深夜、病院での談笑
「りん、ぴょう、ぶつぶつ、ぶつぶつ……」
深夜、僕の病室の外からぶつぶつと老人の呟く声が聴こえてくる。
その声は、かさかさとしわがれており、聴いていて決して心地のよいものではない。
「やれやれ、今日も来たのか……」
眠い目を擦りながら、大きく伸びをすると僕は病室のドアをゆっくりと開けた。
そこには一人のお爺さんが立っていた。
見たところ、七十、八十歳くらいか。
蓄えられた眉毛と瞼の重みでその小さな瞳はこちらから殆ど見えず、寂れた頭部には白い髪がまだ薄っすらと残っている。
白い着物を着ており、不気味な暗い表情で時節、何かをぶつぶつと呟いている。
最近、深夜になるといつもこのお爺さんが僕の病室の前に現れるのだ。
薄い色の萎びた唇を動かす、痩せたお爺さんのその姿からは、何か異様なものを感じる。
しかし、既に僕はこのお爺さんに何度も睡眠の邪魔をされているのだ。もう我慢ならん。
今日こそ勇気を振り絞ってガツンと一発、言ってやる。
決意を固めると、僕はお爺さんを思い切り怒鳴りつけた。
「あのさ!何処の誰かは知らないけれど、深夜にこう何度も病室の前に押しかけられると困るんですけど!」
「ぶつぶつ……」
お爺さんは僕の言葉にはひたすら無反応で、暗い顔のまま、ずっと何かをぶつぶつと呟き続けている。
しばらくするとお爺さんはぽつりと言った。
「今日も駄目か……」
お爺さんはそう言い残すと、すごすごと帰っていく。
このところ毎晩こんな調子なのだ。
僕の方は怒りと寝不足から来るストレスで、頭がどうにかなりそうだった。心の底から湧いてくる罵詈雑言を抑え、小さく舌打ちをする。
ここは精神科の病棟だから少しくらい変な人がいたって我慢しなければならないと思い今まで耐えてきたが、もう限界だ。
明日の朝、このことを看護師にきつく言いつけてやる。
僕は向っ腹を抑え、毛布の中へと潜りこんだ。
◇
翌朝、体調を見に来た看護師に昨夜のお爺さんの事を伝える。
「病室の前でぶつぶつ呟くお爺さんですか?」
看護師は首を傾げる。美人の若い看護師である。
「そうなんですよ。このところ毎晩僕の病室の前に、あのお爺さんが現れるもんだから、こっちは大迷惑しているんですよ」
「それって、どんなお爺さんなんです?」
「それが、酷く不気味なお爺さんなんですよ。古そうな白い着物を着ていて……。そうだ、瞼が垂れ下がっていてこっちからは瞳が殆ど見えない……」
「うーん。そんな患者さんいたかしら?」
「心当たりは無いですか?」
「あ、分かった!」
看護師さんは、ぽんっと手を打つ。
「それってあれじゃないですか……。ほら、ユーレイ!」
そう言って看護師はニヤニヤと笑う。
「変なこと言わないでくださいよ!怖いなあ」
「だって変じゃないですか、患者さんだったら指定の病衣を着てるはずでしょう?」
「……」
確かにその通りである。だが実際、あのお爺さんは間違いなく白い着物を着ていた。
だとすれば、あのお爺さんは患者ではなく、多分、医者や看護師でもないだろう。
となると、病院に勤務している以外の人物?例えば患者の親族、あるいは警備員か……。
そうだとしても、毎日深夜に僕の病室の前に訪れることの説明がつかない。
「やっぱりユーレイですよ。そのお爺さん!きゃあ、怖い、怖い」
看護師はそう言って笑いながら、僕の病室から出て行った。
おそらく、僕の話をそれほど真剣には聞いていないのだろう。僕は若干、不貞腐れる。
もうすぐ退院とはいえ、一応僕はまだこの病院の患者なのだ。
もう少し話を真剣に聞いてくれたって良いじゃないか……。
「深夜に現れるお爺さんの幽霊か……」
僕は時節、顎を撫でながら呟いた。
幽霊が相手なら看護師に文句を言ったってしょうがない……。
それにしてもあれが幽霊とは。生まれて初めて見た。
何故、毎晩僕の病室の前に現れるのだろう。
途端僕は、そうだ!と閃いた。
この世に未練を残して死んだものが幽霊になると何処かで聞いたことがある。
もしかしたらあのお爺さんは生前、この病室を使っていたのでは……?だからこそ、この病室に地縛霊として毎晩現れるのかも。
悲しそうにぶつぶつと呟くあの姿、きっと妻や友達に先立たれ、息子家族に冷たくあしらわれながら一人孤独に死んだのだろう。
それを証拠にあのお爺さんの表情は、時節寂しそうに見えた……。
人との繋がりが恋しい。それこそが、あのお爺さんの未練に違いない。
それならば、僕が毎晩話し相手にでもなってやれば、あのお爺さんもきっと満足して、成仏してくれるのではないだろうか。
よし、と僕は手を打った。どうせもうすぐ退院するのだし、ここは一つ、あのお爺さんを成仏させてあげようじゃないか。
そう考えると、僕は急に全身がやる気に満ちた。僕は元来、そういう性分なのだ。
◇
そして、深夜。
「りん、ぴょう、ぶつぶつ、ぶつぶつ……」
来た、あのお爺さんの声だ。
今、僕の病室の前にいる。大丈夫、このときに備えてたっぷり昼寝しておいた。僕はドアをさっと開けると、お爺さんに明るい顔で話しかけた。
「やあ、お爺さん!こんばんは」
「……」
「今日は快晴だから、随分と月が綺麗ですねえ」
「……」
お爺さんは相変わらず無視だ。
暗い表情でずっと何かぶつぶつと呟き続けている。
僕は意を決すると、お爺さんの耳元に近づき、大きな声を上げた。
「お爺さん……。うわあああ!」
すると、お爺さんの方もひゃあと声を上げ、背中からひっくり返った。
なんだ、てっきり今まで声が聞こえないものと思い込んでいたが、どうやら故意に無視していたらしい。
「なんだ、聞こえてるじゃないですか。どうもこんばんわ、お爺さん」
「はあ、ど、どうも……」
「これで四日連続で化けて出て来ましたね」
「化けて……。いや、すいません」
「いえ、別に謝ることはないんですよ。まあ、せっかく来たんだから今日は一つ、僕と談笑でもしましょうや」
「はあ……」
それからお爺さんは毎晩、病室の前に現れた。
僕はお爺さんと毎晩談笑した。
最初こそ口数が少なかったお爺さんだったが、僕の熱意が通じたのか次第に心を開いていき、いつしか僕とお爺さんはすっかり打ち解けた。
お爺さんは僕のことについて、よく聞いてきた。
「貴方は、何故この病院に入院なさっておるのです?」
「僕はまあ、軽い鬱ですよ。入院直後は症状もそれは酷いもんでしたが、今はかなり落ち着きましたねえ」
「そうですか。それなら何よりですな」
そう言って、お爺さんはにっこりと笑った。思っていたより優しい幽霊であった。
次第に親交は深まっていったものの、お爺さんは何故か自分の話をあまりしたがらなかった。
「たまにはお爺さんの話を聞かせてくださいよ。どうしてお爺さんはこの病室に化けて出てくるんです?」
「いや、儂の話は良いのですよ。それより、貴方の話が聞きたいのです」
「そうですか、なら良いや。それでですね、僕の前の彼女が美沙って名前なんですが、とにかく可愛い人だったんですよ」
「ほう、ほう」
「彼女とは色んな所に行ってデートしましたが、一番の想い出は意外にも、二人で川原に寝転がって雲の数を数えたことなんです」
「ほう、そうですか。やはり離れたときに、そういった些細な記憶こそが、一番胸に残るものですなあ」
「お爺さんには奥さん、いらっしゃるんですか?」
「数年前、亡くなりましたよ。良い妻でした……。貴方こそ、その後どうしてその彼女さんと別れたのです」
「ん、どうしてだっけ……。忘れちゃいました」
お爺さんはいつも明るく笑ってくれた。
僕がどんな話をしても笑ってくれた。
それは僕の話で笑うというより、人と関係を持ち、人と談笑すること、それ自体に喜びを見出しているといった風であった。
きっと、こんな風に笑いあうのは久しぶりなのであろう。
こんなことでお爺さんが喜んでくれるなら、僕もこの病院に入院してきた甲斐があったというものだ。
だが、お爺さんが成仏する気配は、一向に無かった。
やがて、僕にも退院のときが訪れる。
◇
そして、これがお爺さんと談笑する最後の夜になった。
僕はお爺さんに意気揚々と話しかける。
「お爺さん僕さ、実は明日退院するんです!」
「……」
「お爺さんとも結構仲良くさせてもらいました。お爺さんとの談笑のお陰でここでの入院生活もそう退屈しなかったなあ」
「……」
「勿論、お爺さんとの出会いは一生忘れません。お爺さんが成仏出来なかったのは残念ですが、それは裏を返せばまた、いつでも二人で談笑出来るってことですもんね」
「……」
「今度会ったときは、もう一度談笑しましょうね!」
「うう……」
僕はお爺さんの顔を見る。お爺さんの双眸からは、涙がぽたぽたとこぼれ落ちていた。
僕との別れがそんなに悲しいのだろうか?
涙を流すお爺さんを、僕は優しく慰めた。
「お爺さん、そんなに悲しむことないですよ。なにもこれが一生の別れってわけじゃ……」
「違うのです。違うのですよ……」
お爺さんはぼろぼろと涙を流しながら言った。
「貴方は何か勘違いしておられる。貴方は退院など出来ないのですよ」
「え……?」
聞き間違いだろうか?お爺さんは今、何を言ったのか。だって僕の病気はもうすっかり治っている、医者から明日退院だと直接伝えられたのだ。退院出来ないはずがない……。
お爺さんはその小さな瞳にいっぱいの涙を浮かべ、時節ぼろぼろと溢れ落ちるそれを懸命に手で拭いながら言った。
「貴方は既に……死んでおられるのですから」
「……」
何を……言ってるんだろう。僕が既に死んでいる?死んでいるのはお爺さんの方じゃないか。
僕が既に死んでいるなんて、そんなこと有り得るはずがない!大体、僕は鬱病でこの病院に……。あれ、そういえばなんで僕は鬱になったんだっけ……。
意識は覚醒していく。緊張で眼がぱさぱさに乾く。
身体に電流でも流されているかのように全身はぶるぶると震え、汗腺から噴き出る冷や汗は滝のように止まらない。
次の瞬間、僕は全ての記憶を取り戻した。
この病院に入院する少し前のことである。僕には可愛い彼女がいた。名前を美沙という。
僕は美沙と真剣に付き合っていたし、美沙もまた僕との交際について真剣だった。
だが、お互いに真剣になりすぎた。次第に、美沙の僕に対する愛情は過熱していき、僕はそれに押し潰されそうになるほどの苦痛を感じ始めた。
僕は彼女に別れを申し込んだ。美沙は納得しなかった。
美沙はストーカーとなり、あらゆる場所に現れた。僕の職場や実家、果ては僕の友達の家にも現れ、そこで大声で叫ぶのだ、私を捨てないで、と。
すっかり心身疲弊した僕は鬱病を患い、そして、この病院へと入院して来たのだった。
しかし、美沙の僕に対する歪んだ愛情はとどまることを知らない。
退院前日のことである。美沙は僕の病室を突き止め、押しかけて来た。
彼女との激しい口論の末、彼女の握っていた果物ナイフで刺され、僕は死んだ。
「この病室で殺傷事件が起こったのは、実に十年も前のことになります。この場所は随分と前に廃院となりました……」
病室の壁や天井もよく見れば汚くボロボロだった。そう、この廃病院に看護師など存在しない。
全ては僕がみていた幻だったのだ。僕の意識はゆっくりと薄らいでゆく。
「本当は言いたくなかった……。残酷な現実を貴方に突きつけ、傷ついてほしくなかったのです」
お爺さんは涙を拭うと、両手を組み合わせながら言う。
「貴方は本当に優しい方だ!妻に先立たれた孤独な除霊師であるこの私に、友情を教えてくれた。枯れ果てた人生に再び潤いとゆとりを与えてくれた!」
ぼんやりとした頭で話を聞く。僕は何もかも勘違いしていたのである。
このお爺さんは依頼されて、廃病院に出る幽霊を成仏させに来た除霊師。
幽霊は、僕の方であった。
「私は貴方との出会いを一生忘れない!貴方は親友だ!しかし、私も仕事。依頼されたからには貴方を成仏させなければならない……」
「はは、なんだそういうことか……」
僕の身体はふわふわと宙に浮かび上がる。なんだか妙に心地が良くて全身の筋肉がトロンと緩む。
「お爺さん……色々とありがとう。楽しかったよ」
僕は掠れた声でなんとか、そう呟く。
お爺さんは数珠を手に、またぶつぶつと呟き始める。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前……」
そうか今までぶつぶつと何を呟いているのか不思議だったが、なんだ、あれは九字を切っていたのか……。
そのまま僕の意識は、お爺さんの唱える九字の音と共に黄泉の奔流の中へと吸い込まれていった。