「君を妻にする」と氷の公爵様が告げたのは、婚約破棄の場で修道院送りにされかけた時でした〜昔、魔力体質のせいで社交を避けていた彼が、やむを得ず出た夜会で倒れた時、誰より先に助けたのが私だったそうです〜
「リゼル・モンテレーゼ――私が君を妻にする」
張りつめた広間に、低く澄んだ声が落ちた。
いましがた婚約を破棄され、修道院送りまで言い渡された私は、あまりに場違いなその言葉に反射的に顔を上げ――そのまま固まった。
ざわめく人々の向こうに立っていたのは、「氷の公爵」と恐れられるオルヴェイン・グランツ公爵だった。
黒に近い焦げ茶の髪は、ゆるく癖を残したまま後ろへ流され、露わになった額の下では、アイスブルーの瞳だけが鋭く冴えている。
端正な顔立ちには、社交の場にふさわしい愛想がひとつもなかった。
「……どういうおつもりですか、オルヴェイン公」
つい先ほど、私に婚約破棄を言い渡した張本人――ルードリヒ第二王子殿下が、妙に落ち着いた声で尋ねる。
栗色の髪の下、翡翠の瞳には隠しきれない警戒が浮かんでいた。
「言葉どおりだ」
オルヴェインは、わずかに視線を向けただけだった。
「リゼル・モンテレーゼ嬢を、私の妻に迎える」
息を呑む音が、あちこちで重なる。
ルードリヒの隣で、すでに新しい婚約者のように振る舞っていたセレナ・ベルジュ伯爵令嬢も、目に見えて顔色を変えた。
広間じゅうの視線が、いっせいに私へ集まる。
オルヴェインの言葉が救いになるのかどうかもわからないまま、別の意味で逃げ場を失った気がした。
「ふざけたことを」
ルードリヒが吐き捨てるように言う。
「彼女の処遇は、すでに決まった。口を挟まれる筋合いは――」
「決まった?」
オルヴェインが遮る。
「まさか、侯爵令嬢を修道院へ送るような話まで、貴殿ひとりの一存で決められるとでも?」
ルードリヒの唇がわずかに歪む。
「一存もなにもあるまい。あれほど明白なことに、いまさらなにを確かめる必要がある。理由は先ほども申し上げたはずだが……それでもなお、修道院行きが不当だと?」
「ならば改めて聞こう」
オルヴェインは、間を置かずに続けた。
「彼女がなにをした」
ルードリヒが、ちらりと隣のセレナを見る。
「……セレナへの度重なる嫌がらせだ。自分が侯爵令嬢であるのをいいことに彼女を怯えさせ、何度も涙を流させた。そのような女を、このまま王族の婚約者として置いておけるはずがない。しばらく修道院に入り、頭を冷やしてもらう」
ルードリヒの理屈を聞いても、オルヴェインは表情ひとつ変えなかった。
「何度聞いてもおかしな話だ」
広間のざわめきが止む。
「涙ひとつで侯爵令嬢を断罪し、修道院へ送ろうとするとは。――その断罪を、私は認めない」
「……っ、好き勝手を言ってくれる」
肩を震わせるルードリヒに、オルヴェインはもう目もくれない。
その眼差しが、今度は私にまっすぐ向く。
「少なくとも、私にはそうは見えない」
どう受け止めればいいのか、言葉にできない。
さっきまで、誰ひとりとして口を挟めなかった沈黙のなかで、彼だけが静かに異を唱えた。
「……公爵様。私は――」
ようやく絞り出した声も、途中で掠れてしまう。
場が返事を待つように静まり返るなかで、オルヴェインは少しだけ表情を和らげた。
それでも、冷たい印象が消えることはない。
「いますぐ答えを求めるつもりはない。それでも――君を修道院へは行かせない」
彼は私の前へ歩み寄り、静かに立ち止まった。
手袋に包まれた手が差し出される。
「リゼル嬢。私と一緒に、来てほしい」
強いるような言いかたではなかった。
その声には、私をこの場から連れ出そうとする意志が、はっきりとにじんでいた。
差し出された手を見つめる。
まだなにもわからない。どうして私なのか。どうしてそこまでしてくれるのか。
けれど、この手を取らなければ……私は悪女として押し切られたまま、修道院へ送られる。
震えそうになる指先を、そっと伸ばす。
手袋越しに触れたオルヴェインの手は、驚くほど冷たい。
彼はなにも言わず、私の手を包み込むと、庇うように半歩だけ前へ出る。
背後でルードリヒが私の名を呼んだ。
けれど私は振り返らず、そのままオルヴェインとともに広間を後にした。
* * *
広間を離れてもしばらく、私はなにも言えなかった。
繋がれた手の冷たさだけが現実味を帯びていた。
背後のざわめきは遠ざかっていくのに、頭のなかだけがまだ追いつかない。
やがてオルヴェインは、人の気配がほとんどない回廊の奥で足を止めた。
大きな窓の向こう、夜の庭には月光が淡く落ちている。
その手が、ようやく離れた。
「……強引な真似をした」
振り向いた顔には、相変わらず愛想が見られなかった。
けれど、広間でルードリヒに向けていた時ほど鋭くはなかった。
オルヴェインはすぐには続けず、言葉を探すように口を閉ざした。
「すまない」
私は目を瞬かせた。
謝られるとは思っていなかった。
あれほど迷いなく私の手を取った人が、こんなふうに先に頭を下げるなんて。
「いえ、あの……」
うまく声が出ない。
なにから尋ねるべきか決められず、唇だけが震える。
「……どうして」
かろうじて絞り出した言葉に、オルヴェインがわずかに目を細める。
彼の瞳が思いのほか近く、つい息を呑んだ。
「そう問われると思っていた」
短く息を吐いてから、彼は続ける。
「戸惑うのは当然だ。……せめて理由だけは、話させてほしい」
「理由……?」
なにを話すのだろうと、息を詰めて待つ。
オルヴェインは視線を落とした。
「昔、地方の夜会で……倒れた男を見つけたことはないか」
地方の夜会――そのひと言で、ある光景が頭に蘇った。
あれは、私がまだ十二か十三の頃のことだ。
母の静養に付き添って、王都から遠く離れた療養地にしばらく滞在していた。
ある夜、滞在中の貴族たちを招いた小規模な夜会が開かれた。
体調の優れない母に代わって、私は母と親しい夫人に伴われ、挨拶だけのつもりで会場へ顔を出していた。
大人たちのあいだで所在をなくしていた私は、ふと――人目を避けるように席を外す、ひとりの年若い青年に気づいた。
その足取りが、ひどくおぼつかなかったからだ。
心配になってあとを追った先、人けのない回廊の奥で、彼は壁に手をついていた。
ただごとではない気配に、私はおそるおそる近づく。
その白い顔には、青黒いひびのような筋がいくつも走っていた。
まるで内側から何かがにじみ出してくるようで、異様でありながらも――ひどく痛ましかった。
不思議と悲鳴は出なかった。
怖いと思うより先に、「ああ、この人はいま、誰にも見られたくないのだ」とわかった。
私はとっさに肩のショールを外し、彼の顔へそっと掛けた。
「落ち着いて……大丈夫、大丈夫だから」
そう言うと、彼は苦しげな息の合間に、わずかに顔を上げた。
けれど、その顔立ちを確かめるより早く、彼がぐらりと傾く。
私は咄嗟にその身体を支え、壁にもたれさせるようにしてから、近くの控え扉を叩いて人を呼んだ。
扉を開けて出てきた侍従に彼を託したところで、ようやく張りつめていた力が抜けた。
名乗るひまもなかった。
そのあと夜会から戻ると、母の病状がにわかに悪化していた。
私はそのまま看病に追われ、数日後には療養地を離れて王都へ戻った。
彼のことを思い返す余裕もないまま、その夜の出来事は忙しさの中に埋もれていった。
「ぁ……」
喉の奥から、かすかな声が漏れる。
「……あの時の」
私が目を見開くと、オルヴェインは頷いた。
「初めて公の夜会に出された日だった」
窓の外を見やりながら、淡々と続ける。
「私は、生まれつき不安定な魔力体質を持っていた。それで療養地に送られた。あの夜会に出されるまでの数年は、発作もなく落ち着いていた。だが、強い緊張や感情の揺れが引き金になることを……初めて出た社交の場で思い知らされた」
彼の肩が、強張ったような気がした。
「あの症状を……あのおぞましい姿を、誰にも見られたくなかった。家族ですら、怯えて隠したがった」
そこでオルヴェインは、私の目をじっと見た。
澄んだ青の奥で、なにかが揺れていた。
「だが君は逃げなかった。悲鳴も上げず、それどころか……『見られたくない』とすぐに察して、真っ先にショールで顔を隠してくれた。あれは――私にとって、忘れられるものではなかった」
頬がじわりと熱を持つ。
あの時の私は、目の前で具合を悪くしていた人を、ただ放っておけなかっただけだ。
それが、そんなふうに彼のなかへ深く残っていたなんて、思ってもみなかった。
「その後、兄が急逝し、次男の私が公爵を継ぐことになった。王都へ戻ってから、私はあの夜の少女を探した。だが、探し当てた時には……君はすでに、ルードリヒと婚約していた」
月明かりの差す回廊で、彼の横顔がいっそう冷たく見えた。
それでも、その声はなにかを押し殺しているようだった。
「王都で初めて顔を合わせた時、君は私を知らないようだった。それならば、わざわざ言う必要はないと思った。あの時のことを理由に、君の立場を乱したくはなかった」
「そんな……なんと申し上げれば……」
なにも知らず、なにも覚えていなかった自分が、ひどくいたたまれなく思えた。
氷の公爵はいつも遠い人で、それが当然だと思っていた。
オルヴェインはゆっくりと首を横に振った。
「私が勝手に、君を想っていただけだ。いっそ忘れてしまったほうが楽だと、何度も考えた。だが……できなかった」
ぽつりと落とされた声は、私が知っていた彼とはまるで別人のようだった。
声は変わらず平坦なのに、言葉はほのかな熱を持っていた。
「そして今日、君はルードリヒとの婚約を破棄された。それ以上に……証もなく悪女と決めつけられたことを、どうしても見過ごせなかった」
抑えられた声音が鋭くなっていく。
「君は見ず知らずの人のために……苦しんでいる人のために動ける人間だ。そんな君が貶められることなど、あってはならない。――絶対に」
強く言い切られ、肩がビクッと跳ねた。
私は、そんなふうに言われるほど……できた人間ではないのに。
それでも、なんとか応えないと、と口を開く。
「……公爵様が、私をそこまで買ってくださるなんて。それに――」
自然と目を伏せてしまう。
「一度は切り捨てられた私を、妻にするなんて……」
その言葉に、オルヴェインはしばらく黙っていた。
沈黙が、少しだけ怖い。哀れみで拾われただけなんじゃないかと、つい考えてしまう。
けれど次に返ってきた言葉は、その怯えを真っ向から否定した。
「関係ない」
反射的に顔を上げる。
途端に、アイスブルーの瞳に射抜かれた。
「誤解しないでほしい。婚約を解消されたことを理由に、君を選んだわけじゃない。……ただ」
言葉が途切れる。
「君の気持ちを確かめなかったのは、順を違えていた。それでも、後悔はしていない」
その揺るがなさに、唇をきゅっと結んでしまう。
「もう、身を引く必要はなくなった。もし君が、私を選んでくれるのなら――」
時間が、やけに長く感じられる。
「今度こそ、君を離さない」
息が浅くなる。言葉が出てこない。つい目を逸らしてしまう。
だって彼は、あの氷の公爵様で……
(……いえ、違う。彼はもう、あの夜私が助けた青年……ただのオルヴェインなのだから)
それでも、彼の顔を見ることができないまま。
「返事は……少し、お時間をいただけますか」
ようやくそれだけを、喉からしぼり出した。
オルヴェインは落ち着いた声で応えた。
「構わない。待つ」
短い言葉に、肩の力が抜ける。
待つと言ってくれた。
その安心感に、いまはただ身を委ねることしかできなかった。
* * *
それから三ヶ月後。
私――リゼル・モンテレーゼ侯爵令嬢と、オルヴェイン・グランツ公爵との婚約は、正式に整った。
私を修道院送りにしようとしたルードリヒは、証拠もなく私を悪女と決めつけた軽率さを、多くの者の前に晒すことになった。
彼に寄り添っていたセレナもまた、涙ひとつで人を陥れる令嬢として見られるようになり、ふたりは以前ほど、華やかな場で歓迎されることはなくなった。
あの日、オルヴェインから向けられた想いは、少しずつ現実になっていった。
王宮でも、夜会でも、彼は驚くほど自然に私を隣へ置いた。
その距離に最初は戸惑ってばかりいた私も、気づけば、あの青い眼差しを探すことが増えていた。
婚約披露の日の帰り際。
馬車の前まで見送ってくれたオルヴェインは、いつもと同じ無表情のまま、ふいに私の手を取り……指先にそっと口づけた。
「この先、君を離すことはない」
低い声は変わらず穏やかなのに、その言葉がいつまでも胸に残った。
私は頬の火照りを隠し切れないまま、それでも今度は目を逸らさず、小さく微笑み返した。
【完】
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