人間の魂を搾取する聖域
午前四時三十五分。都内の一等地にある雑居ビルの一角で、カタカタという乾いたタイピング音だけが延々と響いていた。
机の上には、飲み終えたエナジードリンクの空き缶が墓標のように乱立している。
灰皿には吸い殻が山盛りになり、モニターの青白い光が、三日連続で風呂に入っていない男の青ざめた顔を照らし出していた。
男の名前は、神谷健人。三十四歳。
新進気鋭のライトノベルレーベル『ダンアツ文庫』でチーフ編集者を務める彼は、今、まさに己の命を削ってキーボードを叩いていた。
「……くそっ。なんだこのプロット。主人公の性格が前巻と言ってることが完全に矛盾してるじゃないか……しかもヒロインの口調もブレまくってる……」
充血し、血走った目でモニターを睨みつけながら、神谷は重い呻き声を上げた。
彼が今、睡眠時間を削って執筆しているのは、自分自身の小説ではない。
ダンアツ文庫が誇るミリオンセラー作家、天道ハルの最新刊の原稿である。
天道は、売れっ子になった途端に極度の天狗になり、プロットの提出も遅れに遅れた。
挙げ句の果てには、締め切り三日前に数ページの箇条書きメモだけをメッセージアプリで送りつけてきたのだ。
『スランプで全然筆が進まないッスわー。あとは神谷さん、いつものようにいい感じに膨らませといてください! 俺、ちょっと気分転換にハワイ行ってきます!』
そんなふざけたメッセージと共に、ハワイの青い海と水着美女の画像が送られてきたとき、神谷は怒りを通り越して眩暈を覚えた。
本来であれば、作家を説得して書かせるか、最悪の場合は刊行を延期してクオリティを担保するのが編集者の仕事だ。
しかし、ここダンアツ文庫において、編集者に「延期」という選択肢は存在しなかった。
『神谷ァ! 天道の新刊、絶対に落とすなよ! うちの屋台骨なんだからな!
穴を開けたらお前、どうなるか分かってるだろうな! 魂を込めて、お前が血反吐を吐いてでも原稿を完成させろ!
徹夜すれば時間は無限にあるんだからな!』
深夜二時に送られてきた、社長からのグループチャットへのメンション。
ダンアツ文庫の創設者であり、絶対的権力を持つワンマン社長、小田原鯱彦――業界での通称『オタシャチ社長』からの至上命令である。
オタシャチは業界内でも有名な「アナログ・人間至上主義者」だった。
「小説は人間の血と汗と魂で書くものだ! 最近流行りの生成AIなど、クリエイターの風上にも置けない無機質なゴミのやることだ!」
事あるごとにそうメディアで公言し、ダンアツ文庫の応募要項にも『AIによるテキスト生成物の使用は一切禁止。発覚した場合は即刻法的措置を取る』とデカデカと明記している。
その徹底した「反AI」「クリエイターの魂を尊重する」というブランディングは、昨今のAI推進の波に抵抗感を持つコアな読者層から熱狂的な支持を集めた。
そのおかげで、ダンアツ文庫は弱小レーベルから一気に中堅、そして大手へと押し上げられたのだ。
しかし、その美しい理念の裏側にある実態は、地獄のようなブラック企業だった。
「人間の魂」という言葉を都合よく解釈し、オタシャチは編集者たちに無限の自己犠牲を強いていた。
休日出勤は当たり前、深夜の呼び出し、理不尽な恫喝。
作家に対する手厚いサポートと称して、神谷のようなベテラン編集者にゴーストライティングまがいの大幅な改稿を押し付けることも日常茶飯事だった。
「……魂、ね。随分と安っぽい魂だ……」
神谷は自嘲気味に呟きながら、冷え切った缶コーヒーを胃に流し込んだ。
ストレスで胃がギリギリと捻れるように痛む。
天道の残した破綻した数ページのメモを元に、神谷が自身のこれまでの経験と、十年間の激務で培ってきた「編集者としての絶対的なロジック」をフル稼働させて、なんとか一冊の物語として縫い合わせていく。
当然、AIなど一切使っていない。純度百パーセント、神谷健人の血と汗と削られた睡眠時間で編み出されたテキストだ。
「……よし、できた……!」
朝焼けが雑居ビルの窓を赤く染め始めた頃、神谷はようやく『天道ハル最新刊』の最終章を書き上げた。文字数にして十万字。
三日間の徹夜作業の結晶だった。
そのままキーボードの上に突っ伏し、泥のような眠りに落ちる。
これで、なんとかなる。レーベルの看板を守ることができた。
その時の神谷は、まさかこの後、自分が会社からすべての責任を負わされて見捨てられることになるとは、夢にも思っていなかった。
* * *
それから一ヶ月後。
ダンアツ文庫の役員会議室は、まるで葬式のような重苦しい空気に包まれていた。
上座に座る恰幅の良い男――高級スーツを着崩したオタシャチ社長が、分厚い手でマホガニーの机をバンッと力強く叩いた。
「神谷! これは一体どういうことだ!! 貴様、説明しろ!!」
オタシャチの怒声が、びりびりと会議室の空気を震わせる。
他の若手編集者たちは怯えて下を向いている。
神谷は、目の前に投げ出されたタブレット端末を見た。
画面には、SNSのタイムラインと大手通販サイトのレビュー欄が映し出されている。
そこに並んでいたのは、昨日発売されたばかりの『天道ハル最新刊』に対する、読者からの辛辣な酷評の嵐だった。
『今回の新刊、なんだこれ。主人公の性格変わりすぎじゃない?』
『展開が無理やりすぎる。前の巻の伏線全部投げ捨ててるし、意味不明』
『文章がなんか平坦というか……今までの天道先生の熱意が全然感じられない』
『まるで魂がこもっていない。適当にAIにでも書かせたんじゃないの?』
完全な大炎上だった。
神谷は血の気の引く思いで唇を噛んだ。無理もない。
破綻したプロットを締め切りギリギリでなんとか小説の形にしたのだ。
矛盾をなくし整合性を合わせるだけで精一杯で、天道本来の持ち味である「エモーショナルな熱量」まで神谷が完全に真似て再現することは不可能だった。
「申し訳ありません……」
神谷は深く頭を下げた。
自分が書いたとはいえ、クオリティコントロールに失敗したのは事実だ。
「申し訳ありません、じゃねえよ! 我が社の看板に泥を塗りやがって! 天道先生からも今朝、激怒の電話がかかってきたぞ!『編集の神谷が、俺の完璧なプロットを勝手に改悪して台無しにした』とな!!」
「なっ……!?」
神谷は弾かれたように顔を上げた。
「勝手に改悪、ではありません! 天道先生が締め切り直前に数ページの穴だらけのメモだけを残して連絡を絶ったため、私がなんとか刊行に間に合わせるために補ったんです! そもそも先生の初期構想の時点で破綻して……」
「口答えするな!! 先生のせいにする気か、この三流編集者が!!」
オタシャチの怒号が再び響く。唾が飛ぶほどの剣幕だ。
「だいたいなんだこのネットの感想は! 『魂がこもっていない』『AIに書かせたよう』だと!? 弊社が一番大切にしている『反AI』『完全ヒューマンメイド』の理念を真っ向から否定されるような言われようじゃないか! レーベルの根幹を揺るがす大問題だぞ!」
「社長、それは読者の比喩表現であって……私は決して、AIなど使っていません。あの原稿は私が三日間徹夜して、一文字一文字自分でタイピングして……」
「嘘をつけ!!」
オタシャチは立ち上がり、太い指で神谷の顔を指差した。
「お前ほどのベテラン編集者が、こんな魂の抜けたような薄っぺらい文章を書くわけがない! 俺にはわかる! お前、楽をするために『生成AI』に原稿を書かせたな!?」
「……はい!?」
神谷は耳を疑った。あまりに飛躍した、無茶苦茶な論理に一瞬言葉を失う。
「ち、違います! 断じてそんなことはありません! 会社のパソコンのログを見ていただければわかります! 私は……!」
「うるさい! 天道先生の素晴らしいプロットがこんなゴミみたいな文章になるのは、お前が横着をしてAIという悪魔のツールに頼ったからだ! そうに決まっている! 言い逃れは許さんぞ!」
オタシャチの目は血走り、異様な興奮状態にあった。
その目を見た瞬間、神谷は悟った。
オタシャチにとって、真実などどうでもいいのだ。
看板作品が大炎上した。そのスケープゴートがどうしても必要だった。
そして、「神谷が勝手にAIを使ったせいだ」という理由にすれば、オタシャチ自身の「AIは悪、人間が一番」という持論を世間に向けて補強する材料にすらなる。
「AIを使った不届きな社員のせいで作品が汚された」と発表すれば、天道の名誉は守られ、オタシャチのプライドも守られる。
すべての責任を、神谷健人という一人の社員に背負わせれば、会社としては一番ダメージが少なくて済む。
オタシャチは、瞬時にその保身の計算を弾き出したのだ。
「弊社はAI生成物を一切認めていない! それを破ったのだから、これは重大な契約違反、いや背信行為だ!」
「社長、お待ちください! そんなでっち上げで……私はこの十年間、会社のために!」
「でっち上げとはなんだ! 読者が『AIが書いたようだ』と言っているのが何よりの証拠だろうが! 顧客の言葉こそが真理だ! お前はクビだ! 懲戒解雇処分とする!」
オタシャチは、汚いものを見るような目で神谷を見下ろし、吐き捨てるように言った。
「業界内の各社にも通達を出させてもらうぞ。お前は『AIを使って作家の作品を台無しにした最低の編集者』だとな。うちの顧問弁護士も動かす。もう二度と、この出版業界で生きていけると思うなよ」
「……っ!」
神谷の目の前が真っ暗になった。
この十年間。自分の青春も、私生活も、すべてを犠牲にして本を作るためだけに捧げてきた。
作家のワガママに付き合い、社長の理不尽なパワハラに耐え、ただ面白い本を読者に届けるために、身を粉にして働いてきた。
その結果が、これか。
自分が身を削って流した血と汗を、「AIが書いた機械の文章」と切り捨てられ、すべての罪を被らされて業界から追放される。
反論しようと口を開きかけたが、喉の奥が引き攣って声が出なかった。周囲の若手編集者たちは、誰一人として神谷と目を合わせようとはしなかった。
* * *
その日の午後。季節外れの激しい雨が降っていた。
神谷は、わずかな私物の入った段ボール箱を抱え、会社のビルから裏口を通って放り出された。
すでに業界のネットワークには、オタシャチの手回しによって神谷の悪評が凄まじいスピードで回っているはずだ。
AIに対する拒絶反応が強い現在のエンタメ業界において、「作家の原稿に勝手にAIを使って炎上させた編集者」など、どこの出版社も雇うわけがない。
三十四歳。職なし。キャリア崩壊。積み上げてきた人脈も信頼も、すべてゼロになった。
冷たい雨に打たれながら、神谷はふらふらと駅に向かって歩き出した。
『小説は人間の血と汗と魂で書くものだ!』
オタシャチの得意げな言葉が、脳裏にリフレインする。
ならば、自分がすり減らしてきた命は、魂ではなかったというのか。
理不尽な労働を強いておいて、いざとなればトカゲの尻尾切り。
平気で嘘をつき、他人の人生を狂わせる。それがお前たちの言う「素晴らしい人間の魂」なのか。
「……ふざけるな……」
神谷の胸の奥で、どろどろとした真っ黒な感情が渦を巻き始めた。
絶望は、やがて温度を持った激しい『怒り』へと変わっていく。
俺を否定したな。俺の血の滲むような努力を、魂のないAI呼ばわりして切り捨てたな。
ならば、見せてやる。
お前たちが心の底から毛嫌いし、恐れている、本物の『AI』の力を。
ずぶ濡れのままボロアパートに帰り着いた神谷は、部屋の明かりもつけずに、私用の高スペックパソコンの電源を入れた。
暗い部屋の中で、モニターの放つ光だけが、復讐心に静かに燃える神谷の瞳を照らし出す。
「……AI。いいだろう。俺の持てるすべての『編集スキル』を、最先端のAIに叩き込んでやる」
神谷の指が、キーボードの上で静かにポジションを取った。
これは、すべてを奪われた元・社畜編集者による、反撃の狼煙だった。
誰よりも物語の構造を理解し、読者のニーズを知り尽くした男の『ディレクション能力』。
そして、圧倒的な速度でテキストを組み上げる最新鋭の『生成AI』。
そのふたつが完全に融合したとき、古い体質に縛られた出版業界を根底から揺るがす、前代未聞の復讐劇が幕を開ける。




