急なはじまり
おっさんは走った。
休日を楽しむカップルか家族か何かそんなような人たちを掻き分け、ただひたすら走った。
脇腹が痛い。足がもつれる。座りたい。もう、いっそ、ここで・・・
「まてぇこの、じじいー!!」
後ろから野太い声が飛んできて、おっさんの折れそうな心をかろうじて繋ぎ止める。
そう、おっさんは追われているのだ。5分ほど前から―ああ、でも、そろそろ限界だ。
どこかに休める場所はなかったか?いや違う。後ろの男から上手く隠れられる場所はないか?
走りながらこの地下街の見取り図を頭に描き、安全にやり過ごせそうな場所をアレコレ思い浮かべる・・・ここから近いところだと・・・。
中年とは思えないほど機敏な動きで左に2回曲がり、すぐ脇のスタッフルームへ滑り込んだ。
そのまま壁にへばりつき掃除用ロッカーの影へ身を隠し息を止める・・・。
しばらくして、壁の向こう側で怒鳴り声と足音が通り過ぎるのを聞き、おっさんはやっと人心地がついた。
ひどく咳き込み、なかなか呼吸が戻らないが、自分が今置かれている状況について、考える余裕もできてくる。心臓の音がうるさい。
・・・一体どうしてこうなったのか。
キリキリする脇腹を押さえ、おっさんは今日の行動を思い返してみた・・・
今日は、いつもの休日の中でひときわ楽しい日になるはずだった。
40代前半独身で彼女無しのおっさんにとって、唯一の楽しみはPCソフトをいじること。
最近は人生シミュレーションゲームにはまっていた。
自分で自由に家を設計・改築したり、そこにキャラを住まわせて生活させたり・・・自分の町で色々な性格のキャラ達が恋愛したり結婚したり、生きている様子を眺めている時、おっさんは自分が一人ではないような気がして、慢性的な孤独を癒すことができた。
仮想空間に暮らす、おっさんだけの仲間たち・・・。
今日、そのゲームの追加データーが発売される!
当然、いつもより早起きをして開店と同時に売り場へ駆けこんだ。
もちろん予約もしてお金も払ってあるから、急がなくても良いのだけれど。
無事に物を手に入れて、地下街から地下鉄の駅へ向かう間、それはそれは夢の中のようなひとときだった。
早く帰ろう。一緒にHDやグラフィックボードも買ったし、急いで増設して、今日中にプレイするぞ。・・・あのキャラは新しい職業に就かせてみようかな。家も機能的にしたい。この間入っていたマンションのチラシ。あれに載っていた間取りも参考になりそうだなぁ・・・
そんな事を考えながら歩いていたので、人混みの中、何回か人にぶつかった・・・りしたのかもしれない。・・・まったく覚えていないけれど。
そんな、ふわふわした気持ちが現実に引き戻されたのは、背後から怒鳴り声が聞こえてきたからだ。
「おい、待て!おっさん!!」
突如轟く男の太い声。
何か事件でもあったかと振り返ってみれば、
スキンヘッドで肩にタトゥーがきまっていそうな筋骨隆々の男がみるみる
こ っ ち に 向 か っ て 走 っ て く る !!!
「ぅわあぁ!!!」
・・・・・・
・・・とにかく、おっさんは逃げ切った。今のところは。
自分はこの地下街を何度も通っているから、隠れられそうな場所も知っていたけれども。
もしこれが行き慣れない場所だったら、どうなっていたか考えるのも恐ろしい。
久しぶりに走ったので、まだ息が整わない。こんな事なら、もっと体力を付けておけば良かったな、と尋常ではない早さで動く心臓を上から抑えていると・・・。
「ちょっと、お客さん。ここ関係者以外立ち入り禁止ですよ。」
おっさんは死を覚悟して、振り返った。
小柄の・・・中学、いや、高校生ぐらいの少年が不審げに、こちらを覗っている。ところが、壁に張り付いて平べったくなっている涙目のおっさんの顔を見ると、ニマニマ笑って近づいてきた。
「あー!さっき走ってたおっさんでしょ。見たよ、何したんだよー。あんなおっかねぇ奴に追われるなんてさ。マジすげーな。カツアゲでもされた~?」
急にくだけた物言いになった少年は、おっさんを上から下へと見回した。敵ではないようだ。
ほっとした反動か手足から力が抜け、おっさんは袋を抱え込むようにして崩れ落ちる。
「・・・ふむ、金持ちそうには見えないな。」
「ゼーゼー・・・かっゲホガホ・・てもっ・・・ハァハァ・・・。」
「はは、何言ってるかわかんね。まぁいいや。どう?アイツ巧くまけたんじゃないの?ここ次のシフト担当がそろそろ来るから、そんなに長くいれないぜ。」
「フヒュー・・・ぃやだ・・・ゲホゲホ・・通路・・・ウェ・・・出たくない・・・。」
おっさんは、だだっ子のようにイヤイヤをして、ぎゅっと袋を抱きしめた。
今、地下街通路に出て行ったら、アイツに出くわす気がする。そして締め上げられて、ずたずたのボコボコにされるのだ。そんな目に遭う理由すら思い当たらないのに・・・。
それに比べたら、地下街閉店までここに隠れていられる自信の方が、遥かにあるのだ。後たかだか12時間ぐらい何てことないはずだ。やれる、やれるさ。
とはいえ、おっさんに自信があろうとなかろうと、部外者をこんな所に置いておくわけにはいかない。少年は優しく言い聞かせるように、提案した。
「あー、じゃぁ違うドアから出ようよ。ここじゃなくて、違うとこのさ。オレもう仕事終わったから、一緒に行ってやるよ。な?」
「う、来るな・・・離せ、離せぇ・・・ほっといてくれぇ・・・」
恐怖に駆られ、おっさんは伸ばされた手を打ちはらい、そのまま腕を振り回す。これは罠だ、罠だ、ワナだ・・・!!
「いーから、来いっ!」
「・・・はい。」
だめだ・・・もうダメだ・・・。
憑き物が落ちたように、おっさんは抵抗するのをやめ、連行されている犯人の様にうなだれて、おとなしく少年に腕を引かれていった。
てっきり地下街の別の場所に出るのかと思っていたが、まっすぐ地上に出られる道がスタッフルームにもあるようだ。一段二段と飾り気のない階段を上るたびに、おっさんの心の中に希望が生まれてくる。
そして少年が通用口の重い扉を押し開けた瞬間、蛍光灯の明るさとは又違う、白い光と外からの風が一気におっさんを包み込んだ。先ほどからの切羽詰まった心が次第に解きほぐれてゆき、同時に開放感が体中を駆け巡る・・・!!
外は眩しいくらいの青空で、地下ほどではないにしても、休日を楽しむ人や車で活気に溢れていた。
ああ、生きてる・・・
「ありがとう、ありがとう・・・。」
「いや、いいって。気にすんな。」
「いやいや、本当に助かった!是非是非、お礼をさせてくれ。」
「お礼?いらないって。なんも大した事してねーし。財布しまえよ。」
「いーや、俺の気が済まないから。君は命の恩人だから・・・・・・といっても・・・。」
そう、財布の中が賑やかだったのはゲームを買う前の話。今現在は、野口さん2人が寂しそうに顔をのぞかせている。
「・・・コーヒーでもいいかな・・・?」
そこの店の。少年は大笑いした。
「ははは。じゃ、せっかくだし奢ってもらおうかなー。」