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2.「怖いこと言わないでください」

 完全に日常化してしまった佐伯さんに起こされる朝模様からはじまり、彼女の手作りの朝食を経て――自室で登校の準備を整えてリビングに戻ってきてみると、そこに佐伯さんの姿はなかった。

「佐伯さん?」

 と、声をかけてみるが、返事はなし。まぁ、もとよりリビングダイニングに隠れられるような場所はないので、ここにいないことは一見して明らかだ。ただ、彼女の部屋に続くドアの向こうに人の気配がする。たぶんまだ登校の用意をしている最中なのだろう。

 僕は素早く決断し、ドア越しに声をかけた。

「佐伯さん。今日は僕が先に行きますので」

「うん。わかった」

 とのこと。

 なので僕は、後のことは佐伯さんに任せて、先に家を出ることにした。

 回れ右をしてリビングを出、短い廊下を歩いて玄関に至る。

「待って待って。わたしも一緒に行くー」

 学校指定の革靴に足を突っ込んだところで佐伯さんが飛び出してきた。

 有名デザイナがデザインしたとは言え、あくまでも制服の域を出ないはずのブレザーや赤いチェックのスカートを上手に着こなし、ちゃんと制鞄も持っている。

「用意ができてたなら言ってください。先に行ってもらったのに」

 一度履いた靴を脱ぐのは面倒だ……というか、佐伯さんの狙いはまさにそこで、僕が出ようというタイミングを見計らっていたのではなかろうか。こうなったら彼女には後5分ほど待ってもらうことにしよう。

「一緒に行こ、弓月くん」

「何を言ってるんですか。冗談じゃない」

 先日は一緒に登校してしまったおかげで……いや、まぁ、特に何もなかったが。

「いいじゃない。わたしだって、ほら、もう用意できちゃってるし」

「なら君が先に行ってください」

 僕は再び玄関を上がろうとした。が、そこには行く手を阻むように佐伯さんが仁王立ちしている。所詮は2LDKのマンション。玄関はそう広くない。

「どいてください」

「ここを通りたかったら、わたしにぇろいことをしていけ」

「何をわけのわからないことを」

 そんな台詞、初めて聞いたわ。

 僕は嘆息ひとつ。

「わかりました。一緒に行きましょう」

「……そっちを選ばれると、それはそれでショックなんですけど」

 佐伯さんが半眼で睨み、つぶやく。いったいどうして欲しいんだ……とは、さすがに聞けない。恐ろしくて。

「ほら、おいていきますよ。用意してください」

「はぁーい」

 ひとまず僕が先にドアを出て、程なくして佐伯さんが靴を履いて出てきた。彼女の鍵で施錠し、ふたり縦に連なって階段を下りる。

「弓月くんと一緒に行くの初めて」

「そうですね」

 普段、この付近のこの時間帯に水の森の生徒を見かけたことはないのだが、今日に限って会うのではないかとひやひやする。マンションから一緒に出てくるところを見られでもしたら、いったい何を思われるやら。

 幸いにしてそういうことはなく、僕らは並んで歩き出した。

 どうにも落ちつかない気分だ。今歩いているこの道は、春からこちら毎日のように通っている。佐伯さんと肩を並べて歩くことは、ほとんど休日のたびにやっていることだ。どちらも別段変わった行動ではない。にも拘らず、僕はまったく知らない道を歩いている気分だった。

「こんなところ人に見られたくないですね」

「そう?」

 僕の複雑な胸のうちは露ほども知らない様子で、佐伯さんは首を傾げる。

「でも、学校前の道まで行ったら、嫌でも見られると思う」

「まぁ、そうですね」

 このまま進み、大きな道路に出たところで左に折れる。そうすればやがて水の森高校と学園都市駅の間にある交差点に出る。そこまでいけば僕らはどうあっても水の森の生徒に見られることになるだろう。

「どうなっても知りませんよ」

「それ、前にも聞いた。大丈夫、そのときは……」

 と、そこで彼女は一拍おく。

「どうにもならないかも」

「……」

 どうにかなる、とでも言うのかと思えば、すでに諦めているらしい。潔いことだ。

 すぐに大きな道路に出て、そこに沿って幅の広い歩道を歩く。程なく正面に交差点が見えてきた。直行する道は左に行けば学園都市の駅に、右に行けば水の森高校に通じている。

 交差点の信号に引っかかり、青になるのを待つ僕らの前を、左から右に水の森の生徒が流れている。その多くが僕と佐伯さんをちらちら見つつ、通り過ぎていった。さてさて、何を思っているのだろうか。

 と、そのとき、

「あ」

 佐伯さんが何やら声を上げた。

「矢神さーん」

 そして、前方の生徒の流れに手を振る。

 見れば確かに矢神の姿があった。周りにいる生徒は何ごとかと佐伯さんを見、続けて矢神へと視線を移す。かわいそうに。思いがけず注目を浴びることになった彼は、困ったような顔をしていた。

 信号が変わるのを待って向こう側に渡り、矢神と合流する。

「おはようございます、矢神さん」

「お、おはよう」

 気弱な矢神は、元気な下級生の勢いに圧倒されつつ応える。僕の方は、何となく挨拶のタイミングを逃してしまっていた。

 ひとり増えて、3人で歩き出す。

「あ、そうだ。矢神さんに謝ろうと思ってたんです」

 唐突に佐伯さんが切り出した。当然のように猫かぶりモードだ。

「クラブ勧誘会のとき、文芸部のところに寄ったのに入部しなかったから、結局ひやかしただけになっちゃって……」

「あ、いや、いいんだ。もともとそういうイベントだしね」

 矢神は佐伯さんに謝られる前に、先回りして言った。彼の言う通りクラブ勧誘会は、要するにマッチングのイベントなのだから、いちいち気にすることはない。それでも謝ろうとする辺りは、彼女の性格のよさの表れなのだろう。

「それにちゃんと新入部員も入ってきたんだ」

「そうなんですか。よかったです。矢神さんとしても一安心ですね」

「そうだね」

 面白いものだ。矢神はその性格のせいか、決してよく話す方ではない。コミュニケーション能力に問題があるわけではないが、話すときはいつも遠慮がちになる。特に異性に対してはその傾向が顕著だ。その彼が佐伯さん相手だと、ごく普通に会話をしている。これも佐伯さんに備わった能力なのかもしれない。

「滝沢君から聞いたんだけど、弓月君と佐伯さんって家が近いって本当?」

「本当ですね」

 答えたのは僕。

「ああ、だからだったんだ」

 矢神はひとり納得したようにうなずいた。

「何がですか?」

「僕、ゴールデンウィークに弓月君と佐伯さんが一緒にいるのを見かけたんだ。一ノ宮で」

「……」

 ちょっと待てと言いたい。いったいどこで見かけたというのだ? 一ノ宮なのはわかっている。問題はそのどこか、だ。ただ歩いているだけの場面ならいい。一緒に昼食を食べているところもよしとしよう。しかし、僕は人に見られたらあらぬ誤解をされそうな場所に踏み入っている。

「あ、じゃあ、あれってやっぱり矢神さんだったんですね」

 迂闊に聞き返せば墓穴を掘りそうで躊躇っていると、佐伯さんがそんなことを言った。

「佐伯さん、知ってたんですか?」

「て言っても、遠目だったし、もしかしたら?程度でしたから」

 猫かぶりのまま彼女は僕に告げる。……できればそのときに言って欲しかった。

「まぁ、いい機会だったので、彼女を案内してたんですよ」

 気を取り直し、矢神に説明する。彼がどの場面を目撃したか、もう聞くのはやめておこう。

 そうこうしているうちに学校へと到着した。

「じゃあ、失礼します」

 1年と2年では下駄箱の位置が離れているので、昇降口の入り口で佐伯さんとは別れる。僕と矢神は自分の下駄箱へと向かった。

「弓月君と佐伯さんって、こっそりつき合ってるのかと思ってた」

「怖いこと言わないでください」

 なるほど、これで疑問は氷解した。

 ゴールデンウィーク真っ只中の平日、今日のように登校途中で会った矢神は、そわそわした様子で僕から逃げていった。たぶん見てはいけない場面を見てしまった、僕の秘密を知ってしまったと思って、戸惑っていたのだろう。

 上靴を取り出し、履き替える。

「僕はお似合いだと思うけどな」

「……だから怖いことを言わないでくださいって」

 とは言え、何が怖いのか自分でもよくわかっていないのだが。

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