そこから、あなたと
「それは平成最後の夏のことだった。」をテーマにしたweb夏企画(http://clew09.web.fc2.com/summer/)に参加するために書いたものです。
「――平成なんていわず、最後の夏でいい」
ナオがうっかりと音のかたちを与えてしまっていた思考は、酷暑の陽射し、そして人波の喧騒で、誰にもとらえられることなく物理量を失ったようだ。となりを歩いているコウは、訊き返すそぶりのひとつも見せなかったから。内心で胸をなでおろすと、呼気だけが細くくちびるの隙間から漏れていった。
「ファミレスと向こうのカフェ、どっちがいい?」
コウは眩しいからか暑さに参っているのか、目元を盛大にゆがめつつ尋ねる。それでも口調は軽く、口元には笑みが乗っていた。夏休みの最終日なんてナオじゃなくたって駄々をこねるか悪態のひとつも付きたくなるものでは、なんて思考の隅でナオは思うけれど、コウの姿はそういう思考をいつも自然に、そして誠実に訂正していく。
「ん、ファミレスかな」
「おっけー、ていうか賛成」
カフェのパスタ、足りねえんだよな。と育ち盛りの体が笑う。
平成という三十年で終わると決まった元号のちょうど真ん中の年が、ナオとコウの生まれた年だった。すなわちその平成最後の夏の、夏休みの最終日は、まだ今年の誕生日を迎えていないふたりにとって十五歳――高校一年生の夏だ。
校則でも部則でも禁じられていないが、ふたりともアルバイトはしていないので、ファミレスランチの原資は貴重な小遣いだ。日曜でランチセットがないことをひとしきり嘆いてから、それぞれ注文を選んだ。「これとこれと、あとドリンクバーふたつ」と、コウがまとめて頼んでくれる。
「ありがとな、最終日に」
「え? 別に……」
わざわざ改まって言うのでナオは言葉に窮したが、コウの返答は愉快そうだ。
「宿題終わってないとか言われたらどうしようと思ってたからさ」
「なにそれ、失礼」
つられてナオも少し口の端がゆるんだ。
「そもそも逐一連絡よこして、宿題の進み具合訊いてきてたのはコウじゃん。しらじらしいなあ」
ナオもコウも勤勉とか優秀といわれることはないけれど、不良とか怠惰という評価とも無縁な、言い換えれば大きな問題なく凡庸に過ごすことができる、目立ったところのない生徒だった。横暴だと呪詛を吐かずにはいられなかった膨大な宿題も、なんだかんだと数日前に終わっている。
というわけで、昨晩送られてきた急性すぎるコウの誘いに対しても、ナオはあっさりと乗ることができた。有り体に言って、退屈だったのだ。
「部活、明日から?」
コウが、カルピスソーダを口に含みつつ言う。
「そうだよ」
「あれやるの? えーっと、『水の』……なんだっけ」
「うん」
ナオもオレンジジュースを飲みつつ相槌を打った。コウが正しく言えなかった名は、ナオにはあまりに馴染みがあるものだ。
「髙田三郎、水のいのち」
その有名な作曲家と曲集の名を、ゆっくりと、はむように口にする。
もっとも、中高生が取り組むことはあまり多くないだろう。男声の低く張った弦のような響きなど、心身が成熟してこそ表現しうるものが多大にある曲集だ。そんな曲集を、ナオはなぜか――もとい、自己満足的な顧問の趣味で――中学の時点で取り組んでいたし、奇遇なことに高校においても明日から取り組む予定だ。
ナオの在籍している合唱部は歴史だけは長くて、代々夏のコンクール後に『水のいのち』を練習し、秋には有志の卒業生とともに歌うという伝統があった。
「そう、それだ。でもナオはやったことあるなら、退屈そうだな。ちゃんと初日から行くの」
「まあ歌わないとなまっちゃうし、中学は女声だったから混声合唱ははじめてだし」
八月の初旬、予定調和のようにコンクールに出て特に賞をとることなく終えた。それから部活は夏休みに入っていたので、三週間近く歌っていない。
「それさ、伴奏あるでしょ?」
「あるよ。すごい素敵で難しいやつ」
「……秋にやる、卒業生と歌うやつっていうのは、指揮と伴奏誰がすんの」
「よく知らないけど、その場でできるひとがやるみたい」
「ふうん」
コウが頬杖をつく。薄目の表情に、考えが透けていた。
「……弾きたいなら来ればいいじゃん」
「そうだけどさ。その曲難しいんだろ? コンクール終わっちゃたし……その本番もけっこうミスったし」
「誰も気にしてなかったし、ずーっと感謝歓迎されてたじゃん。ていうか、いい加減入部しちゃえば? そしたら弾きたいときに弾けるのに」
これまでにも何度となく口にした言葉だから、どんな返事がくるかはわかっていた。案の定、「自分で歌うのは苦手なんだよ、どうしても」とコウが言う。
コウはどの部にも所属していない。ナオとの関係性はいたってシンプルに言えば「クラスメイト」で、もう少し詳細に語れば「合唱部員と、此度のコンクールで伴奏を弾いた助っ人」ということになる。伴奏者がいて助かることはあれど困ることなどないのは、コンクールが終わっても変わらない。助っ人として参加するようになった初日から今日にいたるまで、コウは部員各位から何十回と勧誘を受けたはずだ。
「……部に入るの、そんな嫌なの? 苦手って言ってもさ……」
音楽の授業を一緒に受けているのだから、コウがピアノ弾きらしい音楽能力を持っていて、人並み以上に歌だって歌えることをナオは当然知っている。だから、苦手という言葉がまったく腑に落ちない。腑に落ちないから、納得も出来なかった。
だがその話題になるとコウは、眉を下げて、弱ったような表情をする。その表情には申し訳なくて、でも諦めるわけにもいかなくて、ナオは結局半端な態度を続けていた。
「……一緒にいるために伴奏するって言ったのに」
諦められない理由は、音にはなっていた。でもコウにきちんと聞こえる、という確証の持てる音量にはできなかった。
料理が運ばれてきて、会話を中断する。
「……課題曲さあ」
ナオがハンバーグを嚙みしめつつ呟けば、コウはチキンカツを口に放り込みながら目をあわせる。
「ん?」
「なんかやっぱり好きになれなかったなあ……って思って」
飲み込んでから、肩の力を抜くように息を吐く。コウはまだ、大きくした目を合わせつつ咀嚼している。しばらくもぐもぐと口を動かしてから喉を上下させた。
「最初からそう言ってたもんな。……まあ、無理に好きになるもんじゃないし、今はそれでもいいんじゃない? この先も、ずっと思えなくたって別に悪いことじゃないよ」
「……そうかな」
コウの言葉はナオを安堵させてくれるもので、素直にありがたかった。なのでいっそうの吐露を誘われる。
「でもね。ほんとは良い曲だなってわかってるんだよ。言葉に沿ってて噛みしめられるようなメロディーの運びだし、いろんな工夫と遊びがあるし……」
「うん。でも好きじゃないんだろ」
促してくれるので、思わず強くうなずいた。
「そうなの! 素直で前向きに楽しめって言われてる気がしちゃって! ……それに、アカペラだから」
今年の課題曲は無伴奏の曲だった。それを知ったとき落胆したし、自由曲が伴奏つきの曲に決まったときは、少し安堵した。
「耳が良すぎると大変だな」
コウがひとごとのように言うので、ナオは異議を申し立てる。
「なによ。嫌味?」
「ちがうって」
「……どうせわたしが神経質なんだってわかってるわよ」
呼び鈴が鳴るたび、あるいはレジの操作音が聞こえるたび、はたまた客や従業員の大きな声が耳に飛び込むたびに。ナオの脳裏では五線譜の上に音階名が刻まれる。
その音階が、均整で美しい振動数に当てはまっていることなどほとんどなくて、ピッチが狂った音ばかりに、絶えずナオは囲まれている。生活の噪音でなく、合唱という明確な音楽をやっている最中でさえ、正しい音に身を置けないことはしょっちゅうだ。そして、無伴奏であればなおさら。
「ヘルツ数なんてこだわってもバカなだけってわかってる。でも、わたしだってそうしたくてしてるわけじゃない」
「ごめんって」
コウが悪気も嫌味も意図していなかったことを最初からわかっていたので、本当は謝るべきなのは自分だ、とナオは内心で思っていた。だが、それをいつだって当たり前のように口にできるわけじゃない。それもまた、ナオの問題だ。
自分は問題だらけだ、と頭をよぎる。
そうやって気づかないふりをして意識の裏側に追いやっているものたちは、いつ去来するともしれない。その恐れが、ナオからどうしようもなくちからを奪う。
無性な苛立ちが波のような間隔で押し寄せる、その岸辺にいつまで立っていなくてはならないのだろう。そうやって思索に乗せたが最後、波は急激に大きくなって――。
「あとさ、好きじゃないっていうけど。全体合唱楽しかったんだろ?」
「――え?」
眼前に迫っていた津波の幻覚を、コウの声が退けた。
「楽しそうに歌ってたよ」
「……わざわざ見てたの? 悪趣味……」
「ひでえな。違うよ、最後のラの音、すげー伸びやかですごい良いのが聞こえると思ったからびっくりして見たんだよ。そしたらナオだったから、もう一回びっくりしたんだ」
ナオは言葉に詰まった。
全体合唱とは、コンクールの最後に全員で課題曲を歌うことだ。中学のときも同様の習慣があった。広い空間、舞台に乗り切れるはずのない大人数で歌いあげた、途方もない質量のアカペラは、確かにナオの胸に迫るものだった。音の厚み、調べにこもる無数の感慨、そして誰にも拾い出されず評価もされないという不思議な安堵が、この場ではどんなふうに歌っても自由なのだと言う気持ちを想起させて。
あのときこの体から放った最終音は、確かに。
「……ほんとだ、よく思い出すと……なんか夢中で歌ってたような……」
いつもはおじけづいて、開放的になれるほど曲に没入できていない自分を思い知って、うまく出せない高音を。あのときだけは心の底から叫びたいことを吐き出すように、歌いあげていた。
「そうそう。……突き抜けた気持ちが出てる、こっちまですかっとするような声だった。あれはまさに歌うひとの持つすごいちからだよな。すげーよかったって、俺ほんとに思ってるんだ」
コウはいまだ脳裏にその音が鳴っているかのように、かみしめた声で言う。あまりに率直な物言いと態度に、ナオは動揺した。
「でも、意外とそういうときのことって、自覚できねえもんだよな」
コウが脳裏の音楽ではなく、ナオの反応に耳を傾け直したのを察する。コウが浮かべたままの笑みは、ナオの心にも素直に染み入るものだった。
「そうだね。……おかげさまだね、ありがとう」
だから動揺から脱して、浮かぶままの言葉を伝える。
コウは、ときにあまりに純真な気持ちと言葉をナオから引き出してくれる、不思議な人間だと思う。
雨や川、さまざまなかたちの水を表現する『水のいのち』全五曲の、一体どこに託せば表現できるのかつかめない、情動の津波のたけだけしさと恐ろしさ。その波から逃げる場所を自分はきちんと持っているということを、コウのおかげで知ることができる。
お互い食べ終わって、だらだらとした話の合間、ナオがドリンクバーのおかわりを持ってくると、コウが口を開く。
「ナオ、あのさ」
「なに?」
「……その」
続く言葉によどんだ理由が思い浮かばず、だがコウとの間には、たったの五カ月で多大なものが降り積もっているので、ナオは少し身構えた。
「やっぱ、一緒にやりたいなって思ってさ。ひとりで弾くより、誰かにあわせる方がずっと楽しい」
ごまかしたのか本心なのかわからない。だがナオにとってはもどかしい話題だ。
「だったらやっぱり、部活来てくれればいいのに」
「そうじゃなくて」
わずかにコウの語気が強まった。
「俺はべつに、合唱じゃなくてもいいんだ。歌にあわせるのは好きだけど」
「……つまり?」続きを察する気にはなれなかった。
コウは、多少切羽詰まったようなようすを眉根ににじませて、問うた。
「つまり……じゃないけど、ナオは合唱がいいの? 合唱をしていることで、少しでも生きることが楽になってる?」
突然柔いところをつくので、ナオはかたまった。
「――コウ」
警戒や、拒絶をしたいのではないけれど、そうとしかとれないような声色しか、とっさに発することができない。
「さっき言ってたじゃん。『一緒にいるために伴奏するって言ったのに』って」
あ、聞こえていたのか、と頭の遠いところで思う。コウはなにかナオの態度を意に介するようなことはなかった。
「おれ、ナオこそ覚えてたんだな、って思ったよ。でもナオは、俺が歌えるほうがいいの? そういうかたちで一緒にいるのが、望み?」
たったの五カ月で降り積もった――コウと共有した多大なもの。そこから知ったことのひとつは、コウは激しい人間だということだ。
優しくて、その裏側にあるものは、ナオとたがわない。ナオは津波とイメージするけれど、コウは「大雨」と言った。足場を揺るがしさらっていく、希死念慮と呼ぶこともはばかられてしまうようなささやかな、それでいて確かに恐ろしい、自己嫌悪と厭世の気持ちだ。
どうしていきなり口にしたのだろう、とナオは自分なりに考えても、答えらしいものにはまったくたどり着けない。ただ、春の日の光景を思い出す。出会い、と定義すべき日の記憶だった。
***
暮れる教室のなか、五月の風を浴びながら、ナオはじっと机に顔を伏せていた。
見ないようにしているはずの虚無感が、日常のあいまからこみ上げてくる。顔を上げたらそのすがたを見てしまいそうだった。歌に救いを求めても、慣れない人間関係と、好きになれない課題曲でどうにも消耗して、部活に直行する気持ちになれない。
五月病なんて言葉もあるし、きっと疲れて、弱っている。だから今しばらくの時間だけここで過ごして、少し気がまぎれたら部室へ向かおう。
そう。今は、今だけは――。
「……もう、今日が最後でいい」
未来のことを考えたくない。自分の短い命もはるかな時代も、いつか潰えるすべての期限となる日が、今日であってかまわない。そんな気持ちが自分の「底」にあることに、なんの偽りも持ち出さずに浸っていたかった。どんな配慮もはばかりもせずに声にして、それでもどのような罰も凶事も起きやしないのだと、許されたかった。
「平成が終わるまで待てない……」
そして、その先はいらない。
時代の果てに人間が死んでも、新しい時代がはじまる。わかっていて、だからこそ。自分のちからなどまったく及ばぬところから、終わりが降ってくれば良いと思った。
「――そんなの、あと一年もないのに。切羽詰まってるんだね」
そこに突然に降ってきた声の主が、コウだ。
あの瞬間こそが、出会いというべき場面だった。もっとも他人にさらけ出したくなかった部分を知られる絶望にまみれた、それゆえ後には、そんなことがあっても日常はあっさりと続くのだなと、不思議な安堵をもたらした、そんな出会いだったのだ。
***
今ここにいるコウは、あの日ナオが混乱しきった表情で認めたコウと、うりふたつの表情を浮かべている。
ナオははらはらと、自分がいかに彼に甘えているのかを考える。嫌だと言っているものに何度誘ってもコウは特に怒らなかったけれど、内心は違ったのかもしれない。
「あ、あの……ごめん」
「……なんで謝るの」
「だって、怒ってるんだよね? わ、わたしが自分のことを何とかしようともせず棚に上げて、コウに支えてもらう一方で……甘えて、ばかりだって」
コウは一瞬動作を止めてから、こうべを垂れるとはああと深く息を吐きだした。
「違うって……」
その深いため息とともに出た音は、どこかあきれたような愉快さの色をはらんでいた。
なんだか思っていた深刻さが全然見当たらない、とナオが狼狽していると。
「……ナオさん、あのさあ」
コウの頭の位置はそのままどんどん下がり、顔面がやがて机の上に乗る。組んだ腕の上に顔を伏せる格好は、いつかの春の日にはナオがしていた。その姿勢のまま、くぐもった声が聞こえてくる。
「は、はい?」
「おれたちさあ――恋人だよね?」
心臓がぎゅっと収縮し、ナオは脈拍のテンポを見失った。コウがもし顔を上げていたら、目が回っているように見えたかもしれない。体の芯に、熱いやら寒いやらわからない妙な震えが生じた。
体に次々生じる異変を仕方がなく味わい尽くしても、返事にはならない。とりあえず、と発声練習をするかのようにしらじらしく、ナオは言葉を音に乗せようと試みる。
「――えーっと……」
コウがやおら顔の向きを正面に上げる。組んだ腕の上に目が現れた。
「うわっ、顔上げないで」
「……あのさ、それあんまりじゃない。甘えてばっかりって、これじゃあその通りっておれ言っちゃうよ?」
くりっと大きく見えた上目遣いがとたんに細められ、ナオはいっそう動揺した。
「うっ、そのとおりすぎる」
コウは言葉を続けず、視線をかち合わせて固定した。つまり、待ちの姿勢だった。
長い抵抗を体のなかで繰り広げたのちにようやく、ナオは短く口にすることができた。
「……そ、そうです」
数秒。その言葉の余韻が場を支配した。その残り香までも検めたといわんばかりの間を置いてから、ようやくコウが姿勢を正した。また深々としたため息をつきながら。
「……本気で否定されるかと思ったぜ……」
「……しません」
ナオがろくな身じろぎもできないようすで言うので、コウはふっと微笑んだ。それはまるで弛緩の魔法をかけるかのような、どこか魔術的なちからを持った微笑みだった。
***
「そんなの、あと一年もないのに。切羽詰まってるんだね」
穏やかな声なのに、ナオの背筋は凍りついた。反射的に顔を上げて、顔も名前もすぐに出てきた。言葉だけが出ない。
「……ごめんね、聞かれたくないこと聞いちゃっただろ」
ナオは恐ろしいものを見るように青ざめて、ただコウを見つめた。
「えっと……とりあえず、誰にも言ったりしないし、忘れろっていうなら、なかったことにするよう努力するけど……」
「……じゃあ、なんで聞き耳たてて、声までかけるの」
震えた声と頭では、反射的な応答さえも恨みがましく、弱々しい。
コウは近づいて、ナオの前の席の椅子をひくと、そこに後ろ向きに腰かける。対面し、目の高さが同じになった。
「教室の前を通ったら姿を見たから、普通に声をかけようと思ったんだ。でも寝てるならやめようって思って、音をたてないように入ってきただけのつもりだったんだけど……まあ、何言っても俺が悪いよ」
そうではない、と言うべきだけれど、言えなかった。追い詰められた気持ちが、理性的な言動を捨てさせていた。
「それでも声をかけたのは、まあ……もったいないって、思ったから」
「――は?」
「死んだらもったいないよ」
夕陽を浴びて、くっきりとした陰影を帯びたかんばせに、夕陽がもたらす以上の翳りを見た気がした。ナオの気持ちの片鱗もわかっていないということではなく、わかっていて安易な言葉を口にしているのでもないと、なぜだか伝わる翳りだった。
――ばからしい言葉だとわかっていて、皮肉も浅薄さも呑みくだして、なおもそれを口に乗せてやる、という態度の奥にあるのは、虚勢と威嚇だ。「その先」を生きるための意地でもあった。
その意地の有無だけが今の自分たちの違いで、根本はこのおとこは同じかもしれないと、ナオは直感を抱いた。
「あなたは歌がうまいのに、もったいない。俺、今日の音楽の授業でさ、あなたが歌ってくれるならピアノを弾くの楽しいだろうなって思ったんだ。本当はそう声をかけるつもりだったんだよ」
「……そうなの」
クラスメイトの顔を、まだ全員覚えているわけでもない。だがコウは、まさに今日印象的に思ったばかりの相手だった。そしてそれは相手も似たようなものだったらしい。
「……わたしも、きみはピアノが弾けるんだって、思った。うちの部、今ピアノ弾けるひとがいないから。貴重だなって」
音楽の授業は合唱だった。ピアノを弾けるひと、と問われてもコウは挙手しなかったが、彼が弾けることを知っていたらしい誰かに指摘されて、結局パート練習の音とり要員として駆り出されていた。あいまに軽く伴奏を弾く手つきは、高校の授業で必要な程度は、問題なく弾けるひとなのだろう、という印象をナオに植えつけた。
コウの側からは、ナオがパートの中心で揺るぎない音声を発しているのを、見られていたのだろう。
「歌声って、自分でピッチを作るだろ。和音のどこを歌うのかによって、同じ音でもちょっとずつ変えなくちゃいけない。俺、それを知ってピアノっていかにいい加減な楽器なんだって、驚いたんだ。ただ鍵盤を叩くことしかできない。調律なんてできないし、叩いたあとの音にはほとんど何もできない。投げっぱなしだ。けどあなたの歌は、音程もリズムも、曲にあるべき表現も……よく整っていて、音楽の楽しさを感じたんだ」
語り口は朗らかで、コウは、語りたかった通りのことを言っているのだろうな、とナオはぼんやり受け止めた。
「それでさ。……死ぬ死なないはともかく、とりあえずいい思い出作るの、どう? 今度歌ってよ、弾きたいから。なんなら愚痴もきくし。一緒にいるよ」
ナオが混乱しているのをこれ幸いと、コウは軽い調子で並べていく。
「独唱が嫌だったら、部活でピアノ弾くでもいいよ。伴奏者いないみたいだし」
「え? あの……ちょっともうよくわからないんだけど。さっきから……きみはわたしに結局用事っていうか、なにか目的でもあるの?」
ようやく口を挟むと、コウは真剣な目つきで、口元にだけ笑みをのぼらせる。
「騙すつもりも脅すつもりもないけど、まあ言いたいことはあった、用事は今さっき増えたよ」
呼吸と目の焦点を改めるためのような、もしくはいっとう大事な音の前に挿入される変拍子のような、一拍があった。
「ナオさん、恋人になるのはどう?」
「……へ?」
コウは、ナオの瞳を真剣にのぞき込んでいる。その瞳の奥までのぞき返し、言葉の意味を理解するまでに、かなり時間を要した。理解してからも、出てきた言葉は愚鈍だった。
「…………ええ? なにいってるの」
「思い出作り。それから、そばにいる口実」
瞳の奥に見えたものも、返す言葉も、とても口説いているとは思えないような、さっぱりとした渇きをはらんだものだった。
でも、そのいい加減さ、ちぐはぐさ。裏側にあったぬくもり。それは、様々なものへの嫌気をわずかに遠ざけて、今日を最後にしないための手段とするに足りると思った。
だから、たとえ刹那的で破滅的だとしても、今は諾していい。
「――いいよ。じゃあ、そばにいよう」
それは、自分の「底」からの助言だった。
誰かのぬくもりを得ること、今日を最後にしないこと。それが今必要なのだと教えてくれた、という意味では、自分の身を苛むものは、自分を一番に守ろうとしてくれるものでもあるのだと、そのときだけは思った。
***
それから今日に至るまでの数か月間。一緒に部活に行き、気が向いたらメッセージをやりとりして、たまには休日に出かけたこともあったけれど、手のひとつもつないでいない。もしコウの問いが第三者で発せられていたとしたら、ナオは返事に窮するところだったな、と思う。
「……コウ、なんで今さらそんなこと言うの?」
でもそういう外の事情はともかくとすれば、結局彼の振る舞いと笑みには助けられてきたというのが正直なところなのだ。弛緩の魔法もてきめんで、ナオは滑らかな言葉を発することができた。
「いや。なんていうかね? 俺も思うところあるんだよ……ナオは前よりは楽しそうに歌ってるし、別にその……なにかつらいとか、そういう話を実際するわけでもないし。いやそれはいいんだけど」
コウが目を逸らして、もごもごと続ける。
「おれは……あんな場面で、不真面目な口説き方しといて言うことじゃないけど、一緒にいて今楽しいって思うから。だからあんなのを一緒にいる口実にしているのは、ひどいよなって、その気持ちが強くなってきて」
ふたりのあいだに積もらせてきたものを支えているのは、あの春の日の、軽薄で脆い言葉だけなのだ。お互いに、相手への情よりも自分の混乱やらなにやらで言葉を発した。それでは支えきれないほどのことを、乗せてきてしまった。
たぶんそう思っているのだろうと想像できたのは、ナオ自身がそう感じていて、それを共有できているだろうと願っているからだ。
「もし、もうつらくなくて、一緒にいなくても平気なら、おれのふるまいはひどいし、今もまだ一緒にいようと思ってくれているにしたって、やっぱり今のままじゃ不誠実だ」
居心地悪そうに、だがコウは向き直った。
「ナオ、おれたちさ、恋人なんだよな」
「そうだね」
「それで……ナオは、今も、これからもそれがいいって、思ってる?」
「……んん? なんかずるくないそれ? その流れなら、だから改めてまじめに言いますってなるんじゃないの?」
さも真剣に悩んでいます、という風情で話してもその問いかけでは、やっていることが同じではないか。ナオは胸中ではちょっと面白くなってきていたが、真面目な顔を装って待つことにした。
コウが申し開きをするまでには、ナオが窮したのよりもずっと長い沈黙を要した。
「……わかってるよ。でも……怖いんだ、自分が傷つくかもしれないこと、取り返しがつかないかもしれないことを、ほんとうに大事に、真剣に……言葉にすることが」
弱く震える声色は、はじめて聞くものだった。
ナオはそれを眺める自分のこころが、不思議なほどに凪いでいると自覚した。
――ああ、たぶんこの姿と言葉が、コウの「底」なのだろう。
このコウを前にすると、ナオは余計なちからが抜けると知った。顔色や機嫌をうかがってとりつくろうことから自然に距離をおき、歌う時と同じように一本に呼気を通し、からだの隅々まで自律できることを実感する。おそれや躊躇なく、自分が正しいと思う言葉だけを口にすることができる。
コウがたとえ不誠実で、弱々しく震えているとしても、それがかれの偽らない姿であれば、それでいいと思った。
「……わたしは今、とても心地いいよ。だから、この先も一緒がいい」
乾いた瞳に、雨をふらせたい。
コウを脅かす大雨ではなくて、『水のいのち』の一曲目のような、穏やかな慈しみと、揺らぎない生き方を与える雨を。
「わたしとコウは恋人で、わたしはコウが好きだよ」
夕暮れを浴びながら、はじめて手をつないで帰った。
「とりあえず夏は終わるね」と、コウがふとつぶやいた。「平成最後の、ってやつ」
「ああ……そうだね」
手のひらから伝わる温度が心地よく、でもむずむずと緊張して落ち着かない。
「……どっちかというと、最初の夏、って感じだなあ」
ナオの言葉の意図と充足を察したのか、コウが相好を崩す。
「それでもまあもう終わりだけどね。で、平成最後で、最初の秋のはじまり」
ふたりの、と素直に言葉にできないのはお互い様だった。
「そうだね。『水のいのち』みたいに……繰り返して続くんだろうね」
「ん? どういうこと?」
「あの曲集、五曲で水が循環していくような構成なんだけど、終曲が終わった後そのまま一曲目に戻ってもう一回歌う、みたいな……なんていうの、風習っていうんじゃないけど、そういうことすることがあるんだよね」
その音楽を思い出せば気持ちは穏やかだ。
「同じ曲なのに、終曲を経て歌うと全然違う気持ちがする。すごく感慨深くて……なんかすごく心地いいの」
「……ふうん」
昼間と同じ相槌と表情に、やはり考えが透けている。
「弾きに来なよね」
「……とりあえず楽譜見せて」
「わかった、明日見せる」
会話のふいな切れ間から、今日の終わりを告げる長い影法師のなかから、「底」が覗く。コウの「底」があまりに恐ろしくなかったから、自分のそれも、今はいくぶん冷静に見つめられた。
「……あのさ、わたし昼間待ち合わせした頃はね、平成なんていわず、最後の夏でいいって考えてた。――わたしの人生の」
今の自分にあるものといえば、ふわふわとくすぐったくて落ち着かない、浮かれてはやった気持ちだ。現金だな、と思うけれど、それだって自己嫌悪に発展しない。
たぶん今「底」が見えるのは、その開示と共感が明日を導くということを、ナオが実感できるタイミングだったからだ。
「……つらいことや、そういう考えがなくなったわけじゃないんだよ」
「うん」
コウの軽く短い相槌にはなぜか、知っている、わかっている、と言われている気がした。
「これからは言えればいいと思うし、けどそれがすべてでもないことも、同じだけだいじなことなんだね」
風は相変わらず熱風に近い。本当に夏が終わる日が一体いつなのかは、わかるはずもないなと思った。
「――ナオ」
「ん?」
「おれたち、いつまで未成年なんだろ?」
脈絡なくコウがつぶやいた。
「へ、どういうこと」
「十八歳成人が施行されるのは、二〇二二年の四月なんだって。その年、おれたちは十九歳だよ。その瞬間、みんな一斉に成人になるのかな? それとも段階的なのかな。ひょっとして、おれたちだけ取り残されたり、しないかなって思ってさ」
「なにそれ」
ナオが噴き出すようにふっと笑うと、コウも表情を緩ませた。
「……ま、いいか。一緒に居られるなら」
コウは、手を握るちからを少し強めた。
ふたりの「底」と、ふたりのあいだにこれから積みあがるもの――ふりしきり、やがてのぼってゆく雨を、享受して支えるちからがそこにあった。
最後までお読みくださりありがとうございます。
高田三郎『水のいのち』は名曲です。また合唱をかじったことのある方は、作中の「課題曲」がなにか簡単に調べられるかと思います。そちらも噛みしめられるような魅力ある曲です。
どちらも機会あればぜひ鑑賞してみてくださいませ。
ラブコメ(コメだと思っています)はじめて書きましたが、どうにもお尻がむずむずしました。でも楽しかったです。