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男の名は、朔月。
かつて緋花が所属していた、特殊遊撃隊第六部隊の隊長だ。
特殊遊撃隊は十二部隊からなる。
各部隊は、中心にある王都から十二方位に分割した地区に、北から時計回りに一、二、……と割り当てられる。南方に置かれる第六、七の部隊には特に、力が強い者、実戦に長けた者――戦闘能力の高い猛者が多い。南に行くほど朽縄の活動が活発になり、より危険が増すからだ。
緋花はもともと南方の生まれで、第六部隊の担当地区で暮らしていた。暑さには耐性があったこともあり、配属がそこに決まった。
緋花が部隊に入り一年が経った頃、王都から新しい部隊長がやってきた。
それが朔月だ。
黒い髪に黒い瞳、黒い翼。名前の通り、月のない夜のように深い闇の色を持つ。緋花より二つ年上の男は、軍人を多く輩出する黒羽の名家の出だった。
彼が来た時、曲者揃いの隊内で反発があった。当然だ。各々、力に自信があり、『王都育ちのお坊ちゃん』に上に立たれて命令されるのが不快だったのだ。
そんな中、彼の世話係を任されたのが緋花だった。彼と歳も近く、緋花が下っ端ということもあるが、何より他の連中の『男の面倒なんか見たくねぇ』という本音がありありと伝わってくる。
「なんで私が!?」
「まあまあ落ち着け。相手はあの『黒羽』だぞ? お前も女なんだし、いっそ玉の輿狙ってみろ」
たしかに六番隊の詰所がある基地では、女性陣が色めき立っていた。
何しろ、朔月は王都でも有名な名家の出身で、若く見目も良く、地位もある。密かに『黒羽の貴公子』と呼ばれる彼に見初められて玉の輿に乗ろうと、綺麗に化粧した事務方の女性達が大した用もなく詰所にやってきていた。
「いやいや、緋花には無理だろ。こんな狂暴な女を嫁にする奴の気が知れねぇ」
「でも万が一って可能性もあるぞ」
「おーし、賭けるか。緋花が玉の輿に乗れると思う奴いるかー? ……何だ、一人もいねぇ。さすがだな、緋花」
「よーし、あんたら、表出ろ!」
などとひと騒動あったのち、緋花は朔月の世話係になった。
出迎えた緋花に、朔月はにこりともせずに目礼する。
「朔月だ。よろしく頼む」
「どうも。緋花です」
第一印象は“愛想の無い男”だ。綺麗な顔をしている分、人形みたいだと思った。
もっとも、緋花も愛想は良くない方だ。押し付けられた役目を不満に思っていたこともあって、素っ気なく対応した。
しかし、仏頂面の緋花に朔月は特に注意することは無かった。そのうえ、ほとんど手間もかからなかった。
部隊の詰所を案内し、隊の皆を紹介すれば、一度で覚えた。偉ぶることなく、淡々と任務にあたる。
さすがに遊撃部隊、しかも第六部隊の隊長に任命されるだけあって、彼は名ばかりの坊ちゃん育ちではなかったようだ。
最初の朽縄討伐の任務の際、朔月はその実力を皆に知らしめた。
その朽縄は夜間に活動するタイプで、夜中に御柱を上ってくる。有翼人の多くは夜目が利かないため、危険な任務の一つだった。
先陣を切ったのは朔月だ。気負うことなくごく自然に飛び出し、黒い翼が夜の闇に溶け込むように、あっという間に消えた。音も無く高速で飛んで、御柱を上る朽縄を襲撃する。両手に持った刀を振るい、巨大な朽縄を切り裂く姿に、皆呆気に取られた。やがて、負けず嫌いの猛者たちも一斉にかかり、討伐は今までで一番早く終わった。
以来、皆の朔月を見る目が変わった。純粋に彼の力を認めたのだ。
とはいえ、やはり朔月に反駁する気持ちが早々に消えるわけでもない。なかなか距離が縮まらず、相変わらずぎこちない空気の中、朔月が緋花を呼び出した。
一体何の用かと緊張して赴いた緋花に、朔月は真剣な顔で尋ねてくる。
「部隊の者と打ち解けたいのだが、どうすればよいだろうか」
「……は?」
緋花はぽかんとして、思わず素の声を出してしまった。不敬だったかと咄嗟に口を押えたが、朔月は気にした風もなく続ける。
「任務を支障なく遂行させるためには、隊の統率が取れていなければならない。私が若輩者で力及ばず、皆から信用されていないことは分かっている。だが、隊に乱れがあれば、いずれ任務に支障をきたし、犠牲が出る可能性もある。私の役目は、任務の成功と同時に、皆を無事に帰還させることだ。そのためにも、皆ともっと打ち解けて、隊の統率を高めたいのだが――」
つらつらと真面目に話す朔月に、緋花は口元を手で押さえたまま肩を震わせた。危うく噴き出すところだった。
死地に向かうような切羽詰まった表情をしているから何かと思えば。
結局のところ、皆と仲良くなりたいということじゃないか。あんな涼しい顔で朽縄を切り裂いて、あっという間に任務をこなすくせに。何と言うか……不器用なのか、この人は。
緋花は笑いをごまかすように、軽く咳払いして答える。
「あー……そんなに難しく構えることじゃないと思いますよ」
「……そうなのか?」
「ええ、簡単なことです。とっておきの方法がありますよ」
緋花はにやっと笑って見せた。
そうして、緋花は朔月に甘いビスケットを買わせた。
最初、朔月は「これは買収ではないのか」と厳しい顔をしていたが、こんな安っぽい菓子で買収できるほど、うちの隊の連中は安くない。そうじゃないのだ。
半信半疑の朔月にビスケットの箱を持たせて、緋花は詰所に向かった。
「おーい、隊長から差し入れがあるそうですよー。みんなで食べませんか」
声を掛け、朔月の背を押して皆の前に出す。
皆が注目する中、朔月が緊張気味に「よ……よかったら食べないか」と可愛らしいパッケージのビスケットの箱を差し出した。
隊の皆は目を瞠り、固まる。
黒羽の貴公子と、安物のビスケット。
やがて、一人が「ぶはっ」と噴き出したのを皮切りに、一斉に皆が笑い出した。突然の爆笑に朔月は困惑しているようだ。
だが、一人の隊員――副隊長の灰影が歩み出た。朔月より一回り上で、隊の中で実質、皆のまとめ役をしている壮年の男だ。
無精ひげを生やした強面の彼が、ビスケットに手を伸ばした。
「どうも、隊長。いただきますよ」
にやりと笑いながら、一つ取る。灰影が取ったのをきっかけに、他の連中も次々にビスケットを取っていった。
「ありがとございます、隊長!」
「あ、これガキん時よく食ってたやつだわ。懐かしー」
「久しぶりに食うと、けっこううまいもんだな」
「隊長って意外と安月給なんすか?」
「自分甘いもん苦手なんですけど……次はしょっぱいもんがいいです、隊長」
「あ、だったら俺、ほら、えーと……あそこの高そうな店の食べたい! 何とかマージュってやつ!」
「何だよ全然わかんねぇよ。つうかそんなお高いもん、お前には似合わねぇよ」
がやがやと騒ぎながらビスケットを食べる皆に、朔月は呆気に取られている。
緋花が彼を眺めていると、その頭にごんと拳骨が落とされた。
「いっ!?」
「緋花、何してんだお前は。隊長に変なことを吹き込んだろ」
拳の主は灰影だ。呆れた風に見下ろしてくる彼に、緋花は頭を押さえつつ答える。
「隊長が皆と仲良くなりたいと仰ったので、協力したまでです」
「だからってなぁ……下手したらお前、クビ切られてたぞ」
たしかに、隊長に似合わない安い菓子を買わせて皆に配らせるという、下手したら不興を買っていたところだ。
だが、そうならない自信はあった。
朔月が『皆を無事に帰還させる』と彼が言った時、緋花は少なからず感銘を受けていた。
今まで見てきた軍の上層部の“お偉いさん”の中には、兵を駒としか見ていない者も多くいる。彼らは、自分が昇進するための使い捨ての道具としか見ていない。
だが、朔月は違った。
隊の皆と打ち解けたいと望んだ彼は、自分たちを駒と見ていない。共に戦う仲間、そして守るべき部下として見ていた。
ならば、協力しない手は無い。
どうせなら、ついていくべき隊長は彼のような人がいい。
そこで、差し入れを思いついた。
普段軍で配給される食事とは違う、たまに食べる甘味は別物だ。生命活動に絶対に必要ではなくとも、人が生きるために必要な『隙』のようなものだ。
でも、高級菓子を配らせては顰蹙を買うだけ。安物の、ほんの気持ちの、甘いビスケットでいい。相手に恩を売りつけていると思わせない程度の値段がいい。
これもまた、『隙』だ。
王都育ちの坊ちゃんが、生真面目で強い隊長が、安物のビスケットを差し入れで持ってくるギャップに、皆は驚いたことだろう。
今まで彼に抱いていた距離感が消えるくらいに。
「……ま、上手くいったからよかったがな」
灰影はぐしゃりと緋花の頭を撫でる。
灰影もまた、朔月と皆の間にある微妙な空気を感じ取っていた。
朔月が悪い奴でないことは、皆わかっていた。任務の際、一番危険な先陣を切ったことといい、隊の皆を守る姿勢は見て取れた。彼に歩み寄りたいと心の奥底で思っていても、そうそう素直な連中ばかりでない。
それが、今回のビスケットで一気に吹き飛んだ。
「だがな。毎回毎回無謀なことをするなよ、緋花。任務の時もそうだが、お前は危なっかしい」
「わかってますよ」
灰影と緋花がこそこそと話していると、皆に囲まれていた朔月が振り返って、こちらにやってくる。
「緋花」
「え、はいっ」
名を呼ばれて返事をする緋花に、朔月が手を差し出した。すでに箱は片付いたようで、残ったビスケットを一つ、緋花に渡してくる。
「あ、どうも。ありがとうございます」
受け取ったビスケットの袋を破ってかじる緋花を、なぜか朔月がじっと見てくる。もごもごと飲み込んだ後、
「……隊長は食べないんですか」
気恥ずかしくなって聞いてみたが、しまったと後悔した。
こんな安物、彼は食べないか――と思っていると、朔月は「ああ、そうだな」と言って、最後の一つのビスケットの袋を破った。
そうしてビスケットをかじり、もぐもぐと食べる。
何と言うか意外で、緋花も思わずじっと彼を見てしまう。そんな中、朔月がふと目線を上げ、ばちりと目が合った。
黒曜石のような眼差しにどきりとしながら、緋花はごまかすように言う。
「お、おいしいですよね」
「……ああ、うまいな」
朔月の目元が、ふっと和らいだ。それは、彼が第六部隊に来て初めて見せた笑みだった。