2.「……してませんよ、そんな顔」
「弓月くんのクラス、学園祭で何やるか決まった?」
ある日の朝、向かいに座る佐伯さんが、そう聞いてくる。
ダイニングキッチンの二人用の小さなテーブルで、向かい合って朝食を食べるのは毎日の風景だ。2学期がはじまって1週間以上が経っているが、それは4月からずっと変わらない。尚、今日はフレンチトーストにトマトサラダが食卓に並んでいる。
「いえ、まだですね」
僕はフレンチトーストを飲み込んでから、そう答える。
9月の最終週の土日は水の森高校の学園祭がある。あと2週間ほどか。
「とは言え、いいかげん決めるんじゃないでしょうか。佐伯さんのクラスは?」
「なんかね、メイド喫茶なんて話が出てるみたい」
「それはまた、ある意味ベタですね……。でも、さすがに学校側の許可が下りないんじゃないでしょうか」
「わたしもそう思う」
言って佐伯さんは苦笑いする。彼女もさすがにむりがあると思っていたようだ。
一時期はブームになってテレビ番組でもたびたび取り上げられていたが、果たして、その知名度に対してあれが健全なものであると思っている人間はどれほどいるだろうか。どうにもいかがわしさが先に立って、学校は許可しないに違いない。僕にとっても理解の範囲外だ。
「メイド服だけならちょっと着てみたいとは思うけど」
思うのか。佐伯さんらしいと言えば佐伯さんらしいが。
「弓月くん、見たい?」
「きっと似合うだろうなとは思いますね」
基本的に何を着ても似合うのだが、彼女の場合、むしろこういう方面にこそ本領を発揮するような気がする。コスプレというか。
「だからといって、正直に見たいと言うと、君は家で着るとか何とか言いそうですからね」
「家で……」
すると、そうつぶやいた佐伯さんは、箸の先を口に当て、何やら考えはじめた。もしかしたら何かシミュレーションしているのかもしれない。
そして、
「家で着ても面白くないと思わない?」
「……」
ああ、そうですか。
てっきり佐伯さんのことだから、そういう発想になると思ったのだが。……わからない。彼女は予想以上に深遠らしい。
話を戻そう。
「しばらくはこの学園都市も賑やかになりますよ」
「そうなの?」
「9月の下旬から10月にかけて、毎週末、必ずどこかの高校が学園祭をやってますからね」
なにせ学園都市は教育機関が集積された街だ。小中学校、高校、大学が数多くある。聞いた話によると、学園祭の開催日が偏らないよう毎年話し合いで決めているらしい。この期間自体が学園都市のイベントなのだ。
「11月になると今度は大学の学園祭ラッシュがはじまります。一週間続けて開催する大学もありますからね。さらに賑やかですよ。去年は僕も、滝沢たちと一緒によその高校を見にいきました」
「因みに、どこへ?」
「……茜台と看護学校です」
少々言いにくい答えを口にすると、佐伯さんはむっとしたような顔になった。
「それってどーゆーチョイス?」
茜台高校はお嬢様学校として有名な女子高。看護学校は、近年男子生徒も増えてきたとは言え、生徒の9割は女の子だ。佐伯さんがむっとするのもむりはない……のだろうか。
「滝沢ですよ。行こうと言い出したのも彼なら、チケットを調達してきたのも彼です」
「あ、そうなんだ。意外」
と、佐伯さんは感想をもらしているが、案外そうでもなかったりする。彼はクールで落ち着いているが、ああ見えて女の子に対して年相応には興味をもっている。去年は僕に宝龍美ゆきの話題を振ってきたし、今年は佐伯さんの話だった。
「よその学校のことはおいといてさ――ね、うちも2日あるじゃない?」
「ありますね」
土曜と日曜。
そして、翌月曜は振り替え休日となる。
「どっちか一緒に回らない? 学祭デート」
「いいんじゃないでしょうか。お互いクラスの出しものも決まってませんが、うまく合わせて同じ日に体があくようにしましょう」
「うん、わかった」
続く会話も終始話題は学園祭のこと。
このときの僕は、これを特におかしいとは思わなかった。
学校に着き――教室に入って荷物を自分の席に置き、イスに座ったところで声をかけられた。
「おはよう、恭嗣」
僕を名前で呼ぶのは、この学校でひとりしかいない。宝龍さんだ。
僕が挨拶を返そうとすると、彼女はさらに続けた。
「そして、おめでとう」
「おめでとう?」
思わず鸚鵡返しにする。
「誕生日でしょう、今日は」
「あぁ」
そう言えばそうだった。
9月の13日。
「それを言ったら、あなたもそうでしょう。なにせ同じ日なんですから。……おいくつになられました?」
「女に年を聞くものじゃないわ」
すかさずデコピンが飛んできた。しなやかな長い指から繰り出されるそれは、思いのほか痛い。
「まぁ、僕よりひとつ上なのはわかっているから、わざわざ聞くまでもないわけですが」
「そのわざわざ聞くまでもないことを聞いて、痛い目に遭うのは何か特殊な趣味なのかしら?」
「……」
僕としてはあくまでも冗談であって、物理的反撃を喰らうとは思っていなかったわけで。
「それよりも――」
と、宝龍さんは僕の前の席、まだ登校してきていない矢神の席に腰を下ろした。
「今思い出したようなその口振り。あの子とそういう話はなかったの?」
「佐伯さんですか? ありませんでしたね」
「おかしいわね」
彼女は首を傾げる。
「忘れてるんじゃないですか?」
「自分の誕生日を忘れる男はいても、好きな男の誕生日を忘れる女はいないわ」
断言した。そんなものだろうか。
「じゃあ、佐伯さんにとって僕の占める位置がその程度だったというだけの……痛っ」
再びのデコピン。
「口に気をつけなさい、恭嗣。あなた今、愛想を尽かされても文句の言えないことを口走ったわよ」
「……以後、気をつけます」
もしかしたら今、彼女の中でデコピンがブームなのかもしれない。後で矢神にでも聞いてみよう。
「しかし、そんな話が出なかったのも事実ではありますが」
「変ね。あの子、この手のイベントは好きそうなのに」
彼女はかたちのいい顎を、二発のデコピンを繰り出した指でつまみ、視線を床に落として考え込む。
確かに佐伯さんはイベント好きだ。それを考えると、宝龍さんの言う通りおかしい気がする。ただ、今朝に限って言えばもっと大きなイベント、学園祭の話題があった。単にそれに埋もれてしまっただけのことではないだろうか。
ふと、宝龍さんが動きを止めた。もともと動いていなかったので、思考が止まったというべきか。
彼女はゆっくりと僕を見、そして、おもむろに立ち上がった。
「宝龍さん?」
「……考えてたらバカらしくなってきたわ」
ばっさりひと言。
それだけを言い残して、宝龍さんは立ち去った。
「……」
それはそうだろう。佐伯さんが僕の誕生日を忘れているかいないかなんて、宝龍さんには関係ない。莫迦らしくもなる。
去った宝龍さんと入れ違いに、矢神が姿を現した。
「どうしたの? 浮かない顔してるみたいだけど」
いきなり訊かれる。
浮かない? 特にそういう自覚はないのだけど。
「何でもありませんよ。ところで矢神、最近の宝龍さんってデコピンがブームだったりしますか?」
「デコピン?」
きょとんとする矢神。
「いえ、気にしないでください。こっちの話です」
宝龍さんの言葉が妙に後を引き、授業中もずっと同じことを考えていた。
佐伯さんは僕の誕生日を忘れているのか――
そして僕は、呪いのようにそれに囚われて、学校から帰って夕食がすんでも、未だリビングで考え込んでいる。座イスの背もたれに体を預け、垂れ流しのバラエティ番組を見るともなしに見る。
結局、先の夕食のときもそんな話はなく、佐伯さんは自室に入ってしまった。このまま今日が終わるかもしれない。
さて、どうしたものか。
それとなく思い出すよう仕向けるか。それとも「今日は何の日か知ってますか?」とわかりやすくネタを振るか。もういっそのこと開き直って「今日は僕の誕生日なんです」と言ってしまうのもいいかもしれない。なんなら「何かください」もつけるか。そこまでいけば十分に冗談として成立するだろう。
と、そこで佐伯さんの部屋のドアが開いた。
「うわ、弓月くん、まだここにいたんだ」
出てきた部屋の主は、驚きの声を上げた。
まぁ――と答える僕。確かに今日はあまり部屋に入らず、リビングに居座っているな。
佐伯さんを見る。白いショートパンツに、肩紐の細い、ピンクのノースリーブのトップス。体のラインがはっきりと出ている。いつもの部屋着姿だ。そして、相変わらず僕の誕生日など忘れてしまっている様子。
「? わたしのことじっと見つめて、どうかした?」
佐伯さんは首を傾げる。よけいなことを気にしていたせいで、無遠慮に見てしまっていたらしい。
「さては、ようやくこの格好の魅力に気づいたか。弓月くん、胸フェチだから」
「誰がですか」
「だから、弓月くんが。理由も言ったほうがいい?」
「……いえ、けっこうです」
過去の過ちを何度も蒸し返されてはたまったものではない。
「ねぇ」
一度はテレビに向き直った僕だったが、呼ばれて再度彼女を振り返る。
佐伯さんはわずかに視線を外し、何やら言いにくそうにしていた。何なのだろうか。
「どうしたんですか?」
「う、うん……」
少しだけ赤くなる頬。
「実は、夏休みのあれがちょっとよかったから、またあんなふうにしてほしいなって……」
「……」
「……」
「……さて、と」
僕は聞かなかったことにして、立ち上がった。
「部屋に戻るとしますよ」
冗談のネタにされてもたまらないが、本気の話で持ち出されても困る。
その佐伯さんはというと、
「はいはーい」
と、笑いながら手をひらひら振っている。やはりからかっていたようだ。こっちは海より深く反省しているのに。
逃げるように部屋へ入り――ふと気づく。
どうにも、らしくないことを考えているな、と。
佐伯さんが僕の誕生日を忘れているからといって、それがどうしたというのか。別に祝われたいわけでもないだろうに。
ベッドに体を投げ出し、これまでの自分を振り返ってため息を吐く。
ドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
体を起こす。と同時にドアが開き、佐伯さんが顔を覗かせた。
「弓月くん、ちょっと出てきてくれる?」
「どうかしたんですか?」
言うだけ言ってドアの向こうに消えた彼女を追って、僕も部屋を出る。
「ほら」
と、どこか自慢げに指し示されたのはダイニングキッチンのテーブル。
そこにあったのは、宙に浮くようなかたちに固定されたフラスコと漏斗。そして、それを下から熱するためのアルコールランプ。それは熱物理学的イベントを目の当たりにしながらコーヒーを抽出できる器具一式で――いわゆるガラス風船型のコーヒーサイフォンだった。
「これは……」
僕は佐伯さんを見る。
「うん、誕生日プレゼント。弓月くん、こういうの好きそうだから」
彼女は笑って言う。
その通りだ。コーヒーメーカーと違って抽出の工程がよくわかるので、実家近くのコーヒーショップでもいつもカウンタから眺めさせてもらっていた。いつか自分でもやってみたいとは思っていたが、美味しく淹れるには技術と経験がものをいうとのことで、今まで挑戦を避けていた。
「もっと早く出したかったのに、ずっとリビングいるんだから」
それは申し訳ないことをした。
「でも、おかしかったぁ。弓月くん、わたしが誕生日のこと忘れてないか心配そうに、こっちをちらちら見るんだもん」
「……してませんよ、そんな顔」
「してました♪」
佐伯さんは何やら思い出したらしく、笑いながら言い返す
「ちょっとかわいかったな」
「……」
もう反論を試みるのはやめよう。あまりにも不利だ。そして、心当たりがありすぎる。
「ね、やってみてよ」
「そうですね。わかりました」
さっそく説明書を手に取る。
眺めていても意味はない。コーヒーサイフォンは持っていて楽しいコレクションではなく、熱物理学を利用した、その工程こそ素晴らしいのだから。
さて、
サイフォンを使った初めてのコーヒーは、残念ながらお世辞にも上手く淹れられたとは言えなかった。それが佐伯さんからのプレゼントで、彼女と一緒に飲んだという点を加味しても。
研究の必要ありだな。