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  作者: 青
第2章
12/12

綺麗な人

銀行強盗の事件から幾らか経ったある日の学校の廊下。


「なあ、知ってるか?最近Midnightの動きが活発になってきてるんだってよ」

「知ってる知ってる!カッコいいよなMidnight!俺やっぱ暁よりもMidnightの方が好きだわ。何かダークヒーローって感じでさ」

「いやいや、何言ってんだよお前。暁の方がカッコいいに決まってるだろ?この前の事件だって、暁がいたから解決したようなものじゃねーか」

「まあでも、確かにMidnightはダークヒーローって言うより悪って感じだよな」

「分かってないなー。それが良いんだよ」


歩いていると聞こえてくるのは、最近ではもっぱらMidnightのこと。

この学校だけでなく街を歩いていても、多くの人が話しているのは、最近のMidnightが活発だという話ばかり。

今のところ、私の耳には大きな事件が起こったという情報は入って来ていないが。

それでも、Midnightの危険性は現代の日本からしても相当なもの。


(このまま何も起こらなければ良いけど……)


隣を歩く朔弥の顔を見上げると、やはり朔弥もMidnightの事が気になるのか、複雑そうな表情が伺える。


「じゃあな、美月」

「うん。後でね」


いつもの通り、学校の2階に着いたところで朔弥と別れる。

4組の教室に着き、教室の中に入っても皆の話題の中心はMidnightのことだった。

クラスメイト達の話に耳を傾けて見ると、女子生徒の中には「Midnightのメンバーになら抱かれても良い!」なんて興奮した様に言う人もいる。

Midnightの連中の行いは決して目を瞑っていられるようなものでは無いが、今一番私たちが危険視しているのは、Midnightに憧れを抱いている連中の動きも活発になるのではないのかということだった。

Midnightは基本的に興味のない者には見向きもしないが、彼らに憧れている者たちはそうではない。

自分たちの力を誇示し、力のない者たちに一方的な暴力を振るう。

Midnightを崇拝する連中は、そうした非倫理的な行動をする事で知られている。

私たち暁や氷室グループの皆の耳にも勿論、Midnightの連中の活動が活発になったことは入って来ていて。

そうした、Midnightを崇拝するあまり戦闘員と不良との区別がついていない様な人達によって無力な非戦闘員の人達が傷つくことが今の私たちの一番の懸念材料だ。


(これからはいつも以上に神経を張り巡らせて見回りをした方が良いだろうな)


そう思案しながら自分の席に着き、着席したところで既に来ていた花蓮と飛鳥に声を掛ける。


「おはよう花蓮、飛鳥」

「おはよう、美月」

「おはよぉ」


すると、いつもなら花蓮独特の間を持ちながらも元気な声が返ってくるのだが、今日な何だか元気が無さそうで。


「花蓮、何かあったの?」


いつも元気な花蓮にしては珍しいその様子に心配になり、どうしたのかと尋ねれば、花蓮は拗ねた様に口を尖らせた。


「皆がMidnightの話ばっかりしてるからぁ。Midnightより暁の方が絶対カッコいいに決まってるのにぃ~!」



花蓮が口を開くのをゆっくりと待った後にようやく零した“拗ねている内容”に「ああ」と納得する。

花蓮は暁のことが大好きだから、この状況が耐えられないのだろう。


「そうだね」


そんな花蓮を宥めるように花蓮の言葉に同調してみたものの、完全に当事者な私は曖昧な笑みを浮かべた。


「美月」


そうして花蓮と飛鳥と話をしていると不意に呼ばれ、声のした方向に視線を向ければそこには南雲くんが立っていて。


「南雲くん、どうかしたの?」

「棗さんから伝言。バイト今日入れるかって」


聞けば、どうやら今日出勤予定だった人が熱を出してしまい、休むらしい。

それで代わりに私に出れないかといった内容だった。


「今日?うん、大丈夫だよ」


鞄から端末の方を出して確認すると、今日の事務所に来れる人数は普段よりも多く。

これなら他のメンバーに任せても大丈夫そうだと感じた私は、二つ返事で了承した。


「なら、いつもと同じ時間からよろしく」

「わかった。ありがとう」


そう言って南雲くんは私の返事を確認すると、自分の席へと戻っていった。

私はそんな南雲くんの背を見送りながら、今日バイトが入ったことを暁のメンバーに知らせるため、先ずは朔弥にメッセージを送る。


『ごめん、朔弥!今日急にバイトが入っちゃった』

『分かった。授業終わったら教室で待ってろ』

『うん、ありがとう』


朔弥にメッセージを送り終わると、今度は暁のメンバーにもメッセージを送った。

内容は朔弥に送ったものと似たような内容で、急にバイトが入ったからと謝罪を入れる様なもの。

その後返ってきたメッセージは、こっちは大丈夫だからバイトを頑張れと、私を労うようなものだった。

そうして私が暁の皆に連絡をし終えて顔を上げると、花蓮がじっとこちらを見ていた。


「美月ちゃん、南雲くんと仲良かったんだねぇ~」


どうやら、先程南雲くんが私の事を“美月”と下の名前で呼んでいたことが引っかかっていたようだ。


「うん、一年生の時同じクラスだったんだ。南雲くんと朔弥が仲良かったから自然と私も仲良くなったって感じかな」

「そうだったんだねぇ~」


担任が教室に入ってきた事により、そうした何気ない言葉を最後に私たちの会話はプツンと途切れた。



放課後、誰もいなくなった教室で少し遅れると言っていた朔弥を私は一人待っていた。

何もすることが無くて手持ち無沙汰な私は、部活動に勤しむ生徒たちの活気ある声に誘われ、何となしに窓から校庭を見下ろす。

サッカー部にテニス部、そして校庭の端っこにはバトントワリング部が練習している様子が見え。

いつもならそんな生徒たちの邪魔にならないようにとこの校庭の外周を走っている野球部がいるのだが、今日は彼らの姿は見えない。

そんな様々な人で溢れている場所には私のクラスメイト達もチラホラ居て、いつも教室では部活が面倒だとか、後輩がどうとか先輩が怖いだとか愚痴を零している皆も、やはりこうして一つのことに打ち込んでいる様はとてもキラキラと輝いて見える。

こうしてこの場所だけを切り取ってしまえば、日頃の権力戦争などと言う醜く、残酷な争いが嘘の様だった。

そうして私が校庭を見下ろしていると、不意に背後からコツコツと靴音が聞こえ、その音に誘われるようにして振り向けば。


「美月、バイト先まで一緒に行こうぜ」


とっくに帰っていた花蓮の席まで来ていた南雲くんが、そう声を掛けてきた。

バイト先が一緒なうえ、当然ながら南雲くんも私も今日はバイトのシフトが入っているので、声を掛けてくれたのだろう。


「私、朔弥のこと待ってるんだ」

「朔弥?なんで?」

「バイトがある日は朔弥に送ってもらってるの」


だからこそ私もいつまでも教室に残っている理由を話せば、南雲くんは不思議そうだった表情を益々深めてきた。

だが、それもそうだろう。

私は今、高校二年生で17歳。

一人で行動できない様な小さな子供では無いし、いくら私たちの仲が良いとはいえ常に行動を共にしなければいけないわけでもない。

故に南雲くんの疑問は至極当然のものだった。


「ふーん。じゃあ俺も待ってる」


すると、南雲くんはまだ腑に落ちていない様だったが、それには特に突っ込むことなく自分も待つと言うと、私の目の前の花蓮の席に跨るようにして座った。

南雲くんとは行先が同じなので、私も拒否する意味もなく黙ってそれを受け入れれば、何故だか南雲くんが私の顔をじっと見つめてきた。


「……なあ、美月。お前、最近元気ないように見えるけど大丈夫か?」


あまりにも見つめてくる南雲くんにどうかしたのかと聞こうと思ったところ、不意にそんなことを聞かれる。

正直驚いた。

一年生の時はそれなりに話してはいたけれど、二年生になってからはクラスではあまり話さなくなっていたから。

やっぱり南雲くんは周りをよく見てる。


「心配してくれてありがとう」


そう気持ちを込めて微笑んだが、どうやら南雲くんには嘘っぽい笑みに見えていたらしい。


「誤魔化すな」


その証拠に、返ってきたのは鋭い言葉と真剣な眼差しで。

その、真実を追求するような瞳から逃げるように、私は静かに視線を逸らした。


「美月、こっち見ろ」


だけど、南雲くんはそれすら許さないといった様に、真っ直ぐな声を浴びせてきた。

ここで目を逸らしたままでは余計に怪しまれるに決まっている。

そう思い、ゆっくりと、恐る恐る南雲くんの目に視線を戻せば。

戻した先には彼のエメラルドグリーンの瞳が鋭い輝きを放っていて、そのあまりに真っ直ぐなそれに、また目を逸らしたくなった。


「な、に、」


嘘は許さないと言うようなその瞳に捕らわれて動けなくなる。


「お前が元気なくなったのって、あの事件からだよな?銀行強盗の事件」


少しずつ核心を付いてくるように、じわじわと私を追い詰めていく南雲くん。


(これ以上はダメだ)

(踏み込ませてはいけない)

(いくら友達といえど、暁のことだけは絶対に言えない)

(言っちゃダメなんだ)


何としてでも真実を引き出さんとするその瞳に、頭の中で警報が鳴る。


(どうしよう)

(どうにかして誤魔化さなきゃ)


未だ目の前のエメラルドグリーンの瞳に囚われた状態で、混乱しそうな頭を精一杯動かす。


「なあ、美月。お前もしかして、――」

「美月」


南雲くんが何かを言いかけた時、教室のドアが開く音がして、同時に私を呼ぶ声が聞こえた。

すると、エメラルドグリーンの瞳がそちらに振り向き、その瞬間私たちの間にあった張りつめていた何かがゆっくりと解けていくように感じた。

それが、ようやく呼吸をする事を許された証のようで。

解放されたばかりの私はぎこちない動きで、ゆっくりとドアの方へと視線を向ける。


「さく、や」


絞り出すようして出た私の声は、音になっていたのかも怪しい程に掠れていた。

多分、この分かりやすい程の動揺は、朔弥にも伝わってしまっただろう。


「待たせた。行くぞ」


だけど、朔弥なりの優しさなのか、それについては一切触れずにいつも通り「行くぞ」と言ってくれた朔弥に心の中で感謝する。

正直救われた。

あのまま南雲くんの追及を受けていたらバレてしまっていたかもしれない。

チラリとそんな南雲くんを見てみると、南雲くんはまだ何か言いたげだったけど、それを飲みこむと朔弥に視線を移した。


「俺も今日バイト。一緒に行こうぜ」


朔弥はそういった南雲くんに一言「ああ」とだけ言うと、いつもならさっさと行ってしまうところ、この日ばかりは私の準備が終わるまで待っていてくれた。

それから久し振りに3人で会話しながら私たちのバイト先へと向かったのだが、そんな私たちの間には、先程の張りつめたような空気感など一切なく、南雲くんもあれ以降あの話を持ち出すことは無かった。

まあ、聞かれたとしても、私も朔弥も答えられることは何も無いけれど。

そうして着いたバイト先のカフェ。


「じゃあ俺行くから」


お店に着くや否や朔弥はそう言うとさっさと踵を返して、来た道を引き返していった。


「俺らも行くか、――っと悪い美月。電話かかってきたから先に行ってて」

「分かった。先に行ってるね」


だけど、そんな朔弥の態度には私も南雲くんも慣れたもの。

特に気にすることもなくカフェの中に入ろうとした時、南雲くんのスマートフォンが震え出した。

それはどうやら着信を知らせるものだったらしく、南雲くんは私に断りを入れると私に先に行くよう言ってきて。

そうした南雲くんの言葉に甘え、一足先に店内に入ることにした私は、1人でお店の従業員用の入り口に向かうと、その裏通りに1人の男性が立っているのが見えた。


(っ、綺麗な人……)


彼の顔を、雰囲気を見た瞬間、自然と湧き上がってきた感想と共に私は思わず足を止めた。

漆黒の髪にそこから覗く、同じく漆黒の瞳。

彼の整い過ぎた顔立ちも相まって、その瞳と髪の色が彼の綺麗さを一層に際立てているように思えた。

男の人にこの言葉は間違っているのかもしれないが、それでも、この人を一言で表すにはこの言葉がぴったりのように感じた。


(そうじゃなくて、店内に入らなきゃ)


随分と時間を取ってようやく思考を引き戻した私は、ハッとして思わず見とれていた頭を叱責する。

そして、こんな従業員以外近づかない様な場所に何の用なのだろうかと不思議に思って、その綺麗な彼に近づいた。


「あの……、このお店に何か御用ですか?」


恐る恐る尋ねると、彼の漆黒に染まった瞳がゆっくりとこちらに向けられる。

すると、その男性が私の事を視界に入れた瞬間、私の見間違いかもしれないが、一瞬だけその瞳が少し見開かれたように感じた。

だけどそれは、本当に見間違いかと思う程に短い時間で。

次の瞬間には、もう最初と同じ大きさに戻っていた。


「いや、今日は客として来ただけだ」

「そうなんですね」


“今日は”という言葉に引っ掛かりを覚えたが、特に気にすることは無かった。

第一、お客さんにズケズケと聞くのも変な話だ。


「こっちは従業員用の入り口なんですよ。私、ここでバイトをしているので正面の入り口までご案内しますね」


流石にいつまでもここで話しているわけにもいかず、正面の入り口に案内すると提案する。


「ああ」


すると、彼からは何とも端的な言葉が返って来て。

それは、一見素っ気なくも聞こえるが、私にはなんとなく朔弥や界の口調に似ている気がして、少しだけ親近感を覚えた。


「ここが入り口です。今の時間帯はあんまり人がいないので、良かったらゆっくりしていってください」

「ああ」


その男性を連れて正面へと回り、従業員としてお客さんと接する時のように声を放つ。

すると、立っているだけで雰囲気のあるその男性は、また一言だけ「ああ」と言うと、お店の中に入っていった。

そんな男性が中に入ったのを確認した私は、自分もさっさとお店の中に入らねばと思い、急いで裏口へと回ったのだった。


「おはようございます」

「おはよう、美月ちゃん。ごめんね、今日急に入ってもらうことになっちゃって」


着替えてキッチンスペースに入ると、オーナーが一番に声を掛けてくれた。


「いえ、全然大丈夫ですよ」

「そっか、ありがとう。じゃあ今日もホールお願いね」

「はい」


眉を下げて謝るオーナーに気にしていないと言いながら笑顔を向けると、オーナーは少し安堵した様な顔で笑った。

その後、割り振られた役割を全うするべくキッチンスペースに行くと、南雲くんが既に居て、驚いた顔をされた。


「美月、俺より先に行ってなかったか?」


どうやら、私が先程の男性を案内している間に、南雲くんは電話を終わらせていたようだ。


「お店の入り口の場所が分からなかったみたいで迷ってたお客さんがいたから、案内してたら遅くなっちゃった」

「へえ、そんなに分かりにくくもないと思うんだけどな。そんなヤツもいるんだ」

「うん、そうみたい」


そう言って不思議そうな表情を浮かべる南雲くんの手元には、淹れたてなのであろう。

表面からゆらゆらと湯気が出ているコーヒーの入ったカップが。


「じゃあ、私ホールに行ってくるね」

「あ、美月」


一通り話が済んだところでホールに出ようとすると、南雲くんに呼び止められた。

何かと思い振り向くと、その手にはトレイに乗せられた先程のホットコーヒーが。


「これ、窓際の席に持っていってくれ」

「分かった」


“窓際”そう言いながら南雲くんが向けた視線の先を見てみると、そこには数分前に見た背中があり、私は頷きながらもちょっとしたワクワク感を胸に抱いた。

南雲くんからコーヒーを受け取り今度こそホールへと出ると、何かを読んでいるのか、先程よりも少しだけ丸い背中に声を放つ。


「お待たせ致しました。ホットコーヒーでございます」


彼の背からテンプレのようなそれを放つと、下に向いていた彼の瞳がゆっくりと私を映した。


「……ああ、お前か」

「はい。あ、コーヒーこちらに失礼しますね」


一声かけてからテーブルにそっとコーヒーを置き、そのまま視線を横にズラすと、先程の推測通り彼の手元には何やら難しそうな分厚い本が開いた状態で置かれていた。


「ここのお店のコーヒー、お替りが無料なんです。なので、もし気に入って頂けたらいつでも呼んでください」


そう言いながら笑顔を向けるが、彼は依然として無表情のままで。

そんな彼は私の方を一度見ると、また「ああ」と呟いて本を読み始めた。



「おい」


しばらくして、彼が私の事を呼んできた。


「はい!あ、お替りですね。少々お待ちください」


呼ばれた方へと目をやると、あの男性が私の方を横目で見ていて、そこから少しだけ視線をズラすと私が仕事をし始めた時に運んだコーヒーカップが空になっていた。

その状況から、きっと彼は今コーヒーを欲しているのだろうと察し、コーヒーポットを持って彼のいるテーブルへと向かうのだが。

あまりにも反応が少ないその男性に、もしかすると私の声は聞こえていないのではないのかと感じたが、そうでは無かったらしい。

その事実に、初めて修介と春樹と出会った時のことを思い出し、私の心が少しだけ歓喜した。

そんな、私にしか分からない喜びを感じながら男性の待つテーブルまで行きコーヒーを注いでいると。

その喜びのせいで少しばかり上がったテンションが更に彼への興味を私に搔き立てさせた。


「コーヒー、お好きなんですか?」


いつもの私だったら言っていなかったであろう言葉に、自分自身も驚く。

だけど、声に出してしまったものは仕方ないと達観しながらも、返事は返って来ないだろうなと高を括っていると。


「ああ」


彼はまた私のことを横目で見てから、そう静かに答え、再び本に目線を落とした。

彼のその反応を意外に思いながらも、再び集中しだした彼を邪魔しないように、静かに一度頭を下げて元いた場所に戻る。

その後、結局彼はコーヒーを飲み終えるとお店を出て行った。



それから数時間後、何事もなく終わったバイトから帰り、今は家のソファに座ってテレビを見ているところ。

他の暁のみんなも各々好きに過ごしていて、リビングには穏やかな空気が流れていた。


「美月、氷室さんから伝言だ。『明日、全員でオフィスに顔を出すように』だと」


先程から何やらパソコンを弄っていた界が、ふと言葉を放った。

今日、私たちは氷室グループにとって革新的な事を行うと聞いていた。

氷室さんが明日私たちを招集する理由は、ほぼ確実に“それ”のことだろう。


「うん。ありがとう、界」


そうして界と話していると、いきなり頭の上に何やら重みを感じた。

その重みの犯人は、私の隣に座っている春樹で。

彼は乱暴に、というよりもダルそうに私の頭に手を乗せてきたため、春樹の腕一つ分の重荷が全て私の頭にのしかかる。

本当ならば、重いと文句を言いたいところなのだが、言ったところでこの腕が下ろされることは無いのは経験上よく分かっているので、その文句をグッと堪えて春樹に視線をやる。


「今日のバイトは特に何もなかったか?」

「うん、何も無かったよ。あ、でも今日新しいお客さんが来たんだ」


普通のお店なら新規の客など当たり前のことだろうが、私の働いているあのお店は隠れ家的なカフェなので、いつも常連のお客さんばかりだ。

お客さんたちは、皆口をそろえてこのカフェの居心地が良いと言ってくれるので、それがリピーターが多い原因の1つなのだろう。

とまあ、何が言いたいかと言うと、あのお店に始めて来るお客さんはあまり多くないってことだ。


「へー。どんな客だよ」


春樹もそれを知っているからこそ、この質問をしたのだろうが、如何せん声に覇気がない。

本当に聞く気はあるのかと聞き返したくなってしまう程だ。


「えっとね、なんかすっごく綺麗な人だった」


うん。

彼を一言で表すのならこの言葉がピッタリだろう。

その場にいるだけで雰囲気のある彼には、むしろこの言葉以外当てはまらないように感じた。


「女?」

「いや、男の人だよ」


すると春樹は興味が無くなったのだろう。


「へー」


そう一言呟くと、視線をテレビに戻した。

最初から興味は無さげだったけれど、自分から話を振っておいて「へー」の一言で終わらせるってどうなのかと、理不尽を感じる。

その感情をぶつけるように、同じく興味が無さそうにテレビを見ている春樹のことを睨んでいると、ふと思う。

男の人だと言ったら興味を無くしたということは、女の人だったら興味が湧いていたのか、と。

そういえば、暁の皆の女性関係については、私は何も知らない。

見たことも聞いたこともなければ、皆のそういう雰囲気を感じたことすら無い。

皆がモテることはよく知っているけれど、それと付き合うことはまた別物。

皆バレないようにしていただけで彼女とかいたのかな、とそこまで考えていたところで、もしかしてと一つの考えが私の頭を過った。

もしかすると、皆は付き合わずに身体の関係だけを持っていたのかもしれない。

中には、現在進行形の人もいるのかも。

もしそうだとしたら、仲間として、家族として止めさせた方が良いのではないか。

どうなのかなと、隣で全体重をソファに預けるように座っている春樹の顔を盗み見る。

未だ本当に見ているのか分からないテレビへと視線が向いているその横顔からは何も読み取れない。


(春樹にも彼女がいたりしたのかな)

(いや、もしかしたら今いるのかも)


修介にも、界にも、翼にも、朔弥にも……、とそこまで考えたところで一つの想いに行き着く。


(…………なんか嫌だ)


まるで親を取られた幼子の気分。

情けないと言われようとも、みっともないと言われようとも、嫌なものは嫌なのだから仕方がない。

視線を春樹からテレビへと移すが、今の私の頭には何も入ってこない。

ただ、音が右の耳から左の耳へと通り抜けるだけだった。


「なー美月、ってうお。お前なんで不機嫌なんだよ」


私が思考を巡らせていると、春樹が座っている方とは反対側から翼が声を掛けてきた。

翼が言うには“不機嫌”だったらしい私の顔は、どうやら知らず知らずのうちに険しいものになっていたようだ。

そしてその翼の声に反応したのか、皆の視線も私の方に向けられた。


「……別に」


翼の質問に答えるように出ていた声は、酷くぶっきら棒で可愛げのないものだった。

それこそ、今まで彼らの隣に立って来ていたであろう女性たちとは比べ物にならないくらいに。

それに、なんだかこの考えを口に出してしまうと、それを認めてしまうようで言いたくなかった。


「別にってなんだよ。言えよ。悩んでることがあるなら聞いてやるからよ」


そう言う翼の深紅の瞳には憂いの色が帯びていて。

チラリと隣に座る春樹を見上げれば、澄んだウルトラマリンの瞳にも心なしか影が差しているように見える。

そうした全員の視線は決して強制するものでは無く、ただただ私を心配する気持ちだけが表れていた。

そんな視線を向けられると、何だか申し訳なくなってきて、どんな結果になろうともちゃんと受け止めようと決心が宿る。


「…………質問なんだけどさ、」

「おう」


恐る恐ると発せられた声に、翼が少し身構える。


「翼って…………か、彼女いる?」


ようやく口に出せたその質問。

私がその質問をした瞬間、何故だかこの場の時間がピシッと音が聞こえてきそうな程、急に止まった。


「え?」


なぜだか質問をした側の私の方が状況が読み取れなく、助けを求めるように皆を見回すと、まるで録画を一時停止したかのように、それはそれは綺麗に皆の動きが止まっていた。


「何で皆止まってるの?」


私が困惑した表情で皆を見ていると、誰よりも先にその硬直から抜け出した界が、パタンとノートパソコンを閉じた。


「美月、おやすみ」

「え、うん。おやすみ……」


そして、いつも私に向けてくれる優しい笑みを口元に浮かべながら「おやすみ」と言い、パソコンを持って2階に上がっていった。

そして、それに続けとばかりに修介、春樹、朔弥も「おやすみ」と言って自分の部屋に戻って行き。

彼らの中では最後にリビングから出て行った春樹は、2階に上がる前、翼の肩に手を置いて。


「翼、後は任せた」


と、謎の言葉を残して消えていた。

私はというと、その普段の緩慢な動きとは比べ物にならないくらいの春樹の俊敏な動きに、普段もそうしてくれたら、とつい場違いなことを思ってしまった。


「ねえ、翼。どうなの?」


皆が寝ると言うので連れ戻すわけにもいかず、翼に詰め寄る。


「み、美月。まずは座れ」

「私はもう座ってるじゃん。翼が座りなよ」


既に座っている私に座れと言う翼からは、明らかな動揺の色が伺える。


「お、おう」


そう言ってゆっくりと腰を下ろす翼の動きはどこかぎこちない。


「で、どうなの?」


更に追及を続ける私に、翼が「一旦落ち着け」と言ってきたので、前のめりになっていた上体を起こす。


「……彼女は、いない」


そして、少しの間の沈黙の後、翼が絞り出すように言ってきた。


「じゃあ、今までは?」

「……今までも、いない」


私の質問に一つ一つ答えていく翼の表情は、一問答えるごとに苦虫をかみつぶした様に歪められて行く。


「なら、」


と言いかけて、はた、と思う。

付き合ってはいないが身体の関係は持っているのか、なんて流石に踏み込み過ぎだろうか。

いくら仲間とはいえ、家族だとはいえ、言えない事くらいあっても可笑しくはないだろう。

これ以上は個人の領域。

皆がどこでどうしていようと皆の勝手……というのは寂しいが、踏み込み過ぎるのは良くない。


(これ以上聞くのは止めておこう)


そう自分で結論を出して。


「やっぱいい」


翼をこれ以上追及するのを止めた。


「美月?」


ピタリと止んだ質問の嵐と共に浮かんだ私の寂しげな表情が気になったのか、今度は逆に翼が尋ねてきた。


「もう聞かないから……」


孤独感すら感じられる私の声に、翼はさっきとは違う意味で顔を歪める。


「美月、よく聞け」


さっきまでの表情とは打って変わって急に真剣な声を出す翼に、俯きかけていた顔を持ち上げる。


「どんなことがあろうと、俺たちの一番は美月だ。俺の一番は暁のみんなだ」


その翼の言葉には、長々と気にしていた私のちっぽけな悩みを解決してくれる程の力があった。


「だから、な?そんな顔すんな」

「うん……」


まるで泣き腫らした後のように放たれた私の声に、翼は眉を下げて笑った。


「よし、俺らも寝るか」

「……うん!」


そんな元気な声と共に、この一日は締めくくられた。




***




同日、午後3時。

氷室グループ本社の社長室内では、3人の男たちがどこか張りつめたような表情を浮かべていた。

一番奥の重厚なデスクのところに座っている男性は、勿論この会社の社長、氷室 孝一で。

その氷室に寄り添うように、シワ一つないきっちりとしたスーツを着用し片手にタブレット端末を持っている男が立ち。

そしてその2人の正面には、ダークブラウンのシャツを少しばかり着崩して着ている男が立つ。


「神崎、時間は」

「そろそろです」

「そうか」


氷室に『神崎』と呼ばれた男はネービーブルーのしっかりと整えられた髪にブルーグレイの瞳。

その上にノンフレームの眼鏡をかけている綺麗な顔立ちの涼し気な印象で、名は神崎 司という男性だ。


「社長、お客様が到着しました」

「そうか。……日高」

「了解です」


氷室と神崎が言葉を交わした数分後、社長室の重厚そうな扉の奥から女性の声が聞こえ、来客の到着を伝えた。

すると氷室はその女性に声を返し、ゆっくりと息を吐いた後に目の前に立っていた男に声を掛ける。

そんな、氷室に『日高』と呼ばれた男は、赤味がかった茶色の髪にシトラスの瞳、快活そうな雰囲気を与え、名は日高 千早という男性で。

その日高は氷室に呼ばれると、氷室の漆黒の瞳をしっかりと見つめ返してから来客をこの部屋に招くため、重厚そうな扉に手をかけた。


「どうぞ」

「どうもありがとう」


そうして日高が扉を開けると、2人の男性が社長室内に入ってきた。

一人は高級そうなスーツを身に着け、張り付けたような笑みを浮かべる男で。

もう一人は7対3の割合で綺麗に分かれた前髪と、潔癖そうな雰囲気が印象的な男だった。


「お待ちしておりました狭霧社長」

「これはこれは氷室社長、お会いできることを楽しみにしておりました」

「こちらこそ、お会いできて光栄です」


そんな言葉を交わしながら来客用のソファにやってきた2人が腰を下ろし、その正面に氷室が座って、そんな氷室の後ろには神崎と日高が立った。


「それでは早速ではありますが、こちらの書類をご覧ください。……神崎」

「はい」


すると、氷室は来客2人が座るや否や話を切り出し、何やら書類を出すよう秘書である神崎に命じた。

その氷室の声に答えた神崎は、手元のファイルから一枚紙を取り出し、氷室が『狭霧社長』と呼んだ男の目の前に置く。


「契約書になります」

「ありがとう」


“契約書”そう言いながら自身の目の前に置いた神崎に対し穏やかにも見える笑みを浮かべながらお礼を言う狭霧という男。

神崎はそれに対し、小さく頭を下げると、元いた場所へと戻って行き、狭霧はその書類に早々に目を通し始めた。


「……『これはあくまでも“同盟”であるため、私と氷室社長の立場は同等である』、と……」

「はい、勿論です。今やこの国の権力戦争で№3とも名高い狭霧グループですから」

「そうですね……」


狭霧は書類に一通り目を通すと、その書類の一番下に書かれている事項を読み上げ、書類を持った状態で、視線だけを氷室へと向ける。

そんな、見方によれば探っているとも言える状態の狭霧に対しても、氷室はいつも通りのゆったりとした笑みを崩すことなく。

権力戦争勝利の最有力候補の1つと呼ばれているものの、そちらと立場が同等であるのは当然であると言い放った。

すると、そんな氷室に狭霧は一度疑うような視線を投げた後、再び書類へと視線を戻して何かを考えだした。

そして、長いとも短いとも取れる沈黙の後。


「……分かりました。お受けしましょう」


そう、静かに言い放った。


「ありがとうございます」

「こちらこそ。……これから、よろしくお願いします」

「ええ、お願いします」


狭霧が了承したことでソファから立ち上がった両者は固く握手を交わし、こうして今ここに氷室グループと狭霧グループとの同盟が決定した。




***




そんなこの国に取って大きな変化をもたらすであろう一日の翌日。

氷室さんから招集がかかっていた私たちは、休日ということもあり、お昼時に氷室グループの社長室までやって来ていた。


「それで氷室さん、昨日の結果は」

「ああ、そうだね」


社長室に通された後、氷室さんや氷室さんの秘書である神崎さん、氷室さんの直属の部下の日高さんとちょっとした世間話をして一盛り上がりしたところで、界が今日ここに来た本題を切り出した。

すると、その界の言葉に氷室さんの纏う雰囲気がスッと変わり、それを合図にこの場の空気も真剣なものへと変化する。


「結論から言うと、狭霧グループとの同盟が決まった」


氷室さんの端的な言葉に、「やっぱりか」という感情と、「良かった」という感情が同時に起こる。


「そうですか、」

「ああ」


それはどうやら他の皆も同じようで、暁の皆の表情には同盟が決まったことへの安堵と、本当の権力戦争はこれからだという緊張が表れていた。


「では、これからですね」

「そうだね」


そんな、私たちの言葉を代弁したのは修介の声で、そうして感情を言葉に出すことによって帯びてくる現実味に、私の中の緊張の度合いが上がった気がした。

だけど、氷室さんと修介の言う通り、この出来事は私たちの待望のための大きな一歩であり。

そして同時に、これからが本当の権力戦争であることを示唆していた。



氷室さんたちから昨日の事を聞いた後、バイトの予定があった私は、いつもの様に朔弥にお店まで送ってもらい、仕事をしていた。


「ありがとうございました」


会計を終えたお客さんの出て行く背中に声を掛け、そのお客さんの使用していた食器たちを下げていると再びお店のドアが開く音が聞こえた。

振り向き、音の方向を見ると、そこには昨日のあの綺麗な人がいて。


「いらっしゃいませ」


その男性に声を掛けると、男性は私の事を横目で捉え、昨日と同じ席に座った。

昨日に引き続き、彼に対する好奇心が消えぬまま、少しだけ浮足立った状態で注文を取るために彼の元まで行くと。

彼は「ホットコーヒー」とだけ言って、今日は昨日とはまた違う難しそうな本を読み始めた。


「かしこまりました」


本を読み始めた男性に考慮し、静かに声を放ってからキッチンスペースに下がった。

注文の品を用意しながら、彼のことをカウンター越しに見れば、周りの音に一切反応しないその様子に本当に凄い集中力だと感心する。

そんな事を考えながらコーヒーを淹れると、彼のいる席まで運び、静かにそのテーブルの上に置く。


「お待たせいたしました。ホットコーヒーでございます」


そんなテンプレの様な言葉を紡ぐ私を彼はまた横目だけで見て、その後すぐに視線を本へと戻した。

だが、纏う雰囲気や初めて話した時の印象、そして何より彼から感じる暁のメンバーと重なる部分。

そんな彼に対して興味が湧いた私は、少しで良いから彼と話がしてみたいと思ってしまった。


「それ、なんて言う本なんですか?」


何故かと聞かれると、何となくとしか答えられないのだが。

直感的に彼には声をかけても大丈夫だと感じた私は、興味のままに、だけど彼のトーンに合わせるようにと内容を尋ねてみた。

もしかすると、その直感というのは、無口な感じが界や朔弥と似ていたからかもしれない。

私に対する態度が、初めて話した時の修介と春樹と似ている部分があったからかもしれない。

そう考えながら彼の答えを待っていると、彼は今度はしっかりと私の目を見て。


「経済学の本だ」


と教えてくれた。

直感でとは言ったものの、もしかしたらダメだったのかもしれないと弱気になっていた私の耳に届いた彼の言葉が嬉しくて、私の顔からは自然と笑みが零れていた。


「大学生なんですか?」

「ああ」

「そうなんですね!私は高校生なので、大学生ってとっても大人に感じます」

「そうでもないだろ」

「そんなこと無いですよ!」


まるで今までの会話、と呼んでいいのかも分からないものが嘘だったかのように弾む会話。

それがまた私の嬉しさを更に増幅させて行き。

私がそんなこと無いと言うと、彼は少しだけ柔らかくなった表情で、ククッと喉の奥で笑った。


(初めて見た……)

(この人の笑顔)


率直な感想はやっぱり“綺麗”で、それと同時に「この人、こんな風に笑うんだ」とも思った。


「どうかしたんですか?」


今まで無表情を貫いていたのに、いきなり笑い出した彼に首を傾げる。


「お前があまりにも楽しそうに話すからな」


そう言うと、彼はまた喉の奥で笑った。

どうやら、彼と話せた嬉しさが顔に現れていたようだ。

そんな事実に恥ずかしい気持ちが沸き上がってきたが、それを隠すように拗ねた表情をする。


「しょうがないじゃないですか。アナタいつも『ああ』としか言わないから」


今までの発言を根に持つようなその言葉は、もはや店員と客の口調ではない。

そんな私の拗ねたような言葉を聞くと、彼は真っ直ぐな視線を私に向けてきて。

その瞬間、彼の漆黒の瞳に吸い込まれそうな感覚に陥った。


「香坂だ」


私が彼の瞳に捕らわれていると、唐突に彼が放ったのは意外にもそんな言葉で。


「香坂、さん?」

「ああ」


どうやら先程私が言った“アナタ”という言葉が引っかかっていたのだろう。


「教えてくれてありがとうございます」


そう言って笑うと、香坂さんも笑ってくれた……ような気がした。


「お前は」

「え?」


すると、突如放たれた香坂さんからの質問。

まさか、香坂さんの方から何か質問してくるとは思わず、聞き返してしまった。


「お前の名前は」


しっかりと私の目を見て伝わるようにと繰り返されたそれは、私の名前で。


「あ、藤堂 美月です」

「そうか」


聞いた張本人は、私の名前を聞くと、残っていたコーヒーを一気に飲み干し、お店から出ようと支度を始めた。

これから帰るというその合図に、どうしてもこれだけで関係を終わらせたくなかった私は、気付けば声を上げていた。


「あのっ、香坂さんが来た時にまたお話しても良いですか?」


咄嗟に言えたのは、そんな些細な質問だった。

それなのにも関わらず返ってくる言葉に少しばかり怖がっている私の姿は、香坂さんからはどう見えたのだろうか。

そうして、ビクビクしながら香坂さんの返事を待っていると。


「ああ。またな、美月」


そんなズルい言葉を残し、香坂さんは店を出て行った。

また話すことを許す言葉と、一緒に放たれた私の名前。

彼の去っていく背を見ながらグッと近づいたその距離に、私の心は喜びでいっぱいだった。




それからというものの、私がバイトに行くと大抵香坂さんはいて、いつもあの窓際の“特等席”に座っていた。

そして、注文を受ける時と飲み物を届ける時だけのほんの僅かな時間、私たちは会話をするようになっていた。

と言っても、ほとんど私が喋っているだけなのだが。

相変わらず香坂さんは「ああ」としか言わなくて。

だけど、話がはずんでいる訳では無かったが、あの空間はとても心地の良いものだった。


「はい、香坂さんコーヒーです」

「ああ」

「今日はどんな本を読んでるんですか?」

「経営学の本だ」


今日も香坂さんは窓際の席で難しそうな本を読んでいて、きっと大学で使うのだろうそれには、ページの端から端までびっしりと文字が並んでいた。


「難しそうですね」

「そうでもない」

「天才の人の発言だ……」

「なんだそれ」


見ているだけで頭が痛くなってきそうなその本を、そうでもないの一言で片づけるこの人は相当に頭が良いのだろう。

そんな私の発言に、香坂さんは若干だが楽しそうな表情をした。


「すみませーん」

「はい、只今お伺いいたします!」


そんな私たちの穏やかな時間に終止符を打ったのは、他のお客さんからの私を呼ぶ声だった。


「じゃあ、香坂さん。私行きますね」

「ああ」


香坂さんに行くことを告げると、香坂さんはまたいつも通りの返事をし、手元の本に目を落とした。



「美月ちゃん、上がっていいよ」

「はい、ありがとうございます」


閉店時間の過ぎた店内でオーナーから上がって良いとの声がかかった。

数日前まであんなに懸念していたMidnightは、今のところ大した動きを見せておらず。

彼らに憧れている危険な思考を持った連中の目立った動きも、私の耳にはまだ届いていなかった。

Midnightに関する情報は界が調べてくれているけれど、まだ有力な情報は得られていないみたいらしい。

そんな事を考えながら更衣室で着替えていると、私のスマートフォンが一度震えた。

それに気付き電源を入れると、何やら朔弥からメッセージが来ていた。


『着いた。店の前で待ってる』


思っていたよりも早い到着に、自然と帰り支度の手が速まる。

そうして、いつもよりも急ぎ目で支度を終わらせた私は、オーナーに挨拶をしようとバックルームに顔を出した。


「オーナー、お疲れ様でした」

「お疲れ様」


オーナーに帰ることを伝えに行くと、オーナーは反対側を向いていた顔をこちらに向けた。

未だ仕事着のままのオーナーからは、パソコンのキーボードをカタカタと打ち込む音だけが聞こえていて、仕事がまだ残っているのだろうと容易に想像がついた。


「ねえ、美月ちゃん」


挨拶も終わったので帰ろうと思い、踵を返そうとすると、ふとオーナーが私の名前を呼んだ。

さっきほどまでは顔だけをこちらに向けていて、身体はパソコンの方を向いていたのに、いつの間にか身体も完全に私の方を向いている。

すると、言い残した仕事の事でもあるのかと首を傾げる私に、オーナーはこっちにくるよう手招きをしてきた。

それの意図は分からなかったが、その手に従いオーナーの元まで行くと、オーナーはゆったりとした動きでその長い足を組んだ。


「美月ちゃん、最近窓際の席に座ってる客と仲良いよね?」


窓際の席、そう言われて思い当たるのはあの綺麗な彼。

恐らく、オーナーが言っているのは香坂さんのことだろう。


「あ、仲が良いというか、私が一方的に話しかけているだけというか……」

「そうなんだ」


あれを仲が良いと言っていいものかと言い淀んでいると、「そう」と言ってきたオーナーが、先程までは微笑みを浮かべていたバイオレットの瞳をスッと細めた。


「……好きになっちゃった?」

「……えっ!?そんなこと……!」


耳から入った声が一拍遅れて脳に辿り着く。

そしてようやく理解したその言葉を全力で否定した。

あくまで香坂さんと私はお客さんと店員で、それ以上の感情なんて持ち合わせてはいない。

そんな、言い訳にも聞こえる様な言葉を頭の中に巡らせていると、細められていたバイオレットの瞳が楽し気に歪んだ。


「そう?なら良かった」


一体何が良かったのかと突っ込みたくなるが、放たれた言葉を処理することで精一杯な私の頭には、そんな余裕など一切ない。

そうした、一杯一杯な私をよそに、ふとオーナーの纏う雰囲気が変わった。

楽し気なそれから妖艶なそれへと。


「美月ちゃん、前に俺が言ったこと憶えてる?」


バイオレットの瞳を流して、フッと綺麗に弧を描いた形の良い唇が目に痛い程で。

不味いと思った時には、私はもうその瞳に捕らわれていた。


「覚えてない?」


だが、既にその瞳に捕らわれてしまっている私には、オーナーの質問に答える術を持ち合わせていなくて。

そうして静寂を貫く私に、オーナーはその沈黙を肯定だと捉えたらしい。

一度瞬きをした瞬間に、オーナーの右腕が静かに持ち上げられていて、そのままゆっくりとした動きで私の髪を一房、掬った。


「美月ちゃんの事、気になってるって言ったんだけどな」


「その様子じゃ覚えて無さそうだね」と続けられた言葉の後、オーナーは見せつけるかのように掴んだ私の髪にキスを落とした。

その言葉に、その動作に、捕らわれていた私の頭が徐々に現実へと戻ってくる。

それに何より、それを言われた瞬間を鮮明に思い出してしまった。

それと同時に、顔に物凄い勢いで集まる熱。


「その様子だと思い出してくれたみたいだね。ダメだよ、あんまり他の男と仲良くしちゃ」


そしてゆっくり引かれるオーナーの腕。

それによりオーナーの手から解放されるように、ハラハラと落ちていく自分の髪が嫌に扇情的に思え。

その時にはすでに私の頭は許容量を超えていて、目の前で起こっていることへの処理が追い付かなくなっていた。

それを表すように、恥ずかしいのと居た堪れないのと、色々な感情がグルグルと私の心の中で渦を巻き。


「あ、あの!私、迎えが来ているので帰ります!」


そんなオーナーの雰囲気から逃げるように、急いで私はお店を後にした。

元々あの出来事のせいで心拍数が上がっていたからなのか、少しの距離なのに朔弥の元まで行くのに息が上がる。

そして、ようやく辿り着いた朔弥の待っている場所まで行くと。


「は?お前何でそんなに顔赤いんだよ」


朔弥は私の顔を見て、怪訝そうな声を上げた。

バイトをしていただけなのに真っ赤な顔をして現れたら、誰だって驚くだろう。


「な、何でもない!帰ろう!」

「……ああ」


だけど、あの状況を事細かに説明するなんて耐性を持ち合わせていない私にとっては、話を逸らすことしか術は無かった。

そんな私に何か言いたげな表情をしていた朔弥だったが、それ以上何も聞いてくることは無く、帰ることを促した私の提案に乗ってくれて。

だけど、そんな朔弥の視線がお店を睨みつけていたことは、未だ熱い顔を冷ましていた私には知るよしもなかった。

その後は特に何か変わったことは無く、私たちの間にはいつも通りの会話が交わされるだけだった。

家に帰ると、既に夕ご飯の用意が済んでいて、全員で食卓を囲んで修介が作ってくれたそれを食べ始める。


「美月、お前明日ってバイトないんだよな。事務所いくのか」


皆で楽しくご飯を食べていると朔弥が明日の予定を聞いてきた。


「ううん。明日は雫とお買い物に行くの」

「へえ」


自分から話を振ってきたというのに、興味無さげに返事をする朔弥。

朔弥は皆から私の送り迎えを頼まれている立場だから、興味があって聞いてきたのではない事は分かっている。

だからといって、こうもあからさまに興味が無い素振りをしなくても良いのではないかと思ってしまう。

春樹といい朔弥といい、何でこうも自分から振ってきた話題を途中で放り投げるのか。

それが気の置けない仲間だと、家族だと認めている証拠だと言われてしまえばそれまでだが、それでもなぜかこちらが損をした気になるので止めていただきたいものだ。

まあ、もう慣れたけど、と半ば諦めモードの私は修介の美味しい料理に手を伸ばす。


「へー、買い物ねぇ。どこに行くんだよ」


朔弥のせいで訪れた、私の若干の不機嫌の元凶の1人でもある春樹が話しかけてきたので、思わず少し睨んでしまう。

だが、その流れもいつも通りなので春樹自身あまり気にした様子は見せないが、私からしてみれば少しは気にして欲しいところ。


「……北区だよ。新しくできたショッピングモールに行くの」


気を取り直して春樹の質問に答える。

答えるまでの間、少し間が開いてしまったことは許して欲しい。


「北区?」


すると、『北区』という言葉に反応したのは界で。

そんな界は『北区』の響きに少し厳しい表情をしている。


「最近、北区で小さな事件が何件か起きてる。事件が起きてる時間帯は全て夜だから大丈夫だとは思うが、何かあったら連絡しろ」


きっと、Midnight関連を調べている時にでも入ってきた情報なのだろう。

だからこそのこの表情に納得しながら、界の忠告を心に留める。


「うん。遅くならないようにするね」


界からの忠告をしっかりと受け止め、早く帰ると約束する。

そう言うと、私の左側に座っていた修介の腕が私の頭に乗せられた。


「気を付けるのも大事だけど、明日は思いっ切り遊んできな。な?」


最近はずっと事務所とバイトの連続で休暇が全然取れていなかった私のことを心配してくれたのだろう。

修介のライムグリーンの瞳には、そんな気遣いの色が表れていた。


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