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雨宮るるみと藤瀬卓二の決戦


 藤瀬卓二は、何年もかけて鍛えに鍛えぬいた体が、震えるのを止める事が出来なかった。

 今自分が何処に居るのか、それすらわからなくなるほど、只々眼前のモノ、少女の姿をした何かから目を離せない。

 背丈は、185cmある卓二の胸までも無い。

 肩口まで伸ばした髪は小奇麗に波打っており、何処かで見た事のあるような髪型をしているが、こういったものに興味の無い卓二にはそれが何なのかわからなかった。

 女性というには発展途上だろう体つきは、ほのかに胸が膨らんでいる程度にしか男女の差異は見分けられない。

 凛とした意思の強そうな眼差しは、まだまだ年輪の足りないあどけない顔つきの中にあるせいか、最初は卓二も簡単に見落としていたが、今では顔つきなぞよりよほどこの瞳の方が強く印象付けられている。

 何処からどう見ても外見は子供、それも小学生程度の女の子にしか見えない。

 そんな少女が卓二に向け金属製の棍を突き出し、構えを取っているのだ。

 そう、空手の道では敵無しと言われ、つい先日も海外の大物を倒し自らの無敵に自信を深めていた藤瀬卓二に向かってだ。

 少女は手元で棍を半回転させながら踏み込み、卓二の肩口に向け振り下ろして来る。

 下がる。とにかく下がりまくる。他のどんな手も卓二には考えられない。

 振りぬかれた棍は床を打つ。その音が、卓二には全く理解出来なかった。

『何で! あの振り下ろしでこんな音が鳴るんだよ!? ふざけんなよ! 床砕けてんじゃねえか! あのガキの体重考えたら絶対ありえねえだろそんなの!』

 例えば、棍がとてつもなく硬い物質で出来ていたとしよう。

 通常、硬い分質量が大きくなるので、当然彼女の背丈より長い棒を、あんな少女が振り回せるわけがない。

 よしんば硬くて軽い物質であったとしても、今度は質量が失われるので振り下ろした程度で床が砕けるわけがない。

 甲高い音と共に弾かれて終わりだ。

 鍛えに鍛えた技と力で、棍を振るう速度を上げれば或いはそんな威力も可能かもしれない。

 少なくとも卓二の知る中では、それこそ音速越えるような速度でもなければ、あの棍を見た感じから考えられる質量が、床を砕くような威力を生み出す事は無いはずなのだが。

 しかるに少女の振るう棍は、見た目や振るわれた速度からは考えもつかない重厚な激突音を生み出し、それに相応しい破壊をもたらすのだ。

 追撃の横薙ぎが来る。

 やはり卓二は間合いに踏み込めぬまま、ただ後退を繰り返す。

 今度は外れた棍が受付カウンターの机を削り取った。

 見た目からは塗装のせいでわかりずらいが、このカウンターは木で出来ており、これが振るわれた棍の軌道上にあったせいで、斬り裂かれたように鋭角な傷を残しているのだ。

『棍で! 斬る! って何だよ! 意味わかんねえよ! そもそもあの先端の二股に分かれた装飾って刃なのか!? いやいやいやいや、だとして、あんな切り口どうやってあの太さで残せるんだよ!』

 手近にあった物を必死に投げつけ隙を作らんとする卓二は、自分が何を投げているのかもわかっていない。

 鉛筆、メモ用紙、椅子、テーブル、まで投げた後で、ちょうど良いものを見つけ駆け寄る。

 6ポンドのボーリングの玉がずらりと並んだ棚から、次々とこれを持ち上げ放り投げる。

 一つ約2.8kgの玉を、まるでそんな重さを感じさせぬ速度で投げつけられる卓二の腕力も相当なものだ。

 尤も、投げつけ続けるという事は、一発二発投げた程度では少女に対し、まるで問題ともなっていないという事でもある。

 筆記用具は当然として、椅子もテーブルも、そしてボーリングの玉すら、軽く棍を左右に振るだけで、少女は全て弾いてしまっているのだ。

 卓二は構わず、置いてあるボーリングの玉を投げつけ続ける。

 徐々にボールは重くなっていくが、必死な卓二はそれにすら気づいていないようだ。

 重いボールを、卓二は両手で持ち上げ投げつける。

 子供の頃から鍛えに鍛えぬき、数多の知人友人から『常軌を逸してる』と評されるような訓練を重ねて来た卓二の体は、分厚い筋肉の鎧に覆われ、それでいて軽量級のボクサーと殴り合っても速度負けしないだけの機敏さもある。

 それら全ては見た目ではなく実用を考えられてついた筋肉達であるが、僅かでも武を嗜む者ならばそこに美を感じずにはいられぬような均整の取れた体をしている。

 そんな卓二が必死の形相で、両手で持ち上げ全身のバネをフルに用いて放つボーリングボールを、少女が両手で握った棍で簡単あっさりと払いのけてしまうのだ。

 払う瞬間は発泡スチロールのように容易く軌道を変化させる玉は、落着するなり質量を取り戻したかのごとく重苦しい落下音が響く。

 まるで出来の悪い漫画を見せられているような錯覚に捉われた卓二は、恐怖に震えるでなく、この景色が滑稽なモノに見えて来た。

 自然と笑いがこみ上げてくる、あまりに馬鹿馬鹿しい風景。

 それは恐怖に心が麻痺し始めた前兆でもあったのだろう。そんな心の間隙に、荒事慣れした卓二の冷静さが染み寄り、這い入ってくる。

 そして、自らの惨状を冷静に、見つめてしまったのだ。

 嘗て絶対負けられぬ相手に敗れた時ですら、ここまで惨めな思いはしなかっただろう。

 何年も何年も、自分は強いと信じ言い聞かせ続け戦い続けて来た卓二は、こんな年端もいかぬ少女を相手に、自らが女子供であるかのようにヒステリーを起こし、手近なものを投げつける事しか出来ていないのだ。

 顔中が羞恥に火照る。咄嗟に、周囲に他の人間が居ないかを探してしまった。

 居るわけがない。

 卓二がこの少女と合間見える前に、卓二と共にこの廃ボーリング場をたまり場にしている連中は皆、この少女に倒されてしまっているのだから。




 藤瀬卓二は寝床にしている事務室のソファーに横になりながら、今日のトレーニングはどうするか、などと握った拳を見下ろしながら考えていた。

 卓二が寝泊りしている廃ボーリング場は、半年程前に経営不振により廃業が決定しており、しかし、経営者に取り壊しにかかる金の工面がつかず、そのままの形で放置されていた。

 このボーリング場でバイトをしていた若者がこれに目をつけ、勝手にたまり場にしてしまったのだ。

 電気ガス水道は当然全て止まっているが、何故か中の備品、ボールやシューズ、果ては食料品に至るまでが残されており、経営者のありえぬ杜撰さと、さして不景気でもないのに廃業に至ってしまった泡沫な経営が理解出来よう。

 ちょうどヨーロッパ旅行の直後で、手持ちの金が極めて乏しい状況であった卓二は、知人の家に転がりこむのも申し訳ないとこの溜まり場に自分の寝床を作ってしまったのだ。

 うちに泊まって下さいよ、と何度も勧めてくれた男も居たが、卓二はそいつが誰だったのか覚えていなかったのできっぱりと断った。

 そも、この溜まり場に集まってくる人間の内、卓二が名前を覚えているのは五人にも満たない。

 ここら一帯の悪ガキがほとんど集まるこのグループは、人の出入りが非常に激しく、更に卓二自身に彼等を覚えようという気が欠片も無い為、こんな有様になっている。

 それでも集まってくる悪ガキの皆が藤瀬卓二の名前は知っている。ケンカが伝説的に強い。そんな人間であると言われているせいだ。

 一人で数十人をのした。

 現役のプロボクサーを殴り倒した。

 空手のオープントーナメントにおいて外部参加で優勝してしまった。

 拳銃を相手に素手で勝った。

 様々な藤瀬卓二伝説があるが、概ね事実であったりする。

 それだけの武の才能があれば、こんな廃ボーリング場に寝泊りするような事もなく、もっと賞賛と収入の大きい場所に居る事も出来るはずだ。

 しかし卓二はそういった事に興味を持てない。

 ルール云々に従うのは、本来の卓二のあり方ではない。

 一切ルールの存在しない街のケンカにこそ武の本質はある。卓二はそう信じ、実践し続けてきた。

 そんな彼のスタイルが、街の悪ガキ共を魅了してやまないのだ。

 とかく自制心に欠ける悪ガキ達が、この廃ボーリング場でトレーニングをする卓二の邪魔になる行為だけは、絶対にしようとしないのはそういう訳なのである。

 それが来たのは、卓二が寝ぼけ眼のまま朝食代わりのカロリーメイトを口に放り込んでいた時であった。

「卓さん! 卓さんやべえよ!」

 その日は何時にも増してやかましい日で、何かイベントでもやってるのかといった勢いでボーリング場全体がやたら騒がしかったのだが、それでも彼等がトレーニング中の卓二に声をかけてくるのは稀だ。

 機嫌がメルトダウン起こしそうになった卓二であったが、一応、見知った顔なので我慢だけはしてやる。

「……なんだよ」

 卓二の不機嫌顔を見れば、大抵の奴は言いたい言葉を引っ込める。それがわかっていてそうしたのだが、今日はどうやら勝手が違っていた。

「卓さん悪いけど出てくんねえっすか! アイツ洒落になんねえんだって! 順ちゃんもミッキーもヤられちまったんっす!」

 順という名もミッキーという名も、卓二には覚えが無かった。

「あんだよそれ。今日は文治来てねえのか? ハンの奴でもいいけどさ」

 男は焦った口調で答えを返す。

「これその文治さんからの伝言っす! ハンさんがやりあってるの見て多分勝てねえって文治さんが!」

 怪訝そうな顔になる卓二。

「……珍しいな、お前等が真面目にタイマンしてるなんざ」

「だからタイマンじゃありませんって! 俺等全員で突っ込んで! それでもお話になんねえんっすよ!」

 今日は休日だ。こんな日は大抵二十人から三十人近くが集まる。それが、揃って手も足も出ないという。

 また文治というのはボクサー崩れで、インターハイ経験者でもあるかなりの腕だ。

 そしてハンは、現在修行中のプロレスラーの卵である。

 それら全てを同時に殴り倒せと言われて、卓二は出来ぬとは思わないが、そう出来る奴が大層な強者であるというのもわかる。

「どんな奴だ?」

 興味を惹かれて問い返す。

「棒を振り回すんでさ!」

「へえ、棍使いか。年は、若いのか?」

「そりゃもう! 小学生にしか見えねっす!」

「……小学生? ああ、うん、それで?」

「あのクソ女! 意味がわからねえ程力が……」

「待て。おい待てこらちょっと待て」

「は?」

「お前の話を総合すると、小学生にしか見えない女に文治とハンも含めたお前等みんながヤられてるって話になるが」

「その通りっす!」

 卓二は無言で男を蹴り飛ばし、部屋の外へと放り出した。

 こういうジョーク流行ってるのか、などと考えながらトレーニングに戻る卓二は、ドアの外からの音に気付く。

 それは打撃音。

 重量と硬度を備えた何かで人間をブッ叩いた音を、卓二が聞き間違えるはずがない。

「……もしかしてマジで誰か襲って来たってか? おいおい、何してんだ俺の勘、仕事してねーぞ」

 自分の第六感に文句をつけながら、ドアの外の気配に、そして改めて全周囲に向けて意識を巡らせる。

 ドアの外、打撃音の後もう一つした音は、おそらく殴られたさっきの男が床に倒れた音。

 それ以外、部屋の中は問題なし。天井、今の所気配はないし、ぶちぬくには頑丈すぎる。

 出窓の外、二階のここに登るには手間がかかるし、誰かが手間をかけている様子も感じ取れない。

 ドア外の気配は、怖じる様子もないまま、扉を開き卓二の前に姿を現した。

「…………おいっ」

 思わずそんな言葉と共に誰にともなくツッコム卓二の前には、先ほど蹴飛ばした馬鹿のジョークである、小学生にしか見えない女が金属製の棍を手にこちらを睨み付けていたのだ。




 雨宮るるみの朝は、日の昇る前より始まっている。

 目を覚ますとすぐ、まだ暗い部屋の電気をつけ、黄色のストライプの入ったパジャマをてりゃーっと脱ぎ放つ。

 130cm程の身長は手足の長さもそれに伴っており、少なくとも大人がそうするより容易くパジャマの上を、ボタンを外さぬままTシャツのように脱ぎ放つ事が出来よう。

 だからとやるかどうかは、当人のお行儀レベルによるだろうが。

 年頃の女性ならまずそうしないだろう部屋内における全裸な姿も、まだまだ艶のある話とは縁遠いお子様体型のおかげか、当人まるで気にはしていないようだ。

 残暑がヒドイ、つい昨日るるみの父と母がそんな話をしていたが、朝のこの時間に関してはもう完全に夏は終わっている。

 ひんやりとした空気が、布団とパジャマに数時間暖められてきた肌を心地よく刺激する。

「おーっし、がんばろー」

 そんな毎朝繰り返している台詞と共に、トレーニングシャツと半パンツに着替え、軽く屈伸、伸び、アキレス腱伸ばし。

 両親を起こす事のないよう、そーっと足音を忍ばせ部屋を出、階段を下りる。

 実はこの早朝トレーニング、両親は毎朝「おー今日もやってるなー」的に気づいているのだが、るるみは両親は寝たままでいると思っているのである。

 無論両親もるるみの音を忍ばせる配慮に気付いており、両親の睡眠の邪魔にならないようにと一生懸命なるるみが、もう可愛くて可愛くて仕方が無いので黙ったままにしているのである。

 一通りの訓練を終えたるるみが家に戻ると、何時も通り、父親の出勤時間前である。

 いってらっしゃいの言葉で送り出し、自分もシャワーを浴び着替えて学校行きの準備をする。

 この時、母がるるみの髪を丁寧にセットしてくれる。

 これはもう小学一年生の頃から続いている朝の儀式のようなもので、今年六年生になったるるみは髪のセットぐらい自分で出来るのだが、何となくしてもらうがままになっていた。

 登校中、顔を見かけたたくさんの級友達が声をかけてくる。

 るるみは女の子なのだから、声をかけてくるのも女子が多いかと思えばそんな事はなく、女子半分男子半分といった所だ。

 それら皆に返事を返しながら、しかしるるみは他の皆のように誰かと一緒に登校する事はない。

 一人で教室へと向かうるるみ。六年生のるるみの教室は一番下の階であり、一番楽に教室入り出来る場所にある。

 学校についても、教室内にて声をかけられる事は数多あれど、やはりるるみは一人で居る事が多い。

 そして時折皆の表情や仕草を観察しているのだ。

 今日は、そんなるるみの観察眼に大きなひっかかりを残す男子生徒が居た。

 すぐに彼に声をかけるような真似はせず、彼、国枝可伊夢の仲の良い友人達を探してみる。

 彼等も皆一様に、ひどく沈んだ様子であった。

 お昼休み。男子は大抵皆校庭に遊びに出てしまうのだが、そんな中でも可伊夢は一人皆から離れた場所へと向かう。

「やっ、カイム君。元気無さそうだね」

 カイム少年は、最初にひどくうろたえた様子だったが、周辺に他に誰も居ないと知るやるるみの腕を掴んできた。

「な、なあ雨宮! 聞いてほしい事があるんだよ! お、俺とんでもない事になっちまって……」

 体格が良い事も手伝って、普段やたら威張って歩いているカイムは、るるみにだけは偉そうな顔をしない。

 もちろんだからと、るるみも彼を茶化したりはしないのだが。

「うん、どうしたの?」

 何でもカイムはもらったお小遣いを全て、通りすがりの高校生に脅し取られてしまったんだとか。

 カイムと仲の良い友達も皆一緒にお金を取られそうになったのだが、カイムだけ一人で十万円も持っていたせいでこれを取られて釈放となったらしい。

 カイムは高校生を責めるような事は口にせず、ひたすら一緒に居た友人の悪口雑言を並べ立てる。

 挙句、本来皆平等に取られるべきだったんだから、カイムが取られた分連中がカイムに払うべきだ、などと言い始める。

「……そもそも何でそんな大金持ってたの?」

「ああ、これ俺毎月のお小遣いが十万なんだ。でもさ、十万ぐらい一月もあれば全部使っちゃうって」

 そこから今度は十万円の使い道、インターネットのゲームをやってるそうな、の話を延々聞かされる。

 それでもるるみは黙ってカイムの話を聞いており、そして最後に静かに言い聞かせた。

「うん、自業自得だね」

「え? うん、そうなんだ。だから俺困っちゃっててさ。課金アイテムすぐ買わないと、キャンペーンが終わっちゃうんだって。大政奉還の剣とかマジ今しか手に入らないんだから」

 今にも京都が無法地帯になりそうな剣はさておき、るるみの言葉はカイムには伝わらなかったようで、るるみは今度はもっとわかりやすく言ってやる。

「だからっ、カイム君それカイム君が悪いよ。っていうか、他のみんな全然悪くないし。そんな責めるような事ばっか言ってないで仲直りしなって」

「えー! 何でだよ! 俺ただお金取られただけじゃん!」

「またどうせ見せびらかしながら歩いてたんでしょ。まあ、その高校生は最悪だと思うし、そういうの先生に言わないと」

 るるみが先生を持ち出すとカイムは見るからに渋そうな顔つきになる。

 つまる所、十万円を奪い返す事より、先生が出て来て面倒になる事の方がカイムにとっては問題であるようなのだ。

「言いにくいんなら、私から先生に言っておこうか?」

 カイムは渋い顔のままである。

「でもさー、後で先生に呼び出されるじゃん。そしたら、お金取られたのママにバレちゃうし。絶対怒られるよなぁ」

 るるみはものっすごい嫌そうなカイムに、なら黙っておく、と言い、カイムの友達にもるるみから上手く言い繕っておくから仲直りしなよー、と締める。

 不承不承カイムは納得してくれ、すぐ後にるるみはカイムの友達三人に声をかける。

「俺、今度の事でもうカイムと絶交するって決めたから」

 とマジギレしてる彼等を説得しつつ、カイムがお金を取られた状況を細かに確認する。

 一通りの話を聞き彼等と別れたるるみは、一人だけ戻って来た男子と少し話をした。

「……なあ、もしかして雨宮あの高校生とヤろうとか考えてないよな」

 るるみは彼から視線を外す。

「他にも居るんだよね、被害者。先生にも言ったんだけど、あれから丸一週間、何も音沙汰無しなんだ」

「ヤバいって幾らなんでも。俺等は雨宮強いの知ってるけどさ、きっとアイツ等、アレ以上に仲間居るぜ。更に他の高校生とか出て来たらもうどうしようもないじゃん」

 るるみは振り返り、彼を真正面から見つめる。

「ねえ、この事黙っててくれるなら一つ良い事教えてあげるよ」

「え? いやそりゃお前が言うなって言うんなら黙ってるよ。俺絶対チクったりしねえし」

 ふふっ、と男の子ーなご意見にるるみは笑みを溢す。

「じゃあ教えてあげる。君は私が強いの知ってるって言ったけど、違うんだよ」

「違うって?」

「君はまだ、私がどれだけ強いのかを全然知らないんだよ」




 雨宮るるみは、心底より怒っていた。

 ガラの悪い人が集まる場所。そう聞いていたし、話す内容が内容だ。平和に全てが片付くとは思っていなかった。

 それでも、るるみの想像を遥かに上回る勢いで、ここはヒドイ場所であった。

 るるみは自分がまだ子供であると理解している。

 そう、子供故に大人がるるみに対してあらゆる場面で手加減をしてくれてるとわかる程度には、自分が子供であると理解しているのだ。

 それでも極稀に、大人の本音を垣間見る機会がある。

 大概の場合においてそれは醜悪で気分の悪くなるようなモノであったが、それでも、その日家に帰ってベッドの上でゆっくりと考えれば、彼等のそんな本音もわからないでもないものだ。

 大人には、優しく出来る限界というものがある。そうるるみは考えていた。

 その限界値が人によって著しく異なるらしいとも。

 それを知っているという事は、そんな大人の優しさ限界値を試すよーな事をるるみは何度かしてしまっているという事でもあるのだが。

 だからるるみは大人が癇癪を起こしたとしても、他の子供達程にはショックを受けたりはしないし、そんな大人を理解しようという姿勢を持つ事も出来る。

 だが、これは無い。

 るるみが乗り込んだボーリング場跡で出会った彼等は、ハナっから我慢する気なぞ欠片もない、相手が子供だとかどうだとか果てしない程にどうでもいい、ともかく自分の愉悦が全てに優先する。

 同級生、いや低学年のわがままな子だって、ここまでヒドくはないだろう。

 挙句妙な知恵をつけてる上に大人の腕力を持っているなぞ、一体小学生にコレをどうしろというのか。

 当初、るるみにも怯え恐れる部分が無かったとは言わない。

 見るからに感じの悪そうな大きな人達が、壊してもいい遊び道具か何かを見るような目つきでるるみを取り囲んでいるのだから。

 自分の力に自信があろうとも、やはり強烈な悪意と相対しては、恐怖が生まれざるを得ないのだ。

 声が震える。他の人にそう聞こえずとも、るるみには自分の声が震えているのが良くわかった。

 そして、彼等の一人が言ったのだ。

「最近の小学生金持ちすぎだろ。これリーマンのおっさんカツアゲるより、ガキ狙った方がいいべ。ガキだから面倒な事にも気がまわらねーだろうし、ビビらせりゃすぐ黙りこくるしな。つー事でおらガキ、お前その場でぴょんぴょん跳ねろはりー」

 るるみは彼等の余りの卑劣さに、眩暈を起こしそうになった。

 つまり、泣き寝入りしやすいから小学生を狙う、と言っているのだ彼等は。

 そして、今日のるるみはきっと、手加減が上手く出来ないだろうな、と一瞬で沸騰してしまった頭の片隅で思うのだった。


 結論から言うと、るるみの上手く手加減出来ていない常より厳しい攻撃は、体力に富む彼等青年達にはちょうどよいぐらいであった。

 むしろ加減しすぎて何度も立ち上がってくる者も居た程だ。

 るるみの感覚ではもう大怪我間違いなしな強打を打ってようやく、有効打撃たりうるのだ。

 本気で体を鍛えた人間の頑強さをるるみは目の当たりにしながら、心の中で、来て良かったと満足気に頷いている。

 るるみがこれまでの人生において対して来た人間と比べても、特に今回ぶつかった二人は別格であった。

 もうびっくりするぐらい速く鋭い人、ありえないぐらい頑丈な人。

 そして両者共が、速く鋭くて頑強。信じられぬ頑丈さを持ちながら俊敏。と、総合的にもとても強い人であったのだ。

 そんな人と手合わせ出来る機会を、るるみはとても貴重だと思えたのだ。

 なのでよってたかって皆で襲い掛かって来る卑怯さに関しては、まあ目をつぶってやろうとか思ってたり。

 前方へ杖を突き出し、突いた反動で杖の柄を背後の者に突き立てる。

 更に下段を大きく薙ぎ前方の二人を牽制しつつ、斜め後方に居た者の脛を強打する。

 連撃で息が苦しくなる前に、一呼吸入れるべく中段の高さで周囲をぐるっと一周薙ぎ回し、脇の下に杖を収めながら逆腕を前方にかざし、この挙動の死角であった左斜め後方をじろっとにらむ。

 見ている者に感づかれないよう小さく、一つ、二つ、三つ、深い呼吸を入れる。

 出来る。出来ている。

 対集団戦も訓練した通り、全くその通りにやれている。

 この充足感は、他人に言える類のものではないが、るるみの全身を痺れさせてくれる。

 たゆまぬ訓練が実を結んだ、そう思える事の快絶は他と比肩すべきものが見当たらない程だ。

 そしてるるみが気がついた時には、周囲に動く者の姿は無くなってしまっていた。

 いや、ある。

 るるみの周辺に転がるうめき声を上げもぞもぞと這い回る物体が、幾つも。

 るるみは彼等のこんな哀れな姿を見てすら、同情の念が沸いてこない。

 今回るるみが圧倒的に強かったからこういう結果になったのだが、もし、るるみが彼等より弱かったらどうだったか。

 あの悪意に満ちた視線を、どう発揮していたのか。

 カイム達が高校生を決して悪く言わなかったのは、心の底から彼等を恐れていたからだ。

 余程ヒドイ脅し方をしたのだろう。それも、恐らくは冗談交じりに。

 先ほど、るるみを取り囲んだ時のように。

 とても手強い人を倒した時の、彼の捨て台詞をるるみは覚えている。

『ガキ、てめぇが化物なのはよーくわかった。だがなぁ、どんだけ粋がろうと絶対どうしようもねえ人がいるんだ。いいか、あの人にだけは誰であろうと、絶対に、勝てねえ』

 戦いの最中、一人が応援を呼びに行ったのをるるみは見ていた。

 彼が向かった先へとるるみは足を向け、そして、彼と出会った。

 気味が悪い。

 それが第一印象だった。

 別段不自然な所は見受けられない普通の人、に見える。

 しかし、何処と具体的には挙げられないが、何処かがおかしい。或いは何処もかしこもが。

「貴方も、やりますか?」

 そう問うてみた所、青年は面倒そうにしながら、頭をかいた。

 あれと思った時には、既に青年が眼前に居て、足を振り上げていた。

『わわっ!』

 大慌てで杖を頭部横に添えこれを防ぐ。

 ありえない衝撃がるるみを襲った。

 あまりの速さに、強い受けの姿勢を作り損なったのは事実だ。にした所で、るるみには絶対無敵のアレがある。

 にも関わらず、るるみは蹴りの衝撃が杖を伝い、腕を這い、胴を貫き、足にまで至るのを感じ取った。

 人の足がこんなにも重いものだなどと、るるみは考えた事もなかった。

 ともかく驚きを顔に出さないのが精一杯。反撃なぞ思いも寄らない。それ程の一撃であった。

 尤も、るるみが驚きを顔に出さずに済んだのは、蹴りを受けたるるみ以上に、青年が驚いているのがわかったせいだと思われる。

 おかげで心の平静を取り戻したるるみは、全力で警報を鳴らす警戒心に従い踏み込みすぎぬ間合いからの突きを繰り出す。

 彼は驚きが尾を引いているのか大きく下がるのみ。

 それにした所で、下がる反応速度といい一足で下がる距離といい、るるみにはまるで理解出来ぬ、同じ人間とも思えぬ挙動である。

 るるみは出来うる限りの警戒を怠らぬまま攻撃を繰り返す。

 一つ打ち込む度に、彼の表情が歪んでいくのが良くわかった。

 るるみには意味がわからない。あれほどの蹴りを打てる彼が、どうしてこうも下がる一方なのか。

 もう一度彼が蹴って来た時は、引け腰のせいで初撃程の威力も無くなっており、そう、るるみにも見てわかる程に彼は恐れ怯えていたのだ。

『……本当に、凄い人だこの人。まだ私見える形で使ってないのに、きっとこの人私の魔法に気付いてる……だからこんなに怖がってるんだ』

 小学六年生の女の子が、如何なトレーニングを積んだ所で数十人の高校生を全て叩き伏せるなぞ、まともなやり方で出来るはずがない。

 雨宮るるみは、魔法使いなのであった。




 藤瀬卓二は、羞恥と屈辱に身を震わせていた。

 しかし、それでも尚、前に出るにはあまりに戦力の差がありすぎる。

 卓二の蹴り、これを見た目小学生の女の子に躊躇無くぶちこめる辺りが、卓二が武の修羅道に堕ちている証であろうが、これをこのガキは微動だにせぬまま受け止めてみせたのだ。

 半端な受けにしか見えぬ彼女の未熟な受け技は、単に卓二の蹴りにそこまでする程の威力が無かったせいであろう。

 そんな適当に相手する程度にしか、卓二は見られていないのだ。

 実際、このガキの振るう棍はとても少女のそれとは思えない程、熟達した技を見せてくれる。

 足の運び、体重移動、棍先の位置、全て及第点である。後は鍛錬の度合い次第で威力がどこまで出るか、そして防御の経験を積んでいるかどうかであろう。

 そこまで考えて、卓二ははたと気付いた。

『いや、待て。つまり、このガキは棒術を鍛錬してるって話か』

 何故、鍛錬の必要があるのか。

 卓二の蹴りを不思議な力で防げるというのなら、そも受けの姿勢を取る必要すら無いはず。

 癖であるだとか、そういった紛れに近い可能性も存在するが、ともかく、卓二は少女にも限界があるのでは、と思ってしまった。

 恐怖は、無論まだまだ残っている。

 未知なる何かをこの少女が身につけており、それは卓二の常識から著しく外れた何かであろうと思われる。

 だが、良く見てみればいい。

 あの少女がこちらを牽制すべく突き出した、左の手の平を。

 幾つものマメが潰れ、破れた皮膚が再生する間もなく更にその下の肉まで切れる。そんな鍛錬を繰り返してきただろう、紛う事なき武術家の手だ。

 マメなら、卓二にだってあった。幾つも幾つも、もはやマメなんてもの出来なくなるぐらい、鍛錬を繰り返して来たのだ。

 おかげで腹が据わってくれた。

 敵もまた鍛錬の末その場所にいるというのなら、卓二もまた地獄の様な鍛錬の末ここに居るのだ。

 相手の技がわからないなど、武の世界では当たり前の事だろう。今更、一体何を恐れるというのか。

「おい、ガキ」

 少女は更に警戒を強める。

「……はい」

「悪いな、ようやく覚悟が決まったよ。こっからが本番だ」

 何故か少女は少しだけ驚いた顔をしていた。

「罠を……張ってたんじゃないの?」

「いいや、単にビビって逃げ回ってただけだ」

「なら何故この部屋から逃げ出さなかったの? そこの窓から飛び出すなり、貴方なら手はあったでしょ」

 言われて気付く、我が身の所業。

 卓二はこんな時でありながら、堪え切れず笑い出してしまった。

「?」

「ぷっ、はははははっ、いやな、さんざっぱら怯え震えて逃げ回っておきながら、最後の一線、本気で敵から逃げ出す真似だけは出来なかった自分の馬鹿さ加減が笑えてしょうがねえんだよ。ホント、俺ぁどうしようもねえケンカ馬鹿だわ」

 完全に自分を取り戻した卓二。

 空手の構えを取ったまま、つま先の動きのみでじわりじわりと間合いを詰める。

 対する少女は杖の先端を卓二へと向けた後、卓二の動きにぴくりとも反応しない。

 卓二は、左手を少女の前へと翳した。

 開かれた左の手の平は、卓二と少女の瞳を繋ぐ直線上に置かれ、こちらの視線を覆い隠す。

 その瞬間、卓二は自らの気配を大きく周囲へと開放する。

 これを食らうと、気配を察知する程敏感な状態であればあるほど、相手が実際より大きく感じられてしまうのだ。

 そんな仕掛けが成功したかどうか、それは卓二からも少女の表情が見えぬ事から判別がつきずらいが、ほんの僅かでも足を動かしてみれば、相手の体の反応からすぐにわかる。

 そう、少女が今したように、卓二のほんの僅かな動きにも反応せずにいられない状態ならば、仕掛けはほぼ間違いなく成功していると考えていい。

 後はゆっくりと、しかし確実に、踏み出し、踏み込み、突き入れる。

 比較すべき物が思いつきずらい重苦しい衝撃音。

 硬質でかつ柔軟性に富んだ、そんな矛盾した物質を拳の先より感じる。

 腕が痺れるのは拳を打ち込んだ反作用がモロに腕に返って来てしまっているせいだ。

 つまり卓二の拳では、この少女をほんの僅かも動かす事が出来なかったという事だ。

 効いていないのなら、即座に反撃が来る。

 そう当然の如く考え歯を食いしばる卓二。

 来ない。動かない。違う、ガキは防ぎに動いた。なら攻めろ。

 左拳は少女の側頭部めがけて放たれ、しかし何と何と、少女は大きく首をかがめてこれをかわす。

 が、ほぼ同時に放たれた右拳はかわせず。

 下から突き上げるような一撃を顎にもらう少女。上へと跳ね上がりかけた少女の頭部がそうならなかったのは、卓二がコンビネーションのラストにもってきた右上段回し蹴りが少女の頭部に叩き込まれたせいであった。

 右のアッパーに被せるように右上段回し蹴りなどと、体が良くもまあ曲がるものだといった勢いの蹴りである。

 しかし、少女は、まともに入った蹴りにすら、倒れる事はなかった。

 少女の棍が、卓二の股下より振り上げられる。

 卓二は蹴り足がまだ宙に浮いたままで、一本足で立っている状態。

 その一本足で床を蹴り、体を捻って半回転する事で、振り上げられた棍の軌道から全身を、そしてぎりっぎりで足を外す。

 大きく体勢が崩れるが、両手を床につき、これを勢いよく突き出す事で少女から距離をとる。

 これら一連の動きの何が恐ろしいかといえば、少女が棍を振り上げる挙動を見た瞬間に、全て判断し決断し実行した所だ。

 状況をぶつけられてからの判断速度が尋常ではない。

 しかもこれらは訓練による反射ではなく、状況に適した判断を都度下しているのだ。

 こういった所で、格闘家藤瀬卓二の極めて非凡な才能を感じ取る事が出来よう。

 距離が開いた事で一呼吸おけた少女が、隠しきれぬ動揺を見せているのは、そんな卓二のありえぬ速度に驚愕しているからに違いあるまい。

 卓二はそれぞれ打ち込んだ時の感触を思い出す。

 顎を殴り上げた時、頭部を蹴り飛ばした時、共に殴りぬき蹴りぬく事が出来た。つまり、少女を動かす事に成功したのだ。

 だからとダメージが残っているようにも見えないのだが、とりあえず、一つの予想が立った。

『コイツ、自分が認識出来ない攻撃は、完璧に止めきる事が出来ないんじゃねえのか?』

 右のアッパーから右上段回し蹴りへの繋ぎは、一流の格闘家にすら見切る事が出来ぬ流れだ。

 しかし、その前の二つはそうではない。

 左フックをダッキングにてかわしたのは見事だったが、その後の右アッパーに対して完全に無防備であったのは、明らかに不覚であろう。

 どうやらこのガキはコンビネーションの知識があまり無いらしい。

 ならば、と卓二の口元がひり上がる。

『武道武術やってる奴にありがちな、コンビネーション否定派ってか? 笑わせやがる。タイマンならコイツはすげぇ武器になるってのによ』




 雨宮るるみの脳裏に浮かんだのは、祖母との訓練の日々だ。

 るるみの知る唯一の魔法使い。るるみに魔法の何たるかを教えてくれた師匠であった。

 何処にでもいる孫に大甘なおばあちゃん、そんな姿はるるみに魔法の素養があると知れる日までの話。

 当時六歳のるるみに、今思い出しても寒気がするような過酷な訓練を課してきた。

 何故、と問い返す事すら出来ない。あまりに祖母が恐ろしすぎる為に。両親に助けを求める事すら出来なかったのだから。

 当時は何時殺されてもおかしくない、そんな恐怖に震えながら訓練漬けの日々をすごしていたが、今思えば、祖母はギリギリの所で容赦はしていたのだろう。

 訓練開始から三ヶ月も経った頃には、何やかやと小学校に通いながら訓練をこなす、なんて真似を当然の如く出来るようになっていたのだから。

 おかげで、小学校に上がってからこの方、相手が男子だろうと上級生だろうとケンカで負けた事は無い。

 魔法があるから当然ではあるのだが、魔法抜きでも体捌きのみで攻撃全部いなせるので、お話にならないとはこの事だ。

 祖母は良く言っていた。

 どれだけ魔法が優れていても、魔法を使う判断をするのはるるみなのだから、るるみ自身が相手より勝る戦士でなければるるみは勝てない、と。

 初めて同級生とケンカした時も祖母の言葉を思い出し、なるほどと実感したものだが、今回はもっと深く祖母の言葉が理解できた。

『おばあちゃん。この人、凄いよ。信じられないぐらい、凄い。おばあちゃんはこんな人と私が戦うって、わかってたんだね』

 頭がくわくわんと鳴っている。

 奇妙な耳鳴りがしており、そのせいとも思えないが、意識を集中しないと相手の姿を見失ってしまう。

 視界から外れるわけではない。視界内にありながら、彼を認識出来なくなってしまうのだ。

 それほどに、意識が混乱している。

 祖母が突然亡くなってからもう三年経っているが、その三年前までは、毎日のようにこんな有様になっていた事を思い出す。

 杖を振り上げられたのは、一重にこのおかげであろう。

 るるみは、揺れる視界のまま、杖を青年へと突き出した。

 僅かも停滞せず杖をいなしながら飛び込んでくる青年。見事すぎる技であるが、るるみもまたデクの棒にあらず。

 青年の踏み込みより速く杖を引き、再び突く。真横に飛んで逃げる青年。体を捻りながら杖を引き、三度突く。青年は腕で払い流す。

 払いが甘いわけではない。るるみの突きの鋭さが、腕にて払う青年の体勢を崩すと、青年は仕方なく後退し間合いを大きく取り直す。

 ここが重要。この時の構えが、次の戦局を決めるのだ。

 るるみはまだ落ち着かぬ頭と体を叱咤し、重心を深く重く沈める。

 杖先は正確に青年の鳩尾を指した位置で固定、るるみの視線は一所に固定せず、全体を大きく見渡すように。

 必要なのは魔法ではない。どんな鋭い踏み込みも、強き突撃も、全てこの杖で打ち伏せてやるという気迫だ。

 そして、言葉でなく言い放ってやる。

 我が間合いの内へ、入れるものなら入ってみろと。

 不思議と、裂帛の気合と共に構えを取るだけで、頭部への痛打を受けた事により起こった、眩暈のような症状は治まってくれた。

 これも、祖母の攻撃により眩暈を起こした時に、祖母が言い放った言葉通りであった。そう出来たのは今回が初めてだが。

 何度も何度も、真剣さが足りないと怒鳴られていたが、るるみは何時でも一生懸命やっていたつもりであった。

 しかし、祖母の言っていたのはそういう事ではなかったのだ。

 やらねばやられる、一切の妥協許さぬ真剣勝負。そんな中にあって、るるみの集中力はこれまでに無い程研ぎ澄まされていた。

 漸く祖母の言う場所に辿り着く事が出来た、とるるみは喜んだりしていなかった。

 というよりも、そんな事考える余裕が無いのだ。今はただ、目の前の彼を如何に倒すかしかるるみの頭には無かった。

 祖母が倒れた後も、るるみは祖母を仮想敵として訓練を繰り返して来た。

 それを今、実践する時だ。

 大きな一撃は絶対に駄目。小さく細かく、素早く正確に。

 振るった一撃は次なる一撃への布石となり、二撃目もまた更なる次の布石となす。

 杖の先端を揺らしながらの突き。突くのではなく、裂くのが目的だ。

 頭部へと放ったこれを青年はかがみこんでかわす。左右に避ければぶれた杖先に触れ斬れていたろう。まったくもって、判断を誤らぬ相手だ。

 るるみは更に踏み込みながら、杖の柄尻側をぐるりと回し、これで打ち上げにかかる。

 顎を狙った一打であったが、青年はこちらの杖の間合いを見切っているのか首を捻りながら紙一重の位置に留まる。

 既に杖の間合いではない。青年の手足が届く近接距離は危険である。しかし、るるみは怯まず恐れず、杖柄を青年に向け突き入れる。

 これを、青年は受けたかったのだろう。しかしるるみの杖は魔法の力を宿している。力の乗りにくい牽制のような一打であろうと、決して触れて良いものではない。

 やはりここでも判断を誤らず、後退する事で安全を取る。

 直後、るるみは腹部に凄まじい衝撃を感じる。

 青年は何と、後退しながら片足を伸ばし、前蹴りをるるみに叩き込んでいたのだ。

 おおよそ下がりながらとは思えぬ強打。むしろ、この蹴りで後退の勢いを得ているようだ。

 るるみは魔法にて壁を作り、攻撃を届かなくしてしまう事が出来るが、文字通り壁を作るのと同じなので、抜け切れなかった攻撃の反動は攻撃者へと返る事になる。

 彼はこんな特性を利用したのだろう。もう、魔法に対応し始めているのだ、彼は。

 じわり、と心の奥底から滲みあがってくるものがある。

 その正体もわからぬまま、るるみは攻勢を途切れさせぬよう更に足を踏み出す。

 手元に引いた杖を縦に半回転させながら、るるみはステップを踏みつつ小さく飛び上がる。

 出来るだけ杖の柄尻の方を持ち、長く伸ばすようにした杖を、体重を乗せた勢いそのままに振り下ろす。

 半身になるだけでかわす青年。外れた杖は床石を音高く砕き割る。

 床を叩いた反動で跳ねる杖先。これをくるりと回し袈裟に肩口より打ち込む。

『潜った!?』

 袈裟の動きを読まれたのか、青年は杖先を頭を伏せ、かわしながら踏み込んでくる。

 咄嗟に杖より右手を離し、青年へとこちらからも踏み込んでいく。

 手の平を彼の頭部に向け伸ばす。魔法の力はもちろん、この手に纏わせてある。

 これも潜られた、そう思った瞬間、るるみの視界が大きく反転する。

 壁が、奇妙に変形したままるるみの頭頂側より突進してくる。

 かわす間もない。魔法は間に合ったが、ぐるりと回った壁が、今度は側面から襲い掛かってくる。

 こちらも魔法で防ぐ。受けようにもこんな立体的動きであちらこちらから襲いかかられては防ぎようがない。

 と、視界の隅に、何故か斜めになった青年の姿が見えた。

『違うっ! これ私が転がってるんだ!』

 ようやく、現状を認識したるるみであったが、攻撃を仕掛けたこちらが何故こんな風に転がされているのかがまるでわからない。

 青年は天井を逆さまになって走って来る。

『マズイマズイマズイマズイって!』

 魔法の力をありったけ全身に纏わせる。効率云々言っている余裕がない。消耗が激しかろうとこうしなければ防げそうにないし、もし防げなかったら、間違いなく。

 まず、右側頭部に来た。

 次に、鳩尾を掬い上げるように。

 更に、後頭部を強打する。

 続き、首元へ斜めに打ち込んで来る。

 るるみは、心底から理解する。

 彼は、全て一撃余さず急所を狙う彼は、間違いなく、本気全力ありったけで、るるみを殺そうとしていると。

 腹の底から吹き上がってきたこれは、ああ、祖母が魔力を漲らせた状態で杖をるるみに向けたあの時感じたものと同じ、確実に来る死への予感が生む、抗いようのない絶対的な恐怖。

『こ、殺され、る。やだ。絶対ヤだ。死にたくない、こんな所で、死んじゃうなんて絶対にヤだっ!』

 何処を殴られているのか最早わからぬ有様の中、るるみは杖を振るった。

 もう何もかもわからない。あるのは、ただ一つ。

『死んで、死んでたまるもんかあああああああああああ!!』




 藤瀬卓二はラッシュの最中にあろうと敵の動きを見逃すような間抜けでは決してない。

 殺った。そう確信出来る連撃の中、全力で後退したのは少女の気配が変化したせいだ。

 予想通り、ヤケになったとしか言いようの無い大振りが襲って来たが、間合いを外していた卓二にはかすりもしない。

『キレた、か。へっ、ガキだなやっぱ。キレて勝てるのはガキのケンカまでだぜ』

 だが、と威勢の良い事を考えていた卓二の頬から一筋の汗が滴る。

 少女の振るった杖は、それまでとは明らかに異なっている。

 杖の長さは変わっていない。だから、あれは間違いない。杖が、触れていない所まで切れている。

 それまでも杖が床を打ち据えれば、フロアタイルは割れ砕けてはいた。

 しかし、今回のは違う。フロアタイルどころではなく、その下のモノまでずんばらりと切れてしまっている。

 ちらっと目線を飛ばしてみるが、切り口は奥まで見えない。吸い込まれるような暗い影が斜めに走るのみ。

『は、ははっは、はははっ、おいおいおいおい、これ、当たるどころかかすっただけでもソコ無くなっちまうぜ。っつーか、かすってもいないのに、削り取られかねねえ』

 うん、と頷く。

『よしわかった。つまり、死ぬな俺これ。一つでもミスったら。いやぁ…………おっかねえなおい。洒落になんねえぐらい、おっかねえよクソッタレ』

 卓二は、引きつった顔でそれでも、無理やり口の端を上げ笑みを見せてやる。

「はーっはっはっはー! いいぜクソガキ! そいつが俺に当たると思うんなら幾らでもやってみろや!」

 そう言って中指をおったててやる。戦い慣れている卓二だからこその、全力挑発だ。

 この場面で一番恐ろしい、生存率が下がる行為は、卓二が少女の棍を恐れ引け腰になる事だ。

 僅かでも引いてみせれば、恐怖は全身に伝染し、体は硬直し判断は鈍る。

 だから、卓二は少女はもちろん自分自身をすら偽り、前へと踏み出す足を鼓舞するのだ。

 今すぐ背中を見せて逃げ出すなんて選択が出来ないのなら、後は前にしか道は無いのだと、卓二はこれまでの格闘技人生において学んで来ていたのだ。

 例え、経過に死の可能性が転がっていようと、だ。

 来た。妙に伸びる棍。きっと今は意味不明な程に伸びるだろう棍。それもあのガキの重心だと連撃。

 コンビネーション否定派なんて言ってマジごめん、とか心の中で謝りつつ、脇の下を通すように踏み込みかわす。

 戻りが早い。何もかもをふっきるぐらいキレてるせいか、棍先にまるで迷いがない。確実に、殺しに来ている。

 岩をも砕き、鉄すら両断するだろう棍を、最もかわしずらい胴体目掛けて飛ばしてくる。

 卓二は回りこむように少女の右側へ体を流す。これを追い棍が突き出される。

 こういう時は、フットワークではなく歩法が良い。

 純粋な速さでは軽快にリズムを刻むフットワークの方が上だが、戦いの最中、優位に立ち回る為の動きとなれば、一見遅く見える型稽古にて学んだ歩法が上だ。

 重要なのはこちらの重心を悟らせない事。そう出来るならば、次の動きが至極読みずらくなり、相手には遅いのに速いという気味の悪い印象を残す。

 突きを三つかわすと、少女は焦れたのか棍にて薙ぎにかかってきた。

 突きより遥かにかわしやすい。受けが使えない以上、避け方はかなり気を使わなければならないが。

 少女の周囲をぐるりと回る形で、攻撃を凌ぎ続ける。幾つか隙を見つけてもいるのだが、手が、足が、出せない。

『クソッ! だからっ! 怖ぇえんだよバカヤロウ!』

 杖が大気を薙ぐ音が、卓二に恐るべき予感を伝えてくる。ケンカに慣れすぎているが故に、この予感を無視しきる事が出来ない。

『殴らなきゃ勝てねえんだよ! 出せよ俺! 手を! 足を!』

 次の攻撃が低い返しの薙ぎだったら前に出ると、勝手に自分ルールを決める。

 そして、冷静さを欠いているのはどうやら卓二だけではないようで、卓二の読み通り、ぴたりの位置に棍が振るわれる。

『はええよ! お前もーちょい考えて攻撃しろいいよわかったよやりゃいいんだろやりゃああああああ!!』

 膝の高さを流れていく棍を、一跳びで飛び越える。

 過剰な程に膝を折りたたんでいるのは、まあ、怖いので仕方が無いという事でひとつ。

 卓二は空中で少女の肩に手を置き、首元に逆手を回しつつ着地。背後を完璧な形で取ってやる。

 絞め技である。が、即座に両手を離し、距離をとる。腕から伝わってくる感触が、とても絞められそうなモノに思えなかったのだ。

 しかし、こんな得体の知れない相手に絞め技などと、無謀にも程があるのだが、卓二にとっては悪くない選択である。

 腕から伝わる感触は、一番最初に触れた時と、さあ絞めるぞと力を込めはじめた時とで変化してる事に気付けたからだ。

『……こいつのクソ硬いのは、自身でコントロールする類のモノで、常時行えるってぇ訳じゃねえのか。確か中国拳法にそーいうのあったな。うん、いや、コレはそんな次元のシロモノじゃーねーが』

 そしてこちらが本命の効果。ただでさえ焦る少女が、一時とはいえ首という絶対の急所を抑えられた事に、驚き、恐怖し、錯乱する。

 後先なぞ何一つ考えない連撃が卓二を襲う。

 しかし、考えなしの攻撃なぞ、卓二からすれば誘導の良い的である。

 肩口をぶらし、足先で少し誘ってやれば、面白いようにそちらに攻撃してくれる。

 後は移動したと見せた過重を逆側にもっていき、少女の攻撃の裏より派手に一発。

 自分で惚れ惚れするようなハイキック、いや少女の場合はミドルキックの高さか、を叩き込む。

 少女は攻撃した直後の事であり、こちらの攻撃が至極見えずらい事も手伝って、鉛の塊を蹴飛ばしているような感触ではあれど、蹴り足を振りぬく事が出来ている。

 床が大きく振動に揺れる。

 そんな重要な外部情報を卓二は無視し、少女の棍に合わせ肘を打ち込む。

 僅かに、わき腹を風が触れた感覚があった。

 次なる棍の振り上げをかわしながら、攻撃機会を一度見送りわき腹にそっと手を当てる。

 服は、ある。しかし、じとっと何かが湿っている感触が。内側の肉までやられているようではないので放置。

 床の振動は続く。やはり無視。

 高い位置への突きを、仰け反りかわしつつ前蹴りを鳩尾に。顔が痛いのは、顔前を突き抜けていった棍が起こす風のせいか。

 と、大慌てで卓二はその場を飛びのく。直後、卓二が居た場所へ、細かな瓦礫が降って来た。

 仰け反りかわし、上を向いてる状態であんなのももらったら、間違いなく目をやられてしまう。

 狙ったのか、と一瞬だけ疑ったが、少女はやはりがむしゃらに棍を振るっているのみだ。

『てーか、軽々とコンクリの柱ぶち抜いてんじゃねー。そもそもその長さじゃ奥まで届くはずねーのに、貫通して向こうが見えるじゃねーかふぁっく』

 卓二は気付いていなかったが、塗り固めたコンクリートだけではなく、中の鉄筋までぶち抜いているのだ。この一撃は。

 いずれ、当たれば死ぬのは一緒なので気付く必要も無い、といえば無いのだが。

 傍から見れば圧倒的に、当人からすれば薄氷を踏むような、卓二優勢のままに戦いは続く。

 この状況を、卓二は大きく動かそうとはしなかった。現状のまま、着実に、堅実に、確実に、少女の攻撃をかわし、攻撃を加える。

 卓二の観察眼は、卓二が積み重ねているカウンターが、少しづつ、少女に影響を及ぼしている事を見抜いていたのだ。




 雨宮るるみはこれまでの短い人生で、死を意識した事が幾度かある。

 それら全て祖母との訓練中の事であった。魔法で、かつ充分な体勢を整えた上で受けなければ死んでしまう魔法を叩き込まれれば、嫌でも死を意識するだろう。

 だが、祖母の提示する死は、これに比べればわかりやすすぎた、とるるみは思う。

 こちらが攻撃すると、まるで動きを読んでいるかのように完璧な形でかわしたと思ったら、体の何処かに凄まじい衝撃が走る。

 それこそるるみは最初、他者の加勢を考えた程なのだから、完全にるるみは青年の動きを見失っているのだろう。

 そして、強い受けの姿勢でない状態で彼の攻撃を受けると、彼はるるみの魔法を貫いてくるのだ。

 体中から、鈍い痛みが響いてくる。

 殊に、頭部への攻撃をもらった時が辛い。

 気を抜けば意識が飛んでしまいそうで、それに耐えたとしても、以後も視界の端が不明瞭になる。

 ぎりっと歯を食いしばるるるみ。

『私はっ! 絶対に! 殺されたりしないんだっ!』

 ただそれだけを念じ、ありったけで彼の殺意を迎撃する。

 また、食らった。

『痛くっ! ないもん!』

 今度は横から。

『だいっ! じょぶっ!』

 更に逆横。

『……んんんっ……』

 顔を真正面から。

『…………今度、こそ……』

 わき腹に。

『…………』

 るるみは、杖を防御に用いるべきかどうか迷い、そして、守るだけでは勝てないと、もう何度も繰り返し反撃されいい加減怖くすらなってきている突きを放つ。

 多分、ここだ。

 何度も何度も何度も何度も、殴られ蹴られ、ようやく、そう思える場所が出来た。

 攻撃を仕掛け、直後彼の姿が消え、次に何処に来るか、それが、見えたのだ。

 腕は間に合わない。だからるるみは、額を彼の余りの速さにブレて見える蹴り足に叩き付けたのだ。

 当然、何処に攻撃が来るのかがわかっていたのだから、能動的防御魔法を使う事も出来た。

 彼は蹴り足を弾かれ、大きく後退していった。

『や、やった! 出来た! 見えた! 私にも見えたよおばあちゃん!』

 同時に絶好の攻撃機会でもあったのだが、るるみ自身にとっても成功が意外な部分もあり、そこまで気が回っていなかったり。

 それまで積み重ねられたダメージはそこかしこに残っている。

 しかし、前向き材料一つをこうして与えられただけで、るるみはそれまで負った怪我の痛みを忘れる事が出来た。

 実に調子の良い話であるが、るるみはそんな人体の不条理にも気付かぬまま、もう一度防いでみせると勇躍攻撃を仕掛ける。

『あ痛っ!』

 流石に連続は無理であった。

『……う、ううっ、で、でもっ、いけそうではあったし。やれるっ。私はきっと戦えるっ!』

 るるみが魔法全力で杖を薙げば、杖の更に前方三メートル前後までは叩き斬る自信があった。

 しかし、今日のるるみの杖は三メートル所ではない。

 年齢的にも発展途上であり、しかも祖母亡き後、真の意味での実戦から遠ざかって久しく、ひたすら訓練漬けであったるるみが、追い詰めに追い詰められて発揮している力だ。

 当人の予想を遥かに上回る威力を秘めており、本来ならるるみ程自制の利く子供であっても、有頂天になって然るべき場面ではあるが、何せ敵が強すぎる。

 自分が考えていたよりずっと強くなっている、そんな自覚以上に、届かぬ力に歯噛みしているのだ。故にこそ、こうして更なる力を発揮できているとも言えようが。

 青年の攻撃を防げるようになった事なぞ、るるみの進化の最たるものであろう。

 しかしそれでも尚、青年はるるみより早く、巧みであった。

 るるみの杖が床の表面を抉るのみならず、床板そのものを叩き割る程に強くなっても、鉄筋コンクリートの柱を貫くで充分であった威力が、柱を両断するまでになったとしても、これらが彼の体を捉える事はなかった。

 完全に止められるのも半分。どうにか、半分。それ以上はどうしようもない攻撃であり、青年は更にこちらの読みを上回る攻撃を矢継ぎ早に仕掛けてくる。

 るるみの視界には青年の姿しか入っておらず、文字通り必死に、彼を追い続けている。

 そんなるるみが、一瞬のみだが戦闘を忘れたのは、青年が突如後ろを見せて逃げ出したせいだ。

 彼は、どんな事があろうと最後の最後までるるみを襲い続ける。どちらかが、息の根を止められるまで。そう、妙な話だがるるみは信じきっていた。

 だから彼が背を向けた事であっけに取られた直後、脳裏に浮かんだ言葉は、裏切られた、であった。

 すぐにそれが誤解であったと気付くのだが。

「クソッタレ! お前本気でぶっ壊しやがったか!」

 彼はそう叫んで窓から外へと飛び出す。

 るるみは轟音に驚き、そして、上を見て声を漏らした。

「……あ」

 何故かそこにあるのは天井ではなく、るるみの視界いっぱいに広がる、天井っぽい何かの板であった。

 っぽいというのは他でもない。その板は、るるみの眼前すぐ側まで迫ってきており、それこそ、天井でも抜けなければこんな事起こりえないだろうと、るるみは考える。

『ああ、そっか』

 つまりそーいう事だと納得したるるみの頭上に、ボーリング場の天井が派手に降り注いで来るのだった。




 藤瀬卓二はここが三階である事を百も承知で窓から飛び出したのだ。

 一刻の猶予もなかったのもそうだが、一応、卓二にも勝算はあった。

 窓から出てすぐ外は、三階床部が外に少し飛び出す形になっており、早い話そこを掴めば落下はしないで済むだろうという話だ。

 三階の天井がぶち抜けて落下してくる中、その部位も無事だという保障は何処にもなかったが、少なくとも柱を片っ端から砕かれたフロアより、壁際にあるでっぱりの方がよほど無事である率は高かろうとの読みもあった。

 ガラス窓を蹴りでぶち破りながら、窓枠を手で引っつかみ、外へと飛び出す勢いを殺す。

 手の平がガラス片で切れてる感触があったが、今はそこに構う余裕は無い。

 すぐに窓枠から手を離し、次に目をつけていた出っ張りに両腕を伸ばす。全体重がかかる瞬間だけ僅かに眉をしかめた卓二だったが、その後は激しい振動に揺れる建物にも問題なく出っ張りにつかまり続け、揺れが落ち着くのを待つ。

 事があった時、窓から飛び出す必要もあるかもしれない。そんな事を考え部屋を使うようになってすぐ窓の外を確認したあまり意味の無さそうな自分の用心深さに、卓二は心底から感謝する。

「いやぁ、参ったなこりゃ。あのガキ流石に死んだか?」

 たった今、ありえぬ事故に自分も巻き込まれそうだったというのに、卓二の口調からどうしようもない切羽詰った様子は感じられない。

 揺れが収まると懸垂の要領で我が身を持ち上げ、その姿勢のまま器用に足を持ち上げ窓枠に引っ掛け、そのままひょいひょいと窓枠に登ってしまう。

 中は、卓二の予想を超えた惨状となっていた。

 三階の天井、つまり四階の床が抜け、どうやらこれが三階床に激突した衝撃で三階の床も抜けた模様。

 しかも三階床は少女が事前にぼっこぼこに叩き壊していた為、三階天井以上に崩れてしまっている。

 特に顕著なのが三階ボーリング場のレーンが並ぶ箇所だ。

 ボーリングのピンが並ぶ壁面はまだどうにか床がくっついているのだが、人が投げる場所付近は二階床まで崩れ落ち、床全体が大きく斜めになってしまっている。

「……器用に壊れるもんだ。ボーリングレーンの床ってな、そんな硬く出来てんのか?」

 既に卓二の言葉の端々から緊張感は抜け落ちている。

 それはそうだろう。卓二達の居たボーリング場である三階部は、半ば以上の底が抜け、二階へと落下しており、また各所に三階天井より降り注いだ当たれば致死間違いなしなコンクリの塊がゴロゴロと転がっている。

 よくよく見れば、二階も奥の方の底が抜け、一階まで突き抜けていたりする。こんな有様のフロアに居た人間がどうなったかなど、考えるまでもなかろう。

 こんな現場に窓枠に張り付く形で立っている卓二も相当危険なはずなのだが、少女が振り回す棍の恐怖に比べればそれこそこの中で昼寝でも出来てしまいそうな程の余裕を持てる。

 卓二がこのすぐ後、著しく冷静さを欠いたのも、やはり一度緊張を切ってしまったのが原因だろう。

 二階、特に瓦礫が山と積まれている場所が、僅かに揺れたかと思うと勢いよく、瓦礫の山が弾け飛んだ。

「ぷっはーーーーーー! し、死ぬかと思ったーーーーーー!」

 いや、死んどけよそこは、と脳内だけでつっこむ卓二が、僅かでも冷静さを持ちえたのはそこまでであった。

 卓二は三階窓枠から、ひょいっと室内へと飛び込む。

 位置はちょうど、ボーリングピンが並ぶ場所の少し前。期せずして出来た坂道の頂点。

「クッソガキがああああああああああ!」

 卓二はこの出来たてほやほやな急斜面を、凄まじい勢いで滑り降りていった。

 ボーリングレーンはコーティングがしてあり、つまり、ものっそい滑る。

 そこを二本足で立ったまま滑り降りるなぞ、スキーやらスケートやらの比ではないバランス感覚が必要とされるだろう。

 ましてや卓二がそうしたのは、少女に辿り着く事が目的なのではなく、少女を、蹴り殺す事が目的なのだから。

 異常に低い摩擦係数を頼りに、卓二の速度は卓二をもってすら制御不能な域へ突入する。

 少女は卓二の雄叫びにこちらを振り向く。

『反応が遅えっ!』

 その顔面ど真ん中に、卓二のありえぬ程に勢いをつけた蹴りが炸裂した。



 雨宮るるみは祖母との対戦であってすら、こうまで勢い良く吹っ飛ばされた事はなかった。

 九死に一生を得た、そんな心地で一息ついたのが、るるみ一生の不覚であった。

 上も下もわからない。あっちをぶつけ、こっちを叩かれ、もう自分が今どちらを向いているのかすら定かではない。

 更なる浮遊感。そこでようやくるるみは自分の位置を察する。

『これ、落ちたっ。一階、魔法、防がないと』

 心の中ですら片言なのは、それほど焦りあわてている証である。

 だが、この瞬間のみ、焦り度においてほんの僅かだけ、るるみは青年を下回った。

 着地を、そう考えているるるみの視界に、またも斜めってはいたが、青年の姿が映る。

 彼は何処から持ってきたのかスケボーを手に、二階床を貫き、一階にまで至っている柱をすべり下ってくるではないか。

 いやまあ、この柱がぶちぬいた穴をるるみが落下してる訳で、つまる所、彼は正確にるるみを補足しているという事だ。

『ピンチ!? ううん! ここが! ここだけが唯一のチャンス!』

 空中で体を捻り、この期に及んで手放していなかった杖を青年へと向ける。

 魔法で落下の衝撃を殺しながら、同時に杖に魔法を滾らせる。

 これこそ、予備動作の大きさからこれまで使う事が出来なかったるるみの切り札。

 杖の先端に、魔法の力が集中し、収束し、そして、閃光の帯となって一直線に青年へと放たれていった。

 直後、るるみの全身を衝撃が襲う。攻撃を仕掛けたせいで落下の勢いを殺しきれなかったのだ。

 色の筋を引いてぐるぐる回る世界を、強引に手足を伸ばして固定する。

 るるみは切り札、必殺の魔法を用いても尚、青年はまだ襲ってくると思っていた。

 だから瓦礫の向こうに吹っ飛ばされた彼に向け、るるみは再び杖を向け、瓦礫ごと消し飛ばしてやろうとより大きな魔法を込める。

 彼の姿は見えない。しかし、直撃であったはずのるるみの魔法光を浴びて尚、すぐに動けるとも思えない。

『なっ!?』

 彼は、青年は、るるみのチャチな予想なぞ、物ともせぬ男であった。

「いい加減墜ちろクソガキがあああああああああ!」

 焦ったるるみがまだ収束も済んでいない魔法を打ち放つも、瓦礫の影で助走をつけたのだろう、凄まじい速度で飛び出して来た彼を捉える事は出来ず。

 るるみの低身長より更に低くに滑り込み、矢を射るような後ろ回し蹴りを、るるみの顎に突き刺した。





 藤瀬卓二は床にひっくり返りながら、どうやっても動いてくれぬ体に内心のみで悪口雑言を並べ立てつつ、願望を口にした。

「ガキーーーーー! 死んだかーーーーーー!?」

 まさかビームを撃つとは思わなかった。まるで溶鉱炉の中に身投げでもした気分である。

 それでも、最後はもう意地とか根性とか、その辺のメンタルな何かで突っ込んで蹴り飛ばしたが、この後に続いて何かを出来るとは思えない。

 倒れた卓二から少女は見えない位置にいるようで、卓二の蹴りも利いておらずトドメを刺しに来るのならその前に声ぐらいかけやがれ、的な意味もこの叫びには含まれていた。

 返事は、無い。

 首だけを回し、信じられない程苦労しながら周囲を見渡す。

 居た。転がっている。しかし、顎を首ごと千切り飛ばす勢いで蹴ったのに、首も頭も常人の範疇な位置関係にある。

 まだ戦いは続いている。ならば、どんなに辛くても、どんなに苦しくても、立たなくてはならない。それが、武の世界に身を置く者のあり方だ。

 そう出来なければ、もう、その先は考える必要が無くなるだけだ。

 今にも奴が立ち上がるかもしれない。そんな恐怖に背を押され、それでも、たっぷり十分近くの時間をかけて立ち上がった。

「おーい、ガキー、どーしたー、不意打ちかー」

 仰向けに倒れた少女は、卓二が近寄るととても苦労した様子でこちらに首を向けてきた。

 彼女は涙を流していた。

「……おい、もう、動けねえか」

「…………やしぃ…………くやしぃ……」

 卓二を睨み付け、せめても動かぬ体にかわり心で戦って見せようと言わんばかりだ。

 この後どんな目に遭うかより、いやさ死ぬ事よりも、少女はきっと、負けた事が悔しくてならないのだろう。

 卓二にも、覚えはある。

「おい、俺の勝ちだ。だから一つ、教えろ」

 少女は無言だが、卓二は構わず続ける。

「俺は藤瀬卓二ってんだ。お前の、名は?」

 少女はやはり卓二をにらみつけたまま、一言一言、はっきりと口にした。

「あめみや、るるみ」

 そうかい、と卓二はるるみに背を向ける。こんだけ大騒ぎになったのなら警察もすぐに出張ってくるだろう。

 面倒な事になる前に、卓二はずらかる事にした。

「また来いよるるみ。次はもーちょい鍛えてから、な。今のままだったら相手してやんねーぞ」



 雨宮るるみは、これまでの事を思い出していた。

 あまり、良い思い出でもないし、思い出す度腸が煮えくり返るという言葉を心底より理解出来たが、それでも、今のるるみはこの時の思い出が全てだ。

 あれから何度も何度も夢に見て来た男、藤瀬卓二は、るるみの前でひどく驚いた顔をしていた。

「へぇ、でっかくなったなお前。中学生か?」

「……はい」

「で? ちっとは強くなったのか?」

「昔の私なら、目をつぶってても勝てます」

 藤瀬卓二はとても愉快そうに笑う。精一杯の脅し文句であるつもりだったが、笑われてしまった。

 それを、何故かるるみは不愉快だと思えず、こうでなくてはと楽しくなって来るから不思議だ。

「そうこなくちゃな。俺も死に掛けてまで修行した甲斐がねえ。わかるか?」

 藤瀬卓二もまた、同じように考えていた。それが、少しだけ、嬉しい。

「ええ、貴方も随分強くなったようです。それでこそ、です。さあ、もういいですよね。私はずっと、この時を待っていたんですから」

「おうよ! 来いよるるみ!」


 また、あの、何とも比べようのない濃密な時間が始まる。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 最高の相手との、最凶の触れあい。それは性交よりも官能的で、闘争よりも激しい。だからこそ、美しい。 [一言] 滾る。実に滾る。
[一言] 無双から来ました。 やっぱり戦闘描写が凄い。 緻密でありながらとてつもなくハイテンポ。 ブラーボーです。
[良い点] 挙動の描写と解説、視点の切り替えと心理描写、回想と場面転換が絶妙です。 不良と魔法少女が戦いました。ただそれだけなのに、なんて飽きにくい文なんだ。 [気になる点] 戦いは猛スピードで展開し…
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