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百鬼譚  作者: 忠腹 丹子
1章:殉ずるもの
10/16

2話:昇温

 跳び、揺れる。水の壁が迫り、灰色の槍の様な艦艇は水壁と夜の帳を穿ちながら進む。

 秋、月、日那子は管理局が保有する楠鳥船(くすのとりふね)と言う高速艇に乗船し、沖星島に向かっている途中だ。静音性にはやや欠けるものの、その速力は65ノットにもなり、航続距離は600海里以上。九州唯一の管理局の支部がある福岡。福岡支局から最寄りの港から出航して、開門海峡側を経由した場合の沖星島までの距離は約250海里であり、十分往復可能である。欠点の音も術によって一応の誤魔化しは施されている。

 幾重にも互いに干渉しないように重ね掛けされた結界は、乙級怪異の攻撃すら弾き、熟達した結界師が張った結界さえもすり抜ける。


「運が良かったな」


 太刀と脇差を一振りずつ携えた、紺色の道着を着た秋は呟く。

 嵐、とまでは行かないが大粒の雨が楠鳥船を濡らす。この時間、この天気ならさらに船の音は聞こえず、秋たちの上陸も感知され難くなる。

 雨にも良い悪いがあるが、秋から見てこの雨は悪いものでは無かった。


「秋様、間もなく沖星島になります」


 操縦している福岡支局の局員が告げる。楠鳥船には秋たち3人以外にも、5人の管理局福岡支局の局員が乗員としている。


「確認します。まず島の南方にある砂浜から100m地点にて停泊。その後当船に積載している葦船を下ろし次第、我々は速やかに退却。これでよろしいでしょうか?」


 葦船。名前とは違い、材料に葦が使われているわけではない。ラバー製のインフレータブルボートであり、施されてる術式は楠鳥船には劣るものの、それなりのものが掛けられている。これは砂浜までの移動手段でもあるが、別の役目もある。

 念のため1週間後、同じ場所に管理局が回収しに来ること、連絡が入り次第いつでも駆け付けられる態勢で管理局は待機と言う事になっているが、それらが間に合わない非常事態が発生した場合の逃亡手段が葦船である。あらゆる性能面で楠鳥船に劣り、福岡までの航続距離は無いが、逃げれる位の性能は有している。


「ああ、問題ない」

「了解致しました」


 秋は一度、操舵室の窓から島の方向を見る。この暗さと天候のせいで、殆ど何も見えない。窓も降りかかる雨粒によって、視界は悪い。


「......」


 だが、秋には見える。闇に染まった島の造形、時間と天気だけではない陰惨とした雰囲気を放つ沖星島。星の光とはかけ離れた、暗黒を発する異界。

 船がひと際大きく振れる。巨大な波が横から船に殴り掛かったらしい。後方の船室から日那子の短い悲鳴が聞こえてくる。


「今の波......」

「結界が働きました。あの波、ただの波ではありません」


 操舵室の壁の一角には、楠鳥船各部の結界の状況を確認する札が貼られており、その数枚が僅かに灰色に変色している。

 ばれたか? そう秋は考える。結界は普通の波には発動しない。先ほどの水の殴打には、こちらを超常的に害する何かしらの力が付与されていたからこそ、防衛機構が働いた。

 海を操る厭魅師。仮にそうだった場合、その実力は折り紙付きなんて話ではない。神話、伝説、御伽噺の次元だ。


「いけないな」


 秋は頭を振る。その考え、厳密に言うと勝手に想像していた敵の姿を脳内から追い出す。

 島にいる者全てが潜在的敵性存在。今はまだ、その程度の考えで良い。詳細な姿形を憶測してしまえば、それに固執してしまい、視野は狭まり、不測の事態が発生した時に遅れるとることになってしまう。


「どうかされましたか?」

「何でもない。2人に上陸の準備をする様に知らせてくる」


 操舵室を出て、狭く無機質な廊下を少し歩くと、すぐに月と日那子が待機している部屋の前に着く。聞き耳を立てずとも、中から2人の声が聞こえる。


「日那子様、この船は呪術的にも物理的にも非常に堅牢です。大鬼の一撃、魚雷の直撃、それら受けようとも沈没する事はありませんので、ご安心ください」

「でもめっちゃ揺れてるよ!?」

「沖ですので致し方のない事です」


 そんな、話し声。

 秋は鉄製の扉を開ける。

 部屋の居住性は良くない。窓は無く、硬いベッドには、申し分程度の薄いマットレスが敷かれている。牢屋の方がまだ居心地が良さそうだとすら感じる。そんな部屋の寝床に、2人は並ぶように座っており、日那子が揺れるたびに顔を青くしながら月にしがみ付く。

 凪と言うには高すぎ、嵐と言うには小さい波。雨天と言う状況を考慮すれば、まだ比較的穏やかと言える状況だが、それでも普段街中で生活をしている人間からすれば、恐怖は感じるだろう。火花の音のように雨が船の装甲に当たる音も、それを増幅させているのかもしれない。


「2人とも、そろそろ上陸する。すぐに出られるようにしておけ」

「畏まりました先生」

「は、はい!」


 日那子は恐怖こそ覚えても、不安に思う事は無かった。秋の実力は直接見たことがあり、その頼もしさは理解している。教え子である月には初めて会ったが、この状況で顔色一つ変えず、冷静さを崩さないその態度、抱きついた際に気が付いたよく鍛えられた肉体。その要素は彼女が不安を抱えなくするには、十分であった。

 月は荷物をいつでも持ち出せるようにする。荷物の大半は月が持つこととなる。日那子は依頼人であるために大荷物を持たせる訳にはいかず、秋は万全な状態で護衛などをこなす必要があるため、必然的に月が持つこととなる。


「本当に大丈夫? 私も持つよ?」

「お気遣い頂きありがとうございます。しかし、依頼者様である日那子様の御手を煩わせる訳にはいきません。こう言う仕事をするのが、弟子の役目だと認識しております。それに、この程度で弱音を吐く様な柔な鍛え方をしていませんので、ご心配には及びません」


 4人張りの弓を容易く引く月の筋力は並大抵ではない。2週間は持つ食料にキャンプ用品、退魔や呪術などで使う道具の数々。総重量は優に3桁を超えるが、それくらいなら持てるくらいの筋力を月は持っている。

 扉が3度ノックされた後に開かれ、操舵室に居た局員とは別の局員が現れる。


「もう数分で停泊地点です。甲板にて備えてください」

「分かった。2人とも行くぞ」


 島に近づいた楠鳥船は速度を落とし、極力音が出ないように低速航行を始める。

 甲板に出れば雨脚は強くなっており、鋭く大きい水の粒が顔を叩く。それは秋からしてみれば、好都合だった。

 ただ、島に降り立ったらすぐに雨風を凌げる場所に行く必要がある。秋や月はともかく、一般人である日那子にこの環境は良いもではない。局員が偵察に送った使鬼によって齎された情報、それによって幾つかの洞窟に目をつけている。距離も上陸地点から遠くはなく、最初の拠点、少なくとも今晩を過ごすには悪くないだろう。

 楠鳥船がゆっくりと停まる。


「100m地点です。葦船を下ろしますので、そちらにご移動ください」


 船尾に秋が座り、操船する役目に着く。2人もそれに続き乗り込む。


「それでは下ろします。御武運をお祈りいたします」

「ああ、どうも。お前たちも気を付けて帰れよ」


 一瞬の浮遊感、その直後水飛沫が葦船を歓迎する。

 船の揺れは楠鳥船の比ではない。油断すれば体が浮きそうになる。葦船の浮力は非常に高いため、多少の荒れてる海程度なら問題なく航行できる。


「日那子様、失礼いたします」

「え?」


 月が日那子に覆いかぶさり、降りかかる雨や波、衝撃で船外に飛ばされないような態勢となる。

 エンジンが唸りを上げる。


「行くぞ。波に揉まれるのは一瞬だけだ。すぐに着く」


 ゴムボートは大きく荒れ始めた海の中を、黒い銃弾の様に壁を貫きながら突き進んでいく。それは魔弾だ。島と言う標的目掛け、一寸の狂いなく飛来していく。秋は転覆する可能性の高い波を的確に避けながら、比較的安全な道を選定していく。

 ついさき程通った所を、ゴムボートなぞ簡単に飲み込み、海の藻屑にしてしまう大波が海面に打ち付け、消えていく。

 波と言う名の魔物が、一切の慈悲なく、その圧倒的な暴威を振るってくる。転覆はせずとも、爆風に乗って来る破片の様な、生命を奪ってしまいそうな飛沫が小さなゴムボートに耐久力を減らしていく。


「ヒッ」

「舌を噛みますので、お口は開かずに」


 砂浜まで残り半分と行ったところ。一瞬の気の緩み次第では、地獄の亡者が、生けるものを海底に引きずり込もうと、手を伸ばして来ているような荒波に呑まれてしまう。秋は極めて冷静に、沈着に、地雷原を歩くかのように、細心の注意を以て舵を切る。

 しかし、島に近づけば近づくほど波は高くなり、上陸する事を拒む防壁と兵士の様に秋たちに猛然として襲い来る。


 それと同時刻。沖星島の幾つかある洞窟の1つ。そこでは血で染めたように赤い髪のポニーテールの女性と、陽光を束ねて作られたような白亜のマントを纏い、フードを深くかぶった人物の2人組がオイルランプを挟んで缶詰のパスタを食べている。

 食事は静寂にて進む。その最中、濡れたプールサイドを歩く様な足音を洞窟内に響かせながら、2人に近づく巨大な影がある。


『......』


 成人男性の倍はあるであろう体躯。楕円形の胴体は蛸の皮膚の様に汚らわしくぬめり、ぬらぬらとランプの光を反射させ、12本の太い触手をだらしなく垂らしている。そんな肥満体の様な体とは打って変わり、両手足は異常に筋肉質で、その指は烏賊の触手の様に長い。頭部に眼らしいものは無く、その代わりに蛞蝓や蝸牛の様な触覚が無数に、不規則に生え、何かを探すように常に動かしている。


「どうした?」


 血色の髪の毛の女性が、その異形に話しかけると、より一層忙しなく触覚を動かし始める。


「来訪者か......」

『......』

「どうやらオレが知ってる奴のようだな」


 女性はポケットから取り出した煙草に火をつけ、吸いながら話す。


『......』

「いや、殺さなくていい。そもそもお前じゃあいつは殺れない。監視も不要だ。下手な奴をつけて見破られたら、こっちが被害を被る」


 多量の煙を吐き出す。その量は肺だけではなく、体の隅々にまで行き届いたのではないかと思う程だ。

 光のない眼。それはランプの灯を反射することも無く、ただ淡々と来訪者に対する対応を自らの従僕に告げる。

 煙は雲散することなく、霧のように女性の周囲を漂う。


「今は放置だ。お前は海の警戒に戻れ。また同じように、オレ達の脅威になりえる奴が来たら報告しに来い。そいつは」


 雪垂りの様に灰が地面に落ち、朽ちた花を咲かす。

 艶消しされ、どこを見ているのか分からない赤目。それを粘性の高い液体が垂れるように動かし、泥のように従僕を見る。


「脅威足りえない」


 赤い女性の影が、洞窟中の闇が蠢動し膨張し、成形されていく。

 言葉にすることも憚られる悍ましい異形の数々が、普通だった岩屋を地獄の様相へと変容させる。小型犬程度から象よりも巨体故に、闇から半分ほどしか姿を現していない存在、固定された姿を持つモノも居れば、1秒足りと同じ形を保っていない不定形の存在。

 一般的に知られている生物と言う枠組みからは余りにも乖離したその異形達は、主の号令を待つ忠実なる従僕。


「秋の奴にはオレが接触して、島に来た理由を聞いてくる。物分かりの良い奴だ。殺し合いにはならんだろうが、目的が同じだったら面倒だ。増員して、さっさと目当てのモノを見つけるとしよう」


 吸い終わった煙草を、数十本の吸い型が刺されている場所に新しく捨てる。


「散れ。この島にある外来の痕跡を見つけてこい」


 異形の混沌なる行進、怒り狂った軍隊、猛々しい悪魔の群れ、邪悪の狩り。ワイルドハントと呼ばれる軍勢の騎行は、統率者の号令に従い動き、道中にある全てを狩りつくす。地を海を空を、その邪悪の軍勢は狩りの終わるその時まで、災いをまき散らしながら直走る。草の根も、穴倉の兎、地中の土竜、空を自在に飛び回る鳥、例え名立たる英雄や神であっても、その軍隊の獲物になったしまったモノは齎される死から逃れることは出来ない。


「ふぅ......」


 新しく火をつけた煙草を吸い、灰をさっき吸い殻を捨てた場所に落とす。灰皿に使っていたモノの正体が、徐々にわかる。斬り落とされた人間の頭部。その口には針刺しの隙間なく針を刺した時の様に、無数の吸い殻が突き立てられ、眼球の合ったはずの眼孔には目玉の代わりに、灰が捨てられ、それが涙のように零れている。悲愴と苦悶に染まった顔から、この頭部の持ち主が辿った悲惨な末路が簡単に想像できる。

 この人物が座っているものも椅子ではない。ありえない力で四角に圧縮された人間の体。生命を尊厳を冒し、倫理や道徳と言うもの真向から否定する行い。

 赤は云う。死者よりも濁り光のない、闇よりも陰惨な気を纏った赤が。


「塵殺だ。悪い奴も良い奴も、老いも若いも、神でさえ、オレを妨げたなら皆殺しだ」


 禁忌、統率者、探究者、蒐集家、深淵歩き、絶滅主義者、不死者殺し、面紗を暴くもの。数多の異名で世界中の退魔師から恐れられ、多額の賞金を懸けられていた魔術師が居る。禁断の知識を手に入れ、人の身でありながら魔王とも呼ばた。

 かつてヨーロッパの5つの退魔組織が、この魔術師の首に総額2500万ドルの賞金を懸けたが、そのお金を手にするものは誰も居なかった。腕に覚えのある者たちが挙って、たった1人の首を狙ったが誰も帰って来る事は無かったためだ。

 暫くして魔術師に賞金を懸けた5つの組織のうち4つが滅ぼされた。組織の関係者は勿論、その血縁に至るまでが悉く。泣き叫ぶ少年少女、助命を懇願する若人、神に祈る老人、神秘を全く知らない一般人でさえ、その魔術師に障害足りえると判断された者は等しく、平等に、無慈悲に残酷に殺された。

 残る1つ、ヨーロッパを代表する機密会と言う所だけが激しい抗争の末、血に濡れた契約を行い、争いは終結した。

 邪魔者は徹底的に根絶する。裏を返せば邪魔をしなければ、犠牲は魔術師に目をつけられた少数にとどまる。


『下手に敵対行為をして、惨劇が繰り返されるのであれば、少数は致し方ない、多数のための代償だ』


 そうやって黙認する事が、この界隈の暗黙の了解となっていた。そして魔術師は利害が一致すれば、時には協力してくれることもある。

 明治の半ばにあった、日本に残っていた最後の王との戦い。魔術師は祓魔師として参戦し、王の両腕を粉砕し、生還した1人。

 それがこのヘドロの様な人物の正体だ。


 月と日那子が海蝕洞と呼ばれる波の浸食によって作られた洞窟を、ライトで周囲を照らしながら歩いている。秋はさらにその前方で灯りをつけず、内部の構造や安全確認をするために先頭を進んでいる。


「......」


 暗闇でも秋の目には、昼間の様に視界が通っている。それが錐体細胞や視細胞の異常により来るものなのか、これもまた眼の異能の1つなのかは分からない。ただ迷いや恐れる事無く、穴の奥へ奥へと歩く。

 隆起して久しいのだろう。洞窟内に水が入って来た痕跡は無く、満潮時や高波の際でも多量の海水によって溺死する心配はない。

 足が止まる。


「......」


 屈み、足元に転がる品を見る。長い事ここに放置されていたのだろう、それらは錆びつき、本来の道具として役目を果たせはしない。ランタンやテーブル、飯盒を始めとして料理器具に食器、寝袋もある。数的には一人分、最後にここを訪れたのは少なくとも1年以上前だろうと秋は推測する。

 他にも幾つか目星をつけている洞窟はあるが、真夜中のこれ以上の移動は依頼者の健康を害する可能性がある。絶対に戻って来ないという確証は無いが、これほどの期間留守にしていて、この時間帯にも居ないという事は少なくとも今夜は大丈夫なはずだと、やや希望的観測が混じった考察をする。


「先生、何か問題がありましたか?」


 追いついた月がそう聞いてくる。


「どうやら先人が居たようだ。と言っても随分前の様なものだがな」

「いかがいたしましょうか? 他の場所へ移動しますか?」

「いや、今晩はここで過ごす。移動するかは朝起きたら考える。それに、見た限り呪術の類が使われた痕跡はない。夜を明かすくらいは大丈夫だろう」

「畏まりました」


 秋は立ち上がり、さらに奥へと向かう。


「日那子は休ませて、月はこの場所を清めた後に野営の準備をしておけ。私はこのまま洞窟の奥を見てくる」

「承知いたしました」


 秋の姿が闇で見えなくなるまで頭を下げていた月は、その後荷を下ろして中から焼き塩を取り出す。


「日那子様、すぐに清めまずのでそれまでお座りにならないようにお願い致します」

「うん」

「ご協力ありがとうございます」


 試しに少量の塩を地面に散らし、様子を見る。何も撒けば良いというものでは無い。最初に少しだけ撒き、その地で穢れの度合いを調べて、場合によってより強力な手段で場を清める必要がある。

 月は塩を照らし目を凝らす。些細な変化も逃さないようにしたものだったが、それは不要な事だった。変化は目に見えて分かるほど、著しいものだった。


「これは......」


 息をのむ。顔を嫌な汗が伝う。

 秋の教え子として今まで様々な場所に赴き、同じ手段で穢れを測って来た。殆ど変化が無い事もあれば、黒く変色する様も見てきたが、この様な事は初めてであった。

 焼き塩は瞬く間に黒く変色し、乾留液の如き液体になり、小さく風船の様に膨れては割れる事を繰り返しながら、地面へと吸い込まれていく。


「ど、どうしたの月ちゃん......?」


 ただならぬ気配を感じた日那子は、恐る恐るそう聞いてくる。


「先生はこの洞窟には呪術的な痕跡は無いと仰っていました......単純な実力では先生より強いお方とは何人とも会ってきましたが、その方々であっても先生の目を欺くことは不可能でした」


 月は塩ではなく、自分の弓を取り出す。


「恐らくはこの島自体が穢れの塊なのです。自分が出来る最上の祓いをしますが、それで清められるかどうか......」


 波に混じっていた微かな穢れは、島全体からも放たれている。気が付かぬうちに、感覚が麻痺させられていた。本来であれば上陸と同時にこの異変に気が付くものだが、それは他の場所と比べて島が異常な時にだけ、異端として気が付く。

 だが、これはこの周辺では異端ではなく普通であった。何処からであったのかは分からない。雨が降り始めた頃か、海が荒れてきたころか、出航したころか、もしかしたら九州に足を踏み入れた時点で、湯は温め始められていたのかもしれない。

 茹でガエルと言うビジネスでの警句がある。カエルは、いきなり熱湯に入れると驚いて逃げ出すが、常温の水に入れて水温を上げていくと、逃げ出すタイミングを失い最後には死んでしまう。そんな作り話だが、これは警句として定着している。そして今の彼女たちがその状況だ。


「......!」


 弓を地面に向け、弦を最大限まで引き、離す。弦は空気を断裂させ、風切り音を発生させる。それは月を中心として洞窟内の全ての穢れを祓うべく、駆け抜けていく。その衝撃は洞窟の奥へ進み、別の出入り口に辿り着いていた秋のもとにまで届く。


「この音は......」


 その意味が分からない秋ではない。すぐに周囲を注視する。


「......すでに術中に嵌ってた訳か」


 秋は佩いていた太刀を抜刀し、洞窟と外の間の地面を斬る事で境を作る。その後、壁に護符を張り付ける。札には道案内の神である猿田毘古神(サルタヒノコカミ)が描かれており、これが意味する事は行き止まりである。

 境、境界。それらは日常生活にも深く浸透している。扉や階段、道路や橋の様な人工的行政的な境目、山や川と言った自然的な境界。それらは形や規模にこそ差異はあれど、何かと何かを隔てるものであり、時として結界としての役目を任せられる。

 民話や伝承では怪物が戸を叩き、中の者に扉を開けてくれとお願いする場面がよくある。扉と言うのはそれだけで並大抵の異常を防ぐ、強固な結界となりえる様に、中には山や川、谷を越えられたない存在も居る。

 そこに浅い小さいなどと言うのは関係ない。秋が作った境は到底谷と言えるものでは無いが、重要なのはこれが境目として役割を果たすには十全な代物だと言う事だ。そしてそこに道案内の神の記された札を立ち塞がる様に張る事で、洞窟へ入る道を封鎖している。人魔除けの結界としてかなりの効力を発揮する。


「......」


 ここまで強力な結界を張るつもりは当初は無かった。一流の厭魅師の存在の可能性があったため、一応の保険として持ってきた、非常に高価で希少な護符だった。効果は絶大で魔竜と同格の怪異であっても、3日は目を欺き通せる。腕の立つ術師であっても、この辺りが怪しいと目星をつけてから、この洞窟を見つけるにはさらに1週間は掛かるだろう。

 ここに洞窟への出入り口あると確信し、強い意志と真実を見抜く目を持っているか、秋や月と共に来ない限り見つける事は困難を極める。

 だが、現実は秋の想定の遥か上を行っている可能性がある。まさか島1つどころか、海域すらも呪われているとは、想像もしていなかった。本山を始めとする日本の退魔組織が合同の調査により、呪われた忌み地や禁呪地は全て発見されて、浄化されるか等級がつけられて管理下に置かれている。その前提があったからだ。不穏な気は楠鳥船の操舵室からも確認はしていたが、これほど深く根を張っている、と言うよりも島そのものが呪いで作られているようなものだとは考えもしないだろう。

 日本中の退魔組織が行った捜索をやり過ごした離島。そして日那子を呪った術者の存在。日那子の父親が日記に書いていた忌まわしい因縁。海域の状況。

 これは予想の数倍困難な依頼になる。秋は確信する。

『人物名簿』

鳴打(めいうち) (つき)

性別:女性

年齢:満21歳

身長:160㎝

体重:61㎏

誕生日:8月8日

出身地:栃木県

所属:本山

等級:戊級祓魔師

趣味:読書。料理。菜園。鍛錬

ノーギアベンチプレス:170㎏

好きな食べ物:抹茶パフェ。台湾かき氷

嫌いな食べ物:コンビニ弁当


 一人称は『自分』。将来を有望視されている若い祓魔師。感情を抑制し、氷の様に無機質で冷たい顔をしているが、抑制を忘れて表情に出すことが割とある。


 実力的だけで言えば戊級の中で最上位、丁級でも十分通用する。『黄金の矢』などの様な奥の手を使うことで、甲級怪異も場合によっては浄化可能。弓術を得手としているが、秋の指導の結果、武芸全般を高い水準で習得しており、その気になれば刀でも槍でも鎖鎌でも何でも使える。


 厳しい鍛錬の結果、プロアスリートと同等かそれ以上の肉体と身体能力を有している。170㎏のバーベルを補助無しで10回以上上げ、武装した状態で100mを9秒丁度で駆け抜ける俊足の持ち主。そして「動きの邪魔ですので」と言う理由で、2つある乳房を手術によって切り落としている。


 5年前、高校1年生の時に同級生がお遊びで行った『降霊術』。それによって呼ばれてやってきた『怪異』による大量虐殺唯一の生存者こそが彼女鳴打 月である。この『怪異』は自分を招来した月の同級生をまず殺害し、その縁を芋づる式に辿り、知人友人家族さらにその......と言った感じで殺し続け、最終的な死亡者は107人、行方不明者201人、PTSDなどの精神疾患の発症者多数と言う惨劇を起こした。


 月自身は命を拾ったが、親友から縁を辿られ親類縁者は惨殺され、その親友は勿論友人知人も全員が非業な死を遂げた。周りに居る知っている人々が次々と死んでいき、次は自分の番だと思い、恐怖と言う暗黒の中を歩いている時に彼女を助けたのが、その時『本山』より派遣されてやってきた秋であった。


 疲弊し乾ききった月の精神に、秋は恵みの雨の様に訪れた。その後、秋を始めとする退魔師の尽力により、『怪異』は封印されることになる。


 それからだ。月が秋を先生と呼び慕い、ただの敬愛の情よりも深い感情を向けるようになったのは。

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