6話:求むもの(中)
「っ......!」
「うっ......!」
咄嗟に秋と相は自分の両目を抑える。
2人の顔と掌の隙間からは絶えず黒い液体が漏れ出す。それは幾ら拭えど流れ、止まる事は無い。2人は軽く1度手で拭い、目を瞑ったまま話す。
「どうやら私の一突きで、こいつを包んでいた無数の怨念のベールの一部が剥がれた様だな。それによって一端ではあろうが、こいつ本来の性質を私と相の眼が捉えてしまった」
「おかげてこの怪異について、分かった事があるけどね」
「ああ。こいつは神だ。日本の神に姿形が無かった時代、日本人が神本体ではなく、座す場所や籠る場所を礼拝対象としていた頃の原初の神」
「だったものだね。この存在には今は信徒は居ない。言い伝えを語り継ぐ者もとうの昔に途絶え、崇拝される神の座から零落した、ただの怪異だよ」
そうなった現在でも、その存在は強大だ。
日本だけではないが、古代の信仰対象とは見えないものであり、見えてはいけないものであった。古代の日本において神々は姿形を持たず、目に見えないと考えられてきたされる。仮に神がその姿を現したとしても、それを見ることは禁忌とされてきた。例として常陸国風土記にて語られる夜刀神は、目撃者の一族を呪いによって根絶やしにする殲滅神とされている。これだけに留まらず、日本各地において御神体とは見てはいけないものであるという教えは、数多くみられる。
成碑王。神ではなくなった今でさえ、特別な眼を持つ2人には見るなの禁忌が適用されるほどの存在。もとは形がなかったこの存在は、ある少年と自らが宿っていたとされる御神体、そして数多くの怪異の怨念を依り代として顕現したのだ。
「信仰対象の変化なんての珍しいものじゃない。本来信仰されていた対象が、いつの間にか知らぬ存在に取り替わっている。魔竜がそうであったように、余程熱心な信者でもない限り、己の事を見て、己の願いに耳を傾けてくれる存在ならば、実態なんてのは重要じゃない」
秋は親指を舐め、そこに付着した唾液を瞼に塗る。そうすると、流れ出ていた黒い液体が落ち着く。
「こいつは本来、姿がないことが姿だった。古代の人々は見えないからこそ、自分たちからかけ離れた姿の無い超常に神秘性を感じ、畏怖と畏敬の念を以て手を合わせ、頭を下げたんだ」
「だからこそ、この怪異はすでに神足りえないんだよ。無理矢理この形に貶められた時点で相当に格は下がったのだろうね。そこに人を核として顕現させられたんだ。人からかけ離れた存在であったはずなので、人を心臓とした時点でこの怪異は神の側から、人の側になってしまったんだ」
再び死の手による圧倒的な面の攻撃が3人に襲い掛かる。その手数は先ほどもよりも多く、悉く被弾した場所の地形を変えていく。しかしその一撃一撃に、さっきのような鋭さはない。否、鋭さと言うよりも対象を撃ち滅ぼすという意思が致命的に欠如しているのだ。先の攻撃がプロの格闘家が、相手を倒すために確実に隙と弱点を突いてきたのに対し、この攻撃はまるで子供が喧嘩の際、考えなしに拳を振るっているかのようなイメージをさせる。
楽々は飛び跳ね回り、雑技団やフィギュアスケートの曲芸を彷彿とさせる動きで回避行動をとり、その最中自分へと殺到してきた触腕を斬り落とす。神の側面がまだ強かった先ほどまでなら、逆に三宝兜跋が壊れていたであろう。しかし今や、この触腕にそれほどの怨念は無い。厳密には無いわけではないが、表に現れた少年にその怨念を制御し、対象にぶつけるほどの統率力は無い、その大部分は飛来する途中で大気中へと分散してしまっているのだ。そうなった今、その怨念よりも三宝兜跋の退魔の力が勝り、この結果を生み出したのだ。
『ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"!!!』
怒号にも聞こえるその咆哮と共に、少年を中心として地中から陽炎の様なものが揺らめき始める。それには霧ほどの怨念は籠められてはいない。しかし周囲の気温は上昇を始め、少年の存在が陽炎の向こう側の朧げなものへと変貌していく。
「行こうか、三宝兜跋」
呼応するように、三宝兜跋に彫られた三宝荒神と兜跋毘沙門天が俄かに光を帯び始める。
「三宝荒神の名のもとに、この地より不浄を厭離しよう」
一瞬の凪。その直後、陽炎を焼き尽くさんと地面より炎が生じる。その炎は一定の範囲に存在するもの全てを包むが、その全てを燃やすわけではない。陽炎を包み、少年からすれば蝕むようにして炎は全身へと至らんとする。
刀身の光は燃え盛る炎と同じ色となり、零れるように柄を辿り楽々の手に触れる。立ちどころに触れた箇所が燃え始め、同様にその炎は三宝兜跋を掲げている右腕全体を燃やしながら、徐々に徐々に全身へと広がっていく。
「ふふ、いいね。こういう戦いもまた一興だね。ボクと君の我慢勝負と行こうか」
『ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"!!!』
少年は腕を振るい、火を払おうとする。しかい逆に火は纏わりつき、一枚、また一枚を形代を焦がし灰としていく。
『ボクハ! ボクハ!!』
形代がすべて焼け落ち、隠されていた姿が露わとなる。石で作られた、まるで不完全な巨大な人間の石像。少年は我武者羅に長い両手を振るい、悶絶しながら一歩一歩と楽々との距離を詰めていく。
「怪異が怪異たる条件はね、3つあるんだよ。1つ、怪異は理解の及ばない異常であること。2つ、強大な力を持つこと。そして3つ目は正体不明であること。これに当てはまるなら、人間だって怪異足りえるのさ。まぁ持論だけどね」
『ボクハ......オネエチャンヲ......』
「君は怪異と名乗るには」
刀身の光が深紅へと至る。
少年の手が楽々の目前へと迫ると同時、三宝兜跋の切先を正面へと向ける。
「余りにも人間的すぎる」
石像の右半身が蒸発する。
刀抜。使用には長い溜めが必要であり、周囲の穢れを呑み込み浄化して、使用者の生命力すら糧として、超高温の熱へと変換して刀身へと圧縮する。それはたった一振りだけしか効果を発揮しないが、当たりさえすれば大抵の穢れを祓う兜跋毘沙門天の戟の権能。
『オネエ......ちゃん......?』
戦いの余波によって倒れてきた巨木。少年は残った左腕でそれを抱きしめ、轟音と共に巨木に顔を埋める様にして倒れる。それは楽々も同様だ。
「あはは......」
糸の切れた操り人形ががくりと倒れるように、楽々も糸が切れたように片膝をつく。来ていた外套は吹いた風によって崩れ落ち、焦げと火傷だらけの肉体とインナー姿となる。その肉体の所々は、石のように変質しているのが分かる。今まで神の権能を行使してきた代償か、或いは他の要因によるものなのかは定かではない。しかし楽々の身体の所々には、今回負ったであろう火傷とは全く違う、石化している部分がある。
「嗚呼、良い戦いだったね。でもちょっと疲れたかな。ボクは休んでるから、後は頼んだよ2人とも」
成碑王及び少年は、刀抜の一撃を以てしても浄化される事はなかった。しかしそれは不幸中の幸いの様なもので、核は無事であるということなのだ。管理局の怪異を浄化するのではなく、未来永劫厳重な封印のもとに同一の怪異の再来を阻止する。それを行うためには、怪異の本体もしくは核は必要不可欠なものだ。
相は懐から面布を2人分取り出し、自分と秋にも渡し顔につける。それは紙一面に無数の目が描かれた代物だ。その次に近くに生えてる青草で手を擦る。
準備を終えた2人は石像に近づく。その時だ。石像が一度大きく、倒れたまま背を仰け反らせ、その反動を使い半身を起こす。
「もう目覚めたと言うのかい......? いや、これは起きたというよりも......」
傀儡。相はそう続けた。
怪異は浄化されてはいないとは言え、楽々の一撃によって人間で言うところの気絶に近い状態となっている。その証明か、今の石像からは先ほどまでの威厳を感じない。せいぜい一般人が、巨大建造物を目の当たりにした際に感じる感慨さくらいだ。
石像は自分の胸に手を突き刺し、何かを取り出す。それは1個の岩だ。ほぼ完璧な球体の岩には、木の枝か根だったものが輪と張っている。これが晒されると同時、面布に描かれていた眼が端から次々と潰れていく。
この岩こそが、あの岩こそが、御神体。見るなの禁止。人間などという矮小な存在が、決して直視してはいけないモノなのだ。面布の眼は本来の眼の身代わりとなるものであり、これが全て潰れれば、次にそうなるのは己自身のものだ。
鯉口を切り、秋が駆ける。飛蝗を彷彿とさせる跳躍をし、左腕とのすれ違いざまに太刀を居合い、切断する。そのまま空中で体を捻り、方向を変えて石像の背後にあった巨木の側面に足裏をつける。着地、とは言ってもすぐに重力に従って落下を始めることは必至。すぐに体は巨木の向きと平行になろうとするが、落ちるよりも速く、秋は再び石像目掛けて跳ぶ。
目の前の存在に、最初の様な威圧感や不気味な面影はなく、それは石で作られた不出来な像に過ぎない。
「鎮め」
無数の白い光の帯が、太刀から発生して四方八方へと広がる。それらは秋の背後と一つに束なり、巨大な白龍を成す。それは秋の剣圧が生み出した幻か、肉体と太刀に宿った霊験による御業か、或いはその両方が見せる奇蹟か。
秋が太刀を振り上げるのに従い白龍を顎を開ける。その所作は一瞬の出来事にも関わらず、酷く緩慢に見える。直後の振り下ろし、白龍は石像を呑み込んだ。それは実際に龍が喰らったわけではない。しかし、間違いなく龍の気が籠った一刀は操っていた力ごと石像を断ち切り、その力の残滓は像に薄く纏い、再び外部から干渉される事を拒む結界となる。
「......」
着地した秋は鞘を横にして納刀し、相の方へ顔を向ける。
「今やれるだけの封印は施したよ。後は局に持ち帰ってだね。そっちはちゃんとやったかい?」
「抜かりはない。もう動くことも、動かすことも不可能だ」
「それなら安心だ......ただ問題はこっちだよ」
相は指さす方向では、巨大なくすんだ緑色の蛇と白蛇がまぐわい幾重にも絡まり合うことで、御神体が見えないようになっている。しかし内部から己の存在感を放ち、その強大な力の一端は漏れている。すぐに目が潰れる程の力はないが、直視を続ければ面布に描かれている眼の形はゆっくりと歪んでいく。
「弟、取り込まれちゃってるね」
顎を押さえながらそんなことを言う。
「一応取り出してみるけどね。君には愚問だろうけど.....怪異に取り込まれた人間が、どうなるかは分かってるよね?」
「ああ、勿論だ。ただ依頼を受けたからには、どの様な結果であっても、それを依頼人に告げる義務が私にはある」
秋はまだ立ち上がれない様子の楽々に肩を貸す。そのまま相と御神体の横を通り過ぎ、下山を始める。片方は歩行も難しいほどに疲弊しており、もう片方も度重なる戦いに左肩から右下腹部かけての深手を始めとした、幾つもの負傷が目立つ。そんな2人の足が軽いわけもなく、鈍重な足取りで傾斜を下りていく。
「2人とも、そんな状態じゃ歩くのも大変だろ? 局員に迎えに来させようか」
それに答えたのは楽々だった。空いてる片腕を肩くらいまで上げ、手をひらひらと振る。そのまま2人は草木を掻き分け、相からはそれらと傾斜によってすぐに見えなくなる。そして入れ替わるように面布をつけた6人の人物が現れる。
管理局の局員全員が祓魔師や霊能力者と言う訳ではない。全体で見れば霊感の持ち主の方が圧倒的に多い。凄腕の祓魔師並みの戦闘力を持つのは相を除いて、東京局の副局長と8つある支局の各局長。そして今、相の目の前に居る面布をした極少数の者たちだ。全員が衣で上から下まで隠しており、肌が露出している部分はない。色は4人が縹色、残りの2人はそれぞれ赤色と黒色の衣だ。
「この御神体を局の地下まで輸送するよ。自分は少し休んでるから、準備が終わったら知らせてね」
そう言った相は近くの木に背を預け、その場に座り込む。6人は真っ黒の大きい布で対象物を覆い、その上から注連縄を巻く。その後も慣れた様子で作業をしていく様を暫く見てから、2人が下りて行った方に視線を送る。
「......雨か」
数滴の雨粒が秋の手の甲に当たったかと思えば、すぐに雨の勢いは強まっていく。細かい雨は2人をすぐに濡らしていく。そんな山の中をゆっくりと下山していく。
少し顔を俯かせ、歩くというよりもう足を引きずっているような状態の楽々。秋は貸している方とは逆にある左腕で、木の枝や葉などを楽々の顔の正面辺りから、自分の左方向に振り抜く形で退かしていく。
山の中腹辺りまで来た時、2人は足を止める。
「つけられてるね。ずっと」
「そのために2人で下りたからな」
「やる気かい? お互い満身創痍だろう?」
「やれるだけはやるさ。一部でも取れれば、そこから縁を辿ればいい」
「狂ってるね。その戦闘意欲」
「戦いたいわけじゃない。私は私の意義を果たすだけだ」
「そうかい。じゃ、ボクはボクがやりたいことを果たそうかな」
「......お前も大概だ」
「誉め言葉と取っておくよ」
楽々は背を徐々に仰け反らせ、細めていた眼を一気に開眼し自分の後方に視線を固定する。
「随分と面白そうなのが居るじゃないか」
秋は楽々の腕を肩から退け、ゆっくりと抜刀しながら振り返る。
2人の視線の先。100m近く離れた木々の合間から、それはこちらを見ていた。世間一般的に認知されている存在の中で、あれに最も近いのは梟だ。しかし似ているや面影があるというだけで、全く異なる存在と言うのは明白。
小屋ほどもある巨大な梟に似たモノ。全身に大小さまざまな真っ黒い瞳を持ち、それは瞬きすることなく全方位を視界内に収めている。嘴がある箇所には人間の顔がある。落ち窪んだ眼窩に、全ての歯が抜け常に開けっ放しの口。薄い髪の毛と皺だらけの顔は一見老人のようだが、よく見ればそれが子供の顔が元だと分かる。
「魔物か」
怪異とは誕生経緯が異なる異常の存在。魔物を倒すことは浄化ではなく、討伐とされる。
怪異の中にはその発生理由から人間に極力干渉しなかったり、中にはこちら側に与するものもいる。しかし魔物は違う。魔物は例外なく敵対的であり、時として怪異や人間をも自分たちの悲願のために利用し、巧妙に人間社会に入り込み国を崩壊させかねない危険な存在だ。
また魔物は人間に対して非常に敵対的だが、彼らが人間の殺戮よりも優先することがある。それは神域を破壊し、そこの神を喰らうことだ。
「あの魔物が今回の黒幕かな?」
「実行犯って所だろう。首謀者はおそらく別だ」
魔物は大きく翼を広げる。小翼羽の先にはその巨体に見合った、血色のない巨大な人間の手が生えている。よく見れば足もそうであり、その爪は紫色をしている。
口が開く。
歯抜けの口内の中は闇だ。口は最早開くと言うよりも下に伸びるように大きく、大きく開く。
『ホー』
梟でもなければ人間でもないその声。それにどのような意味が籠められているかはわからない。だが、それが戦闘の合図となった。
魔物は木々を薙ぎ倒し、地面を這うようにして2人との距離を詰める。障害物なんぞ関係ないと、自分の進行方向にある全てを破壊しながら、その速度は迅速。その様は蜘蛛を彷彿とさせる。
「これを持っておけ」
「なんだい、これ?」
「師父謹製の呪符だ。効果は相手を殺す。それだけだ」
対象を殺す呪符。秋の師が作成したこの呪符の効果は、それだけと簡潔明瞭だ。この殺せるものには、怪異すらも含まれる。怪異は一種の不死性を持っている。同じ恐怖から生まれたならば、すぐには言わずとも、いずれ同様の存在が再発生する。しかしこれはそれをも阻止する。
殺符と名付けられたこの呪符がその絶大な効力を発揮したのであれば、例え相手に死の概念が無くとも殺してしまう。そんな矛盾さえも可能とする代物だ。だが枚数は非常に少なく、現在秋が持っている殺符の残りは、楽々に渡したもの含めて2枚。
そんな貴重な物を渡した理由は魔物の危険性のためだ。怪異で最も個体数が多いのは戊から丁級であり、丙級は1人の同等級祓魔師が月に3度浄化すればかなり多い方だ。乙級なんてのは半年に数回、甲級は本来1年に1度浄化対象になるかならないかだ。魔物の等級には乙と甲しか存在しない。理由は簡単だ。その等級に値する魔物しか出現しないからだ。
秋と楽々。共に準甲級とも称される腕利きの祓魔師だ。本来であれば、魔物1体を相手にするなど然程苦ではない。しかし連戦だ。立っているのも不思議なくらい疲弊している今の2人にとって、これを相手にするのは簡単な事ではない。故に討伐が目的ではなく、肉体の一部を獲得すること。ただ、殺れるなら殺る。その意思表示だ。
「相手を殺す呪符って......君の師匠は何者だい?」
「話すのも終わりだ。来るぞ」
両翼を広げ、数多の木々を蹂躙しながら魔物が飛び込んでくる。その巨大にして強靭な手を振るい、深々と地面を抉る。けれどそこに2人は居ない。
「硬いな」
「硬いね」
秋は地を這うように姿勢を低く、飛び込んできた魔物の下へ入り込み太刀で斬りつけた。楽々は左へと跳んで避け、隙だらけとなった脇腹に長巻による鋭い刺突を放った。2人の攻撃は命中こそしたものの、強固な羽毛に防がれ、内部へとは至っていない。
魔物はそんな2人へ追撃せんと両手を振るう。木に空に地面に。狙いもつけていない攻撃だが、その連撃には間がない。一撃で木はへし折れ、大気を切り、地を揺らす。5分もせずに、魔物が居る場所の周囲には草も木もなくなり、地割れが全方向に伸びている。まるでこの場所だけ天変地異が起こったかのような有様だ。単純な力ならば魔竜や成碑王にも引けを取らない。
金剛石のように硬い羽毛を切り裂き、秋の太刀が魔物の肉体を斬りつける。己の背後にいる攻撃者目掛け、落石の様な裏拳を放つ。だがそれが何かを捉えることはない。
地響きが聞こえる。そう思った直後、地面からせり出した口のような形状の岩が魔物を捕捉し、勢いよくその口を閉ざす。
「大したことないね」
「油断するな。出てくるぞ」
岩を突き破り魔物が天高く飛翔する。一瞬滞空した後に、残像を残して空から姿を消す。だが消滅した訳ではない。余りにの速さで消えたように見えているのだ。
2人の眼が忙しなく動く。右に左に上に下に正面にと。それは高速移動している魔物を探しているのではない。2人は最初からずっと魔物を視界に捉え続けているのだ。それに気が付き、強襲は不可能と判断し、さらに加速する。木々の合間を鳥や猿のように移動しながら、攻撃の機会を伺う。
再度の加速。それは今まで見えていた2人も僅かな時間ではあるが、見失うほどの速度を生み出した。
それは長年の経験。数えるのも嫌になる異常存在との戦いと、無数に越えてきた死線が生み出した超直感とも言えるもの。楽々は咄嗟に三宝兜跋を自分の正面で備えるように構える。直後、大型トラックと正面衝突したかの様な衝撃が、三宝兜跋から手へ、そして爪先や髪の毛の一本一本に至るまで伝わっていく。
傾斜に従いながら、後退すると言うよりも落ちている。そんな表現が似合う速度で、魔物に押され続ける。幾つもの木や岩を破壊し、地面を削りながら。やがて木々を突き破り、楽々と魔物は麓へ飛び出る。
「やっぱり君、大したことないよ」
地面に押し倒された楽々は劣勢にもかかわらずそういう。それは強がりではない。
「注目されるのは嫌いじゃないけどさ、君はしすぎだよ」
飛来した黄金の矢が魔物の肩を捉える。それまで楽々を抑えるのに使っていた両手の片方で、自分の肩に当たった黄金の矢を掴み顔の前に持ってくる。矢を見た後、飛んできた方へ視線を向ければ、次の黄金の矢を番えている月が目に入る。もう一度、手元にある黄金の矢を見やる。その直後だ。魔物は全身が激しく震え始め、もがき苦しみ始める。ぽとりと矢を落とし、両手で顔を抑える。顔のしわをより深め、口を大きく開口し、苦悶の表情を浮かべる。
裏拳で自分の下にいる楽々と黄金の矢を吹き飛ばし、口の端からあぶくを吐き出しながら魔物は逃走を始める。
月が使う弓と矢には幾つか種類がある。最も使用頻度が高く、今も使っている破魔弓である繊月。三日月の様に美しい造形をしている繊月の素材は竹。その竹の由来は、かつてかぐや姫が誕生の時を待っていた光り輝く竹であるとされ、宿す神秘と穢れに対する退魔の力は尋常ではない。そして放った矢は5種あるうち、最上の黄金の矢。それは烏摩勒伽が持つ破魔矢の原点を模して作られた代物であり、その効果は絶大。
魔物の進行先、そこには太刀を片手に携えた秋が立っている。魔物は痙攣する全身に鞭を打ち、目の前の障害を除去せんと猛牛の如き突進を以て襲い掛かる。
「吐き出してもらうぞ。貴様が喰らった数多の神霊」
秋が三重にぶれる。それは神速とも呼べる速度から生み出された残像。魔物の剛腕はその産物をかき消す事はあっても、秋自身に当たることはない。
「浅かったか」
突進してくる魔物の下を通り抜けた秋は魔物の後ろに滑り出てくる。その途中で胴体を斬りつけたが、刃は肉体に届いたものの両断するには遠く至らなかった。スライディングの姿勢から体を反転させ、体の正面と地面が向き合う形へして、自分の両足と太刀を持っていない方の片手で急ブレーキをかけ止める。
魔物が振り向いたことには既にそこに秋は居ない。右からの鋭い痛みを感じたかと思えば次は左。四方八方から飛んでくる秋の斬撃が、魔物の強靭な羽毛を切り裂き、肉体へ無数の傷をつけていく。
「ッ」
奥歯を噛みしめる。肉体は既に限界を超えている。出血が収まり始めていた全身の傷からは再び血が滲み始め、極度の疲労によって視界は眩み歪む。いつ倒れてもおかしくはない。そんな状態の心身に喝を入れて、気力で動き続ける。
魔物も万全の状態であれば、ここまで一方的にやられることも無かっただろう。しかし山中での戦いと、黄金の矢による攻撃は自分に致命傷ともいえる深手を負わせていた。全身の痙攣は先ほどよりも酷くなり、第三者から見ても体が小刻みに震えている事が分かる。
『ホ』
魔物の首に秋の刺突が突き刺さる。秋は太刀を捻り、上に切り上げる。半ばから骨ごと切り裂かれた首はぶらりと重力に従い、ぶら下がるようになる。けれど相手は魔物。尋常の内に収まる存在にあらず。魔物の剛腕から放たれた拳が、避ける気力すら残っていなかった秋に胴体を捉え、人の体が出してはいけない音と共にそのまま数十メートル飛び、暫く地面を抉るようにして滑りやっと止まる。
「ア、グッ......ゴハッ......」
肋骨で折れてない箇所は無く、何本かは内臓に突き刺さっている。魔竜との戦い負った切り傷は完全に開き、夥しい量の血を流している。仰向けで倒れた事で口の中には完全に吐き出せず溜まった多量の血が、口呼吸を阻害している。今すぐにでも治療してなければ死は免れない。或いはもう間に合わなくても何ら不思議ではない。それほどの状態だ。呻き声をあげながら、何とか姿勢を変えた秋の口からは平均的なマグカップ一杯分ほどの血が一気に吐き出さられる。
しかし秋の呻き声は弱弱しいものではなく、魔物を見据える眼光も死んでいない。これほどの重症を負いながらも、秋には戦闘続行の意思がある。
「ふー......ふー......」
白装束に留まらず全身は血と土で汚れ、ここに来た時ほどの清浄さはない。肋骨は勿論、他の箇所の骨肉も無事ではなく折れていたり罅が入っている。内臓も自分の折れた骨が突き刺さり、幾つかは内臓破裂寸前だ。満身創痍となり果てても、その眼から闘志が消えることはない。太刀を杖代わりに無理やり立ち上がり、やや距離のある魔物と対峙する。
はらりと前髪が垂れる。その隙間から伺える眼差しは鋭く、魔物へ見えぬ刃を突き立てているかのようだ。ぽたり、と垂れた前髪から雨の雫が落ち地面を濡らす。
「来い......」
それに呼応するように魔物は全身に力を籠め、痙攣を無理矢理抑え込み、秋目掛けて飛び掛かる。100m以上はあろう距離をたった一度の跳躍で詰め、振り上げた両腕を着地と共に振り落とす。その一撃は地を揺らし、亀裂を入れ、土煙を上げる。
少しの静寂の後、秋と魔物が居た場所から粘性のある液体が垂れる音が聞こえてくる。その音の正体は土煙が晴れた事ですぐに分かる。
「ゴフッ......」
魔物の背後で秋が地面に太刀を突き刺し、それに縋るようにして両膝を地面につけている。口を押える指の隙間から絶え間なく赤色の液体が零れ落ち、眼下に赤い血溜まりを作っている。そんな秋の後ろで、微動だにしない魔物。よく見れば全身にあった眼、その眼窩は全てが腐った果実の様に萎み、酷い悪臭を周囲に振りまいている。その眼からタールの様に黒く粘り気のある液体が絶え間なく流れている。やがて全身が泡立ち始め、急速に腐敗していく。
「先生!」
走って近づいてくる月に対して、真っ赤に染まった手のひらで制する。
「感情的になるなと......いつも、言ってる......だろう......」
太刀を頼りに立ち上がった秋は、眼は酷く充血し血涙を流し、口からを血を垂らし、体に至っては白装束が血で染まりすぎて、どこから出血しているのか分からないほどだ。そんな死に体で秋はゆっくりと歩き出す。
「すぐ堂茂様の御所へ参ります」
「......ああ......」
肩を借りたとほぼ同時、秋の意識は闇に沈む。肉体はとうの前に限界を迎え、気力だけで戦い、勝利をもぎ取った。その最後の力も、教え子のもとまで歩き、肩に手を通した瞬間に底を着いた。
月は負傷箇所を刺激せぬように、けれど迅速に秋を車の場所まで運ぶ。その途中で、これまた力を使い果たし大の字で倒れている楽々に声をかける。
「歩けますでしょうか?」
「どこまで歩けば良いのかな?」
「あそこにありますお車までです」
距離にして50mほどだろう。しかし今の状態では立ち上がるのさえ億劫だ。
「あはは、随分と遠いなぁ......でも、行かないと置いて行かれそうだからね。頑張るさ」
三宝兜跋を杖にしてやっとの思いで立ち上がった楽々は、今出来る限りの速足で月についていく。その際、後ろを振り向き魔物の状況を確認する。
魔物はもう半身が溶け腐り、無数の眼窩は未だに黒い液体を流し続け、泡立ち急激に腐敗を始めているものの辛うじて形を成してる部分は、悪臭を伴い黒い蒸気を出している。明らかに外見から想像できる容量を超える黒い液体を滝のように流し続けながら、それに溶ける様に魔物はその形を崩していく。楽々は極度の疲労によっていつもよりかすんだ視界で、その一部始終を見たのちに再び正面に向き直り、車の方向へと歩を進める。