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天界サイド①:大魔王ヴァルグレイドの霊圧が…消えた…?

 天界の中心、光と雲と法則が折り重なる高み——神座。


 白金の柱が幾重にも立ち並び、その上空には、幾千幾万もの光条が緩やかな弧を描いている。

 そこは、時の流れすら薄まり、ただ「在ること」だけが意味を持つ領域だった。


 その静謐を、ひそやかな嘆息が乱す。


「……また、夢に見てしまったわね」


 光を編んだような衣をまとった女神が、頬杖をついて呟いた。

 長い髪は星明かりのようなきらめきを帯びた黒、瞳には遥かな大地の色が映っている。


 彼女の視線の先で、薄い水膜のようなものが揺らめいていた。

 人間界の、とある戦場の記憶だ。


 炎。血。崩れ落ちる砦。

 その中で、最後まで剣を握り続けた一人の青年——今はもういない、かつての“推し”。

 それは魔界の軍勢が人間界に侵攻したことから勃発した、三界を巻き込む大戦の記録だった。


「また三界大戦の頃の記録を再生してるの? 好きねえ、本当に」


 隣で、別の女神が肩をすくめる。

 髪は淡い金、瞳は空色。

 微笑を浮かべれば光背が淡く輝く。


「好きで見てるわけじゃないわよ。……胸が苦しくなるもの」


「そういうのを“何度も”見返すのを、世間では“未練がましい”って言うのよ」


「うるさい」


 二柱のやりとりに、少し離れた場所から笑い声が飛んだ。


「どちらにせよ、あの戦は、わたしたち全員にとってあまり気持ちの良い思い出じゃないでしょう?」


 そう言って歩み寄った女神は、他の二柱よりもやや年長に見えた。

 髪には淡い銀が混じり、瞳にはどこか管理者めいた厳しさが宿っている。


 彼女は、天界の「不戦協定」を取りまとめた中心人物の一人だった。


 はるか昔——三界大戦よりもさらに昔。

 天界では、主導権をめぐって神々同士の熾烈な争いがあった。


 光を司る者と闇を司る者。

 秩序を重んじる者と混沌を愛する者。

 理念の違いはいつしか互いを排除する理由となり、無数の神々が傷つき、消えた。


 その末に、ようやく結ばれたのが、「神々は直接戦わない」という不文律だった。


 不戦協定。


 以降、天界はできる限り争いを遠ざけてきた。

 暇を持て余した神々は、隣り合うもう一つの世界——人間界を眺めて過ごすことにした。


 人間界に住む命は、か弱くて、しかしひたむきに生きる姿が可愛らしい。

 彼らを眺め、時にそっと加護を落とし、遠くから見守る——それが、天界の「健全な距離感」だった。


 勇者や聖女、英雄のように、突出して輝く存在を見つけてしまうと、

 つい力を貸したくなる。


 「あの難局を乗り越えられたなら、この奇跡をあげよう」

 「ここまで努力したご褒美に、風向きだけ少し変えてあげよう」


 そのくらいが、ちょうどいい。


 自分たちの存在を前面に出しすぎれば、

 彼らの生き方そのものを歪めてしまいかねない。


 だから——


「“必要以上に介入しない”って、あの時、みんなで決めたのにね」


 銀混じりの女神が、苦笑する。


 その決めごとは、魔族が人間界へ攻め込んだ瞬間に、あっさり破られた。


 魔族の侵攻は、天界の神々にとっても完全な不意討ちではなかった。

 魔族の気質を知っていれば、いつか人間界へ牙を向けることくらい、予測はできた。


 ただ、その「いつか」が、思っていたより早すぎただけだ。


 そして——予想以上に、被害が大きかった。


 魔族の軍勢が人間界の都市や村を蹂躙し始めたとき、

 天界の神々は、最初は様子見を決め込んでいた。


 人間たち自身がどこまで抗えるのか。

 どこまで自分の力で立ち向かえるのか。


 しかし、その間に、多くの“推し”が死んだ。


 故郷を滅ぼされ、復讐を誓って剣を握った少年も。

 無辜の民の安寧の為に最期まで歌い続けた巫女も。

 絶望に抗って血を流し、それでも笑い続けた好漢も。


 彼らの魂が光となって天界へ昇るたび、神々の心は痛んだ。


 とうとう、我慢の限界が来た。


「……降りたのよねえ、あの時は」


 金髪の女神が、苦笑混じりに言う。


「“節度ある推し活”どころじゃなかったわ。“箱推し”がステージに乱入したレベルだったもの」


「例えがおかしいわよ」


 銀混じりの女神が呆れながらも、否定はしない。


 実際、あの時の天界の動きは、「介入」というにはあまりにも露骨だった。


 勇者に聖剣を与え、聖女に奇跡を与え、

 賢者に啓示を落として、王たちの耳元にささやき続けた。

 突然の落雷、洪水、土砂崩れが魔族だけを襲い、人間たちを救った。


 人間界から魔族を撃退するためには、力を惜しまなかった。


 結果として、魔族は人間界を去り、魔界へ押し込められた。

 人間界は救われた。


 そして——当然の成り行きとして、人間たちは天界の神々を崇め始めた。


 神像が建ち、神殿が建てられ、祭祀が生まれ、祈りが捧げられる。


 日が昇れば感謝の祈り。

 子どもが生まれれば祝福を求める祈り。

 戦いに赴く前には加護を請う祈り。

 恋が実ればお礼の祈り、実らなければ慰めを求める祈り。


 “推し”からの供給は、飽和して溢れかえった。


「……あの頃は大変だったわねえ。

 “推しの祈りを全部拾おうとするな”って、何度言われたことか」


 金髪の女神が、遠い目をする。


「だって、あの子、毎日律儀に祈ってくるんだもの。“今日も生きてます、神様ありがとう”って。

 あんな日記みたいな祈り、全部読んじゃうに決まってるじゃない」


「読んだからって、毎回反応しなくていいのよ」


「反応はしてないわよ? ちょっと風向き変えたり、雨雲どかしたりしてるだけだもの」


「それを“反応”って言うの」


 必要以上に入れ込みすぎる神々が続出した。


 推しの子孫まで追い続け、「あの子のお孫さんよ!」とはしゃぐ神。

 さらに、禁を破って“推し”と交わり、半神の子を作ってしまう神まで現れた。


 さまざまな「やらかし」が続出し、そのたびに神座会議は紛糾した。


 一線を越えた者には、当然、厳罰が下された。


 地位を剥奪され、下級の天使に身を落とされる者。

 存在そのものを「忘れられる」刑を科された者。

 人間界に追放され、力の大半を封じられる者——これは合法的に推しの傍に行ける手段として悪用されたので廃止された。


 そうした経緯の末——


 人間界から魔族を撃退したあと、天界はようやく少し距離を取るようになった。


「節度ある推し活を心掛けること」


 神座に刻まれた、その文言を、誰もが一度は読み上げさせられた。


 人間界への直接の干渉は控えめに。

 祈りには可能な限り穏当な形で応じる。

 “推し”のために世界の理そのものをねじ曲げない。


 天界は、そうやって自分たちを律してきた。


 ただし——


 今でも魔界の動向には、常に注意を向けていた。


 小規模な行き来は、自然の摂理のようなものだ。

 魔族が人間界のどこかに小さな支配領域を作ることもあるし、

 それを勇者や聖女、英雄たちが打ち払う——それもまた“推し”の活躍の場だ。


 だから、それくらいは黙認できる。


 だが——


「大魔王ヴァルグレイドの台頭は、見逃せなかったわね」


 銀混じりの女神の言葉に、他の二柱が黙って頷く。


 解析魔法という、魔族が生み出した「力の尺度」を使ってもなお、

 レベルの天井を突き抜けた存在。


 レベル九千九百九十九。


 その数値がどこまで正確かはともかく、

 人間界に送られた天使たちの報告と照らし合わせれば、

 ヴァルグレイドが天界の神々に匹敵する力を持っているのは明らかだった。


「あれが本気で人間界に攻め込めば、三界大戦の比ではないわ」


「うん。加護を絞ってる分、人間の英雄の質はあの頃よりずっと落ちているもの」


 黒髪の女神が憤慨の表情で吠えた。


「ちょっと!強さと質を履き違えないで頂戴! 今の子だって尊みには違いはないわ!」


「平和な時代に、あんなに頑張って生きてる子たち……はぁ……推せる……」


 噛みつかれた金髪の女神はどこ吹く風だ。


「分かるけれど、そこは一度落ち着きましょう」


 銀混じりの女神が、宥めるように手を上げる。


「だからこそ、慎重に様子を見てきたのでしょう?」


 大魔王ヴァルグレイドが魔界を統一し、

 人間界と天界への侵攻を企てていることが判明したとき、

 天界は冷静にその動向を監視していた。


 魔族の大規模な軍勢が、扉を開いて人間界へ雪崩れ込む気配がないか。

 天界への干渉を試みる兆候がないか。


 少しでも危険な動きがあれば、

 不戦協定を再び曖昧にする覚悟も、一部の神々は固めていた。


 だから——


 ヴァルグレイドの存在が、突然「感じられなくなった」時、

 天界は一瞬で騒然となった。


「……ねえ」


 金髪の女神が、眉をひそめる。


「さっきから、誰もちゃんと言葉にしてないけれど」


「……言いたくないのよ」


 最初にため息をついていた女神が、肩をすくめる。


「ヴァルグレイドの霊圧が、完全に途絶えた。

 それも、ゆっくり弱っていって、という感じじゃなくて……“ぷつん”って」


 指先で空中に一本線を引き、それを途中で切る仕草をする。


「そう、“ぷつん”って」


 金髪の女神も同じ仕草を真似て、顔をしかめる。


「退位したとか、眠りについたとか、そういう“引く感じ”じゃないのよね。

 あれは……消えた。

 ただ、この世からいなくなった感じ」


 神々は、力を失うことはあっても、「無に帰る」ことは滅多にない。

 たとえ世界から忘れられても、どこかの隅で微かな残光となって漂い続ける。


 それすら、感じられない。


 完全な「不在」。


「ねえ、まさかとは思うけれど」


 金髪の女神が、恐る恐ると言った風に口を開いた。


「……誰か、ヴァルグレイドに直接手を出した?」


「してないわよ」


「裏で殴り合ったりしてない?」


「不戦協定、覚えてるでしょう?」


「じゃあ、あれ? 間接的に人間界絡みでやらかしたとか?」


「やらかしてない」


 銀混じりの女神が即答する。


「少なくとも、天界側の神々は、ヴァルグレイドに対して直接的な干渉はしていないわ。

 こちらからも調べたけれど、誰も“やっていない”と一致している」


「そもそも、あんなのとやり合うなら神器をいくつか持ち出さなきゃじゃない」


「宝物殿の封印が破られた形跡はないわ」


「……じゃあ、誰が?」


 その問いに、誰もすぐには答えられなかった。


 沈黙。


 神座の上空で、光条がゆっくりと軌道を変える楽の音だけが、かすかに響いている。


 ふだんなら、遠く人間界から届く祈りのさざめきが、背景音のように聞こえるはずなのに。

 今は、それすら遠く感じられた。


「……とにかく」


 銀混じりの女神が、最後に口を開く。


「確認しなければならないわね」


「何を?」


「人間界。

 ヴァルグレイドの気配が途絶えた直前、魔界からどんな力が向けられていたのか。

 それが、どこに届いたのか」


 金髪の女神の顔から、冗談めかした色がすっと消える。


「……そうね。

 放っておいたら、また“推し”が巻き込まれてた、なんて、真っ平ごめんだわ」


「節度ある推し活のためにも、ね」


 微妙なまとめ方に、最初の女神が苦笑した。


 こうして、天界は——


 魔界の覇者ヴァルグレイドの突然の消失の真相を探るため、

 人間界への調査を開始することになる。

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