魔界サイド③:大魔王、散る
第二の宝珠は、最初のものより一回り大きかった。
黒曜の間に運び込まれたそれは、さきほど爆散した残骸とは比べものにならぬ、重く濃い魔力を纏っている。
表面には細緻極まりない魔法陣と、九重に折り畳まれた解析紋が刻まれていた。
レベル五千まで測定可能な、最高品質の遠見の宝珠だ。
「準備が整いました」
魔導師が、緊張を隠しきれない声で告げる。
宝珠の前後左右には、さきほどよりも多くの防御陣が展開されていた。
爆散時の衝撃を想定し、魔王級の魔族たちが防壁を幾重にも張り巡らせている。
ヴァルグレイドは、玉座の上からそれを見下ろし、片手を軽く振った。
「よい。始めよ」
「はっ……!」
魔導師が両手を宝珠の上にかざす。
遠見の術式が起動し、球体の内部に再び霧が満ちる。
今度の霧は、先ほどよりも重く、鈍い光を帯びていた。
「先ほどと同じ座標から……」
魔導師の指先が、虚空に描かれた地図の一点をなぞる。
人間界の辺境。森と畑に囲まれた小さな農村——。
宝珠の中に、世界が結ばれていく。
山脈。川。森。村の輪郭。
ゆっくりと寄っていき、土壁と木の柵に囲まれた集落が視界の中央に収まった。
その一角を——
二つの小さな人影が横切る。
金色の髪の少年。
栗色の髪を二つに結んだ少女。
その瞬間。
空気が、さきほどとまったく同じように軋んだ。
宝珠の内部の霧が、白から、赤黒い飽和した色へと一瞬にして反転する。
表面に、さきほどと同じ位置から蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
「そ、そんな馬鹿な——」
魔導師の言葉が最後まで届くことはなかった。
——爆ぜた。
爆発に至るまでの時間も、壊れ方も、先の宝珠とほとんど寸分違わぬ挙動だった。
黒曜の間の中央で、再び凶暴な魔力の奔流が巻き起こる。
しかし、今度は誰一人、油断していなかった。
魔王級の魔族たちの防御障壁が一斉に展開され、爆風と破片は外周で押し止められる。
それでも衝撃は凄まじく、防壁の外側で黒曜石の床がひび割れた。
宝珠片の雨が止んだとき——
黒曜の間の中心には、第二の宝珠の残骸が転がっていた。
さきほどの宝珠と、ほとんど同じ壊れ方で。
「……」
「……」
沈黙が落ちた。
レベル五百まで測定可能な器が爆散し、
それよりはるかに大きいレベル五千までの器も、まったく同じタイミングで、同じように壊れた。
偶然とは言い難い。
術式の不備か?
いや、術式は別物だ。補強も、負荷分散も、全く別系統で組まれている。
それが同じ挙動で壊れるためには——
(“視た対象”の側に要因がある、と考える方が自然だ)
そこまで理解するだけの頭は、ここにいる誰もが持っていた。
だが、その「理解されるべき結論」を言葉にするには、あまりにも現実味がなさすぎた。
黒曜の間に、重い沈黙が張りつめる。
解析魔法がこの世に生まれて以来、こんな事態は一度として報告がない。
測り切れない存在は、常に「測定不能」で留まり、器を壊したりはしなかった。
二度続けて、ほとんど同じ反応。
その意味を測りかね、魔王たちが言葉を失っていると——
「……ク、クク……」
静寂を割ったのは、玉座の上から漏れた笑い声だった。
ヴァルグレイドが笑っていた。
最初は喉の奥で小さく。
やがて、絞り出すように、くく、と音を立てる。
「……クハ、ハハハハ」
それは、怒りではなかった。
嘲笑でも、狼狽でもなかった。
本当に心の底から「愉快だ」と言わんばかりの笑いだった。
魔王たちは、思わず背筋を伸ばす。
大魔王の笑い声は、久しく聞いていない。
レベル九千九百九十九という絶対値の前に、あらゆる戦いは消化試合になりつつあった。
彼にとって、世界は退屈な盤上の駒に変わりつつあった。
その退屈が、今、明確に破られている。
「面白い」
ヴァルグレイドが立ち上がった。
黒曜の間の空気が、ぞくりと震える。
「二度、同じように壊れたか。あの一瞬に耐えられぬとはな」
紅玉の眼が、笑っている。
「ならば、魔道具では足りぬということだ」
ヴァルグレイドは、ゆっくりと階段を降り始めた。
黒曜の間にいる魔族たちは、誰一人として動けない。
大魔王が自ら玉座を離れること自体が、異例の事態だった。
「我自らの手で測ってやろう」
その声には、高揚が混ざっていた。
魔道具の器すら壊す「何か」。
解析魔法の歴史を塗り替える、未知の対象。
それを測れる者がいるとすれば、この世でただ一人——
レベル九千九百九十九の魔界の覇者、自分だけだ。
居合わせた者たちがざわつくが、誰が異を唱えることが出来ようか。
ヴァルグレイドは、割れた宝珠片を踏み越えて、黒曜の間の中央に立った。
「座標は掴んだ。あの村、その一角、その気配……
あの“一瞬”、あの“揺れ”に合わせて——」
指先に魔力が集まる。
解析魔法の紋章が、虚空に浮かび上がる。
それは、最初に解析魔法を発明した魔法使いの術式を、己の強大過ぎる力の底を測る為にヴァルグレイド自身が改良し、拡張し続けてきた、完成形だった。
魔道具を介さぬ、純粋な術者の解析。
「我が倦怠を払うに足る者か否か——その力の底を見せてみよ」
魔力の奔流が、黒曜の間を満たす。
魔王たちは思わず膝をついた。
生半可な防壁では、この魔力の圧に耐えられない。
ヴァルグレイドの意識は、次元の壁を越えて伸びる。
遠見よりも鋭く、解析よりも深く、ただ一点を捉える。
——人間界。辺境の農村。
その一角。
金色の髪の少年と、栗色の髪の少女が並んで歩いている、小さな道。
焦点は、自然と少女へと合っていく。
栗色の髪。
二つに結んだ後ろ姿。
振り向こうとする瞬間。
(ここだ)
ヴァルグレイドは、解析の術式を収束させた。
対象の「名」を問う。
解析魔法が、対象の情報を一つずつ引き出すとき、
真っ先に浮かび上がるのは、その存在を識別するための「名」だ。
魔法陣の中心に、光の文字が浮かび上がる。
アリア・メイスン
その瞬間——
「っ……!」
ヴァルグレイドの視界が、白く弾けた。
力を測ろうと伸ばした意識の「先」が、底なしの「何か」に触れた。
触れてしまった。
※※※※※
解析魔法の本質はきわめて単純だ。
相手の存在の強さ・重みのごく僅かを、自身の魔力という水面で受け、その波紋の広がり速さ、波の間隔から、相手の総量を測る。
それ故に双方の力の差が大きすぎると、測り損なうことがある。
――だが、もしも。その力の差が想像も及ばない程に途方もない差があったなら?
――象とアリどころではなく、猫と宇宙ほどの差があるとしたら?
——そのとき、水面に何が起こるか。
魔道具の器を二度壊したときと、まったく同じ挙動で。
ただし、今度壊れたのは、宝珠ではなく——術者自身だった。
(こ、れは——)
思考が、途中で千切れる。
魔力の核が軋みを上げる。
解析魔法の術式を通して触れたソレに内側から焼き切られていく。
外側から見れば、一瞬の出来事だった。
黒曜の間の中央で、魔界の覇者ヴァルグレイドの全身が、赤黒い光に包まれる。
次の瞬間、その光が内側から弾け、肉体も魔力も、粉々の破片となって四散した。
轟音。
衝撃波が、黒曜の間の壁という壁を叩き、魔王たちを後方へ吹き飛ばす。
彼らが、何が起こったのかを理解するのは、少しあとになってからだ。
魔王たちが立ち上がったとき——
そこに、大魔王ヴァルグレイドの姿はなかった。
黒曜の間の中央には、さきほど宝珠が爆散したときと同じように、
焦げた床と、焼き尽くされた魔力の痕跡だけが残されていた。
解析魔法で読み取れたのは、ただ一つの「名」。
アリア・メイスン。
魔界の覇者、大魔王ヴァルグレイドは、
その名の持ち主の「レベル」を知るより先に、木っ端微塵に爆散したのだった。
※※※※※
黒曜の間に、異様な静寂が降りた。
さっきまで大魔王が立っていた場所には、焦げた床と、魔力の焼け跡だけがぽっかりと残っている。
そこにあったはずの質量も圧も、跪くしかない威圧も——何もない。
あまりにも、何もなかった。
その「何もなさ」が、逆に耳を刺すほどの重さを持ち始めた頃。
「…………は?」
誰かが絞り出したその一言が、黒曜の間にやけに大きく響いた。
その声を合図にしたかのように、あちこちから息を呑む音が漏れる。
(今、何が起きた?)
(いや、見ていた。見ていたが、なんだ……なんなのだ?)
魔族にとって、解析魔法で相手のレベルを測るという行為は、
もはや呼吸や瞬きと大差ない「当たり前」になって久しい。
視線を向ける、という行為の延長線上にある。
解析をかけられた側も、それを感知することはできる。
鋭い視線を向けられたときのような、わずかな違和感——
「見られている」程度の感覚だ。
それだけのはずだった。
かけただけで爆散する——などという理屈は、どこにも存在しない筈だった。
ましてや、それが大魔王ヴァルグレイドともなれば、なおさらだ。
魔族史上最大最強、レベル九千九百九十九。
ここにいる全魔王が同時に、最強の手段で攻撃を叩き込んだとしても、こうはならない。
肉体を削ることはできても、存在そのものを、一瞬で吹き飛ばすことなど不可能だ。
それが、たった一度の解析で。
(……は?)
現実感が、どんどん遠のいていく。
誰も、自分の思考を言葉に乗せられないでいた。
「ば、馬鹿な……」
ようやく誰かが口を開いた。
別の魔王が、かすれた声で返す。
「い、今のを、どう説明できる……?」
誰も説明できない。
だが、「起きたこと」は否定できない。
遠見の宝珠は二度、ほとんど同じように爆散した。
レベル五百まで測れる器も、五千まで測れる器も、同じ一瞬で壊れた。
そして、大魔王ヴァルグレイドが、自身の最高位の解析魔法を向けた結果——
名前を読み取った、その瞬間、爆散した。
アリア・メイスン。
たった一つの「名」だけを残して。
「……“原因”は、解析そのものではない、ということか」
誰かが、震える声で呟いた。
「いや、解析を“きっかけ”にしているのは確かだ。
異変が起こったのはどれもアレを対象にした瞬間に——」
そこまで言いかけて、言葉が喉に貼りつく。
その先の結論を、口にしたくなかった。
だが、別の誰かが、それを押し出すように言った。
「……見たら、死ぬ。いや——殺される、ということだろう」
ぞ、と空気が凍る。
手段は全く分からない。
解析という「視線」が届いた瞬間、
こちらの側で何かが壊れる理屈など、魔族の知る魔法体系には存在しない。
理解不能。
だが、その結果だけは、嫌というほどはっきりしている。
——どんな手段であれ、「測ろうとした瞬間」に死ぬ。
距離も、次元も関係ない。
人間界と魔界の間には、厚い次元の壁がある。
魔族はその壁を越えるために、大規模な魔法陣や門を準備しなければならない。
だというのに——
(解析を向けただけで、一瞬でこちら側を吹き飛ばしてくる)
ということは。
「……まさか」
一人の魔王が、蒼白な顔で呟いた。
「こちらが相手の位置を把握しているように……向こうも、こちらの“位置”を把握しているのではないか?」
その言葉が、黒曜の間に落ちた。
次元の壁を超えた視線を感じ取る。
これはまだ道理の内と言えなくもない。
だが、そこから視線の元を正確に突き止め――
あまつさえ、大魔王すら一瞬で爆散させる理解不能な攻撃を返して来た。
――そいつは今もこの黒曜の間を、そこに集った者たちを視ているかもしれない。
ほんの一瞬の沈黙。
そして——
「うわぁっ!」
誰かが、素で悲鳴を上げた。
レベル二千を超える魔王クラスの魔族が、
情けないくらいストレートな叫び声を上げて、出口に向かって走り出した。
それが引き金になった。
「待て──」
止めようとした声は、空しく空気に溶ける。
蜘蛛の子を散らすように、その場にいた魔族たちが一斉に逃げ出した。
解析陣の担当者も、補助の魔導師も、側近も、
さっきまで自信満々に笑っていた魔王たちでさえ、我先にと黒曜の間から飛び出していく。
誰も、「原因の究明」など考えなかった。
それをやった大魔王自身が、原因を探ろうとして、最初に消し飛んだのだ。
誰も、「報復」など考えなかった。
大魔王をいとも容易く滅ぼす何かに、勝てるはずがない。
戦う、という発想そのものが、すでに愚かだった。
(見たら死ぬ)
(測ろうとしたら殺される)
それが、今この場にいる全員が共有している「事実」だった。
相手が何者かも分からない。
人間なのか、天使なのか、竜なのか、もっと別の何かなのか——それすら不明。
だが、レベル九千九百九十九の大魔王ヴァルグレイドを、
「視線を向けられたのと同じ程度の行為」で木っ端微塵にしたという一点だけで、十分だった。
魔族の価値観は、レベルで全てを測る。
力こそが全てであり、レベルの高い者に逆らうことは死を意味する。
その絶対的な基準の頂点が、たった一瞬で消えた。
解析という、彼らにとっては「ただ相手を見る」のと大差ない行為をきっかけに。
ならば、答えは一つしかない。
「……人間界侵攻は、無しだ」
誰が最初にそう言ったのかは、はっきりしない。
黒曜の間から逃げ出した先の回廊で、ある魔王が吐き捨てるようにそう言い、
それを聞いた別の魔王が無言で頷き、
それがまた別の魔族へ、また別の一団へと、恐怖とともに伝播していった。
原因究明よりも先に、
復讐よりも先に、
彼らが取った行動は——
「これ以上、関わらない」。
それだけだった。
大魔王ヴァルグレイドの消滅は、
魔界に一つの新しい“禁忌”を刻みつけることになる。
——人間界の辺境にいる、アリア・メイスンと名乗る村娘を、測るな。
——下手に解析するな。
——あれに「視線」を向けるな。決して関わるな。
それを破れば、どうなるか。
魔界の覇者が、身をもって示してくれた。




