表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
佐伯さんと、ひとつ屋根の下 I'll have Sherbet!  作者: 九曜
extra story / after story
86/109

番外編(1).「男の子?」と彼女は言った

 それは3学期に入って、いずれくる学年末考査をそろそろ意識しはじめたころのこと。

 今は夜。

 僕は自室で勉強中だった。

 取りかかるは数学。だけど、どうにも解法に自信がもてない。やっていることは一年生の範囲なのだが。少し考えた末、僕はイスから立ち上がった。

 部屋を出る。

 と、リビングには勉強の合間の休憩なのか、佐伯さんがいた。

 彼女のタンクトップにオフショルダーのトレーナーというスタイルの部屋着は、リビングに空調が効いているからいいようなものの、見る側にとっては少々寒そうに映った。

 そんな彼女は自分の座イスに座って、マグカップでコーヒーを飲んでいる。カフェオレだろう。もちろん僕のコーヒーを、などと言うつもりはない。なくなったらなくなったで、ひと声かけてくるだろうから。少なくとも一杯分は残っているはずだ。

 佐伯さんは部屋から出てきた僕を見て、「おー」とひと声。

 僕も何か返そうと思ったとき、テレビから新しいニュースが流れ、意識がそっちにいってしまった。なんでもどこかの資産家の若夫婦(といってもどちらも四十代だが)が不幸な交通事故で亡くなったのだとか。毎日のようにある、どこそこで殺人があったとか、与党と野党の思惑が云々とか、そういったニュースとは違い、少し珍しい種類のものだったので、思わずふたりして見入ってしまった。しかし、意外にあっさり次のニュースに移ってしまうと、僕たちは呪縛から解放されたかのようにテレビから目を離した。

「弓月くんも休憩?」

「あぁ、そうでした」

 言われて僕は用件を思い出す。

「今使ってなければでいいのですが、少し数学の教科書を貸してもらえますか?」

「いいよ。ちょっと待ってて」

 そう快諾して立ち上がる佐伯さん。

 彼女のボトムはショートパンツだった。いよいよ冬場とは思えない部屋着だ。自室のドアの向こうに消えた佐伯さんは、すぐに教科書を手に戻ってきた。

「はい」

 立ったままそれを僕に手渡し、またもとの位置におさまる。

「何かわからないこと?」

「そんなところです」

 佐伯さんがテーブルに身を乗り出すようにして訊いてくる。僕は彼女を見――そして、すぐに視線を戻して、受け取った教科書を開いた。

「何ならおしえてあげようか?」

「単なる確認ですから」

 僕は視線を下方向に固く固定したまま返す。

「残念」

 特に残念でもなさそうに、佐伯さん。

 やり取りはそれっきり。

 僕が目だけで佐伯さんを見ると、彼女は先ほどの構造のままだった。動いた気配がなかったので、案の定だ。

 仕方なく僕は指摘する。

「佐伯さん、その服でそういう姿勢はやめてもらえますか」

「へ?」

 彼女は素っ頓狂な声を上げる。

 ゆったりとしたトレーナーの下のタンクトップはずいぶんと大胆に前が開いているようで、前屈みになるとかなり奥まで見えてしまう。

 ワンテンポ遅れてようやくそのことに気がついた佐伯さんは、胸の前を手で押さえながら飛び退くようにして身を引いた。

「……み、見た?」

 そのままでおそるおそる問うてくる。

「見てませんよ」

 最初の不可抗力はあれど、少なくとも自発的には見ていない。

「……」

「……」

「見る?」

「見ません」

 間髪入れず答える。

「即答されると傷つくんですけどー?」

「知りませんよ、そんなこと」

 佐伯さん的にはここは傷つくポイントなのか。

 僕の言葉に口をへの字に曲げていた佐伯さんだったが、急に何か思いついたのか「きらーん」とわざわざ自分で効果音をつけつつ、表情を明るく変えた。

 立ち上がるのももどかしい様子で、立て膝のままテーブルを回り込んでくる。そして、最後には両手も床について、四つん這いの構造で僕の顔を覗き込んだ。また胸もとが大きく開き、奥にある豊かなふくらみが見えそうになる。不覚にも僕の視線は上と下を行ったりきたりしてしまった。

 そんな僕におかまいなしに――いや、むしろ手ごたえありとばかりに、佐伯さんは切り出した。

「ね、久しぶりにしようか?」

「何をですか、何を」

「もー、わかってるくせにー」

 少し顔を赤くし、照れているらしい佐伯さんは、肘で僕を小突いてくる。

「わかりませんし、何もしません」

 僕は彼女から体ごと顔を背け、再び教科書に向かった。隣から「む……」と不満げな発音が聞こえたが、無視。

 しかし、直後。

 ページをめくっていた僕の手首が、がしっ、と掴まれた。

「……何ですか、これ」

「あ、いや、触ってしまえば弓月くんもその気になるかなと思って」

 しれっとそんなことを言う。

「冗談じゃない、やめてください」

「因みに、わたしはすでにスイッチがオンです」

「知りませんと言ってるでしょう」

「……」

「……」

 そのとき傍目には、僕たちはただ単に睨み合っているように見えただろう。だけど実際には、佐伯さんは僕の手を引き寄せようとし、僕は1ミリも動くまいと腕に力を込め、ぐぐぐぐ……、と静かに熾烈な争いを繰り広げていた。

 その壮絶に不毛な戦いの終了のゴングは、テーブルの上から聞こえた電子音だった。

 ふたりしてそちらを見れば、そこには佐伯さんの携帯電話が。鳴り続けるメロディは、どうやら音声通話の着信を告げているようだ。

「もぅ、いいところだったのに」

 佐伯さんは文句をひとつ吐き出し、体を起こして端末を手に取った。……いいところ、だったか?

「もしもし、お母さん?」

 どうやら相手は冴子おばさんのようだった。

「え、今? そんなのお母さんに関係ないじゃない。ていうか、ひとりに決まってるでしょ。そんなことより何の用?」

 そうして彼女は騒々しく自分の部屋に消えていった。

 ひとりになったリビングで、僕はほっと胸を撫で下ろす。まったく、佐伯さんときたら。

 これでようやく落ち着いて本来の目的を果たせる。僕は三度教科書へと目を落とした。自信がなかったところをひとつひとつ丁寧に確認していく。

 と、程なく佐伯さんが戻ってきた。

「お母さんだった」

「そのようですね」

 彼女はいつもの場所に腰を下ろす。

「アメリカの学校で仲がよかった子からうちに電話があってね、今こっちに帰ってきてるんだって。それで久しぶりに会いたいって」

「帰ってきてる、ということは、日本人の女の子ですか?」

「ん?」

 僕の何気なく発した問いに、佐伯さんは妙なリアクションを見せた。

 それからなぜか少し考え――、

「えっと、日本人の……、男の子?」

 言いにくそうに紡いだ言葉は疑問形。

「……」

 それを聞いた僕の中に複雑な思いがよぎった。佐伯さんに悟られてなければいいのだが。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ