1(1).「どうなっても知りませんよ」
ゴールデンウィーク明けの朝、
「しばらく天気が悪いのが続くんだって」
いつものように佐伯さんに起こされ、顔を洗ってから朝食のテーブルにつくと、そう彼女が切り出した。
体をひねってリビングの方に目をやる。ベランダへ出る全面窓からは、昨日までの五月晴れはどこへやら、確かにはっきりしない色の空が見えていた。
「洗濯ものは中に干してくからいいとして、あまり雨が続くと乾かないものも出てくるかも」
「そうですね」
とは言え、毎日洗うものといえば下着類やTシャツ、各種タオルくらいのもので、その辺りは持っている数も多いから、そうそう尽きるとは思えない。
「いざとなればわたしは、下着にエプロンで対処しようと思います」
「思わないでいいです」
佐伯さんのふざけた案を、間髪入れず叩き潰す。
「新婚さんはそんならしいよ?」
「たぶん違うと思います。……まったく、どこからそんな突拍子もない考えが出てくるのやら」
それは問いではなく、単なる独り言、もしくは愚痴だったのだが、佐伯さんはすすっていた味噌汁のお椀を置いてから答えた。
「最近ね、うちのクラスの女の子の間で流行ってて、その手の本がよく回ってくるの」
「……」
なんてものが流行しているのだろうか。
「おかげでレパートリィが増えて、わたしの将来のダンナ様はきっと飽きないと思うな」
「……僕は呆れてますけどね」
レパートリィって、カラオケで歌う歌の話をしてるんじゃないんだから。
「弓月くん、どう?」
「何がですか?」
「こんな将来有望なわたし、今から押さえておく気ない?」
「……ないです、今のところ」
というか、そんなところを決め手にするって、男として最低ではないだろうか。
なんとも朝食が微妙な味になる話だな。
佐伯さんにはもっと慎みある性格になってほしいものだ。
そんなことを思った朝の風景。
部屋で登校の用意を整えて、ブレザーと鞄を持ってリビングへ出ると、そこでは佐伯さんが洗濯ものを部屋干ししている真っ最中だった。洗ったハンカチが窓にぴったりと貼りつけられているのは彼女のアイデアだ。晴れた日だと、家に帰る頃にはこれがきれいに乾いて床に落ちている。後は畳むだけだ。
干してあるものの中には、見てはいけないようなものもあるのだが、そこには触れないでおこう。以前、恥ずかしくないのかと彼女に聞いたら、
「え、なんで? 弓月くんしかいないじゃない」
と言われた。
佐伯さんの中にある相関図の上では、どうやら僕はかなり彼女に近い位置にいるようだ。
「あ、弓月くん。今日は先に出てくれる? わたしはこれ干してから行くから」
さて、どうしたものかと立ち尽くしていると、佐伯さんが先に口を開いた。
学校へは別々に行くことになっている。たいてい彼女が先で、僕が後という順番だが、そこまで強く拘る決まりでもない。
「では、そうしましょうか」
僕はブレザーに腕を通した。
「はーい、いってらっしゃーい」
「いってきます」
そうして後のことは佐伯さんに任せて、僕は先に家を出た。
マンションの前の道を通って大きな通りに出る。それに沿って歩道を歩き、学園都市の駅と水の森高校を結ぶ道に合流。
その交差点で信号に引っかかった。
僕が待っている間、片側二車線の道路を挟んだ対岸では青になっている横断歩道を渡って、水の森の生徒が左から右へと流れていく。数は多くない。予鈴までには時間があるので、登校のピークはもう少し後だろう。
一様に学校を目指す流れの中で、男子生徒がひとり立ち止まった。誰かと思えば滝沢だった。僕を見つけて、待ってくれているようだ。互いに手を上げて挨拶を交わす。
「おはようございます」
信号が青になるのを待ってから滝沢と合流した。
「さすがクラスの副委員、早いですね」
「クラス委員は関係ないよ。単なる性分だな」
彼は苦笑混じりに返してきた。
僕らは並んで歩き出す。
「お前の方は、今日は佐伯君と一緒じゃないのか」
「滝沢……」
僕はため息混じりの発音をした。
以前、滝沢は妙な誤解をしていたようだったが、それに関しては、佐伯さんとは家が近くて会う機会が多いだけで、そんな関係ではないとして、きちんと説明しておいた。それで納得してくれたはずなのだが。
「わかってるよ。冗談だ」
「あまり面白くない種類の冗談です」
ところが、この直後、さらに冗談ではない事態が起こってしまった。
「おはようございます。滝沢さん、弓月くん」
透き通るような、涼やかな声。
その声の主が後ろから駆けてきて、声をかけるなり僕の横に並んだのだ。言うまでもなく佐伯さんだ。
「噂をすれば何とやら、だな。……おはよう、佐伯君」
滝沢は上級生らしい余裕のある態度で応じた。が、僕の方は少々気が動転していた。
あれほど外では声をかけないよう言って、佐伯さんもそれなりに守ってくれていたのに。なぜそれを今になって翻してきたのだろうか。しかも、こんな堂々と。
「どうした、弓月。挨拶くらいしたらどうだ」
「……おはようございます」
何が悲しくて同じ挨拶を二度もしなくてはいけないのだろうか。
「はい! おはようございます!」
佐伯さんは僕の方に顔を向け、改めて返してきた。
嬉しそうな、元気のいい響きだった。きれいな髪の美少女に相応しい。家で莫迦なことを言ったりやったりしている姿は微塵も見られない。まるで別人だ。
「……佐伯さん」
僕は落ち着かない気分になっているのを自覚しながら、彼女を呼んだ。
「前にも言いましたが、僕に近づかない方がいいです。僕はあまり評判のよくない人間ですから」
「知ってます。でも、わたし、そうじゃないって信じてますから」
彼女は気持ちよく言い切った。
信じてるも何も、本当のことを知ってるはずなのだが。
「滝沢さんもそう思いません?」
「うん?」
僕を飛び越え、滝沢へと話が振られる。
「滝沢さん、去年も弓月くんと同じクラスだったんですよね? 弓月くんって、そこまでひどい噂が立つような人じゃないと思うんです、わたし」
「そうだな。確かに俺もそう思ってるよ。あの頃、弓月が触れて欲しくなさそうだったから、こっちもあえて首を突っ込まなかったが。……どうなんだ、弓月」
そして、一周回って僕のところに戻ってきた。
「……火のないところに煙は立たぬ、と言います」
「それは答えじゃないな」
「大丈夫、わたし、信じてますから」
再び佐伯さんが、反対側から天真爛漫な笑顔を見せながら言った。そんな彼女に、僕は睨むようにして目を向ける。
「どうなっても知りませんよ」
いったいどういう意図があってこんなことをしているのかは知らないが、悪評のある僕のそばにいて嫌な思いをするのは、きっと彼女だ。
しかし、佐伯さんは滝沢には見えないように、意地の悪そうな顔で舌を出して見せた。
それが答えらしい。