1話:逆流
アスファルトで舗装された一本道、その左右に鮮やかな緑色のドレスを纏った夏緑樹林が、まるでこの先へ誘うようにその枝を揺らす。
陽炎揺らめくアスファルトの上を1人の少女が歩いている。飾り気の無い白いワンピースの裾をたまに吹く風が揺らし、つばの広い麦わら帽子を飛ばされない様に手をやる。今日は東京都全体で記録された中で最高気温であり、そんな炎天下の中を少女が1人で終わりの見えない一本道をただ歩く。
少女がポケットから取り出した紙切れにはこの先の住所と、その建物の名などが書き記されている。川津堂。幾つもの探偵事務所を巡り、断り続けられた時にある探偵事務所の所長が教えてくれた場所だ。その所長曰く一般の探偵では手に負えず、警察ですら足踏みをするしかないような案件を任せられる場所だと言う。そう言えば聞こえは良いが、言ってしまえば面倒事を押し付けられているすぎない。
紙切れを再びポケットにしまい歩を速める。どこの探偵事務所も依頼を受けてくれなかった少女にとって、川津堂が最後の希望なのだ。今の彼女にとっては、夏の日差しでさえも希望の光足りえない。今の彼女は暗闇の中を、遠くに見える最後のか細い明かりに向かう虫の様な存在だ。
10分ほど歩いただろうか。息をつくために足を止め、首から下げていた水筒に口をつける。大容量のものを持って来たが、残りは心許ない。この炎天下だ、水分の摂取量が普段より多くなるのも仕方のないことだ。少女は深呼吸を繰り返し、気合いを入れなおす。その時、蝉の鳴き声が止み、木々のざわめきも聞こえなくなった。
「え?」
素っ頓狂な声が出る。先ほどまで道が続いてたはずの場所、少女の目の前に古民家がまるでずっとそこにあったかのように鎮座していた。古民家はヒイラギの生垣に囲われており、切れている出入り口と思われる場所は敷地側に2本の松が左右に生えているのが確認できる。その外観は少女が聞いていた、川津堂の情報と一致する。
少女が敷地内に入ると庭は手入れが行き届いており、日本庭園とまでは行かずとも見るものが見れば感嘆の声が漏れる程度には立派だ。
少女はこの空間に飲まれたようで恐る恐ると言った風に、首を忙しなく左右に動かしながら飛び石の上を進んでいく。
玄関までもう少しと言う所で、少女と縁側に腰かけ本を読んでいた女性の目が合う。桜色に染めた髪の女性は読んでいた本を置き、少女に近づいてくる。
「こんにちは。ここでお話するには少しばかり日光が強いので、詳しい話は中に入ってからゆっくりしましょう」
「は、はい」
名前や目的を問われることもなく、女性は少女を古民家の中へと通す。少女は少々困惑しながらも、滞りなく話が進むならそれに越した事は無い。麦わら帽子を取り「お邪魔します」と一礼し、家の中に入る。少女はそのままの案内で床の間のある客室へと通される。座布団に座り、落ち着きを取り戻した頃に女性が冷えた麦茶を3個持ってくる。
「ここまで来るの大変だったことでしょう。先生が来るまでお寛ぎください」
「ありがとうございます。先生......ですか?」
「ここに来るお客様方の目的は先生以外にありませんので。お客様も先生に何かご依頼があって来たのかと思ったのですが、違いましたか?」
「い、いえ、その通りです。その、沢山の探偵事務所を回ったんですけど、手に負えないと言われて......最後に行ったところの所長さんにここを紹介されたんです」
「なるほど」
女性を唇を濡らす程度に麦茶を飲む。少女のそのタイミングに合わせ、再び緊張し始めたせいで乾き始めた喉を麦茶で潤す。
「名乗るのが遅くなりましたね。自分は鳴打 月と申します。先生の教え子兼助手をしております」
「わたしは猫屋敷 陽葵と言います」
「良い名前ですね」
「あ、ありがとうございます」
陽葵と言う少女は照れくさそうに、けれどどこか誇らしげに感謝の言葉を述べる。彼女は自分の姓名が好きで、それを褒められることはとても喜ばしい事なのだ。
その後も2人の間で取り留めもない会話が行われた。名前を褒められたから5分ほど経ったころ、その人物はやって来た。
剣術家を彷彿とさせる稽古着を着、その眼光は上空より獲物を品定めする猛禽類の様で、全身から溢れ出る気は剥き出しの日本刀を持った時の様な感覚を陽葵に覚えさせる。
「失礼。遅くなった」
水浴びでもしてきたのだろうか。俄かに濡れたセミショートの黒髪を垂らし、一礼する。
「あっいえ、大丈夫です。気にしないでください。それに事前に何の連絡もせずに突然訪れたのは、わたしですから。こうやって通して頂けただけでも嬉しいです」
「そう言ってくれると助かる」
そう言いながら秋は床の間の前、上座に座る。床の間には本来主の権威や威厳を示す為に掛け軸や陶器と言った観賞用の置物が置かれたり、間自体の造りを凝ったりするものだが、川津堂の床の間にはこれと言った特徴はなく簡素なものだ。
「私は高羅目 秋。ここの主している」
「わたしは猫屋敷 陽葵と言います。本日はご依頼したい事があって足を運ばせて頂きました」
秋と名乗った川津堂の主は視線だけで続きを促す。
「高羅目様は最近頻発している児童連続失踪事件をご存知でしょうか?」
「ああ、知ってる。今の所の7人の児童が忽然と姿を消しており、決まって失踪は仏滅に日に起こる。そして失踪した児童は全身が7歳以下。警察は同一犯の犯行とみて捜査中......だったか」
「はい、その通りです。依頼と言うのは失踪したわたしの弟を探して欲しいんです」
陽葵は事の経緯を説明し始める。
自分は生まれて間もない時に、児童養護施設の赤ちゃんポストに入れられて居り、今もそこで生活していること。弟とは言ったが実際に血の繋がりはない他人ではあるが、自分は彼の事を実の弟の様に接しており、職員の人達からは実の姉弟のようだと何度も言われる程に親密であった。
「2週間程前、突然行方を眩ませたんです。毎日一緒にいて、そんな......失踪する様な素振りはありませんでした」
「思い込みではなく?」
「何年も一緒に暮らしてるんです。些細な変化も見逃しません」
「ふむ、そうだな......形式的な事を聞こう。弟が行きそうな場所に目星は?」
その質問に陽葵は記憶を辿る。
「すみません......」
「聞き方を変えよう。弟に縁のある場所に心当たりは?」
「......あ、そう言えば昔、以前住んでいた場所を聞いたことがあります。確かくうじ? と言う名の村です」
「くうじね......そこについて他に何か分かる? 詳しい住所とか、漢字でどう書くとか」
秋は紙とペンを渡す。陽葵は思い出しながらのため書く速度は遅いが、ゆっくりと書き始める。「こんな感じだったかな......?」そう彼女は呟き、紙とペンを返す。そこには住所と空寺と言う村の名前が書かれていた。住所はここから特別離れていると言う訳ではなく、片道1時間もせずに着く場所だ。
「ふむ......分かった、受けよう」
「ほ、本当ですか!? ありがとうございます!」
少女は額がテーブルにぶつかる寸前までの深いお辞儀をする。秋は顔を上げる様に促し、話を続ける。
「こっちの界隈じゃこの話が最近は多くてな......それに私も個人的に興味があった。タイミングが良かったな」
「あ、ありがとうございます......!」
「......それじゃ次の話だ。私も慈善活動で依頼を受けてる訳じゃなくてな」
そこまで秋は口にした所で、少女は察したのだろう。大事そうに抱えていた鞄の中から、少し厚みのある茶封筒を取り出し、申し訳なさそうにそれを手渡す。中には丁度10万円が入っている。今回の様に警察でさえお手上げの案件の人探し。その高い難易度を考慮すると安すぎるとも言える金額であるが、11歳である陽葵にとっては今まで何かのためにと貯金してきた全財産だ。例え彼女が飛んでもこれ以上のお金は出てこない。
「少ない事は理解しています......けれど―――」
「十分だ」
「......え?」
「言ったろう? 個人的興味もあるんだ。依頼料は貰えれば十分だ。今日の午後から弟探しを始める。そうだな......月、施設まで送ってやれ」
「了解です。陽葵様、ご自宅の方まで送らせて頂きます。こちらです」
「ほ、本当にありがとうございます!」
少女のお礼の言葉に視線で軽く答え、秋は氷が全て溶けて薄くなった麦茶を呷ると、部屋を後にする。月の案内で車へと導かれる。家や庭の雰囲気を壊さない様に作られた和風な車庫の中には、赤色で統一された乗り物の数々が置かれている。2人はその中のセダンに乗り込み、発進する。
「安全運転を心掛けは致しますが、何分何が起こるか分かりませんので。シートベルトは必ず着用してください」
そう言う月の運転はセキュリティポリスやシークレットサービスの様に要人護送するボディーガードを思わせる。それ程までに安全であり、常に周囲に気を配っている。それは素人目から見ても明らかであり、何かを警戒しているのは間違いない。
「あ、あの......」
「どうされました?」
「何をそんなに警戒しているんですか?」
思わず、そんな事を陽葵は聞いてしまった。単なる好奇心か、或いは一種の話題のための切り口か。だがそう質問してしまうほどに、月の行動は目についたのだ。
月は少しの逡巡の後に口を開く。
「縁とは恐ろしいものです」
それは質問に答えると言うより、まるで独り言のような口調だ。周囲に視線を巡らせ、運転しながらまるで鼻歌を歌うかのような、独白ともとれる言の葉を紡ぐ。
「人と人の縁と言うのは、人が自分で考えるよりも根深いものなんです。例えばすれ違いざまに挨拶を交わした見ず知らずの人、寄った先で接客された店員などなど......当事者達にとっては知人どころか完全な他人だと言うのに、言葉を交わした時点で相応の縁がそこには作られるのです」
言葉を重ねれば重ねるほど、月の警戒は顕著になって行く。表情も声色も一切変わってはいないが、そこには僅かに何かに対する恐怖心が混じっている。ハンドルを握りなおす。
「当然浅い深いと言うものはございます。風邪の人とすれ違っただけの人よりも、常に一緒の家族などのより親密な......縁が深い人の方が感染する可能性は断然高いでしょう。それは呪いも同じです」
「呪い......?」
「本来ならAと言う人物を対象とした呪いが、非常に親密な関係であるBもその対象となり得る。それは呪いに籠められた妬み嫉み僻み恨み辛み。その量によって確率は増減しますが、呪いとは根本的に対象の不幸を願い術なのです。その性質から対象と縁の深い別の者すら、その矛先になるのを不思議でもなんでもないのです」
余りにも突拍子なく、不得要領な話に陽葵の思考は混乱に陥る。話を理解しようにも、自分の質問との関係性が一切掴めず、少女は思考を巡らせる。そして1つの答えに至る。しかしそれは荒唐無稽であり、現代人にとっては余りにも非科学的なものだ。けれど聞かずにはいられなかった。
「そ、その話し口調だと......まるで誰かに向けた呪いが、その人を辿ってわたしに来る......そう受け取れるのですが......」
「その解釈で問題ありません」
陽葵は唖然となる。本来であればそんな馬鹿な事をあるものか、そう思いそうなものだが少女はしなかった。まだ現代に染まりきっていない子供だからか、それとも先ほどから俄かに重くなっている空気がそうさせるのか。空気が重いと言う表現は奇妙極まりないが、陽葵の周辺の空気はそう言い表せずにはいられないのだ。水中に潜った時のあの不自由さに似た感覚が、この車内を支配している。
「先生は早々に児童連続失踪事件が怪異だと判断し、調査を進めていました。最初は順調に調査は進んでいましたが、途中で暗礁に乗り上げてしまいました。先生は単独ではなく、同業にも言って数人で探っていましたがそれでも駄目でした。そんな時に陽葵様がお越しになられたのです」
「わたし......ですか?」
「そうです。被害者の1人と深い関係にある陽葵様なら、恐らく同様に怪異の対象となっているだろう......そして近いうちに必ず、アチラから陽葵様に対して何らかのコンタクトがあるはずだと。先生は近々陽葵様がお越しになれることを察しておりました」
「......」
「陽葵様。大変申し訳ないのですが、我々は生餌として今動いているのです」
月は酷く事務的に陽葵にとって衝撃的な内容を伝える。だが、幼いながら何となく理解できる。この内容は嘘はでないこと、そして調査を進めるには自分を餌に相手を釣るのが手っ取り早いであろうことを、以前似た様な事をして犯人を捕まえる推理小説を読んで知っていた為に理解することはできる。だがまさか、自分がその立場になろうとは想像だにしていなかった。
「先生は探偵と言う体裁を取っていますが、実の所は霊能力者......と言うより祓魔師でございます。先生が仰っていたこっちの界隈や、私が先に述べた同業と言うのも探偵ではなく、祓魔師の事になりま―――」
最後の言葉を発しようとした直後、車が反転する。
コンクリートの地面が車の天井を削る耳障りな音が車内にこだまする。何が起こったのか、状況を全く把握できていない陽葵をよそに、月は冷静にこの緊急事態の解決策を模索する。車は時速60㎞で走っていた。本来であれば暫くすれば車は止まるだろうが、先ほどから速度が落ちている感覚はなく、それどころか加速している。今走ってる道は当分は直線だが、このまま進めばガードレールを突き破り大惨事となることは必至。
「失礼いたします」
懐から取り出した鋏を使い、月は2人のシートベルトを切断する。そのまま自分が下になる様にして陽葵を抱える。背中から伝わる熱と振動から、そう時間も経たないうちに天井が全て削れ、今度は自分の背がそうなる番だと否応なしに理解させられる。
「フッ!!」
短く息を吐き車のドアを蹴る。通常、車のドアは人の蹴りなんぞで簡単に開くものではない。だが、それは通常に限られる。月の蹴りは大型ハンマーで叩いた様に音を出し、1撃でドアを拉げさせる。さらに2撃、そして3撃でドアは勢いよく外れ、陽葵を守るようにして月はそこから車外に出る。
時速90㎞程まで加速していたであろう車から出た2人は、何10mとコンクリートの地面を転がる。人体から出てはいけない音が、止める事無く陽葵の鼓膜を刺激する。一体どれくらい経っただろうか。回転が収まる。
「......怪我はありませんか?」
「は、はい......」
「それなら何よりであります」
奇跡的に陽葵に目立った怪我は無かった。しかし外側で陽葵を護った月はそうはいかなかった。肌の露出している部分で傷の無い所は無く、左腕の関節はあらぬ方向に曲がっている。右足の骨も折れているらしく、立つのも覚束ない様子だ。右手左手の指は何本か欠損しており、頬の肉は少し抉れている。何故意識を失っていないのかが不思議な程の重傷だが、月は立ち上がり周りを見渡す。
「私から離れないでください」
「え......?」
「呪いが来たようです。先生方には緊急を告げる信号を送りましたので直に来るはずです」
周辺を見渡すその視線に釣られ、その視線の後を陽葵も見る。そうして絶句する。
一見蛇のようなソレ。本来蛇の頭のある場所には子供の上半身が生えている。その子供たちは一様に痩せ干せ、腹部だけが異様に膨らみ、その頭部は上下が逆さまであり、本来目がある場所からは蛇の舌を出ている。通常の口から人間の舌が出ているが、それはだらしなくだらんと出ている。それが森の奥からも、そして上空からも2人の方へ近づいてきている。
竜と言うには余りにも悍ましいその姿に、陽葵は腰が抜け、その場にへたり込んでしまう。しかしそれは月にとっては好都合だった。ポケットから何かを和紙で梱包したものを出し、それを開封する。中には竹で作られた櫛が入っており、月は櫛の歯を4本を折って四方に置く。
「斎竹」
折れた櫛の歯は地面が硬い事なぞ知らぬとばかりに、急激に青々しい竹へと成長し深く根を張る。そうすると近づいて来ていた呪いが動きを止め、その場からこちらを注視するに留まる。
「そのまま動かないでください。この怪我でまともに動く事はできませんが、先生方が来るまで時間を稼ぐ事はできますので」