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『五人目(1)』

暦の上では、春。

肌を刺すような冷気もいつの間にか角が取れ、幾分か暖かくなってきただろうか。

この空を白く染めていた雪が降り止んでから、もう二ヶ月が経とうとしていた。


空は、抜けるような快晴。

視界の端から端まで広がる鮮やかな水色は、ここ、


日本列島関東圏第2区画【旧東京都台場】


にある「亜空対策機関」の本部に足を運ぶたび、幾度となく見上げることになる光景だ。


降り注ぐ晴天の下、私は広大で、そして果てしなく続くかのような長い階段の前に立っていた。


それで、唐突だけど一つ問いたいことがある。


階段を昇る時、貴方ならどこを見て登るだろうか。

私は、迷わず目的地を見ながら登ってしまうタイプ。

つまり、首を痛めるのも厭わず、常に「上」を仰ぎ見ながら一段ずつ踏みしめるのである。

人間、疲れてくると自然と顔が上を向く、という話をどこかで聞いた。

呼吸が上がると、より効率的に酸素を取り込もうとして、生存本能が気道を確保するために顎を上げさせるのだという。

だけど、今の私の場合、特段疲れているからそうしているわけではない。

単に「終わり」が視界に入っている方が、精神的に楽だと感じるからだ。


――あと何段。あと数メートル。


ゴールに近づいているという実感が欲しい。それだけで、足取りはほんの少し軽くなる。


「……うーん。でも、足元を凝視して俯きながら登った方が、物理的には疲れないのかな」


ふと、そんな疑問が脳内をよぎる。

いや、待てよ。

仮に前方から人が降りてきたとしても、下から登る私を見下ろす形になる。つまり、階段という構造物において、視界の優位性は常に上の人間に握られているのだ。

ならば、上から降りてくる人は自然とこちらの位置を察知し、無意識にぶつからないルートを選んで通り過ぎてくれるはず。

結論が出た。

そうだ。そうなのだから、私が無理に前方を確認して見上げる必要なんて、本当は無いんじゃないだろうか。

歴史的な気付きを得た気分だ。

今まで何も考えず、首の筋を痛めながら必死に上を向いていた努力は、今日この瞬間に報われ、そして無用の長物となった。


……けれど、それでも。


理屈では分かっていながら、私はどうしても上を向いて登りたくなってしまう。 登りきるまで残りがどのくらいか。どれだけゴールに近づいているか。


私は、どうしても「先」に何があるのかが気になって仕様がない性分たちなのだろう。


そんな益体もない思考を繰り返しているうちに、俯き加減で登り始めたはずの階段は、いつの間にか終わりを迎えようとしていた。

吹き抜ける心地よい風を感じ、私はふっと重い顔を上げる。


その瞬間。

視界いっぱいに広がったのは、真っ白な入道雲


――ではなかった。


それは、目に眩しいほどの純白。


滑らかな生地を内側から押し上げ、異様なまでの存在感を放つ『もっこりとした何か』を携えた、真っ白なパンツであった。


「…………え?」


時間が凍りつく。

さらに視線を上に滑らせると、そこには頬をこれ以上ないほど朱に染めた人物が立っていた。  非の打ち所がないほど可愛らしい顔立ち。銀髪を短く、丁寧にハーフアップにまとめた一人の


『少女』


少女は、羞恥に耐えかねたようにガバッと顔を伏せた。そして、固まっている私の横を、風のような速さで駆け下りていった。


突風に舞う木の葉。

吸い込まれそうな青空に、浮かぶ白い雲。


……そして、目に焼き付いて離れない白いパンツ。


これから始まる新しい任務への期待も不安も、すべてがどこかへ吹き飛んだ。


私の脳裏に強烈なインパクトを残したあの「彼女」の姿を、どうしても、忘れられずにいた。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


ようやく階段を登りきった私は、安堵の溜息を一つ吐き出した。

肩にかけたカバンからボトルを取り出し、キャップを捻る。冷えた水が喉を通り、火照った身体に染み渡っていく感覚がたまらなく心地よかった。


……と、そこでふと我に返る。


「そうだ。そんなにゆっくりしてる暇、ないんだった……」


喉の渇きと一緒に、今の今まで脳裏を支配していた「純白の光景」を強引に飲み込む。

私は眼前にそびえ立つ、無機質で重厚な「亜空対策機関」の入口へと歩みを再開した。

ふと足元を見ると、入り口の屋根付近に謎の結晶のような破片がいくつか散らばっているのが目に入ったが、まあ、この組織ならよくある備品の破損か何かだろう。気にするほどのことではない。

それよりも。


(……あのもっこり、一体何だったんだろう……)


振り払ったはずの思考が、ブーメランのように戻ってくる。

可憐な少女。突き抜けるような青空。翻るスカート。そして、物理法則を無視したかのような、あの圧倒的な主張。

いや、考えるな私。今はこれから会う部隊員たちのことだけを考えるんだ。

自動ドアを抜け、ひんやりとした空調が効いたロビーに入る。


そこで私の足を止めたのは、カウンターの奥で端末を叩く一人の女性だった。


「あら、見ない顔ね。……いえ、今日からの『新任さん』かしら」


その人は、度の強い眼鏡の奥で細い目をさらに細め、値踏みするように私を見た。


『ミーナ・エベレスト』


胸元に揺れるネームプレートにはそう記されている。事務員らしい地味な制服を着崩し、指先には不釣り合いなほど派手なネイルが施されていた。


「あっ!はい。今日からこちらに配属になりました、アカシ・リクドウです!」


「リクドウ隊員、ね。……ふふ、元気があってよろしい。でも、あまり『先』を急ぎすぎないこと。この建物、意外と段差が多いから」


ミーナと名乗った彼女は、含みのある笑みを浮かべたまま、一枚の入館証を差し出してきた。

段差? 階段のことだろうか。

彼女の視線が、一瞬だけ私の背後のドア――先ほど登ってきた階段の方――に向けられたような気がして、私は少しだけ背筋が寒くなった。


「……ありがとうございます。気をつけます」

「ええ。あと、今の時期は『天使』の迷い込みにも注意してね。……お仕事、頑張って」


天使?

首を傾げる私を余所に、彼女は再び興味を失ったように画面へと視線を戻した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


渡されたカードキーを握りしめ、私は期待に胸を膨らませながら廊下を進んだ。


今日から私が配属されるのは、まだ部隊名すら決まっていない、立ち上げ直後の新設部隊だ。正直、いきなりのことで不安だけれど、それ以上に「どんな仲間たちが待っているんだろう」というワクワクが勝っていた。

私は、人と関わることが好きだ。たとえ厳しい戦いが待っていようと、仲間がいれば、この荒れ果てた東京でもやっていける。


そんな希望を抱きながら、私は部隊部屋の重厚な鉄扉の前に立った。


「よしっ、まずは笑顔で……挨拶、だよね」


頬を軽く叩いて、気合を注入する。ドアノブに手をかけ、カードリーダーにキーを翳そうとした、その時だった。


「あれ…?もしかして君、今日から配属の…っ」


背後から響いたのは、快活な女性の声。

振り返ると、そこには外ハネの赤い髪を揺らした、精悍な顔立ちの女性が立っていた。

その堂々とした佇まいと、隠しきれない強者のオーラ。


(……教官っぽい服装…この部隊の教官さん?)


そう直感した私の予感を裏付けるように、彼女は私の姿を認めると、顔を引き攣らせて叫んだ。


「ちょおい、新人くん! その部屋は、急に開けたら危な……っ!」

「へっ?」


忠告は、一歩間に合わなかった。

カチリ、とロックが外れる電子音。勢いよく扉を押し開けた私の視界に、凄まじい速度で迫る「影」が映る。


「ガァッ!!」

「って、わぁなになになになにぃ!?」


強烈な衝撃が全身を走り、私はそのまま廊下の床に押し倒された。

馬乗りになった何かが、私の首筋に鼻を押し付け、クンクンと激しく、執拗に匂いを嗅いでくる。まるで獲物の生死を確認する野生動物のような、鋭い呼気。


「……んん。嗅いだことねぇ匂い。甘い、けど、ちょっと青臭い。敵か? 獲物か? それとも……」


掠れた、けれど弾むような声。

恐る恐る目を開けると、そこには褐色の肌と、燃えるような瞳を持った少女がいた。茶髪のポニーテールが揺れ、彼女の纏う「野性」に圧倒される。

至近距離で見るその顔立ちは、驚くほど整っていた。荒々しい挙動とは裏腹に、彫刻のように美しい鼻筋と、艶やかな唇。

恐怖よりも先に、その美しさに目を奪われてしまう。


するとのしかかる野生少女の背後に先程の教官っぽい女性が立っており、少女の後頭部に軽いチョップをしながら声をかけた。


「おい、やめてやれ、新しい部隊メンバーだ。ソイツは」


それを聞いて「…ふーん」と言い、彼女がひょいっと身を翻して私の体からどくと、そのまま床に座り込む私を見下ろして、底の知れない笑みを浮かべた。


「なるほどねーコイツが。いやぁすまんすまんよろしく〜」

「あ、ええと、よ、!よろしくお願いします!」


「はいよ」と笑顔で短く答えた彼女が元いた奥の方の椅子に戻ろうと私に背を向けた。


「……ま、でも、まだ『仲間』じゃねぇな、アンタは」


去り際に小さく。

楽しげに、鼻歌でも歌うような軽い口調。けれどその言葉の奥には、一瞬だけ、冷徹な「選別」の意思を感じた。 彼女が何を考えているのか、その笑顔の裏側が全く読めない。私は立ち上がることも忘れ、ただ彼女の圧倒的な存在感に呑み込まれていた。


「あちゃ〜……言わんこっちゃない。悪いな新人くん、アイツは『鼻』が良すぎてな。まずは匂いで相手を確認しねぇと気が済まない質なんだ」


赤髪の女性――教官らしき人が、額を押さえながら重い溜息を吐く。

褐色肌の少女は「失礼しちゃうなぁ」と茶化しながら部屋の奥の椅子に座った。


入れ替わるように、ふわりと、花の蜜のような甘い香りが私の鼻先を掠めた。


「あらあらぁ〜ん。大変だったわねぇ。怖かったでしょう? ほら、こっちへいらっしゃいな」


現れたのは、ゆったりとした仕草で近寄ってくる、圧倒的な包容力を纏った女性だった。

彼女が膝をついて私に手を差し伸べた瞬間、視界が「豊穣」で埋め尽くされる。


2つの柔らかそうな「豊穣(おっぱい)」。


……大きい。いや、大きいなんて言葉では足りない。私の前に広がる彼女の慈愛のオーラと共に、物理的なボリュームも視界の八割を占拠していた。


「じ、自分で立てます!ありがとうございます……!」

「うふふ、いい子ねぇ。そんなに震えちゃって。よしよし……そんなに怖い思いをした子には、お姉さんが『特別なお薬』をあげましょうねぇ」


立ち上がった私を彼女はそのまま自身の豊かな胸元へ、私の顔をすっぽりと埋め込もうとしてきた。


「む、むぐっ!?ちょ、ちょ!? 近いです! 物理的に、生命の危機を感じるほど近いです!?主に呼吸系の危機です!」

「いいのよぉ。こうして心臓の音を聞いていると、人間は安心するものなの」

「安心通り越して安楽死しますこのままじゃ…んむぐっ…」


ふふふ、面白い冗談言うわねぇと彼女はさらに強く私を引き寄せた。


「ワタシの名前は『ラフル』っていうのよぉ、よろしくねぇ。さあ、遠慮しないでぇ……。ほらぁ、お耳まで真っ赤。可愛いわねぇ、甘やかしてあげたくなっちゃう……ん」


いや普通に耳まで真っ赤なのは酸素不足によるものなんですが!?


そう答えることすら出来ないほどの逃げ場のないマシュマロの監獄。抗えない癒やしの暴力。

ラフルと名乗った彼女は、本当に心配してくれているのだろうが、その「甘やかし」の熱量があまりにも高すぎて、私の理性が溶けてしまいそうになる。


「……ちょっとラフル、いい加減にしなさいよ。新入りが窒息死したら、アンタが蘇生させるの?」


呆れたような、けれどナイフのように鋭い声が、部屋の隅から届いた。

ベージュ色のツインテールを揺らし、不機嫌そうにソファで足を組んでいる少女だ。彼女もまた、この部隊のメンバーなのだろうか。


「アンタもアンタよ。そんなにヘラヘラして、アタシの部隊でやっていけると思ってんの? 言っとくけど、アタシは実力のない奴の指示には従わないから。精々、明日には泣いて逃げ出さないことね」


冷たい言葉の礫。けれど、その視線は私の反応を伺うように、じっとこちらに固定されている。

歓迎されているのか、拒絶されているのか……。


部屋の中に漂う、三者三様の強烈な個性。私はラフルさんの「包容」からなんとか脱出し、改めてこの「名前のない部隊」の洗礼を全身で浴びていた。


「ま、これに懲りずに仲良くしてやってくれ。こいつらは少しばかり……いや、かなり個性が強い奴らの集まりだ」


赤髪の女性がガハハと笑い、私の背中を強烈に叩く。


その時。


窓際で退屈そうに爪を弄んでいた褐色肌の少女が、ピタリと動きを止めた。 彼女の鼻が、獲物を捉えた獣のように、ヒクッと鋭く動く。


「……おっ。来たんじゃねえか?」

「えっ、来たって…」


私が問いかけるより早く、彼女の表情が、いたずらっ子のような邪悪な笑みに変わった。


「……アイツの匂いだ」


アイツ?

その言葉を聞いた瞬間、ラフルさんがパッと顔を輝かせ、ソファの少女が露骨に眉をひそめた。

そして、赤髪の教官がニヤリと不敵に笑う。


「ようやく戻ったか、我らが『女神ヴィーナス』が」


女神――?

廊下の向こう。私が先ほど登ってきた階段の先から、ドタドタと、なりふり構わぬ必死な足音が、こちらに向かって近づいてきていた。


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