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  作者: 青
第1章
3/12

お宅訪問

今日は土曜日。

太陽が完全に上り切る前、朝の弱い私にしては珍しくゆっくりと目を開ける。

重い瞼が再び閉じてしまわないようにと、目に少しだけ力を込めると緩やかな動きで視線を動かした。

そうして動き始めた視線が私の部屋の床に伸びる細い光の線の上で静かに止まると。

その光の出処である遮光カーテンの隙間から漏れる陽の光に誘われる様に、少し気怠い身体に鞭を打ち身体を起こして窓際へと向かう。

そのまま、ゆったりとした足取りではあるものの真っ直ぐに窓際まで行きカーテンを開けると、寝起きの目には強すぎる程の光が私の視界一杯に飛び込んで来た。

だけど、まだぼんやりとした頭には丁度良かったらしく、そのお陰で覚醒した私は、「よしっ」と一度気合を入れて部屋を出た。


私たちが住んでいるこのマンションはメゾネットタイプになっていて、共有部分は下の階に、個人の部屋は上の階にと分けられている。

もちろん私の部屋も上の階にあり、自分の部屋を出た私は下の階にあるリビング・ダイニングに行くためにリビングへと繋がっている階段を降りた。


「おはよう、美月」


ゆっくりと階段を降りていた私の耳に耳馴染みの良い穏やかな声が届き、そちらに視線を向ければ。

その声の主は修介で、どうやら作り終えた朝ご飯をダイニングテーブルへと並べているところだったらしい。


「おはよう、修介」


昨日の夜、帰って来た音が一切聞こえなかったけれど、いつも通りのその姿を見て心の中で安堵する。


「美月、今日は友達の家に行くんだよな?車で送ろうか?」


きっと私が今日、雫の家に行くことを知っているのは朔弥から聞いたからだろう。

昨日も夜遅くに帰って来たはずなのに、それでもなお私を雫の家まで送ろうとする優しい彼に苦笑いを浮かべる。


「友達と駅で待ち合わせをしてるの。だから大丈夫だよ」


修介からのありがたい申し出に大丈夫だと言って断ると、修介が「それなら」とキッチンスペースからなにやら洋服が一着ほど入りそうな大きさの紙袋を持って戻ってきた。


「これは?」

「うちの店で販売してるビスコッティ。昨日2人だけにしちゃっただろ?だから2人に食べてもらおうと思って持ってきてたんだ」


そんなこと気にしなくても良いのにと思いつつも、それでも気にしてしまうのがこの人なので、せめてもの想いで感謝を伝えることにした。


「ありがとう、修介。絶対喜んでくれるよ」

「向こうのお宅に迷惑かけないようにな」


眉を下げながら「ありがとう」と口にすると、小さな苦言と柔らかな表情を返してくれた。


「かけないよ。子供じゃないんだから」


子ども扱いをしてくる修介に頬を膨らませて拗ねると、小さく吹出すような笑い声が聞こえた。

修介は特に触れなかったが、きっと私の言葉に込められた目一杯の感謝の気持ちとか、修介の身体を心配する気持ちとか、そういうのを全部受け止めてくれているんだろうなとその態度からわかった。

まあ、だからといって実際に身体を休めたりするかどうかは疑わしいが。

『桐島 修介』という人物はそういう人間なのだ。

いや、他の暁のメンバーもそうか……。


「おはよう、朔弥」


私がそんな思考に陥っていると、修介が私の背後に向かって声を掛けた。

どうやら、朔弥が起きてきたようだ。

後ろを振り向くと、まだ眠気が残っているのだろうか、欠伸をかみ殺している様子の朔弥が。


「おはよう」

「おはよ。……美月?お前起きるの早いな」


珍しいとでも言わんばかりの表情で私を見る朔弥。

確かに、いつもなら休日私は大体お昼頃に起きるので、その反応はかなり正しいものだろう。


「今日は雫の家に行くからね」

「ああ、そういえばそんな話してたな」


朔弥の疑問に答えるように言葉を放つが、聞いてきた本人がこれ以上この話に興味が無いといった様子で一言だけで済ませると、ダイニングチェアに腰かけた。

そんな朔弥の態度に文句の1つでも言ってやりたいところだが、生憎美味しそうな朝食がテーブルに並べ終わった様なので、グッと抑えて私もダイニングチェアにつく。

こんなつまらない事に一々時間を割いてしまっていては、折角の修介の美味しい料理が冷めてしまう。

そんな“大人な”対応をした私が椅子に座ったタイミングで、3人で「いただきます」と手を合わせ、目の前のまだ少し湯気が立っているホットサンドにかぶりついた。



朝食を食べ終えた後、教科書やノートなどを鞄に詰めて支度を全て終えた私は、修介から渡された紙袋を持って玄関まで行く。


「行ってきます」


お気に入りのサンダルを履き、一度鏡で全身を確認すると朝食の後片付けを終えてリビングでくつろいでいる朔弥と修介に声を掛けた。


「行ってらっしゃい」


するとすぐに返事は返って来て、そんな2人からの見送りで私は玄関の扉を開けた。

なんだかんだ言って花蓮と休日に遊ぶのは初めてで、花蓮はどんな洋服を着てくるのかなと胸を弾ませながら待ち合わせの駅へと向かう。

彼女の話し方や、普段身に着けている私物の系統からして可愛い系の洋服か、などと考えながら歩いていると、気付けば待ち合わせの駅前に到着していた。

周囲を見回してみるがそれらしい人物は見当たらず、スマートフォンの方にも未だ連絡は来ていない。

取り敢えず一番目立つであろう時計の前に立ち、花蓮に駅に着いたことを知らせるメッセージを送る。

すると、メッセージを送ってすぐに既読のマークが付き、後5分ほどで到着すると言った内容のメッセージが返ってきた。

そのメッセージに『分かった』と返せば、手持ち無沙汰になってしまった私は、それならばと思い、バイト先のオーナーから送られてきていたシフト表を開く。

私が次にバイトに入る日は明後日なのは分かっているが、同じ時間帯に入る人は誰なのだろうかと確認すると、私と時間帯が被っているのはオーナーだけだった。


私のバイト先は隠れ家的なカフェで、お店の広さもお客さんの数も有名チェーン店とは比べ物にならないが、それでもあの場所を気に入っているリピーターのお陰か、店内には常に一定のお客さんがいる。

そんな、知る人ぞ知るカフェの存在を私がどう知ったのかというと、学校帰りにぶらぶらと歩いていたところ、たまたま見つけたからで。

何故だがそのカフェが醸し出す雰囲気が気になってふと足を止めて見ていたら、そんな私に気付いたオーナーが笑顔で店の中へと受け入れてくれ、そこで過ごした時間の心地よさに数日後にはそのオーナーにここで働きたいと宣言していたという経緯だ。


バイトのシフトを一通り確認し終えてスマートフォンの電源を切ろうとした時、そのスマートフォンがブブっと震え、メッセージの受信を知らせた。

その音に従うようにしてメッセージアプリを開いてみれば、それは花蓮からのもので、待ち合わせ場所に着いたことを報せる文章と共に彼女らしい可愛らしい絵文字が添えてあった。

花蓮からのメッセージを読むなり辺りを見回してみると、可愛らしい洋服を身にまとったお目当ての人物の姿が。


「花蓮、こっちだよ!」


きょろきょろと私の姿を探す彼女に駆け寄りながらここにいるとアピールすれば、彷徨っていた花蓮の大きな瞳が私を捕らえた。


「美月ちゃん、遅れてごめんねぇ」


私の元まで来た花蓮は、少し息を切らしながら眉を下げて謝っている。

そんな彼女に大丈夫だと伝えると、申し訳なさげに揺れていた花蓮の瞳がある一点で止まり、次第にそれが不思議そうなものへと変わってコテンと首を傾げた。


「その紙袋の中には何が入ってるのぉ~?」


花蓮が“それ”と指したものは修介から持たされたもので、花蓮は私が勉強道具以外に持ってくるとは思わなかったらしく、その疑問のままに言葉を紡いだようだ。


「あ、これ?これは家の人に持たされた手土産……かな?」

「えぇ~!なにそれぇ~、私そんなの持ってないよぉ~」


紙袋の正体に驚いて目を見開いたかと思うと、今度はその瞳が不安げに揺れる。

そんな、ころころと目まぐるしく変わるその表情に可愛らしいなあと、フッと顔が和らぐのを感じた。


「なら、今から買いに行く?」

「行くぅ~!」


私の提案に、不安そうに俯いていた花蓮の顔が弾かれたように勢いよく持ち上がった。

そして、そうと決まれば早速買いに行こうとなった私たちは、駅前の商業施設へと向かい、自動ドアを潜る。

建物内に入り一つ下の階に降りると、そこは和菓子や洋菓子、お惣菜などの様々な食料品が売っているエリアとなっていた。


「どれにしようか迷っちゃうねぇ~」


目当てのものはお菓子なので、取り敢えずそれらが売られている場所まで向かうと、そこにはショーケースの中に入った見た目も素晴らしい美味しそうなお菓子たちが。

そのどれを買ったところで全て美味しいのだろうが、こうも種類があっては目移りしてしまう。


「美月ちゃん、私これにするぅ~」


そう言って花蓮がさしたのは可愛らしい形をした、豊富な種類のフレーバーが楽しめるマドレーヌの詰め合わせだった。

そのチョイスもまた花蓮らしいな、なんて思いながらそれを買いに行く花蓮の背中を見送る。

その後、お菓子を無事に買えた私たちは、雫の家へと向かうべく商業施設を出たのだった。



「うぅ~、緊張するぅ~」

「あははっ、花蓮すごい緊張してるね」


私の横で声と顔を強張らせながら唸る花蓮の様子に思わず笑ってしまう。

なんだかんだ言って花蓮と出会ってからここまで緊張している彼女の姿は初めて見るかもしれない。

まあでも、花蓮と雫は今日初めて話すうえ、その初めてが相手の家となれば緊張するのも無理はないのだろう。

そんな花蓮と一緒に歩いているとようやく雫の家が見えてきた。


「花蓮、インターフォン押すよ。大丈夫?」


雫の家の門の前に立ち、インターフォンを推す直前に花蓮に確認する。


「大丈夫じゃないけどぉ……。大丈夫……」

「どっちなの、それ」


未だ顔が強張ったままの花蓮が矛盾したことを言って来たため、思わず吹き出してしまう。

だけど確かに花蓮の言う通り、いつまでもここに突っ立っていても仕方がない。

私はもう一度だけ花蓮の顔を一瞥すると、雫の家のインターフォンを押した。

ボタンを押してから一拍遅れて聞こえて来たありきたりな音が聞こえること数秒。

インターフォンのボタンの上にあるスピーカーから『はい』と雫の声が聞こえた。


「藤堂 美月です」

『今開けるわね』


雫の声が聞こえたことで一層緊張感が増した様子の花蓮の表情はもうガチガチだ。

そんな花蓮を横目にスピーカー越しの会話を終えると、直ぐに目の前の玄関扉が開かれた。


「待ってたわよ、2人とも。どうぞ中に入って」


綺麗な笑みを浮かべる雫に招かれて私と花蓮が家の中へと入れば


「お邪魔します」

「お、お邪魔します……」


いつ来てもきちんと整頓された玄関に迎えられ、部屋の中に上がった。


「立花 花蓮ちゃんよね。美月から話は聞いてるわ。緊張しなくて大丈夫だから上がって」

「は、はい……」


雫は花蓮の様子に上品に小さく笑うと、花蓮にも中に入るよう促していて。

そんな雫の優しい雰囲気に充てられたのか、花蓮を襲っていた緊張が少しばかり取れた様に見えた。


「じゃあ私は飲み物取ってくるから、2人とも先に私の部屋に行ってて」

「分かった。ありがとう、雫」


花蓮の緊張が少し溶けたことを確認すると、雫は私たちに先に自分の部屋に行くよう促してキッチンへと消えて行った。

そうした雫のお言葉に甘えて一足先に踏み入れた雫の部屋は、以前と変わらず整然としていて。

雫らしい大人っぽいお洒落な家具や小物が、雫のセンスを一層に際立たせている。

そんな部屋の中心に置かれているローテーブルの周りに2人して座れば、雫の到着を教科書などの勉強に必要な道具を取り出しながら待つ。

その間、花蓮と他愛もない話をしていたところ、少し経って雫がアイスティーと氷の入ったグラスを3つ持って来てくれた。


「お待たせ」

「ありがとう」

「あ、ありがとう…ございます……」


雫が私たちに声を掛けながらそれぞれの前にグラスを置くと、私の声に遅れて花蓮がいつもよりも数段小さな声でお礼を言っていた。


「じゃあ勉強始めようか」


いくら緊張しなくても良いと花蓮に諭したところで、少ししか話していない相手にそれは難しいだろうと思い、勉強を始めようと2人に提案する。

それに、普通に会話をしていたら意識しすぎてしまうものも、勉強を通して会話をした方が自然に話せるのだろうし。


「そうね、始めましょう」

「う、うん」


すると、どうやら2人とも私の提案に納得してくれたようで、早速私たちは勉強を始めることになった。



そして、ああでもないこうでもないと、ビシバシ雫に教えてもらうこと約3時間。

テーブルの上には屍の様にぐったりとした様子の身体が2つ出来上がっていた。


「一旦休憩しましょうか」

「そうだねぇ……」

「雫、スパルタすぎ……」


壁に掛けてある時計を見て休憩を入れようと言う雫に返す声は最早弱々しい。

「疲れたー」と言いながらごろんと仰向けになると、右腕にカサっと何かが触れた気配がした。

その違和感に何かと思い見て見ると、それは今朝修介に渡されたお菓子で、そういえばまだ渡していなかったことを思い出す。


「雫、これお菓子なんだけど、良かったら食べて」

「いつもいいって言ってるのに……。でも、ありがとう」


私たちの間ではもはや恒例行事となっている挨拶の様な会話を交わしていると、横で同じくたった今思い出した様子の花蓮が先程買ったばかりのお菓子を雫に手渡していた。


「あ、私もこれどうぞぉ~」

「ありがとう」

「せっかくだから2人が持って来てくれたお菓子を食べながらお喋りでもしましょうか」


いつの間にやらいつもの話口調に戻っていた花蓮がお菓子の入った紙袋を雫に手渡すと。

雫は花蓮までお菓子を持って来ていたことに驚いた様子を見せるも、直ぐにふわりと綺麗な笑顔に変わり、その後素敵な提案をしてくれた。

すると、待っていましたと言わんばかりのテンションで花蓮が雫がいる方へと身を乗り出した。


「ねぇねぇ、雫……ちゃんは彼氏いないのぉ~?」

「雫で良いわよ。私も花蓮って呼ぶから。それと、彼氏はいないわ」


ずっと勉強を教えてもらっていたというのに、未だに呼び方で迷う花蓮に雫は呼び捨てで良いと伝えていて。

その後、花蓮が一番聞きたかったとばかりに雫から聞き出した質問は私の一番苦手とする類のものだった。


「えぇ~!?そうなんだぁ~。意外ぃ~、すっごく美人さんなのにぃ~」

「ありがとう。そういう花蓮はいないの?」


花蓮のお世辞の色を全く感じさせない素直な言葉に、雫の表情も柔らかくなる。


「私もいないんだぁ~。美月ちゃんはぁ~?」


話の流れからして分かってはいたけれど、ついに話を振られてしまった。

私は、自分でもよく分からないのだが、いつからか俗に言う“恋愛”といった類に分類される話題が苦手になった。

それは、自分から意図して離れていったのか、自分には縁のないものだと決めつけたからなのか。


「……私も、いないよ」


そんなことを考えていたが故に、不自然な間が開いてしまったような気がする。

努めて自然に放ったその声は、少しだけ震えていたかもしれない。


「そっかぁ~。でもそうだよねぇ~。毎日あんなに格好いい双子の弟を見てたらハードル上がっちゃうよねぇ~」


そんな私の変化に気付いていないのか、それとも気付いているのに見て見ぬふりをしてくれているのかは分からないが、花蓮がいつも通りに返してくれて助かった。


「……ま、恋愛も勉強も進む速度は人それぞれってことよ」


そう言ってこの話をまとめた雫は既に勉強に戻る体勢だ。

だけど、きっと雫には気付かれていただろう。

気付いて話を変えてくれたのだろう。

今の言い方がそれを物語っている。


「そっかぁ~。じゃあもし好きな人が出来たら教えてねぇ~」

「うん、一番に報告するね」

「じゃあさっさと勉強終わらせちゃいましょう」


この約束が果たされる時が来るのか、私にはまだ分からない。

果たされてほしい好奇心と、果たされて欲しくない恐怖心とが私の心の中で渦を巻く。

その後、この話は雫の先程の言葉と共に終わりを迎え、この日の内にまたこの話題が出ることは一度もなかった。



それから数時間後、雫のスパルタ指導で始まりスパルタ指導で終わった勉強会は、もう少しで日が暮れそうだというところでお開きになった。


「雫、今日はありがとう」

「ありがとぉ~。これで明後日の小テストもどうにかなりそうだよぉ~」


荷物も靴も、全て支度が出来た状態で、帰り際に見送りに来てくれた雫に感謝の意を伝える。


「どういたしまして。そろそろ暗くなるから2人とも気をつけて帰ってね」


そう言って綺麗な笑みを浮かべる雫からは、先程までの鬼のように怖かったそれとは想像ができない。

まあ、それはともかく本当に暗くなりそうなので、私たちは雫に別れの言葉を告げ揃って家を出た。

夕暮れに染まった道を来た時と同様、花蓮と肩を並べて歩く。


「雫って頭いいし、美人だし、スタイルいいし、凄いなぁ~」

「そうだね」


初めはガチガチに緊張していた花蓮だったが、どうやら今日話してみて雫に好印象を持ったようだ。

初めはどうなることかと思ったが、私の大好きな2人が仲良くなってくれたようで私も嬉しい。

そんな、穏やかにも安堵にも近い感情を抱いていると、気付けばもう大通りまで来ていた。


「あ、私こっちの道なんだぁ~。美月ちゃんまたねぇ~」

「うん、また学校でね」


そう言って花蓮がさした方向は私の帰る道とは真逆で、花蓮とはそこで別れることとなった。



花蓮と別れ、さっきよりもオレンジの濃くなった道をゆっくりと歩く。

今日は全員でご飯を食べれるかなあと考えながら歩いていると、ポケットに入れいていたスマートフォンがブブッと2度震えた。

メッセージの受信を知らせるそれに、誰からだろうと思いメッセージアプリを開くと、その送り主は朔弥と修介からで。

トーク画面を開いてその内容を確認すると、氷室グループの社長からの急な呼び出しがあり、帰りが遅くなるといったものだった。


『分かった、私は大丈夫だから心配しないで。もう遅いから気を付けてね』


2人に送ったメッセージの内容はそんな感じ。

仕事なら仕方ないと自分に言い聞かせ、いつも私は物分かりの良い顔をする。

つい先程まで考えていた小さな願いはいとも簡単に打ち砕かれ、もうほとんどオレンジの残っていない、藍色がかった空と共に家路に着く。

そんな、太陽の光が消えかかっているその情景が、今の私の心情によく似ていた。



家に着き、鍵を開けて扉を開くも、目の前に広がるのは真っ暗な闇。


「ただいま……」


誰もいないと分かっているのに無意味にも部屋の奥へと声を放つが、やはり聞こえてくるのは耳が痛い程の静寂のみで。

当然の様に返ってこない声に落胆すると、一先ずリビングの電気をつける。

そのまま荷物をソファに置いてから手を洗うため洗面所へと向かえば。

そういえば、修介からのメッセージで夕ご飯は冷蔵庫の中に入っていると書いてあったと思い出し、しっかりと手を洗ってからキッチンに入った。

キッチンに入ると、冷蔵庫から取り出した夕ご飯を電子レンジに入れ、『温め』のボタンのを押す。

数分後、温めが終わったことを知らせるピピッという音が聞こえ、容器が熱くなっていることに気を付けながらそれを取り出して、ダイニングテーブルに置くと。

一通りの食べる準備が終わり、小さな声で「いただきます」と言ってから静かに食べ始めた。

すると、1人で食べるには広すぎるこの空間に、虚しくもカチャカチャと食器同士のぶつかる音が反響して。

美味しいのに美味しくない。

そんな矛盾を抱えながら味気のしないそれを一口一口食べ進めていった。

すると直後、突然玄関の扉が開く音が私の耳に届いた。


「ただいまー!」


そして聞こえて来たのは元気の良い声。

朔弥と修介からは、先程帰りが遅くなるといったメッセージが来たばかりだったし。

他の3人の予定は知らないが、きっと仕事で忙しいのだろうと思っていた矢先のそれに驚きを隠せない。


「おーい、美月―。いるんだろー!」


私を呼ぶ声に誘われるように玄関のある方を覗くと、そこには暁のメンバーの1人、綾瀬 翼の姿があった。

1年前に私と朔弥が通う東高校を卒業して以来、フリーターとしていくつかのアルバイトを掛け持ちしている彼は、身長はそこまで高くはないものの。

金髪に深紅の瞳に八重歯を持ち、誰にでも分け隔てなく接するフレンドリーさなどから、男女問わず彼の周りには常に人が集まっていた。


「翼……?何で?バイトは?お仕事は?」

「おい、待て待て。いっぺんに聞くな」


まくし立てるように次々と疑問をぶつける私に、翼は焦ったような表情を見せた後、私に落ち着くよう促してきた。

その翼の言葉に従い「分かった」と言って頷くと、先ずはと一つ目の質問を切り出す。


「じゃあ……、バイトは?」

「バイトは、昨日まで短期の仕事を幾つか掛け持ちしてて今日全部終わったんだ。だから昨日は帰れなかった」


成る程、と納得すると同時に、分かりやすく一つ一つ順を追って説明してくれる翼に心の中で感謝する。


「なら、お仕事は?氷室グループの社長から急な呼び出しがあったって聞いたけど」

「仕事の方は修介と朔弥の2人でどうにかなりそうだったから任せてきた」

「俺までそっちに行くとお前ひとりになるだろ?だから帰ってきたっつーわけだ」


(嬉しい)


ただ単純に嬉しい気持ちだけが込み上げてくる。

さっきまで真っ暗で重くて仕方が無かった心がパアっと晴れていくのを感じた。


「ありがとう、翼……!」


嬉しさと感動とで歪んでしまった顔を見られないように下を向けば。


「おう、じゃあ一緒に飯食うぞ」


そう言いながら翼は私の横を通り過ぎる瞬間、軽く私の頭をポンッと撫で、ダイニングへと入っていった。


「いただきます」


本日2度目のダイニングに響き渡ったその言葉は、先程のそれとはまるで違い、その声色から嬉しさが自然と滲み出ている。

そうして、1人ではなくなった食事は、数分前まで感じていた味気の無さなど一瞬にして忘れてしまう程にとても美味しいものだった。


「そうだ美月。お前明日の見回り、午前だろ?」

「うん、そうだけど。それがどうしたの?」


世間話をしながら食事をしていると、不意に翼が思い出した様に声を放った。



翼のいう“午前”・“午後”とは、その言葉の通り、休日などの日に割り当てられる、まあシフトのようなもので。

それが私は明日“午前”だということだ。



「暇な時にでもコンビニに行ってアイス買ってきてくれねー?明日暑いらしいからよ」

「いいよ。わかった」


それならば、午後が割り当てられている翼が午前中に勝ってくれば良いようにも思うが。

午前中には何か用があるのか、それとも単に行くのが面倒くさいだけなのか。

まあ、なんにせよ私は明日特に用事は無いので、コンビニに行くことは別に大丈夫なのだが。

そんなことを考えながら、私は2つ返事で了承すると、再び目の前の料理を食べ始めた。



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