緊急事態
「―い、おい。美月、起きろ」
心地よいどこかの世界にいる私を、少しずつ現実の世界に呼び戻そうとする声が聞こえる。
ゆっくりとその声の方へ意識が向かって行き、重い瞼を静かに開ければ、まだぼんやりとした視界に一番に飛び込んで来たのは私の双子の弟だった。
「……さくや?」
目の前の彼の名を呼ぶと、朔弥は起こすために近づけていた顔を離して。
「朝だ。起きろ」
そう、ぶっきら棒に声を放った。
部屋の電気が消えていて、遮光カーテンも完全に閉まっている状態にもかかわらず、眠る前に見た景色よりも幾分か明るいそれは、簡単に朝であることを私に認識させた。
そういえば、昨日は翼と一緒に夕ご飯を食べた後に学校で出されていた宿題をやっていたら眠くなって寝てしまったことを思い出す。
そうして不意に蘇った昨日の記憶。
あの後、結局修介と朔弥は私が起きている間には帰ってこなかった。
その記憶と一緒に寂しさが込み上げて来た。
(おかしいな、目の前にちゃんと朔弥はいるのに)
思い出すように滲み出てきた寂しい感情を上から塗りつぶすみたいに、自嘲的な笑みが浮かんでくる。
「修介が飯できたって」
そんな私の心情を知ってか知らずか、朔弥は私の思考を断ち切るように言葉を放った。
「うん、わかった。……朔弥」
「ん。なに」
既に部屋のドアへと歩き出していた背中に感情のままに声を掛けてしまう。
すると、当たり前かもしれないが、呼んだらちゃんと返ってくるその声が、振り返ってしっかりと私の顔を見てくれるその存在が嬉しくて。
当たり前のことが当たり前じゃないことを知っているからこそ、ちゃんと帰って来てくれたことに対して、安堵と心の底からの感謝とがいっぺんに私の心を支配する。
「おかえり、朔弥」
自然と込み上げてきた笑顔を朔弥に向けながら、私の心の中を支配する感情を全て言葉に乗せる。
楽しくて笑う時のそれとも、心が穏やかな時に出てくる柔らかなそれともどこか違う。
そんな、自分でも形容しがたい感情から生まれてきた表情は、もしかしたら朔弥から見たら緩々とした、だらしのない笑顔だったのかもしれない。
「ただいま、美月」
朔弥は、そうした私の言葉と表情に一瞬驚いた顔を見せたが、分かりづらいながらも直ぐに優しい表情に変わり、私が今一番欲しい言葉を返してくれた。
「ただいま」と「おかえり」。
たった2つの言葉でこんなにも満たされている私は相当“簡単なヤツ”なのだろう。
その後、朔弥が部屋から出て行ったことを確認してから着替え、顔を洗って下の階へと降りた。
リビングに行けば、修介が作った朝ご飯を翼がテーブルに並べているところだった。
「おはよう修介、翼」
「おはよう、美月」
「おう!おはよう」
私が声を掛ければ2人は作業の手を一旦止めて声を返してくれて。
「修介」
その後再び作業を始めようとする修介の元まで向かうと、不思議そうにライトブラウンの髪が揺れた。
「おかえり」
そんな修介の様子にクスッと笑うと、朔弥に対して言った時と同様、私の気持ち全てを乗せて“あの言葉”を放った。
すると修介も私の言葉に驚いた様子を見せた後、少し目を見開き。
「ただいま」
私の頭を優しく撫でながら、同じく“あの言葉”を返してくれた。
間違いない、私は今世界で一番の幸せ者だ。
「美月、椅子に座って少しだけ待ってな。直ぐに終わるから」
そうして幸せに浸っている、きっと緩みきった顔をしているであろう私に、優しい表情を向ける修介の言葉に素直に従う。
「うん。ありがとう修介、翼」
「おう」
帰ってきた元気な返事から数分後、私たちは4人で食卓に着きくと、賑やかな朝食の時間が始まった。
*
朝食を食べた後、今日の見回りのローテーションが午前の私と朔弥は事務所へと来ていて、そのまま直ぐに見回りへと出かけていた。
そして今は、時間帯が午前から午後へと変わり、先程私たちから修介と翼へと見回りのメンバーが変わったところで。
私と朔弥はお昼ご飯を食べ終え、事務所でゆっくりと過ごしているところだった。
「暇だなあ」
いざとなった時のため、2人が戻ってくるまではこうして事務所で待機しているのだが、基本的には他のグループ同士が争っていようとも別に私たちには関係が無いので。
その争いごとに非戦闘員が巻き込まれることが無ければ非常に暇なのだ。
暁の仕事が暇ということは、困っている人や危ない思いをしている人がいないということでもあって。
それは勿論良いことなのだが、やることもなくただ時間を持て余しているだけというのも案外大変である。
携帯用端末が鳴る気配もないし、今事務所には朔弥もいるしで別に良いかと思い立った私は。
「朔弥、私コンビニ行ってきてもいい?」
私と同じくソファに座って暇そうにテレビを見ている朔弥に声を掛ければ、朔弥はゆっくりとこちらを向き。
「ああ」
とぶっきら棒に答えたので、こちらのことは朔弥に任せて武器を携帯した状態で財布だけを手に持ち、事務所を出た。
外に出れば昨日翼が言っていた通りの猛暑とも呼べる気温で。
丁度今が一日の中で一番暑い時間帯だということもあるが、それにしても、である。
急に暁として出なくてはならなくなった時のためにも、『裏』の、つまり暁の時の格好でコンビニへと向かっているのだが、この暑さでスーツとウィッグは中々に辛い。
自分の手をパタパタとうちわの様に仰ぎ、気休め程度にしかならない風を送る。
少し歩いた先にお目当てのコンビニが見えて来て、そのコンビニに入り、フウと一息ついた。
スーツとウィッグを身に着けていることも相まってか、少し歩いただけで沢山汗をかいたような気がして気持ち悪い。
だが、そんな汗を一瞬で乾かしてくれるのではないかと思うくらいの冷えた空気が店内一杯に充満していて。
その冷たい空気を堪能しながらアイスが売っているコーナーへ行くと、どうせなら全員分買ってしまおうと思い、買い物かごを手に取った。
私は断然チョコレートで朔弥は甘さ控えめの抹茶、修介は爽やかなチョコミントで翼はさっぱりとしたフルーツ系。
一人一人好みのフレーバーのアイスを選んでカゴに入れていけば。
全員分選んでからカゴに収まったアイスの種類を見てみると、見事に好みが分かれているんだなあと今更ながらに気付く。
16年間一緒に居て初めて気付くこともあるんだなあと変に感心しながらレジへと並び、お金を払ってコンビニを出た。
すると、コンビニを出た瞬間、再びじめじめとした暑さが身体中にまとわりついて来て、先程まで寒いくらいに冷えた空間に居たせいか、余計に暑苦しく感じる。
修介と翼は大丈夫かなあと心の中で心配しながら事務所までの道を歩いていると、途中、公園の前を通り、公園の周りに植えてある木と木の間から何気なく公園内を見てみた。
この公園はいつもなら子供たちの元気の良い声で溢れている場所なのだが、チラッと見た感じで今日は一人も遊んでいる様子がない。
きっとこの暑さを懸念して、親が外で遊ぶのを断念させたのだろうと考えながら視線を前に戻した。
「誰か!誰かいませんか!」
その瞬間、突如公園の中から聞こえて来た悲痛な叫び声。
その声を理解するよりも速く身体が動いていた私は、反射的に公園内へと入り、人気のしない公園内から今も聞こえてくるその声の聞こえてくる方向を探し出した。
するとそこには4歳くらいの倒れている男の子と女の子が一人ずつとその2人の傍らにしゃがみ込んでいる女性の姿があった。
(間違いない)
(あの人だ)
「何かありましたか?」
子供たちが倒れている光景を見てヒヤリと背中を伝うものを感じたが、ここで私が動揺したらこの女性はもっと不安に思ってしまうと気を引き締めて話しかける。
「あなたは……、もしかして暁?」
「はい、そうですよ。なので、もう安心してくださいね」
つい先程まで気が動転している様子で助けを求めていた女性の表情が少しだけ冷静なものへと変わって行く。
「それで、何があったんですか?」
「子供たちが急に倒れてしまって……。声を掛けても返事がないんです」
『急に倒れた』という状況や、この子たちの身体から血が出ていない様子から見て、どこかのグループ同士の戦争に巻き込まれた訳ではないようだ。
その事実に心の中で安堵の溜め息を吐くが、巻き込まれていないといっても安全な状態とは言いがいたい状況に間違いはない。
そうして軽く子供たちの状況を確認すると、先程と比べて焦りよりも不安の色が一層強くなったその女性を安心させるようにと小さく微笑む。
「大丈夫ですよ。私に任せてください」
「子供たちを助けてくださいっ、お願いします……!」
最初よりも幾分か落ち着いた様子の女性は、任せてくださいと言うと、私の肩をがっしり掴んで懇願してきた。
女性との会話を終えるとポケットからスマートフォンを取り出して、躊躇うことなく119の数字を順に押していく。
そして、数コールの後につながった相手に今の状況と場所を分かりやすく手短に伝えると、電源を切った。
「救急車を今呼びました。救急車が来るまで応急処置をしますね」
子供たちを助けると同時に女性を安心させるために、一つ一つ私の行動を説明する。
そうして、もしものためにと頭に入っている応急処置の知識を総動員させ、丁寧に処置をしていくと。
私が電話をしてどのくらいが経ったのだろうか、遠くからけたたましい、けれど今なら安心できるサイレンの音が聞こえて来た。
(来た……!)
その音は私にもう少しでこの場所に到着することを伝えると同時に、女性に少なからずの安心間を与えたようだった。
「お母さん、すみませんが救急車の誘導をお願いしてもいいですか?」
「……はい!分かりました」
どんなに処置の手が忙しくても女性には決して焦りの表情は見せずに救急車の誘導を頼めば、救急車のサイレンのお陰か、幾らか頼もしくなった声で答えたその女性は、私の指示に従うために大通りへと向かって行った。
「こっちです!」
少し離れたところからガシャガシャと、担架なのか、そのような音と女性の張り上げた声が聞こえる。
(あと少しだ)
(気を抜くな)
そう自分に言い聞かせながら、目の前の倒れている2人の子供たちに向き合っていると。
「お待たせしました。ただいま担架に乗せますね」
そんな緊張と集中を保っていた私に頼もしい声がかかった。
「はい。男の子と女の子が一人ずつ、熱中症と脱水症状を起こしています。応急処置はしておきました。後はお願いします」
「分かりました。ありがとうございます」
そうして救急隊員に伝えるべきことを伝えると、私の役割はここまでだと身を引きながら、安堵の息を小さく漏らす。
そのまま救急隊員の人たちがせわしなく子供たちを担架に乗せている光景を見ていると、2人の母親である女性が私の元までやってきた。
「あの……、一緒に病院まで来てもらえませんか?」
どうかしたのだろうかと待っていると、少し言いづらそうにして放たれたその言葉は容易に私を驚かせ。
そんな私の反応を見た女性は「やっぱり駄目ですよね……」と、再び目を不安げに揺れさせたが、まだ完全に助かったわけではない彼女の子供たちの事と彼女自身のことを考えると、まだ目の前の女性を不安にさせてはいけないのだと強く感じた。
「大丈夫ですよ。一緒に行きましょう」
女性を不安にさせないようにと、努めて優しく声を出せば、その私の言葉で安心した様子を見せた女性と共に、私たちは急いで救急車に乗り込んだ。
そんな私たちを乗せた救急車が病院に着いたのは、きっと体感時間よりも幾らか早くだっただろう。
病院に着き、救急車から降ろされた子供たちがそのままの状態で真っ直ぐ処置室へと入れられるのを見届けると、私と女性はその処置室の目の前に横長の椅子に並んで座り、子供たちがその部屋から出てくるのを、じっと、だけど気持ちは焦って待っていた。
だけど、そうした私の感情などとは比べ物にならないくらいに、今の女性には一分一秒が途方もなく長い時間に感じているだろう。
固く握りしめられた彼女の拳が、それを強く物語っている。
*
そして、どのくらいが経った頃だろうか。
しばらくの間そうしていた私たちの目の前に立ち塞がるようにして固く閉ざされていた鉄の扉が、静かな音を立ててゆっくりと開いた。
それを合図に立ち上がった私たちの元に、1人の医者と、それに付き添うような1人の看護師がやって来た。
「お子さんたちの処置が終わりました。目を覚ますまで少しかかるかと思いますが、もう大丈夫です。安心してください」
「っ、良かった……」
恐らくあの子たちの処置をした医者なのだろう。
その医師から放たれた何よりも安心できるその言葉に、女性の顔が安堵と緊張からの解放で歪んだ。
「良かったですね、お母さん」
「……はいっ、皆さん本当にありがとうございました……!」
そうして今にも泣きだしてしまいそうな女性の顔を覗き込みながら微笑むと、女性は私たちに向けて勢いよく頭を下げ、涙の滲む声で感謝の言葉を紡いだ。
「……お子さんたちの病室には看護師の方から案内させていただきますので」
すると医者はそんな女性の気持ちを汲んでか、女性が顔を上げるのを待ってから今後の案内をしていた。
「こちらです」
「はい」
そしてそれを合図に、看護師が女性に病室へと促し、女性もそれに従うようにして後について歩き出した。
だが、そうして数歩歩いたところで一度こちらを振り返ったその女性は、私と私の隣に立っている医者に向けてもう一度深く頭を下げてたので、それに対し軽く頭を下げれば、女性は再び歩き出した。
(あの子たちに何もなくて良かった)
小さくなっていく女性の背中を眺め、1人で安堵していると、横からドカッとベンチに座る音が聞こえて来た。
その方向へと視線を向けると、そこには先程まで私の隣に立っていた医者が座っており、何故かと思って周りを見回してみれば、ここは病院の端にあるためか人気が一切無く、ああそういう事かと一人納得する。
それならと思いその医者の隣に私も腰かければ、医者はだらりと長い足を伸ばし、まるで身体の全体重をかけるかのように壁に背を預けた。
「あの子たちの処置をしたのって春樹だったんだね」
「あー、まあなー。たまたま手が空いている医者が俺だけだったんだよ」
「そうだったんだ」
つい数秒前まで見せていた気の良い医師の顔を脱ぎ、普段の気だるげな雰囲気に戻ったこの男の名は織原 春樹。
春樹ももちろん暁のメンバーで、暁の中では一番年上の修介から2歳下の年上組で。
ハニーブラウンの髪にウルトラマリンの瞳、そして甘い顔立ちをしているうえ、医者としての腕も良いとなって、彼も相当女性からの人気を集めている。
だけど、非常勤の医師として働いているにもかかわらず、看護師さんたちや女性の患者たちから騒がれているのは何故なのだろうか。
いや、非常勤で毎日会えないからこそなのか……。
「……最近忙しそうだね。大丈夫?ちゃんと食べてる?」
こうしてダルそうにしているのはいつもの事なのだが、私の前では疲れを一切見せようとしないその顔にはくっきりと隈が出来ていた。
そのせいで睡眠がちゃんと取れていない事は一目でわかったが、せめて食事でもと思い、顔を覗き込む。
「おー。テキトーに食ってる」
「ちょっと、適当じゃなくてちゃんと食べて」
心配する気持ちからか、少し語気が強くなってしまい。
そんな私の感情が顔にも出ていたのだろう。
「……そんな心配そうな顔で見んなよ」
春樹は眉を下げながら私の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「うん……、」
だけど、そう言われたところで心配しないわけがない。
だからこそ、私は春樹に乱された髪の毛もそのままに、だけど春樹のそんな顔を見たくなくてできるだけ顔を見られないよう俯いた。
「でもまー、忙しいのは今日で終わりそーだな。明日からはちゃんと家に帰れそーだわ」
すると、そんな私の感情を消し去るように、春樹は今の雰囲気とは場違いな声を出してきて。
そしてその言葉に私の頭が弾かれたように上がることも、きっと春樹にはお見通しなのだろう。
「……本当?」
伺うように発した私の言葉に、「こんなことで嘘ついてどーすんだよ」と苦笑いを浮かべる春樹。
「そっか、良かった……。なら明日は家でみんなと待ってるね」
「おー」
先程までの私の心情とは一転して、私たちの間に柔らかな空気が流れ出す。
それは、このダルそうな話し方のせいもあるだろうが、私も大好きな春樹特有の柔らかい雰囲気も関係あるだろう。
「美月、お前この後事務所に戻るだろ?」
「うん。春樹は?お仕事?」
「いや、この後は仮眠するわ。流石にスゲー眠い」
春樹にこの後も仕事なのかと尋ねる。
もしそうだとしたら、ここにずっといる訳にもいかないだろう。
それは春樹の、というより暁の皆の邪魔になるようなことは絶対にしたくないから。
だけど、春樹から返ってきた答えは予想に反したものだった。
そうして「眠い」と言いながら欠伸をする春樹は、まだ勤務中だということを分かっているのだろうか。
こんなところを同僚や患者に見られたらずっと被ってきた猫がバレるに決まっている。
まあ、一番問題なのは勤務中に欠伸をしてるってところだけど。
「なら、私はもう行くね」
このまま私がここに居座っていてはいつまで経っても春樹が休めない。
だからと、事務所に帰ることを伝えてベンチから立ち上がると、春樹は私の持っているビニール袋を指さしながら不思議そうな顔をした。
「お前、それ何入ってんの?」
「ああ、これは……」
春樹にビニール袋の中身を聞かれ、答えようとして止まる。
そして次の瞬間、私の顔が焦りの色に染まった。
色々なことがあった所為で“これ”の存在をすっかり忘れていた。
「アイス!忘れてた!」
急いで袋の中を確認するも、時すでに遅し。
私が買ったアイスたちは完全な液体となっていた。
「うお、完全に溶けてんなー。まー色々大変だったからなー」
袋の中を見つめながら項垂れている私の横で他人事のように呟くハニーブラウンの頭を恨めし気に見つめる。
「買い直さなきゃ……」
溜め息と共に吐き出したそれが、嫌に鼓膜を震わせた。
だがそれらを買い直す前にと、緊急事態だったとはいえ誰にも連絡を入れずに事務所を長時間開けていた為、これから帰る旨を皆に伝えようとスマートフォンを取り出す。
すると、画面に表示されたのは過去に受信した6件のメッセージ。
その内の4件は全て翼からのもので、薄々内容は分かっているが一応開いてみると、内3件はやはりアイスの話題。
一応、初めの一件だけは私を心配するような内容ではあるものの、それ以外は全てアイスの心配をしている文面だった。
「……翼から4件もメッセージ来てた」
「なんて?」
私が翼のトーク画面に白い眼を向けている様子に、春樹は楽し気な顔で笑みを浮かべている。
「早くアイスを買って帰ってこいって」
「へぇー。まー頑張れ」
完全に他人事を決め込んでいながら、楽し気に笑っている春樹。
正直、一番たちが悪い。
そんな春樹を横目に、アイスを買い直してから事務所に戻ろうと考え、『分かった』と翼に返信する。
「じゃー俺は寝るから」
私が翼にメッセージを返していると、横で春樹が立ち上がった。
「あっ、春樹!」
そのままの足で仮眠室だと思われる部屋に入ろうとしている春樹を咄嗟に呼び止めると、私の声に足を止めた春樹は、振り向いて眠いと言いながらもゆっくりと私の次の言葉を待ってくれている。
一々動作がダルそうなのに、さっきみたいに意地悪なことを言ってくることもあるのに、こうして立ち止まって私を待つその態度に、彼の優しさを感じる。
そんな姿が素直じゃないなあと思い、クスッと小さく笑えば。
「明日、待ってるね!」
「おー」
その後、放ったのは何でもない言葉で。
それでも嫌な顔一つ見せずに優しい笑顔を見せてから遠ざかっていった背中に「お疲れ様」と小さく声を掛けた。
するとその直後、手に持っていたままだったスマートフォンが震え、見て見ると翼からのもので、『アイスはもう買ったから早く帰ってこい』といったものだった。
またも翼からのメッセージに『分かった』と送ると、私は病院を出て皆の待つ事務所へと向かって歩いた。
*
「ただいま」
春樹と別れ、その後真っ直ぐ事務所に帰ると、中には朔弥だけでなく修介と翼の姿があり。
どうやら私が事務所を出てからだいぶ時間が経っていたらしい。
「おかえり、美月」
一番に声を掛けてくれた修介は既に着替え終わっていて、ソファに座ってテレビを見ていた。
そしてそれは朔弥と翼も同様で、そんな3人の目の前には食べ終わったアイスのカップが。
「美月、大変だったな。春樹から聞いたよ」
「うん、大変だったけど何事もなかったから良かったよ」
羨ましいと、視線を3人のアイスのカップへと向けていたら、いつの間に聞いたのか、修介が先程の話を持ち出してきて。
その話の速さに、きっと春樹が仮眠前に修介に伝えてくれたのだろうと感じた。
3人が私が事務所に帰ってきたタイミングで事務所を空けていた理由を聞いてこなかったことを不思議に思っていたが、そういう事だったのかと納得する。
「美月」
私が一人思案を巡らせていると、奥の簡易的なキッチンスペースから翼が声を掛けてきた。
「なに?翼」
そちらに顔を向け、そう返事をしたと同時に翼の手から何かが放たれ。
弧を描きながら私の元まで飛んできたそれをなんとか受け止めると、私の手の平一杯に冷たい感覚が広がる。
冷たいっ、と驚き自分の手の中のものを見てみると、それは私が大好きなアイスだった。
どうやら、私が先程羨まし気にアイスを見ていたことに気付いていたのだろう。
「ありがとう、翼!」
「おう!」
大好きなチョコレートアイスの中でも特に好きな手の中のそれに、思わず笑みが零れ落ちる。
嬉しさをそのまま翼へと伝えた後、早速ソファに座り、その後渡されたスプーンを手にして一口一口味わうように食べ進めていった。
*
「もう遅いし帰るか」
私が食べ終わったタイミングで修介がソファから立ち上がった。
気付けば辺りはもう暗くなっていて、家庭によってはそろそろ夕ご飯を食べ始めるような時間帯だろう。
そんな修介の提案に異論を唱える者など一人もおらず、みんな当たり前のように帰り支度を始めた。
事務所を出た私たちは、暗くなった夜道を4人並んで歩く。
「あ、そうだ。春樹が明日帰って来れるって言ってたよ」
「そうか、なら明日は5人でご飯を食べれるな」
「うん」
私が最近、中々全員でご飯を食べられていないことを寂しく思っていると知ってか、修介が私の頭に手を置いた。
その手の大きさを感じながら、ここ最近のタイミングの悪さを思い返す。
毎日のように必ず誰かの『表』の仕事が重なっていて、朔弥と2人で食べることも少なくなかった程。
「えっ、春樹明日帰って来んの?アイツここ最近相当忙しそうだったよなー」
「うん、さっき顔見たら目の下に隈があったの。相当疲れているみたいだったよ」
春樹の久し振りの帰宅に驚きの声を上げたのは翼で。
だけど翼が驚くのも無理もない程に、春樹とはここ一週間くらい、きちんと顔を合わせていない気がする。
たまに帰ってきたと思っても、夜中に帰って朝早くにはもう家から出ていたから、顔を合わせるどころでは無かった。
「明日はゆっくり休ませてあげよう」
「そうだな」
私の呟くようなその言葉に同意してくれたのは修介だったが、きっと2人も同じことを思っているに違いない。
「これで、あと一人だね。全員が揃うまで」
「ああ」
次に放った言葉は、最近帰って来ていないもう一人の仲間へと向いていて。
一日でも早く6人全員が、また同じ食卓を囲めるようにと願って出たそれに、今度こそ全員が頷いた。