食パンという名の日常
アツシの一日は食パンに始まり、食パンに終わる。
朝食の際は必ず食パンをかじり、夕食の際もまたしかり。それが、アツシにとっての日常で、当たり前で、欠けてはいけないものだった。
昨日までは。
今朝。いつものようにアツシは食パンにかじりついた。
その次の瞬間、アツシは勢い良く食パンを口から出した。水を口の中に注ぎ込み、そのまま飲むことなく吐き捨てる。
「...?」
アツシは困惑した。
何故だ。いつもと変わらない、ただの食パンだ。
アツシはもう一度、机の上に放り投げた食パンを口の中に押し入れる。
刹那、同じことを繰り返す。
「どうして...?」
アツシは食パンのその表面のザラザラを食い入るように見つめた。いつもと同じ。昨日と同じ。なのに、何かが違う。心は食パンを受け入れているのに、体が拒絶するのだ。
「意味わからねぇ...。」
アツシは適当に母親の作った味噌汁と机上に置いてあるたくあんやらを胃に収め、家を出た。
「食パンがさ、食えなくなった。」
「は?」
アツシは食堂のラーメンをすすりながら、肉丼を食すマサヤに訴えた。
「だからさ、食パンが食えなくなったんだ。」
「カビ生えてたとか?」
「いや、賞味期限は切れてなかった。昨日も食った。でも今日は食えなかった。」
「ちょっと何言ってるかわかんねぇんだが?」
「俺もわかんねぇ。」
「お前今日頭平気か?もしかして、数学のテストの点が悪すぎたのが原因か?」
「それはいつものことだ。気にしてない。」
「いや、それ気にした方がいいんでね?真顔やめろ」
マサヤがちょっと笑いながら肉丼の肉を弄んでいる。
「もーらいっと。」
アツシはラーメンを食っていた割り箸でマサヤの肉丼の肉を人切れつかんで口に放り投げた。
「アツシぃ...」
マサヤの不服な顔でアツシへ罪悪感を残そうとするが、アツシは満足そうな顔でひとことうまいと呟いた。
かったるい授業も終わり、帰宅。
マサヤがアツシに疑問を投げかけた。
「なあ、お前にとって食パンってどういう立場なわけ?」
「そうだなぁ...。日常、みたいな。」
「日常?」
「そう。変わらない毎日。変わらない風景。変わらない食パン。俺にとって食パンを食べるっていう行為は、トイレに行くとか、お風呂に入るとか、そういう当たり前の行為と同じくらい、日常に溶け込んでいるものなんだ。」
「なんかすげぇな。気持ち悪いくらい食パン好きなんだな。」
「好きとかじゃねぇよ。ただただ当たり前なんだ。」
「でもそれが今、食べれなくなったわけだろ?日常、壊れちゃってるじゃん。」
「ああ。これはまずいことなんだ。俺はとても困惑している。」
「全然、困惑しているようには見えねぇけど。」
肩をすくめながらマサヤはそう言った。
でもアツシは、確かに、確かに感じていた。
何かが変わってしまうような、そんな感覚を。
そのとき、横断歩道を渡ろうとしていたアツシたちの前を黒猫が一匹、しなやかに、美しく、横切った。
「黒猫か...可愛いな」
マサヤは黒猫に駆け寄ろうとする。
「おい待て、信号赤だ。」
アツシはマサヤの腕をひいて、行動を制御した。
黒猫は、横断歩道の真ん中でゆっくりと座り、アツシを見た。
「逃げて!」
黒猫はトラックに轢かれた。
臓器、血、誰かの悲鳴、トラックのブレーキの音。
「嘘だろ...」
マサヤが隣で絶句している。
そのとき、けたたましい音をたてて、携帯が鳴った。アツシの携帯だ。画面を見ると、母親からの留守録だった。
「逃げて!」
「は...?」
その瞬間、アツシは狂った勢いで近付いてくるトラックのナンバープレートを見た。
そして、運転手の酷く青ざめた顔が間近に見えた。
そのあとは、もう何も見えなくなった。
食パンは、今も食べられない。