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「君を妻にする」と氷の公爵様が告げたのは、婚約破棄の場で修道院送りにされかけた時でした〜昔、魔力体質のせいで社交を避けていた彼が、やむを得ず出た夜会で倒れた時、誰より先に助けたのが私だったそうです〜

掲載日:2026/03/27

「リゼル・モンテレーゼ――私が君を妻にする」


張りつめた広間に、低く澄んだ声が落ちた。

いましがた婚約を破棄され、修道院送りまで言い渡された私は、あまりに場違いなその言葉に反射的に顔を上げ――そのまま固まった。


ざわめく人々の向こうに立っていたのは、「氷の公爵」と恐れられるオルヴェイン・グランツ公爵だった。

黒に近い焦げ茶の髪は、ゆるく癖を残したまま後ろへ流され、露わになった額の下では、アイスブルーの瞳だけが鋭く冴えている。

端正な顔立ちには、社交の場にふさわしい愛想がひとつもなかった。


「……どういうおつもりですか、オルヴェイン公」


つい先ほど、私に婚約破棄を言い渡した張本人――ルードリヒ第二王子殿下が、妙に落ち着いた声で尋ねる。

栗色の髪の下、翡翠の瞳には隠しきれない警戒が浮かんでいた。


「言葉どおりだ」


オルヴェインは、わずかに視線を向けただけだった。


「リゼル・モンテレーゼ嬢を、私の妻に迎える」


息を呑む音が、あちこちで重なる。

ルードリヒの隣で、すでに新しい婚約者のように振る舞っていたセレナ・ベルジュ伯爵令嬢も、目に見えて顔色を変えた。


広間じゅうの視線が、いっせいに私へ集まる。

オルヴェインの言葉が救いになるのかどうかもわからないまま、別の意味で逃げ場を失った気がした。


「ふざけたことを」


ルードリヒが吐き捨てるように言う。


「彼女の処遇は、すでに決まった。口を挟まれる筋合いは――」


「決まった?」


オルヴェインが遮る。


「まさか、侯爵令嬢を修道院へ送るような話まで、貴殿ひとりの一存で決められるとでも?」


ルードリヒの唇がわずかに歪む。


「一存もなにもあるまい。あれほど明白なことに、いまさらなにを確かめる必要がある。理由は先ほども申し上げたはずだが……それでもなお、修道院行きが不当だと?」


「ならば改めて聞こう」


オルヴェインは、間を置かずに続けた。


「彼女がなにをした」


ルードリヒが、ちらりと隣のセレナを見る。


「……セレナへの度重なる嫌がらせだ。自分が侯爵令嬢であるのをいいことに彼女を怯えさせ、何度も涙を流させた。そのような女を、このまま王族の婚約者として置いておけるはずがない。しばらく修道院に入り、頭を冷やしてもらう」


ルードリヒの理屈を聞いても、オルヴェインは表情ひとつ変えなかった。


「何度聞いてもおかしな話だ」


広間のざわめきが止む。


「涙ひとつで侯爵令嬢を断罪し、修道院へ送ろうとするとは。――その断罪を、私は認めない」


「……っ、好き勝手を言ってくれる」


肩を震わせるルードリヒに、オルヴェインはもう目もくれない。

その眼差しが、今度は私にまっすぐ向く。


「少なくとも、私にはそうは見えない」


どう受け止めればいいのか、言葉にできない。

さっきまで、誰ひとりとして口を挟めなかった沈黙のなかで、彼だけが静かに異を唱えた。


「……公爵様。私は――」


ようやく絞り出した声も、途中で掠れてしまう。

場が返事を待つように静まり返るなかで、オルヴェインは少しだけ表情を和らげた。

それでも、冷たい印象が消えることはない。


「いますぐ答えを求めるつもりはない。それでも――君を修道院へは行かせない」


彼は私の前へ歩み寄り、静かに立ち止まった。

手袋に包まれた手が差し出される。


「リゼル嬢。私と一緒に、来てほしい」


強いるような言いかたではなかった。

その声には、私をこの場から連れ出そうとする意志が、はっきりとにじんでいた。


差し出された手を見つめる。

まだなにもわからない。どうして私なのか。どうしてそこまでしてくれるのか。


けれど、この手を取らなければ……私は悪女として押し切られたまま、修道院へ送られる。


震えそうになる指先を、そっと伸ばす。

手袋越しに触れたオルヴェインの手は、驚くほど冷たい。

彼はなにも言わず、私の手を包み込むと、庇うように半歩だけ前へ出る。


背後でルードリヒが私の名を呼んだ。

けれど私は振り返らず、そのままオルヴェインとともに広間を後にした。



 * * *



広間を離れてもしばらく、私はなにも言えなかった。


繋がれた手の冷たさだけが現実味を帯びていた。

背後のざわめきは遠ざかっていくのに、頭のなかだけがまだ追いつかない。


やがてオルヴェインは、人の気配がほとんどない回廊の奥で足を止めた。

大きな窓の向こう、夜の庭には月光が淡く落ちている。


その手が、ようやく離れた。


「……強引な真似をした」


振り向いた顔には、相変わらず愛想が見られなかった。

けれど、広間でルードリヒに向けていた時ほど鋭くはなかった。

オルヴェインはすぐには続けず、言葉を探すように口を閉ざした。


「すまない」


私は目を瞬かせた。

謝られるとは思っていなかった。

あれほど迷いなく私の手を取った人が、こんなふうに先に頭を下げるなんて。


「いえ、あの……」


うまく声が出ない。

なにから尋ねるべきか決められず、唇だけが震える。


「……どうして」


かろうじて絞り出した言葉に、オルヴェインがわずかに目を細める。

彼の瞳が思いのほか近く、つい息を呑んだ。


「そう問われると思っていた」


短く息を吐いてから、彼は続ける。


「戸惑うのは当然だ。……せめて理由だけは、話させてほしい」


「理由……?」


なにを話すのだろうと、息を詰めて待つ。

オルヴェインは視線を落とした。


「昔、地方の夜会で……倒れた男を見つけたことはないか」


地方の夜会――そのひと言で、ある光景が頭に蘇った。


あれは、私がまだ十二か十三の頃のことだ。

母の静養に付き添って、王都から遠く離れた療養地にしばらく滞在していた。


ある夜、滞在中の貴族たちを招いた小規模な夜会が開かれた。

体調の優れない母に代わって、私は母と親しい夫人に伴われ、挨拶だけのつもりで会場へ顔を出していた。


大人たちのあいだで所在をなくしていた私は、ふと――人目を避けるように席を外す、ひとりの年若い青年に気づいた。

その足取りが、ひどくおぼつかなかったからだ。


心配になってあとを追った先、人けのない回廊の奥で、彼は壁に手をついていた。

ただごとではない気配に、私はおそるおそる近づく。


その白い顔には、青黒いひびのような筋がいくつも走っていた。

まるで内側から何かがにじみ出してくるようで、異様でありながらも――ひどく痛ましかった。


不思議と悲鳴は出なかった。

怖いと思うより先に、「ああ、この人はいま、誰にも見られたくないのだ」とわかった。

私はとっさに肩のショールを外し、彼の顔へそっと掛けた。


「落ち着いて……大丈夫、大丈夫だから」


そう言うと、彼は苦しげな息の合間に、わずかに顔を上げた。

けれど、その顔立ちを確かめるより早く、彼がぐらりと傾く。

私は咄嗟にその身体を支え、壁にもたれさせるようにしてから、近くの控え扉を叩いて人を呼んだ。


扉を開けて出てきた侍従に彼を託したところで、ようやく張りつめていた力が抜けた。

名乗るひまもなかった。


そのあと夜会から戻ると、母の病状がにわかに悪化していた。

私はそのまま看病に追われ、数日後には療養地を離れて王都へ戻った。

彼のことを思い返す余裕もないまま、その夜の出来事は忙しさの中に埋もれていった。


「ぁ……」


喉の奥から、かすかな声が漏れる。


「……あの時の」


私が目を見開くと、オルヴェインは頷いた。


「初めて公の夜会に出された日だった」


窓の外を見やりながら、淡々と続ける。


「私は、生まれつき不安定な魔力体質を持っていた。それで療養地に送られた。あの夜会に出されるまでの数年は、発作もなく落ち着いていた。だが、強い緊張や感情の揺れが引き金になることを……初めて出た社交の場で思い知らされた」


彼の肩が、強張ったような気がした。


「あの症状を……あのおぞましい姿を、誰にも見られたくなかった。家族ですら、怯えて隠したがった」


そこでオルヴェインは、私の目をじっと見た。

澄んだ青の奥で、なにかが揺れていた。


「だが君は逃げなかった。悲鳴も上げず、それどころか……『見られたくない』とすぐに察して、真っ先にショールで顔を隠してくれた。あれは――私にとって、忘れられるものではなかった」


頬がじわりと熱を持つ。

あの時の私は、目の前で具合を悪くしていた人を、ただ放っておけなかっただけだ。

それが、そんなふうに彼のなかへ深く残っていたなんて、思ってもみなかった。


「その後、兄が急逝し、次男の私が公爵を継ぐことになった。王都へ戻ってから、私はあの夜の少女を探した。だが、探し当てた時には……君はすでに、ルードリヒと婚約していた」


月明かりの差す回廊で、彼の横顔がいっそう冷たく見えた。

それでも、その声はなにかを押し殺しているようだった。


「王都で初めて顔を合わせた時、君は私を知らないようだった。それならば、わざわざ言う必要はないと思った。あの時のことを理由に、君の立場を乱したくはなかった」


「そんな……なんと申し上げれば……」


なにも知らず、なにも覚えていなかった自分が、ひどくいたたまれなく思えた。

氷の公爵はいつも遠い人で、それが当然だと思っていた。

オルヴェインはゆっくりと首を横に振った。


「私が勝手に、君を想っていただけだ。いっそ忘れてしまったほうが楽だと、何度も考えた。だが……できなかった」


ぽつりと落とされた声は、私が知っていた彼とはまるで別人のようだった。

声は変わらず平坦なのに、言葉はほのかな熱を持っていた。


「そして今日、君はルードリヒとの婚約を破棄された。それ以上に……証もなく悪女と決めつけられたことを、どうしても見過ごせなかった」


抑えられた声音が鋭くなっていく。


「君は見ず知らずの人のために……苦しんでいる人のために動ける人間だ。そんな君が貶められることなど、あってはならない。――絶対に」


強く言い切られ、肩がビクッと跳ねた。

私は、そんなふうに言われるほど……できた人間ではないのに。

それでも、なんとか応えないと、と口を開く。


「……公爵様が、私をそこまで買ってくださるなんて。それに――」


自然と目を伏せてしまう。


「一度は切り捨てられた私を、妻にするなんて……」


その言葉に、オルヴェインはしばらく黙っていた。

沈黙が、少しだけ怖い。哀れみで拾われただけなんじゃないかと、つい考えてしまう。

けれど次に返ってきた言葉は、その怯えを真っ向から否定した。


「関係ない」


反射的に顔を上げる。

途端に、アイスブルーの瞳に射抜かれた。


「誤解しないでほしい。婚約を解消されたことを理由に、君を選んだわけじゃない。……ただ」


言葉が途切れる。


「君の気持ちを確かめなかったのは、順を違えていた。それでも、後悔はしていない」


その揺るがなさに、唇をきゅっと結んでしまう。


「もう、身を引く必要はなくなった。もし君が、私を選んでくれるのなら――」


時間が、やけに長く感じられる。


「今度こそ、君を離さない」


息が浅くなる。言葉が出てこない。つい目を逸らしてしまう。

だって彼は、あの氷の公爵様で……


(……いえ、違う。彼はもう、あの夜私が助けた青年……ただのオルヴェインなのだから)


それでも、彼の顔を見ることができないまま。


「返事は……少し、お時間をいただけますか」


ようやくそれだけを、喉からしぼり出した。

オルヴェインは落ち着いた声で応えた。


「構わない。待つ」


短い言葉に、肩の力が抜ける。

待つと言ってくれた。

その安心感に、いまはただ身を委ねることしかできなかった。



 * * *



それから三ヶ月後。

私――リゼル・モンテレーゼ侯爵令嬢と、オルヴェイン・グランツ公爵との婚約は、正式に整った。


私を修道院送りにしようとしたルードリヒは、証拠もなく私を悪女と決めつけた軽率さを、多くの者の前に晒すことになった。

彼に寄り添っていたセレナもまた、涙ひとつで人を陥れる令嬢として見られるようになり、ふたりは以前ほど、華やかな場で歓迎されることはなくなった。


あの日、オルヴェインから向けられた想いは、少しずつ現実になっていった。

王宮でも、夜会でも、彼は驚くほど自然に私を隣へ置いた。

その距離に最初は戸惑ってばかりいた私も、気づけば、あの青い眼差しを探すことが増えていた。


婚約披露の日の帰り際。

馬車の前まで見送ってくれたオルヴェインは、いつもと同じ無表情のまま、ふいに私の手を取り……指先にそっと口づけた。


「この先、君を離すことはない」


低い声は変わらず穏やかなのに、その言葉がいつまでも胸に残った。

私は頬の火照りを隠し切れないまま、それでも今度は目を逸らさず、小さく微笑み返した。



【完】




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