14.廃墟にて
今となっては、めったと人の姿を見かける事もなくなったある旧街道のそばに、かっては栄華を誇った城下跡があった。
街道から分かれた脇道が登ってゆく小高い丘の上には、壮大で立派であったろう城と城壁の跡が残っており、城跡の隣には、どういうわけか今でも、美の女神ウーナを祭った神殿だけが、たいして傾きも崩れもせず、昔の姿そのままにひっそりとたたずんでいた。
そしてその神殿には、今でも“住人”がいた。それも一千年も前からの住人が。
神殿を含めた廃墟の周りには民家もなく、丘の麓の旧街道同様、いつもならそのあたりは、全くと言っていいほどひとけがなく寂しく静まりかえっているのだが、しかし、その日は、廃墟から少しばかり難れたところにある村で行われている春祭の賑わいが風にのり、神殿にまで聞こえてきていた。
と、その中を、廃墟に生い茂る野草を踏み分け、神殿へとやって来た者があった。
それは聖職者の様にも見える黒ずくめの服装をした、黒髪の若い男であった。
男は優しげな笑みを浮かべた、端麗な容姿をしていた。だがその笑みには何やらぞっとする様な、得体の知れない悪寒を感じさせられるものがあった。
男はこの世の中のたいがいの物事に飽食しきっていたが、この神殿の主は、彼をその退屈からひとときの間解き放ってくれる数少ない相手であったため、彼は気がむくとは時々、ここを訪れていた。
黒髪の男は神殿の中へと入り、あたりを見回した。薄暗い神殿の奥には、いつもと変わらず祭壇中央に女神ウーナ像が祀られ、その左の壁には巨大な肖像画がかけられていた。
肖像画に描かれているのは、まだ少女の様なところを残した、慈愛に満ちた穏やかな表情の若い女性であった。だが、その女性の顔の左半分には……
と、
(おや)
その神殿の中を眺め、男はふと気づいた。
そう頻繁に人が訪れる事のない神殿に、その日は彼以外にも訪問者がいるようであった。
「巫女姫様も来ればいいのに」
神殿には三人の人影があり、そのうちの二人は、まだ幼い男の子と女の子で、男が見っめているなか、男の子は、肖像画の前に立つ、三人目の人影の、質素な白い衣装の女性に言った。
男の子の言葉に、女性は困った様な笑みを浮かべて笑った。そしてその女性というのは、彼女の後ろの肖像画の人物にそっくりであった。いや、それはそっくりというよりも……
(かわいい先客というわけか)
二人の子供の姿を見つめ、黒髪の男は口の端に、女性と同じ様に笑みを浮かべた。だがそれは女性の微笑みとはちがった、あたたかみというものが全く感じられない笑みであった。
「あ、そうそう。それでね」
神殿の入口で自分たちを眺めている者にまだ気がついていない様子で、女の子よりも二つほど年長らしい男の子が、自分の手に握っていた小袋の中身を、女性に差し出した。
「これ、お祭りの屋台で買ってもらったんだよ。姫様にもあげるね」
男の子が差し出したもの(それは琥珀色をした、幾粒かの飴玉だった)に、女性は再び
「まあ」
と笑みを浮かべた。
「ありがとう。本物の宝石みたいね」
彼女はもう飲食といった事には無緑となって久しいのだが、それでも男の子の言葉に、女性は嬉しそうに言った。
「お祭りは、今日一日やってるんだって。おつとめが終わったら、巫女姫様もお祭りに来てよ。村の人たちだって喜ぶよ。きっと」
男の子は再び熱心に、女性に言った。しかし、それには彼女は困った様な笑みを浮かべるだけであった。と、その時、
「?」
男の子は神殿の入口で自分たちを見つめる姿に気づき、ふと振り向いた。黒い衣装のその姿は、男の子がこのあたりでは見かけた事の無い姿であった。
彼は大人たちから、巫女姫様のお仕事の邪魔をしてはいけない、といつもきつく言われていたため、お客らしい者の姿に彼女の邪魔にならない様、もう帰らなければと思った。
「じゃあね、巫女姫様。きっと来てね」
それで男の子は女の子の手を引き、神殿から出て行った。
そして入口でその男とすれ違う時、男の子は礼儀正しく、男にぺこりと小さな頭を下げた。
「まあ、いらっしゃいまし」
二人の子供を優しい笑顔で見送ってから、女性は男にも同様の笑みを向けた。
「お久しぶりです。また御目にかかれて光栄です。巫女姫殿」
その彼女に、黒髪の男は優雅に、やや芝居がかった仕草でうやうやしく頭を下げた。
「まあ、私の様な者にその様な事をなさるのは、おやめ下さいまし」
それに彼女は顔を赤らめ、言葉とはうらはらな、いっそうの笑顔となった。
「いえいえ」
それに、男はまたも芝居がかった様子で首を振った。
「姫の清らかさと慈悲深さの前では、我等など、その神々しさに塵と化してしまいますよ。あの様な幼子たちでさえ姫をお慕いするのは、ひとえに姫様のそのご慈愛の深さからでありましょう」
彼は女性を見つめ、ますますぞっとさせられるような、くせのある笑みを浮かべた。そして屈託のない、彼女の優しい笑顔に、彼はいつもの様に思った。
(本当に、なんとも惜しいものだな)
(これだけの美しい顔だというのに)
彼が見つめる、その女性の顔の左半分は、肖像画に描かれている通りの――ひどい赤痣に覆われていた。
しかも、痣となっているのは顔ばかりではなく、頭の先から足の先まで、身体の左半分すべてに、黒みをおびた、大きな赤痣が浮いているのだった。
しかし彼女は、自分でも最大の悩みの種となっているであろうその赤痣を隠そうともせず、また、気にもしていないといった様子で、彼と向かい合っているのだった。
『どうしてそのいまいましい痣を今もそのままにしているのです?美しいあなたには、それこそ不似合いすぎますよ』
と以前、彼は彼女に言った事があった。が、
『いいえ』
それに彼女は、彼でさえかなわないような、気高い笑みを口元にたたえて言った。
『これはあの遠く過ぎ去った短い日々の中で、たしかに私はこの世に生きていたというあかしですから』
男は、彼女の肖像画の下の、彼女の生前から没後について書き記された金の碑の内容以上に、一千年に渡ってこの神殿の主である彼女の事をよく知っていた。
<王女イナンナ>
碑文にはそう記されていた。
<第十二代カガート五世庶子にして女神ウーナ神殿の巫女。ウーナ神殿の巫女イルフィルを父王カガート五世が凌辱した事により、この世に生を受ける。美と貞節の女神の巫女を犯した父王の大罪は、王女イナンナの赤痣として現れ、終生消えぬ神の怒りの天印となった。
が、その反面、王女イナンナは“癒し手”の神力に恵まれ、人々の病と傷を癒し、ウーナ神殿の巫女となり、後にはウワァフ·フフウの森の大蛇の悪しき魂をも癒して昇天させ、さらなる強大な霊力を大蛇に与えられた。
第三次マーノ·ランダ戦時、城内に攻め入ったカスバスタ軍の手にかかり、現身は若くして滅びるも、その魂はすぐに骸の上によみがえり、城内に攻め入った敵軍の上に、燃えさかる雪を降らせて民を守り……>
碑文の内容は、事実をほぼ正確に伝えていた。とはいっても、彼女がこの世に生を受けたあの時より、ずっと彼女の事を知っている彼にしてみれば、いくらか修正すべき箇所はあったが。
彼女――王女イナンナは、彼女の父王が、以前から魅かれていた美貌の巫女イルフィルを乱暴した結果生を受けた事には間違いないが、しかしその父王の狼藉は、父王が自分で色情の魔と化したのではなく、実のところは、興入れして五年しても世継ぎに恵まれず、王の心離れを気に病んだ王妃が王の酒に媚薬を盛り、その媚薬があまりにも強すぎたため王は乱心し、あろうことか巫女イルフィルを、このウーナ神殿のウーナ像の前で犯すといった騒動になってしまったのだ。
それに、彼女があの物欲に捕らわれた哀れな老いぼれ大蛇の最後を看取り、成仏させてやったのは間違いないが、彼女はその引換えに何かを願う様な、厚かましい事はしなかった。
たしかに彼女自身、死後も、魂だけはこの世に残って世の中の人々を見守っていたい、という誠に聖女にふさわしい願いは持っていたが。
しかし、二十五歳という若さで早世した後も、現在にいたるまで彼女の魂がこの世に留まっていられるのは、大蛇から授けられた霊力などというもののお陰ではなく、彼女自身が自分で目覚めた力によるものだ。
“燃えさかる雪”を降らせたというのも、もちろん彼女のした事ではない。
“癒し手”としての力はすぐれているにしても、彼女にはその様なあやかしを見せる事の出来る力はない。あれは、実のところは……彼がした事であった。
城内に殺到してきた隣国の兵士たちにおびえ、彼女に助けを求めてウーナ神殿へとやってきた者たちを守ろうとして敵刃にかかり、それでもなお幽体の姿と化して、人々の前に現れた彼女を少しばかり助けてやろうと、その時降りしきっていた雪が、あたかも炎を上げて降りかかってきている様な幻を、彼が人間どもに見せてやっただけの話だった。
(とはいってもまあ、我が息子が仔蛇にかけた幼稚なまじないの結果が、彼女の力をより知らしめる事になったのはたしかだが)
自分の集めた光りものに固執するあまり、その宝の山をとぐろの下にかかえたまま、瘴気まで放つ魔物と化してしまったのは、あの大蛇がまだ小さな仔蛇だった頃、己の光りものを盗もうとする者には呪いあれと願った思いを、やはりまだ幼かった彼の息子が面白半分にかなえてやったのが、そもそもの事のはじまりだったのだが……そのあさましい思いは、他の者に呪いをかける以上にあの蛇自身を呪縛する事となり、寿命が尽きかけていながら、自分の宝の山への執着が魂をこの世につなぎ止め、そしてその呪縛からイナンナが大蛇を解き放ってやったのだった。
「巫女姫」
彼はふと口に出した。
「それにしても、いつまでもこんな崩れかかった神殿になぞいらっしゃらないで、美しく気高いあなたに、もっとふさわしい場所にいらっしゃればいかがです?たとえば天界のかぐわしい花園など」
「まあ、あなた様まで、そんな事をおっしゃるのね」
それにイナンナは苦笑した。だがその笑みは、すぐに悲しげな表情の中へと消えてしまった。
「……でも私は、まだこの世から去る事が出来そうにありません。この世からは、まだまだ怪我も病も無くなりそうにはありませんから。
さきほどのあの子たちもそうでした。去年、この一帯に熱病が流行った時、あの子たちはその病で母親を亡くしてしまいました。あの子たちの父親と、あの子たちはなんとか助ける事が出来ましたが、もう少し手当てが早ければ、あの子たちの母親も助ける事が出来ただろうと思うと、自分のこの力の足りなさが残念でなりません」
「おお、姫はいつもなんとお優しい」
彼女の言葉に、黒髪の男はさも感嘆しているかの様に言った。
が、彼の容姿が端麗なためか、不思議な事にその芝居がかった様子は、少しも嫌味が無いように見えるのだった。
「しかし、この世の人間たちの不幸すべてを、たったお一人で背負おうとしてはなりません。姫のお力がどんなに偉大なるものであっても、姫お一人にはやはり荷が大きすぎるのです。どうかご自分をお責めになりませぬよう。
それにしても……さきほどのあの子供たちと言えば、あの子供たちにはこの私の姿が見えていた様ですね。幼子の心というものはまこと天使の様に無垢で清らかと言われておりますが……」
と、なおも男が言葉を続けていると、
「失礼」
という凛とした声と共に、二人の前に、もう一人の白い姿が現れた。それは、イナンナと向き合っている黒髪の男とは対照的な、やはり聖職者の様にも見える白衣をまとった、淡い金髪の男だった。
そしてその金髪の男は、黒髪の男に気づくや、驚きの表情を浮かべて言った。
「ルシフェル……?!」
「おや、噂をすれば、というやつだな」
それに黒髪の男は、イナンナに向けていた笑みとはまた違った薄笑いを浮かべた。
「おまえが何故こんなところへ!?」
「それは随分な御言葉だな」
金髪の男に、黒髪の男は言った。
「私は巫女姫殿の心からの信奉者でな。こうして時々、姫の道化を務めさせていただいているのさ」
黒髪の男はイナンナの後で、いっそう大仰な様子で優雅に膝をついた。
「黙れ!天界より追われたあげく、魔族となりさがった堕天使めが!」
それに金髪の男は声を上げた。
「やめろというのに」
不快そうに眉を寄せ、黒髪の男は言った。
「ご婦人の前で何という失言。姫、この無知なる者を、どうぞお許しあれ。今の天使どもときたら、天界で安寧な平和を貪っているばかりで、礼儀というものをまるで忘れてしまったようですね」
黒髪の男は口元を歪め、くすくすと笑った。
その挑発に、金髪の男はますます怒りをあらわにした。が、賢明にも彼は言葉を喉元の奥に詰め込んだままにした。
「失礼、どうかお許しを、イナンナ姫。……私は智天使カリュウト、天界よりの使者として御前に参りました」
彼は黒髪の男に向けての言葉を呑み込み、改めてイナンナに挨拶をした。
「智天使ね」
その言葉に黒髪の男は、鼻をならした。
「神の御心を独占しようとした、この裏切り者どもめが」
それに金髪の男はまたも怒りに顔を紅く染め、それこそ相手を呪殺できそうな視線で黒髪の男を睨んだ。
「ようこそおいで下さいました」
黒髪の男――かの“天界大騒動”で智天使たちに天界を追われた元熾天使にして、今や悪魔族の王であるルシフェル、が天界の者たちをからかうのはいつもの事なため、彼がまたも天界の使いを激怒させないうちにと、イナンナは困り顔の上に笑顔を浮かべ、二人の間に割って入った。
とはいっても、彼女が天使に気を遣うのは、何も天使の機嫌をとるためではなかった。
彼女のところに時々訪れる天使が、ルシフェルにからかわれて怒髪をつくたび、天使たちは最後には稲妻やら霊光やらを神殿いっぱいにはじかせ、神殿のそこかしこを吹き飛ばしてくれるので、彼女にしてみれば、今度こそはこの古びた神殿が崩壊するのではないかと、気が気ではないからであった。たしか世間では、そういった破壊行為をするのは、たいがいは悪魔族のはずなのだが。
しかし、騒動を起こすのはルシフェルではなく、いつも天使たちのほうだった。
「私に出来ることであれば、何なりとお申しつけを」
今日はまたどういった騒ぎになるのだろうかと思いながら、イナンナは言った。
「おお、それは以前から私どもが何度も申し上げておりますように」
ルシフェルの視線を気にしながらも、天使はなんとか平素な表情を作りながら言った。
「姫にはなにとぞ天界へとおいで下さいますよう、お迎えに参った次第にございます。姫がこの世の者ではなくなってすでに一千と余年、姫がこの世に留まるるは、この世のさだめに反する事と、姫もよく御存知のはず。姫のごとき清き魂なれば、天界へと昇界なさるは当然の事と……」
「わかっておらぬなあ」
それに、ルシフェルはまたも口をはさんだ。
「まあ阿呆な天使どもにはわからずとも、無理はないのかもしれぬがな」
うすら笑いを浮かべているルシフェルに、カリュウトは今度も憎悪をあらわにした表情で、ルシフェルを睨みつけた。
「お優しい姫は、この世に哀れな者たちがいるかぎり、自分だけさっさとお前たちの結構な天界へと行く様な事はお出来になれないのさ。その事においては、いつもそのお優しいお心を痛めておいででね」
「姫のお心内までも、よく知っているとは。全く姑息な魔族らしい取り入り様な事だ」
己も負けじと、カリュウトは相手を侮蔑した口調で言った。そして、
「しかしもうそれ以上、姫に近づく事は許さん。さあ、さっさと立ち去るがよい。でなければ、今ここで、私が神の御名において、お前を光の中に浄化させてくれる……!」
と言うや、彼は背中の白い翼を広げ、自分の周りを白くまばゆい光で輝かせはじめた。
「ふん。やめておけ」
だが、その神々しい輝きを鼻で笑い、面白くもなさそうにルシフェルは言った。
「神の御名においてだと?お前ごときの小者が、この私に何が出来るというのかな。身のほどを知らぬというのは、恐ろしいものだ」
彼は高らかに笑った。
「……!この堕天使めが!」
ルシフェルのからかいに、カリュウトはまんまと怒髪天を衝いた。
その二人の間で、ああ、これでまたも神殿のどこかが……いや、今日こそは神殿自体が崩壊するのではと、イナンナははらはらしながら、彼等を見つめた。が、
「巫女姫様!」
そこへ彼等以外の声が響いた。
見れば、慌ただしい足音をたてて、誰かが神殿へと駆け込んできていた。それは……さきほどの男の子だった。
「姫様!!」
「まあ、どうしたの?」
何やらただごとならぬ様子の男の子に、イナンナは少しばかり驚いて言った。
「馬車が!」
男の子は見知らぬ二人の男たちの間を通り抜け、イナンナにすがりつくと、なかば叫ぶ様に言った。いつもなら彼女の前では行儀のよい男の子は、緊迫してひきゆがんだ表情で荒い息をつき、瞳には涙を浮かべていた。
「まあ、何があったの?落ちついて言ってごらんなさい」
その男の子の肩に手をかけ、イナンナは彼を見つめた。
「ひ、姫様、ば、馬車が……お祭りの荷馬車の馬が犬に吠えられて驚いて、見物していたみんなの所へ、そのまま突っ込んじゃったんだ!」
「!」
「それでひどい怪我をした人がいるんだ!僕の妹も怪我しちゃって、いっぱい血が出てるんだ!ねえ、姫様、助けて!!みんなで怪我した人を連れて、もうこっちへ来てるんだ。もうすぐここに来るよ!」
男の子は一気に事の次第を話すと、彼女の手を引き、彼女を神殿の入口へ連れて行こうとした。と、ふとその時、男の子はイナンナのお客らしき二人の男を振り向き、そして、
「ねえ、おじさ……じゃなくて、お客様!」
男の子は黒髪の男の黒衣を掴み、なおも必死の様子で言った。
「お客様たちも手伝ってよ!お客様たちも、偉い人なんでしょ?みんなを助けられるんでしょ?!」
ルシフェルは、それに一瞬虚をつかれた様な表情で、男の子を見つめた。そして、
「おお、そうだな。もちろんだとも」
彼は男の子についと手をのばして小さな頭を撫で、イナンナにさえあまり見せた事のない、穏やかな笑みを浮かべた。
「お前の大事な者たちをみな、すっかり治してやろう。安心するがよい」
ルシフェルは男の子と共に、神殿の入口へと歩きだした。そして、
「おい」
彼はカリュウトを振り向いた。
「お前も手伝わぬか。お前たちの愛しき者たちであろうが。何をぼんやりとしている」
「!」
それにあわててカリュウトも続いた。
その夜。
いつもとは違い、神殿の中は夜通し獣脂の明かりが灯され、幾人かの人の気配がした。
怪我を負った者は多くいたが、その日は全く幸いにも、イナンナを含めた三人もの優れた“癒し手”がいたため、死亡者は一人も出ず、この神殿に残っているのは、怪我の程度がひどい者でだけであった。
イナンナは目の前に横たわる女の子を見つめ、そして自分の膝を枕に寝息をたてている男の子の頭をそっと撫でた。
彼の妹は肋骨が折れ、一時はひどい状態であったが、それも今ではすっかりよくなり、彼と同じょうな安らかな寝息をたてている。
彼の妹を手当てしたのはルシフェルであったが、男の子の願いにルシフェルが応えたのは、天界から追い落とされた多くの熾天使の中でも、最愛の妻にしていまや悪魔族の女王となったリリスとともに、自らの子供たちを産み、育てているのは彼等ルシフェルとリリスだけであるので、その父親としての彼の一面に、男の子の必死の声が届いたらしかった。
「さあ、早く来んか」
神殿の外で、ルシフェルはカリュウトに言った。
「助けてやった者に礼を言われるまで、阿呆面をさげてぼうっと待っているものではない。それではお前たちが言うところの、せっかくの“尊い徳”というものが台無しになってしまうのであろうが。分からぬ奴だな。まあ、智天使などというものは、その程度の者なのだろうがな」
「……!」
彼の言葉に、カリュウトは再び顔色を変えた。が、
「姫をお前たちの結構な天界に誘惑するのは、またこの次にするがよい。まあ、また会う事があれば、それまでに、もう少しは小生意気な口もきけるようになっておくのだな」
そのカリュウトをやはり相手にもせず、ルシフェルは笑い声をあげながら、夜の暗闇の中へと消えていった。
と、そのルシフェルに、
「おい!待てっ!」
とカリュウトはあわてて彼の後を追い、同じ様に姿を消した。
それからしばらくの後、男の子はイナンナの膝の上で、ふと目を覚ました。そしてまだ半分寝惚け顔のままあたりを見回し、イナンナにたずねた。
「ねえ、あのお客様は……?」
それにイナンナは穏やかに笑みを浮かべて言った。
彼等は彼女に気をつかってそっと出て行ったが、彼女はそれにちゃんと気づいていた。
「もうお帰りになられたわ。あの方たちはお二人とも、とってもお忙しい方たちだから」
「え?帰っちゃったの?」
彼女の言葉に、男の子は残念そうに言った。
「僕、あの黒い衣のおじ……じゃなくて、お客様に、まだちゃんとお礼を言ってないのに」
「またいらっしゃるわよ」
その男の子に、イナンナは言った。
「ほんと?」
「ええ、また近いうちに、きっと。その時、私と一緒に、お礼を申し上げましょう?」
イナンナは男の子に微笑んだ。
「うん」
その彼女に、男の子はにっこりと笑顔でこたえた。




