各所に設置された鈴はその侵入者が居なくなるまで鳴り続き、鈴の音に付与された浄気を放ち続ける役目がある。
「私は行ってくる」
そう言って秋は部屋を後にする。
「暑いなぁ......」
水色のフレームのロードバイクを傍らに置いた、サイクリングウェア来た女性が1人、川津堂の門の前で汗をタオルで拭いている。拭き終えれば、全身に軽く冷却スプレーを噴きかける。それは香料にシトラスが使われており、それによって齎される涼しさや香りは暑さを忘れさせてくれる。
「汗臭くは......無いね。良い奴買って良かった~」
今にも鼻歌を奏で始めそうな上機嫌な女性は、大型のサドルバッグから幾つか荷物を取り出す。中には幾つもの保冷剤が入れられていたようで、その大部分は溶けてはしまっているものの、外気とは隔絶した冷気がバッグの中を支配していた。
女性は門前で1度深冷をしてから、中に入る。
石畳の上を歩く女性は手入れの行き届いた庭を見ながら、玄関へと向かう。その庭を向ける眼は、物珍しさや緊張などではなく、懐かしむかのような視線だ。それもそうだろう。彼女が川津堂を訪れるのは、これで2度目なのだから。
最後の石畳に足を移した時、音を立てながら玄関の戸が開く。
「6年ぶりだったか......久しぶりだな」
「は、はい! お久しぶりです秋さん!」
背を真っ直ぐ伸ばし、少し顎を引いて女性は元気よく挨拶する。好きな芸能人や憧れの人、そう言った人物に会ったかのように僅かに声を上擦らせ、目を光が反射する水面の様に輝かせている。
天星 日那子。6年前、彼女は呪術的儀式によって生み出された呪物に命を狙われていた。それは大抵の人を見下ろせるほどの巨躯を持ち、頭部はシャコ貝、風船の様に膨らんだ人間の体は暗赤褐色で、所々に海藻が生え、両手の平から肘のあたりまで無数のフジツボの様なモノが寄生している呪物。開いた貝の口からは絶えず蛆虫と蝦蛄が合わさったような存在が溢れ出し、悪臭をまき散らしながら神出鬼没で現れるその存在を、秋は海鬼と呼んでいた。
「あの後は何も無いか?」
「はい。おかげさまで、何事もなく過ごせてます!」
客間に移動した2人。開けられ濡れ縁に通じている襖。そこから山の風が室内に入り込み、その際に青銅製の風鐸が、風鈴の鈴虫の鳴き声にも似た軽く爽やかな音ではなく、何個もの空き缶を束ね、引きずった時の様な音を響かせる。
卓上には2人分の麦茶と、日那子が持ってきたカステラを小皿に取り分けておかれている。
「それでは話を聞こう」
少しばかりの雑談を終え、秋はそう切り出す。
川津堂は、助けが必要な者の前に現れる場所だ。茶飲み話に来る場所ではなく、一部の例外を除いて、ここに辿り着けるのは川津堂に助けを求める者だけだ。
日那子はまだ雑談がしたかったのだろう。口惜しさを感じながらも、ここを訪れた理由を説明し始める。
「6年前、私が海鬼に狙われ始めてから数日して、お父さんが蒸発しました」
それが、海鬼による仕業なのかは分からない。ただそれが原因となったのは間違いないだろう。日那子の父洋平は何の前触れもなく姿を消し、今も帰って来てはいない。父親から母親は日那子が幼い時に病死したと伝えられており、彼女が認知している親類縁者は父親だけだった。
日那子が知る限り、父は突然、自分や職場に何も言わず失踪するような人ではない。父子家庭ではあったが、彼女は生活を不自由だと感じた事は無かった。今思えば大変な事だろうとは知識で分かってはいるが、金銭的にも学校行事や家庭に近所付き合いなどなど、どれも欠ける事無く洋平は奔走していた。
優しく評判のいい自慢の父。だからこそ、行方を晦ませた当初は彼女自身も、そして周囲もすぐに帰って来るだろうと思っていた。しかし現実、結局帰ってくることはおろか、何か手がかりが見つかることも無かった。
「この前、お父さんの部屋を片付けていたんです。決して諦めた訳ではありません。今でも、帰ってくると信じています......」
そうは言っているもの、その言葉には隠し切れない諦めと悲しみが混じっている。
行方不明から7年経てば失踪宣告と言うものが申請できるようになる。これが受理されれば、失踪者は死者へと変わる。申請する受理されるされないに限らず、7年も音沙汰が無ければ少なくとも生きてるとは見られないだろう。それがもう1年足らずでやって来る。日那子からすれば、昏睡状態で危篤だった父親の余命宣告の様なものだ。
「もしかしたら、失踪した事の手掛かりがあるかもしれないと思って片付けてたら、これが出てきたんです」
そう言って卓上に1冊のノートを置く。表紙は色褪せ、縁は折れて破れ欠けている部分もある。開けば中は黄ばんでおり、それどころか一度水に落ちてふやけたのを適切な処理ではなく、自然乾燥に任せたのであろう、無数の皺が刻まれ捲る度に薄氷が割れるような音が聞こえる。文字も殆どが滲んでおり、読めたものでは無い。
「殆ど読めませんでしたが、何とか2つだけ読めた......と言うよりも、沢山出て来てたので何となくわかったんですけどね。良く沖星島と沖星神社と言う言葉が書かれてるんです。ネットで調べたら神社の方は出てこなかったのですが、島の方は少しだけ情報が出てきました。宮崎県宮崎市の沖合約10㎞にある有人島、その名前が沖星島でした。人口は151人、島の中央を抉るように入り江が形成されていて、そこには巨大なブルーホールがあるみたいです」
ブルーホール。浅瀬が何らかの要因によって、穴の様に落ち窪んだ地形。最も有名なのは海の怪物の寝床と呼ばれ、現地住民から恐れられているカリブ海の国ベリーズのものがある。シナイ半島にある別のブルーホールは海の生物の楽園であると同時に、数多の熟達した技術を持つ潜水士の墓場として名を馳せている。
古代の人々は海に何を見て、何を感じたのか。未知への憧憬か、或いは恐怖か。神話や伝承などに見れば、その両方なのだろう。海が人に齎すものは恩恵だけではない。嵐、津波、それらによって発生する海難事故などの破滅をも、海は平等に人に齎す。その圧倒的な暴威に畏怖し、そこに神や魔物を想起する姿は想像に容易い。
「私は沖星島に行くつもりです。そこで秋さんには私の護衛、そして一緒にお父さんの捜索と失踪の謎を解明して欲しいんです。依頼料は前金として30万、依頼完了の際には追加で30万お支払いします。大変危険な事だとは理解しています。でも、頼れるのは秋さんしか居ないんです......!」
正座したまま座卓から少し離れた日那子は、畳に額が着きそうなほど深々と頭を下げる。
これは簡単な依頼ではない。
島とはこの世ならざる場所。文明、科学の光が世界の大部分を照らす現代となっても、その光の届かぬ暗部は存在する。古代であれば、その様な土地の方が多かった。特に山間部と離島は。
神が降り立つ場所、魂が還る場所、邪悪な存在が封印された忌み地、一切の苦悩が無く幸福に満ち溢れている理想郷。それらが古代の人々が海の果てに見たもの。
「......」
秋は書かれている限り最後のページを見る。滲んでいる事も関係しているだろうが、秋はその眼によって、元々ここにはまともに文字と呼べる代物が殆ど書かれていない事を理解していた。蚯蚓がのたうち回ったかのような、狂気に囚われながら書いた文字らしきものの羅列。
『忌まわしい因縁に蹴りをつける』
この日記はその一言で締めくくられている。
沖星島には間違いなく日那子の探し人は居るだろう。生きているか死んでいるのか分からないが、6年も音信不通な事を考えれば無事ではない事は明白だ。そして、この島には6年前に呪詛を送って来た厭魅師が居る。
自殺行為だ。
海鬼の一件以降、再び呪いが来る事は無かった。1度阻止されただけで、諦めるほどでしかない怨みだったのか。その考えをすぐに秋は否定する。アレは、その程度の熱意で作れる呪物ではない。人間の死体を利用した呪物。そんな代物を送って来た人物がたったの1度邪魔されただけで諦めるだろうか。
この国において遺体を入手するのがどれほど大変な事か。墓荒らし、死体購入、殺人による入手はどれも数年も露見せずに行うのは非常に難しい。墓地の警備の強化、死体売買は売る側のリスクの大きさ、殺人事件にしても警察は優秀だ。6年も報道されず隠し切る事は厳しい。
だが、沖星島にはそれらの全てかどれか、または別の手段を以て、秘匿を可能とする厭魅師が居る。
恐らく厭魅師はまだ日那子を呪い殺す事を断念していない。この6年間、そいつが無為な日々を過ごしていたとは考えにくい。
「......」
今、この時期に日那子がこの日記を見つけ読み、沖星島に行く決意をした事は果たして偶然か? 或いは仕込まれ必然とされたことなのか。
幾ら考えても答えなんてのは出ない。島に行かねば分からない。
「分かった。受けようその依頼。だから頭を上げてくれ」
「あ、ありがとうございます!」
そう言って顔を上げたかと思えば、また下げる。その表情は濁流に吞み込まれてしまいそうな中、必死に木にしがみ付いていた所を救助して貰ったかのような、生きる事を諦めかけていた者が希望を見出した時のようだ。
再び秋に催促された日那子はお辞儀を辞める。
「沖星島に行くのはいつの予定だ?」
「秋さんが良ければ、今すぐにでも大丈夫です!」
「それで言うと、私は大丈夫ではない。護衛だ。こちらも相応の準備をしなければいけない」
「そ、そうですよね......すみません」
「今日中に準備は済ませる。また明日来てくれ。だがその前に、念のためにやっておきたい事がある」
秋は近くの小引き出しから鋏と爪切り、1つの麻布の巾着を取り出す。
その後、秋は顔色を変えず自分の髪の毛を1本抜き、切ったばかりの10個の爪を巾着に入れ、口を二度と開かないくらい堅く閉じる。
「これは簡易的だが呪いへの防衛手段だ」
そう言いながら日那子へ巾着を渡す。
「防衛手段ですか?」
「ああ。呪いへの防御方法が幾つかある。これは日那子を私と誤認させるものだ。そうする事で、来た呪いを私の所へ移させる」
「え!? 危ないですよ!」
それは普通であれば危険な手段だ。抵抗する手段を持っていなければ、移動してきた呪いに命を取られることになる。普通、この方法を取るくらいなら他人に移すのではなく、人形や形代と言った代物へ呪いの対象を動かしたり、単純に御守りや護符を持って弾くのが無難だ。
しかし秋は普通ではない。呪い殺す術を探す方が大変な程の祓魔師だ。上記の防御手段では、強力な呪いが来たならば持てば1回、強すぎた場合そのまま守りを打ち破って来る可能性もある。それくらいなら、いっその事秋へ移して、秋が祓った方が確実性が高い。
「依頼は受諾した。護衛を頼んでおいて、危ないですよは無いだろう」
「えっあった、確かにそうですね......」
「基本的に依頼者の意向に従うが、護衛する観点から幾らかこちらに従ってもらいたいのだが良いか?」
「はい! ちなみに、どんなのでしょうか?」
「まず島への上陸は非正規で行う。私たちの上陸は余程の事が無い限り、島民に気が付かれてはいけない。行動する時は私が隠形法を始めとする認識阻害の術を使うが、それも万能じゃない。目撃された場合はこちらで暗示を使い、私たちに会った記憶を思い出せないようにする。島内の物を食べる事も禁止だ。島において私たちは存在しないものになるために、徹底して痕跡は消す。拠点には人除けの結界を張り、3日以上同じ地点に拠点は置かず、その時は別の場所に移動する」
まるで全国に指名手配された凶悪犯の逃亡劇。いやそれ以上の徹底した痕跡の抹消だ。もしこれが上手くいけば、秋たちは沖星島に居ない存在として活動を続けられる事だろう。だが、疑問に思う。なぜそこまでして、幽霊のように行動しなければいけないのか。
「なんでそこまでして......?」
当然、理由がある。秋が依頼で隔絶された地域に行くのは何も今回が初めてではない。これは経験と伝承に見られる事象による、教訓から来るものだ。
「冥界、楽園、異界。それが島だ。そこにおいて、来訪者は人間ではなくなる」
『人物名簿』
高羅目 秋
性別:女性
年齢:不明
身長:177cm
体重:112kg
誕生日:不明
出身地:栃木県
所属:本山
等級:乙級祓魔師
趣味:鍛錬
ノーギアベンチプレス:240kg
好きな食べ物:カステラ。ジビエ料理
嫌いな食べ物:特になし。飲み物ではあるが清涼飲料水は好まない
日本刀の様な印象を与える女性。一人称『私』。『万能の祓魔師』と呼ばれ、『準甲級』と評される。
日本三大退魔組織『本山』所属の手練れの祓魔師。武芸のみの戦いであれば甲級祓魔師さえも、条件付きではあるが凌駕するとされる。しかし秋に勝る強者が何人も居るのも事実。
ミオスタチンの突然変異によって筋密度が異常に高く、それに耐えるためか生来の骨も異様な頑強さと密度を誇る。衣服を着ていれば中肉中背の健康的な女性に見えるが、その下には神から与えられたとしか考えれられない肉体が潜んでいる。その拳の一撃は容易くコンクリートブロックを粉砕する。体重が非常に重いのも、筋肉と骨が高密度のせい。
川津堂に訪れたものの依頼なら、金額に関係なく受ける事が多い。堂に来るはものその驚異に差異はあれど、怪異に悩まされており、被害者からすれば戊級やら甲級などと言う等級は関係なく、命を脅かす危機であるのだ。そんなもの達の助けを金額で拒否するほど秋は冷酷ではなく、怪異を始めとする異常存在との戦いは秋のためでもある。そのため依頼料は最初に依頼側が提示した金額だけを受け取り、成果によっては返金する事も珍しくはない。過去には100円で依頼を受けた事もあれば、4億の報酬を渡されたこともある。
感謝されたい訳ではない。ただ自己満足の救いをすることで、自分の中にある僅かばかりの人間性を確認して、己を慰め安堵したいから始めたこと。故にその救いは、時には対峙した怪異にも向けられる。段ボールに捨てられ、雨に打たれる子犬を拾わずに、餌だけを与えて満足してしまう様な、浅はかな救い。
ただ、その愛撫している人間性さえも、怪異を討つためならば捨ててしまえる矛盾を孕んでいる。