その後……。
「美月」
呼ばれて振り返ると、界がココアとコーヒーの入ったマグカップを持って、自宅ソファに1人座っていた私の隣に腰を下ろした。
「翼から全部聞いた。大変だったな」
私を労わる言葉を掛ける界は、私の目の前にココアを、自分の目の前にコーヒーをそれぞれ置いていて。
界がローテーブルに置いたそれらは淹れたてなのか、ゆらゆらと湯気が揺らめいていた。
窓の外に広がる真っ暗な世界と、目の前の電源が落とされたテレビのお陰で良く見える湯気を意味もなく、ただじっと見つめる。
「うん。大変だったけど、あれ以上被害が出なくて良かったよ」
湯気へと向けている視線をそのままに、口元に笑みを浮かべた。
その笑顔は本当に心から出たものなのかどうか、自分でも分からない。
きっと界から見たら、張り付けたような、浮かべただけの笑顔に見えたのかもしれない。
「美月」
もう一度名前を呼ばれ、ゆっくりと界へと視線を移す。
するとその先に待っていたのは、優しく微笑む界の姿で。
「おいで」
とても穏やかな口調で私に向かって両手を広げてきた。
界がそうする理由は分かっている。
だけど、甘えても良いのか、本当にその腕の中に飛び込んでも良いのかと悩む。
私は強くならなきゃいけないのに、この腕に甘えてしまったら自分を弱いと認めているようで。
だけど、心はとっくに悲鳴を上げていて、なんとかかき集めた意地とプライドで、ようやくここに立っているという状態だ。
一瞬でも気を抜くと膝から崩れ落ちてしまいそうな今の私には、それもあって界に甘えることなんて出来なかった。
そんな、優しい腕の中になかなか飛び込もうとしない私に、界は痺れを切らしたのか。
私の腕を優しく引くと、私をその腕の中に閉じ込めた。
「大変だったな。よく頑張った」
私の髪を撫でながら上から落ちてくる優しい声。
その手の感触と声に、ずっと張りつめていた緊張の糸が徐々に解けていく。
界の手の平が上から下へと流れる度に、私の中の意地が、プライドがぼろぼろと剥がれ落ちていった。
そうして最後に残ったのは、何でもないただの“藤堂 美月”だけで。
その瞬間、ダムが決壊したかのように、心の奥底に押し込めていた感情が一気に湧き上がってきた。
「っ、……怖かった」
「ああ」
「すごく、怖かったのっ……」
「ああ」
ポツリと1つ零せば、次から次へと溢れて来て。
そんな私に、界は特に何を言うでもなく、ただただ受け止めてくれた。
「腕が震えて、呼吸の仕方も分からなくなって。どうすれば良いのか分からなくて、」
「ああ」
最早ただの気持ちの羅列に、界に伝わっているかも分からない。
「でも、何でだか引いちゃダメだって思ったの」
「……そうか」
自分の中でもキチンとまとまること無く紡がれるその言葉たちは、それはそれは不格好だろう。
「界、わたし。わたしっ……!」
「美月、よく頑張ったな。もう大丈夫だから」
もうこれ以上何も言わなくて良いというように、私のただの感情の羅列に界が終止符を打った。
その声が、言葉が優しすぎて、込み上げてくる熱い何かをグッと堪える。
ここでそれを流してしまったら、私は私を許せなくなる。
だからお腹に力を込めて奥歯を噛み締めるが、それでもなお零れて来そうなそれに、少しだけ界から力を貰うように、界の服をギュッと掴んだ。
そんな私の行動に界は文句を言うことなく、私に応えるようにと抱きしめる力を強めてくれた。
*
「寝たか……」
どの位そうしていたのだろうか。
何かを堪えるように自分の服を掴んでいた腕の中の彼女は、気付けば小さな寝息を立てていて。
その音を聞くと、界はそれまでずっと美月の髪を撫でていた手を止めた。
そんな界の頭に木霊するのは、先程美月が零した言葉で。
『でも、何でだか引いちゃダメって思ったの』
溢れるように零した感情の羅列の中にあったそれを聞いた時、思わず美月の髪を撫でている手が止まりそうになった。
「変なところでリーダーらしくなるな」
自分たちが彼女をリーダーに仕立て上げた。
そして彼女はその役目を全うしようとしている。
暁のリーダーは美月以外にはいないと思っているし、今でもその選択を間違えたとも思わない。
だけど、これは。
「キツイな……」
そう呟いた界の言葉は誰の耳にも届くことなく、空気に溶けていった。
***
あの事件の二日後。
夏休み明けの初日、つまり始業式のある日。
『先日の強盗未遂事件について新たな情報が入って来ました。
当日、偶然居合わせた2人の暁のメンバーの適切な判断により、残りのメンバーと警察とで連携を取ったことで被害を最小限に抑えた模様です。
続いてのニュースです。昨日――』
朔弥と一緒に学校までの道のりを歩いていると、街中に設置された巨大なモニターからニュースが流れていた。
内容は先日起こった銀行未遂事件のもので、他人事ではないそれについ目を向けてしまう。
あの事件の翌日、私と翼は事情聴取を受けに警視庁へと行っていた。
想像していたよりも細かく聞かれ、明るい内に出向いたのもかかわらず、外に出た時にはもう外が暗くなり始めていた。
帰り道は翼が約束通りチョコレートアイスを買ってくれたし、家に帰ったらみんなが私のことを心配してくれた。
「美月、放課後またメッセージ送れよ」
「うん」
学校に着くと朔弥と2階の階段の前で別れ、別れ際にいつも通りの言葉を交わして教室へと向かう。
教室の中に入り自分の席に着くと、花蓮と飛鳥が「おはよう」と言ってきたので「おはよう」と返した。
「ねぇねぇ!ニュース見たぁ~!?銀行強盗の事件のニュース!」
席に着くなり花蓮が放ったのは、やはりあの事件のこと。
「見た。てか、どの番組もそのニュースで持ち切りじゃん」
そう、飛鳥の言う通り、テレビを付けるとどの番組でも連日のようにこの事件が取り上げられていて。
テレビを付けなくても、街を歩けば様々な人達がこの話をしている。
さっきも学校の廊下を歩いている時だって、多くの生徒がこの話をしていた。
「さすが暁だよねぇ~!格好いぃ~!やっぱり暁は正真正銘ヒーローだよぉ~!いや、私たちのヒーローだなぁ~」
「花蓮落ち着いて。まあ、気持ちは分かるけどね」
興奮する花蓮を宥める飛鳥。
だが、そう言う飛鳥のテンションもいつもよりも少し高い気がする。
連日のように流れるテレビでは、暁のことをヒーローだとはやし立てる声ばかりで。
なんだか、今回の事件で暁だけでなく、暁が所属している氷室グループに対しても一層正義の味方というイメージが強くなった気がする。
「――だよねぇ~、美月ちゃん~」
いつの間にか話が振られていたのか、花蓮がキラキラした目をこちらに向けている。
「え?ごめん、聞いてなかった」
「もぉ~。ちゃんと聞いててよぉ~」
花蓮に声を掛けられ、ハッとする。
眉を下げて謝れば、花蓮は拗ねた様に頬を膨らませてしまった。
「ごめんね。もう一回言ってくれる?」
未だに拗ねたような表情を見せる花蓮に、もう一度謝れば、花蓮は「しょうがないなぁ~」と言って話し始めてくれた。
「やっぱり暁ってテレビのヒーローみたいに華麗に助けたりするのかなぁ~?こう“暁、参上”みたいな感じでぇ~」
そう言いながら花蓮は、テレビでやっている戦隊モノのヒーローのような動きをした。
「いや、それはないでしょ」
すかさず飛鳥が突っ込むが、その口調はやっぱり楽し気だ。
「えぇ~?そうかなぁ~、美月ちゃんはどう思ぅ~?」
「私もそれは無いと思うな」
そうかなぁ~?なんて言いながら未だにヒーローの真似をしている花蓮を見て、私と飛鳥は笑いあった。
私は今、上手く笑えているだろうか。
*
「――き。おい、美月!」
ハッとして顔を上げると、朔弥が眉を寄せて私を見ていた。
「あっ、ごめん。ボーっとしてた」
またやっちゃった。
学校で花蓮に怒られたばかりだというのに、性懲りもなく同じことを繰り返す私。
周りを見回してみると、氷室グループまで一昨日の事件の報告で来ていたが故、暁のメンバーだけでなく氷室グループの皆も含めた全部の視線が私に向いていた。
「お前、あの事件以来ボーっとしてる事多くないか。美月、分かってるとは思うが俺たちは、」
「分かってる」
厳しい表情で朔弥が続けようとした言葉を途中で遮る。
分かってるの、本当は。
だってこの道を選んだのは私自身だから。
だけど、少し自分の中で整理する時間が必要だった。
「分かってる、もう大丈夫。周りに何と言われようと、私たちは私たちだ。それ以外の何者でもない」
「私たちは前だけ見ていればそれでいい」
今度こそ、私の言葉には嘘も戸惑いもない。
(ごめんね、みんな)
(少し時間がかかったけど、もう大丈夫だから)
そうして真っ直ぐ前だけを見つめていた私の顔に、皆は笑顔を浮かべた。
満面の笑みでもなく、フッと零れる微笑みでもなく。
これから起こることにワクワクしたような、そんな笑み。
「ああ、そうだな」
私を叱ろうとしてくれた朔弥を見上げると、誰よりも先に「そうだな」と返してくれた。
「……大丈夫そうだね。じゃあ、報告をお願いしようか」
「はい」
私たちの会話を聞いて大丈夫だと判断した氷室グループの社長、氷室 孝一さんが本題を切り出した。
暁。
それは、北区・東区・西区・南区の総称である4区のヒーロー。
そんな彼らの正体は、氷室グループに属する戦闘員。
常にスーツを身にまとい、変装をしている私たちの素性を知る者はごくわずかで。
藤堂 美月、藤堂 朔弥、綾瀬 翼、中条 界、織原 春樹、桐島 修介の6人で構成されている組織のリーダーは。
私、藤堂 美月だ。