おまけ話:two years after
桑島聖が大学3年生にもなって一般教養の講義を取っているのは、卒業に必要な単位の取得に目処が立ったからである。つまり趣味と興味で講義を受けているのだ。
昼休み、午後最初の講義までにまだ時間があるが、桑島はすでに教室に入っていた。
「おーっす」
そこにやってきたのは友人の相原。彼がこの講義を受けているのは、未だ一般教養区分の単位が必要なラインに達していないからである。
「ずいぶんと元気だな」
桑島の目には、彼がやたらと張り切っているように見えた。ただ単に昼食直後で腹が満たされているから、というだけではなさそうだ。
「おうよ。何せこの授業はキリちゃんがいるからな」
そう言いながら相原は桑島の隣の席に座った。なるほど、そういうことか――桑島は合点がいった。少なからず縁のあるあの美少女は、この春から同じ大学に通っているのだ。
「キリちゃんってさ、この授業はいつもギリギリに入ってくるだろ?」
「そうだな」
そこはいわゆる家庭の事情である。
「知ってるか、その理由」
「ああ、それなら――」
しかし、言いかけた桑島の発音を遮り、相原は語り続ける。
「実は俺、この前、偶然知ってしまったんだよ。彼女、喫茶店でバイトしてるんだぜ?」
「……」
まぁ、当たらずとも遠からず、といったところか。
桑島は急にどうでもよくなって、かけていた眼鏡を外し、クロスでレンズを拭きはじめた。
「今度、キリちゃんがシフトに入ってるときに行ってみようと思うんだ。偶然そんなところで会ったりしたら、今以上に仲よくなれるかもしれないしな」
まだバイトの募集してるかな、などと相原はひとりで喋り続けている。
桑島は知っていた。あそこには異様にスペックの高い高校生アルバイトがふたりもいることを。反面、平日の夕方までは手薄なので、その時間帯なら使ってもらえるかもしれないが、彼の目論見は達成されないだろう。
「お前、そういうことは面と向かって"キリちゃん"と呼べるようになってから言ったらどうだ?」
「ば、ばっか。お前、言えるわけないだろ。恥ずかしい」
相原は慌てて言い返す。
彼は本人のいない場所でこそ親しげに愛称で呼んでいるが、実際に話すときは苗字にさん付けである。
「それともう少し顔以外も見ることだ」
「もちろん見てるぞ」
と、相原。
「キリちゃん、スタイルいいよな。トランジスタグラマっていうの?」
「最低だな、お前」
桑島は蔑むように言い――レンズを光に透かし、きれいになったことを確認してから眼鏡をかけなおした。
と、そこに。
「おはようございます、聖さん」
その弾むような声は、噂の彼女のものだった。
「やあ、おはよう。といっても、もう昼だけどな」
「それもそうですね。……あ、相原さんもおはようございます」
「お、おう」
相原はさっきまでの勢いはどこへやら、それだけ応えるのがやっとだった。
「今日も店の手伝い? 大変そうだね、二足のわらじも」
桑島がそう言うと、彼女は「そうでもないですよ。楽しんでますから」と笑った。
「さて、相原。この話題に入ってくる前にキリちゃんの左手を見ろ」
「ん? 左手?」
相原は桑島に促されるまま彼女の左手を見る――と、その薬指には指輪が光っていた。
それが意味するところはそう多くない。
「ゆ、弓月さん、その指輪は……?」
彼はおそるおそる訊いた。
対するキリちゃん――弓月貴理華は聡明なもので、単純にそれが何かを答えたりはしなかった。
「あ、わたし、結婚してるんです。言ってませんでしたっけ?」
「い、いや……」
相原は呆然と首を横に振る。
「これ、高校を卒業するときに彼からもらったんですよ」
芸能人の婚約会見よろしく指輪を見せつける彼女。
桑島は相原の肩を、同情を込めて叩いた。
「キリちゃんが働いてる店な、あれは彼女の旦那の店なんだ」
つまりアルバイトではなく、経営者の妻ということになる。
因みに、指輪は彼女の夫が店をオープンするにあたり、修行としてコーヒーショップでアルバイトをしていたときにためたお金で買ったものだ。
「指輪も入籍も高校を卒業してからですけど、結婚自体は1年生のときに決まってたんですよ。そのときには同棲もしてたし。今は彼と一緒にカフェをやってて――」
この後、授業がはじまるまで彼女ののろけ話は続いた。